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■1373 / inTopicNo.73)  wikiの解説
  
□投稿者/ pipit -(2019/06/19(Wed) 13:11:59)
    wikiの感性論の解説部分を引用します。
    書き込んでいくときの道標の一つになるかな〜と思いまして。

    wiki姐さん(と勝手に命名。)サンクス です !

    wikiより引用
    『先験的感性論

    時間および空間(以下時空)は直観の先天的形式である。

    外的現象に適用される空間は、外的印象を並列的に受け取る外的直観の先天的形式である。

    これに対し一切の現象に適用される時間は、内的状態を継時的に受け取る内的直観の先天的形式である。

    ここでいう時空は概念でなく直観である。

    すなわち個々の時空と唯一の時空とは、個別者と概念との関係でなく部分と全体との関係をもつ。

    時空の制約は物自体(それ自身は現象しない)には適用されない(先験的観念性(transzendentale idealitat) )。

    時空はそれによってのみ現象が可能となる主観的制約(経験的実在性 (empirische kealitat) )である。

    そのため、見出されるはずの一切の対象に妥当すると言いうる。』

    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%94%E7%B2%8B%E7%90%86%E6%80%A7%E6%89%B9%E5%88%A4
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■1370 / inTopicNo.74)  軌道修正
□投稿者/ pipit -(2019/06/18(Tue) 22:06:55)
    さすがに中山先生の解説文章引用しすぎで申し訳なく思えてきました。

    一回、カントの文章の訳文の訳文にチャレンジしてみようかな、と、思います。

    今回読むのは、

    第一部「超越論的な原理論」の
    第一部門「超越論的な感性論」の部分!(抜粋)

    英語力ないけど、なんとかできるといいな。
    私の中でメインに読んでいくのは中山先生の日本語訳で、抜粋したいな、と、おもったところを著作権切れ英訳で引用して、pipitの下手な日本語訳も書いていきます。
    中山先生の訳を大いに参考にさせていただくと思います。

    それでは、、、明日以降に〜

    おやすみなさい!
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■1369 / inTopicNo.75)   中山元先生の解説続き
□投稿者/ pipit -(2019/06/18(Tue) 21:36:11)
    中山元先生の解説文章を抜粋引用しますm(_ _)m

    『(略)
    庭の樹木を眺めていたぼくは、ふと「われにかえる」のであり、
    庭を眺めていた自分にまなざしを向けるようになる。
    そして心のうちに流れる外界の事物の像と、その時間的な経過に気づくのである。
    時間というものが認識されるのは、この二つの行為の交差するところである。
    (略)

    「わたしたちは時間という形式において自己自身と、自己の内的な状態を直観するのである。なぜなら時間は外的な現象のいかなる規定でもありえないからである」(061)とカントは指摘する。
    それでいてそれは純粋に内的なものでもありえない。
    すでにカントが早くから指摘しているように、純粋に内的なものは時間をもたないからである。
    無意識にも意識にも、時間という規定はそぐわないものなのだ。

    だからこの困難な問題は、外的なものと内的なものとの〈交差〉によってしか解決できないのである。
    外的なものを眺めるときに流れる内的な時間が問題なのである。
    これをカントは「時間は、さまざまな像がわたしたちの内的な状態において、たがいにどのような関係にあるかを規定する」(同)と説明する。

    内的な状態だけでは時間を測定することはできない。
    内的なものはある種の混沌を含んだものであり、そこでうごめいているのは時間という規定をうけないもの、超時間的なものである。
    (略)
    しかし外的な状態だけでも時間を構成することはできない。
    (略)
    時間はあくまでも人間の「内的な状態」における像や観念の関係を規定するものであるからだ。
    それでもこの二つの状態が〈交差〉することによって、一つの時間が可能となる。
    それは一つの外部の世界、人々が共同で暮らす世界のうちで、人間が生きているからだ。
    時間が「客観的な妥当性」をもつのは、それが共同の世界の事物に関する時間だからである。
    そのことをカントは「時間が客観的な妥当性をもつのは現象に対してだけである。現象とは、それがすでにわたしたちが自分の感覚能力の対象として規定する事物だからである。」(063)と表現している。
    (略)
    時間は内的な知覚を作り出し、空間は外的な知覚を作り出すのであるが、そのためには時間と空間、内的な知覚と外的な知覚は、たがいに相手の間接的な条件になる必要があるのだ。
    (略)

