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■13536 / inTopicNo.85)  Re[29]: 恵みの宗教と業の宗教
  
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/03(Thu) 21:21:39)
    最後の審判で救済される者は、神により予め定まった(予定した)者だけであり、
    人間の善行等の努力は、救済には全く関係ないし、因果でもない。

    救済される者は聖書を信じる人であるが、それは、必要条件にすぎない。

    善行を積んだ人間が救済されるのは因果律ではなく神の意志による予定である。

    聖書には信仰のみによって救われると書いてあるので何の差別もない。

    救済される者は信仰を持った者であり、救済されないのは信仰を持たない者なのは明白です。

    旧約聖書には、嫉妬深い神であると常に信仰を要求する神であり、神の意志は
    人間から見たら謎だらけです。

    「信仰のみ」により救われるとあるけれども、それでは、どうしたら信仰が持てるのか。

    それこそ、イエス様の十字架の贖罪と恩寵によってであり、イエス様の肉と血を飲食して初めて、こころのエネルギーを得て、永遠の生命が得られるのであり、三位一体の神の愛の交わりを感じることが肝要なのだと思います。
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■13552 / inTopicNo.86)  Re[30]: 恵みの宗教と業の宗教
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/04(Fri) 17:13:50)
    愛満開さん こんばんは

    > 最後の審判で救済される者は、神により予め定まった(予定した)者だけであり、
    > 人間の善行等の努力は、救済には全く関係ないし、因果でもない。
    >
    > 救済される者は聖書を信じる人であるが、それは、必要条件にすぎない。
    >
    > 善行を積んだ人間が救済されるのは因果律ではなく神の意志による予定である。
    >
    > 聖書には信仰のみによって救われると書いてあるので何の差別もない。
    >
    > 救済される者は信仰を持った者であり、救済されないのは信仰を持たない者なのは明白です。

    愛満開さんは、やはり、二重予定説的なカルバンの立場になるのではないでしょうか。それに対し違和感を覚えるのは、いままでカキコしてきた通りです。

    最後の審判で救われるか救われないかが前もって予定されているという解釈は、非常に珍しいと思います。
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■13556 / inTopicNo.87)  最後の審判といっても既に天国の人は同じ
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/04(Fri) 19:01:28)
    キリスト教で最後の審判が問題になるが、最後の審判以前に生を終えている人にとってはそれほど喫緊の問題ではないともいえる。最後の審判以前に天国という人は、最後の審判のときに改めて厳しく審判されることはない。最後の審判以前に地獄という人は、最後の審判のときに新たに救済されることはない。現代人ではなく、これは二千年前の人でも同じです。最後の審判がその人たちに新たな審判を付け加えることはないとされます。

    要するに、最後の審判は、キリストの過越に新たに何も付け加えるものではない。二千年前のキリストで神の国は基本的に完成している、終わっている。その完成が最後の最後で本当に終わって、天と地が最終的に合体して一つになるのが最後の審判。
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■13559 / inTopicNo.88)  Re[31]: 恵みの宗教と業の宗教
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/04(Fri) 19:47:38)
    knowing itselfさんこんばんは
    レスありがとうございます。

    > 愛満開さんは、やはり、二重予定説的なカルバンの立場になるのではないでしょうか。それに対し違和感を覚えるのは、いままでカキコしてきた通りです。
    >
    > 最後の審判で救われるか救われないかが前もって予定されているという解釈は、非常に珍しいと思います。

    ただ、感覚的には、人間はすべて平等に創られてはいない。
    永遠の生命にあずかるもの、永遠の劫罰に喘ぐのも、すべて前もって定められていると考えた方が、世の中が理不尽なだけに、より現実的な気がします。

    予定説に関する疑問点としては、人間が等しく堕落した存在ならば、なぜ一部の少数の人間だけが救われて他の多数の人間が救われないのかと言う事だと思います。

    そして、最後の審判というのはいつ訪れるか分らないために、キリスト教信仰が強化されるような気もしますが、結局、予定説を人間的なレベルでその妥当性を論証することは非常に難しいと思います。

    でも、そうならば、なぜ、イエス様は、「悔い改め」を求めたのか不思議ですね。

    それは、人間の自由意思も大切にしていたからだと思います。

    それでないと、人間は、操り人形かロボットのようになってしまい、自主的に神を愛することが出来なくなってしまうからだと思います。

    なので、予定が半分、自由意思が半分なのではないか、というか、割合は、全く分かりませんが、互いに影響している事だけは確かな気がします。





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■13564 / inTopicNo.89)  最後の審判
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/04(Fri) 20:23:04)
    https://youtu.be/7FMgVbcLagM

    早口で聴くのが大変ですが。この神父も素晴らしい動画を大量にアップしています。

    死後の審判と最後の審判の違いについて。死後の審判は、生前の神との関係が明るみに出されるプライベートなもの。最後の審判は、神の壮大な救済ストーリーの中でどういう役割を果たしたかが客観的に示される。そんな感じですか。いずれにしろ、神という誤りようがない完全な審判者の判定は死後の審判で確定しています。


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■13569 / inTopicNo.90)  Re[33]: 最後の審判
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/04(Fri) 21:15:12)
    knowing itselfさんまた、素敵な動画ありがとうございます。

    > 死後の審判と最後の審判の違いについて。死後の審判は、生前の神との関係が明るみに出されるプライベートなもの。最後の審判は、神の壮大な救済ストーリーの中でどういう役割を果たしたかが客観的に示される。そんな感じですか。いずれにしろ、神という誤りようがない完全な審判者の判定は死後の審判で確定しています。

