| アプリオリの定義について
カントは序論で、本書におけるアプリオリとは、すべての経験から絶対的に独立している認識のことと理解してほしい、と定義しています。(中山元訳、1、p19)
該当部分英訳 By the term "knowledge a priori," therefore, we shall in the sequel understand, not such as is independent of this or that kind of experience, but such as is absolutely so of all experience. 〈アプリオリな認識とは、単なる個々の経験から独立している認識と解するのではなく、全ての経験から絶対的に独立している認識と理解していただきたい。〉
ということなのですが、
『カント入門』という新書のp111〜113で、著者の石川文康先生は、 世間ではよく誤解されているが、「純粋理性批判」におけるアプリオリとは、生得的という意味ではない、と注意喚起されています。 (経験から)獲得的⇔生得的 これが一般的な対語だが、カントはこの従来の二分法を超えて、第三項として「根源的獲得」という領域を切り開く、とされてます。
部分引用します。 『それに対してカントが第三項として導入した自然法用語「根源的獲得」は、一切の先なる所有者を、また先なる根源を前提しない概念である。 したがって神からも経験(先なる根源)からも派生しない概念である。 それは知性がその自己活動によって知性自身から獲得したという意味である。 そしてその意味で、カテゴリーは知性自身にその根源をもつ概念である。』(p113より引用)
『たしかにカント以前、とくにライプニッツにおいては、「アプリオリ」と「生得的」とはほぼ同義であった。しかしカントの場合、「アプリオリ」とは「経験に先立つ」すなわち「経験に由来しない」という意味を出ない。その目印は「普遍妥当性」と「必然性」をもつことである。』(石川文康先生『カント入門』p111より引用)
(感想) でもぉ、知性能力(使ってないにしても)は生得的なんじゃないかなー、と、思いました。 が、 そうかぁ、アプリオリに生得的という意味持たせちゃうと、アプリオリな認識と言った時、どうしても背後に神様がちらついちゃうから、純粋理性批判的には、先験的という意味の方が都合よかったのかな 人間回帰って言葉が浮かぶけど、間違った言葉使いやったらすみません。
いろんな生命さん、今日も一日おつかれさまです!
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