    同本 p387〜389 中山元先生の解説の引用

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■1368 / inTopicNo.76)  今日見たもの
□投稿者/ pipit -(2019/06/18(Tue) 18:27:57)
    猛スピードで走るタクシー
引用返信/返信 削除キー/
■1366 / inTopicNo.77)  中山元先生の解説続き
□投稿者/ pipit -(2019/06/18(Tue) 00:00:43)
    中山元先生の解説文章を抜粋引用します。

    『(略)
    カントは時間の超越論的な解明においては、時間が経験を可能にすると同時に、
    物理学を可能にするという意味で、二つの超越論的な条件を備えていることを指摘するのである。
    (略)
    カントがここで問題とする空間は、測量が可能な開かれた公的な空間であり、時間は、物理学的な測定が可能な一次元の公的な時間なのである。
    (略)
    すべての人間に共通の認識の条件を考察しようとするこの書物では、すべての認識が成立するための一つの公的な空間と時間に焦点を合わせる必要があったのである。

    (略)

    カントはこの時間と空間には、客観的な実在性だけでなく、「超越論的な観念性」がそなわっていると主張する。
    それが「観念的」であるというのは、これは物自体にそなわるものではなく、人間が物自体を現象として認識するために必要な「主観的な条件」にすぎないからである。
    (略)
    またそれが「超越論的な」ものであるのは、(略)、経験に先立って存在し、経験を可能にするアプリオリなものだからである。
    そしてこのアプリオリな性格のために、すべての人間が共通の事物を認識し、共通の法則について同意することができる。
    数学も自然科学も、この空間と時間のアプリオリ性に依拠していることは、「超越論的な解明」で明らかにされたとおりである。
    (続く)』

    同本p364〜369の中山元先生の解説からの引用でした。

    今日はここでおわります。
    このあと、おもしろそうなところです。

    外の世界がないと、内の変化がおこらないし、自己認識もできないけど、
    時間という内的な直観の形式によらなければ外部の対象の認識ができない。
    『純粋理性批判』における、奇妙な循環であり、逆説である。
    カントが考え出したのは、、、
    ここらへん、私は未勉強ですが、カントの自我論につながっていきそうですね。
    中山先生は、逆説は解決されてない、とみてるかんじかなー
    ちょっとだけ先に引用
    『時間と変化の問題は考えてゆけばゆくほどに深まる謎として、本書で繰り返し提起される。ハイデガーが語るように、本書は時間と存在についての書物だと考えることもできるほどである。』(p375)

    おつかれさまです!

    おやすみなさいー

引用返信/返信 削除キー/
■1364 / inTopicNo.78)  今日見たもの
□投稿者/ pipit -(2019/06/17(Mon) 17:57:42)
    軽自動車サイズのタイヤの自転車で走るおじさま。
引用返信/返信 削除キー/
■1361 / inTopicNo.79)  中山元先生の解説続き
□投稿者/ pipit -(2019/06/16(Sun) 23:23:07)
    中山元先生の解説文章の引用の続きです。

    『空間の第三の解明と時間の第三の解明で考察されるのは、
    空間と時間の「唯一性」である。
    もちろん空間はさまざまな場所に分割できるのであり、
    それぞれの場所は個人にとって意味の異なるものである。
    しかしさまざまな部分的な空間を合成して、一つの全体の
    空間が考えられるのではない。
    「部分的な空間は、単一の空間の内部でしか考えることが
    できないものなのである。」(043)
    (略)
    同じことは時間についても語ることができる。
    古代のギリシアのヘラクレイトスは、夢見るときのように自分だけの
    時間に籠るものは、大きな共同性から外れてしまうと語ったことがある。
    誰もが自分だけの時間の流れのうちに生きているが、
    それが時間として意味をもちうるのは、
    他者とのあいだで共有した大きな一つの時間のうちの一部であり、
    他者もまた私的な時間を生きながら、この大きな時間のうちで
    暮らしているからなのである。

    この空間と時間の唯一性は、(略)空間と時間が人間が知覚するために必要な
    アプリオリな形式的な条件であることによっても生まれる。
    カントはこのことを空間と時間が「純粋な直観」(同)である
    という言葉で表現する。

    (略)ぼくたちは誰もが何かを知覚するときに、空間と時間という形式に依拠するのであり、その形式は、すべての人に共通なものとして普遍的なものである。
    その普遍性から、人々が生きる空間と時間性の唯一性が結論されるのである。
    (略)

    それが「直観」と表現されるのは、概念は複数のものに適用されるが、
    直観は唯一のものだからである。
    ある論者が指摘しているように、「直観は多数なものが統一されていることを示し、
    概念は多数のうちに統一されたものが含まれていることを示すからである。」。

    (続く)



    (同本p356〜358より中山元先生の解説を抜粋引用)

    また明日以降に解説の続きを引用します。

    おつかれさまです・おやすみなさい

引用返信/返信 削除キー/
■1360 / inTopicNo.80)  中山元先生の解説
□投稿者/ pipit -(2019/06/16(Sun) 18:50:19)
    >自分の時間についての認識を考えてみて、
    次に、諸先生方の解説読んで、
    最後に、カントの本文読んでみようと思います。<


    中山元先生の解説を抜粋引用しますm(_ _)m
    カントの文章ではなく、中山元先生の文章です。

    『(略)空間は知覚に必ず必要な条件なのである。(略)
    時間も同じく必然的なものである。同じように還元を施して
    みよう。何か仕事に没頭していると、あとで思わぬ時間が経っている
    ことにきづくことがある。(略)
    その仕事をしなかったならば、(略)、あるいは別のことをした時間が
    経過しているはずだ。
    だからその時間が主観的にどれほど短く感じられようとも、
    誰もが一つの客観的な時間の流れで生きているのだ。
    そこから個々の出来事の時間を取りのぞくことができるとしても、
    「時間そのものは(現象を可能にする一般的な条件として)、
    取りのぞくことは、できない」(055)のである。

    (略)

    空間の第三の解明と時間の第三の解明で考察されるのは、
    空間と時間の「唯一性」である。

    (続く)』

    一旦中山元先生の文章の引用はここまでで終わります。
    また後ほど続きを引用していきますm(_ _)m

    引用本
    『純粋理性批判1』
    カント、中山元訳、
    光文社古典新訳文庫
    p356〜357より、抜粋引用
引用返信/返信 削除キー/
■1359 / inTopicNo.81)  今日見たもの
□投稿者/ pipit -(2019/06/16(Sun) 17:19:45)
    『入門書の最高峰』という本の帯を見ました。

    なんか、カテゴライズ的に、おもしろかったです。
引用返信/返信 削除キー/
■1358 / inTopicNo.82)  思うこと
□投稿者/ pipit -(2019/06/16(Sun) 16:25:49)
    赤ちゃんってどんな世界みてるんかなー

    自分が赤ちゃんのときに、どんな表象してたんかなー

    ちゃんと遠近法で表現されてた?

    1.という概念で、みてた ?

    いっぱい、って、概念、でみてた ?

    残念ながら、覚えてないですね

    覚えては人いるのかなー

    わたしの一番古い記憶は、、、もう、物語性のある世界です。

    わたしの子供が生まれて1年以内のとき、仰向けに寝てて、自分の手を上にあげて、
    自分の眼に対してヒラヒラ裏表に変化させながら、じーっと見てたことがありました。

    どんな世界見てたんかなー

    もう本人は覚えてないやろうなー

    人の認識は、、、

    わたしは、わたしの認識しか、一生みること叶わずなんかなー

    わたし問題、の一種なんかな〜?

引用返信/返信 削除キー/
■1345 / inTopicNo.83)  時間についてに入る前に思うこと(長文)
□投稿者/ pipit -(2019/06/14(Fri) 22:50:09)
    まず自分の時間についての認識を考えてみて、

    次に、諸先生方の解説読んで、

    最後に、カントの本文読んでみようと思います。

    カントは、認識は自分の手元にあるんだから、なぜそうなってるのかはわからなくても、どうなってるのかは、自分の認識みたらわかるんやで〜(超意訳)って言ってた気します。

    だから、不十分なことは承知で、自分で自分の認識みてみることチャレンジしたいです。


    まず思ったことは、認識論としての変化は、記憶がないと変化という認識できないんじゃないか、と思いました。

    変化、を、考えたとき、時間、があらわれる気がしました。

    だけど、変化の構成要素の一つの記憶は、内容は過去だけどその内観対象そのものは、ただ対象としてあるだけです。

    内容に対して、時間的な規定をして、変化が生まれる気がしました。

    これは、カントの考え方に沿ったときの空間認識と同じシステムだと思いました。

    現象がある座を占める。
    現象としての外的対象物(≠物自体)が空間像のある座を占める。空間認知
    現象としての内観対象物(≠物自体)が時間像のある座を占める。時間認知


    あとカントは理屈として、
    pipitが生まれる。
    pipitが死ぬ。
    同じ主語に対して矛盾の述語が成り立つには時間によるしかない、と、書いてたような。
    でも、違うかもだから、なるべくちゃんと読んでいきます。

    カント哲学における、現象の形式である空間と時間は、
    経験的実在かつ超越論的観念である、と、されてるかと思いますが、

    あ、そうだ、

    時間のテンポに関して、、、

    これは私見なのですが、

    外的対象の変化が時間になるとすると、(ここらへん、外的対象と時間が相互的関係に解説されてるみたいです。解説引用していくつもりです)

    もし物質が刹那生滅してたら、それがテンポになって、共通の時間規定にならないかな、って。

    それで、昔のコンピュータって、信号を取ってカウントして時計時間に足して時間表示してたって記事をネットで読んで、
    コンピュータも仕事しすぎてたら信号とりそこなう時があって、そしたら表示も狂ってたんですって。
    人間も熱中してたら、生滅のテンポ信号とりそこなって、時計表示より体感時間がずっと前(信号が上乗せカウントされてない)ってこともあるかも、なんてことその記事からインスパイアされて思いました。

    おもしろいなー




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■1338 / inTopicNo.84)  純粋理性批判におけるアプリオリの定義
□投稿者/ pipit -(2019/06/13(Thu) 22:56:04)
    アプリオリの定義について

    カントは序論で、本書におけるアプリオリとは、すべての経験から絶対的に独立している認識のことと理解してほしい、と定義しています。(中山元訳、1、p19)

    該当部分英訳
    By the term "knowledge a priori," therefore, we shall in the sequel understand, not such as is independent of this or that kind of experience, but such as is absolutely so of all experience.
    〈アプリオリな認識とは、単なる個々の経験から独立している認識と解するのではなく、全ての経験から絶対的に独立している認識と理解していただきたい。〉

    ということなのですが、

    『カント入門』という新書のp111〜113で、著者の石川文康先生は、
    世間ではよく誤解されているが、「純粋理性批判」におけるアプリオリとは、生得的という意味ではない、と注意喚起されています。
    (経験から)獲得的⇔生得的
    これが一般的な対語だが、カントはこの従来の二分法を超えて、第三項として「根源的獲得」という領域を切り開く、とされてます。

    部分引用します。
    『それに対してカントが第三項として導入した自然法用語「根源的獲得」は、一切の先なる所有者を、また先なる根源を前提しない概念である。
    したがって神からも経験(先なる根源)からも派生しない概念である。
    それは知性がその自己活動によって知性自身から獲得したという意味である。
    そしてその意味で、カテゴリーは知性自身にその根源をもつ概念である。』(p113より引用)


    『たしかにカント以前、とくにライプニッツにおいては、「アプリオリ」と「生得的」とはほぼ同義であった。しかしカントの場合、「アプリオリ」とは「経験に先立つ」すなわち「経験に由来しない」という意味を出ない。その目印は「普遍妥当性」と「必然性」をもつことである。』(石川文康先生『カント入門』p111より引用)

    (感想)
    でもぉ、知性能力(使ってないにしても)は生得的なんじゃないかなー、と、思いました。
    が、
    そうかぁ、アプリオリに生得的という意味持たせちゃうと、アプリオリな認識と言った時、どうしても背後に神様がちらついちゃうから、純粋理性批判的には、先験的という意味の方が都合よかったのかな
    人間回帰って言葉が浮かぶけど、間違った言葉使いやったらすみません。



    いろんな生命さん、今日も一日おつかれさまです!

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