    なるほど、死、裁き、天国、地獄、の最後の審判にかかる4つの事柄は、私たち自身の個人的な終わり以上のものがあり神の創造と救済の究極の意味が示されるのですね。

    人が罪を犯したのは、悪魔の言葉を信じたためでした。

    悪魔は神が人を愛していることを知っていたので、
    人に罪を犯させ、神から引き離したのです。

    これに対して神は、愛する人を悲劇から救い出し、神の元へ戻す脱出計画を立てました。

    それがキリストの十字架です。

    人を神の国に戻すには、その罪を消す必要があります。

    そのためには、人の罪に対する罰を、神はキリストを十字架につけ、人類の罪をかぶせました。

    出エジプトの時、神のさばきは、身代わりの小羊の血の塗ってある家を過ぎ越し、血のない家に下りました。

    キリストは神の小羊です。

    キリストが私たちの代わりに罰を受けてくださったので、神のさばきは私たちの前を過ぎ越して行きます。

    善行がその人を義とするのではなく、神のキリストの血の力によって人は、義に変えられていくのですね。
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■13580 / inTopicNo.91)  Re[34]: 最後の審判
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/05(Sat) 06:46:53)
    愛満開さん おはようございます レスありがとうございます

    >>死後の審判と最後の審判の違いについて。死後の審判は、生前の神との関係が明るみに出されるプライベートなもの。最後の審判は、神の壮大な救済ストーリーの中でどういう役割を果たしたかが客観的に示される。そんな感じですか。いずれにしろ、神という誤りようがない完全な審判者の判定は死後の審判で確定しています。
    >
    > なるほど、死、裁き、天国、地獄、の最後の審判にかかる4つの事柄は、私たち自身の個人的な終わり以上のものがあり神の創造と救済の究極の意味が示されるのですね。

    ↑この4つの事柄は最後の審判以前の事柄です。最後の審判以前に決まっています。最後の審判とは基本的に無関係だと思います。個人の生に対する個別の審判で示される事柄です。最後の審判は神の救済ストーリーのエンディングでしょう。その人間の生が神の客観的な救済ストーリーの中で、私的にではなく公的に明るみに出される。




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■13597 / inTopicNo.92)  Re[35]: 最後の審判
□投稿者/ toll -(2021/06/05(Sat) 10:41:32)


    おはようございます。
    ちょっとお邪魔させて頂きます。
    「最後の審判」
    カトリックの教義を少し読んでみました。
    いやはや、大変ですね。
    ま〜死後の事ですから死んでから?後悔する?のも有りかな^^



    No13580に返信(knowing itselfさんの記事)

    >
    > ↑この4つの事柄は最後の審判以前の事柄です。最後の審判以前に決まっています。最後の審判とは基本的に無関係だと思います。個人の生に対する個別の審判で示される事柄です。最後の審判は神の救済ストーリーのエンディングでしょう。その人間の生が神の客観的な救済ストーリーの中で、私的にではなく公的に明るみに出される。



    ↑上記の「私的」「公的」とはどういうことですか?
    カトリックによる審判に関係しますか?

    Wiki によれば

    ーー引用始めーー
    カトリック教会では公審判の教義が保持されている。肉体が復活して魂と結び合わされた後に、「公審判」があるとされる


    公審判(こうしんぱん、ラテン語: Judicium Universale, 英語: The General Judgment, ドイツ語: Das Jüngste Gericht, ロシア語: Страшный суд)とは、正教会・カトリック教会で、肉身の復活の後に、イエス・キリストの栄光の再臨のときに行われる、すべての人をその行ってきた善悪により裁くとされる審判[1][2]。私審判と区別される。

    ーー引用終わりーー



    「最後の審判」について
    愛満開さんのプロテスタントの教派では
    牧師さんは どのようにお話しされているのでしょうか?

    愛満開さん、宜しかったら教えて頂けませんか 。





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■13599 / inTopicNo.93)  Re[36]: 最後の審判
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/05(Sat) 11:16:14)
    tollさん こんにちは

    > ま〜死後の事ですから死んでから?後悔する?のも有りかな^^

    生前に最後の審判がくれば、当然、その人たちにとって生前です。

    神にとっては、リニアーな時間のどこにあるのかは問題ではなく、時間を超越して永遠の次元にいます。その神と交わりに入ることが天国なので、生前、死後の区別は実は本質的ではありません。もちろん死んでお終いすべて消滅はありません。そんなキリスト教は存在意味がゼロでしょう。

    > ■No13580に返信(knowing itselfさんの記事)
    >
    >>
    >>↑この4つの事柄は最後の審判以前の事柄です。最後の審判以前に決まっています。最後の審判とは基本的に無関係だと思います。個人の生に対する個別の審判で示される事柄です。最後の審判は神の救済ストーリーのエンディングでしょう。その人間の生が神の客観的な救済ストーリーの中で、私的にではなく公的に明るみに出される。
    >
    >
    >
    > ↑上記の「私的」「公的」とはどういうことですか?
    > カトリックによる審判に関係しますか?

    審判とは神の前に明るみに出されることです。審判の主体は当然、神です。

    私審判、公審判という訳語が古すぎですね。英語でいうと、particular judgementとfinal judgement、その内容については、先の私のカキコどおりだと思います。
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■13601 / inTopicNo.94)  最後の審判もリアルプレゼンスと別ではない
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/05(Sat) 11:28:19)
    カトリックの要諦中の要諦が、キリストの体のリアルプレゼンス。そのリアルプレゼンスに、個人の生前死後、最後の審判、違いはありません。まったく同一のキリスト、三位一体の子なる神が受肉した、そのキリスト。十字架を通過して復活の体になったキリスト。

    私審判と公審判で明るみに出されるのも、生前における三位一体の神との関係性。それだけです。生前に三位一体の神との正しい関係を結んで、審判でだけ否定されることはない。逆に生前に三位一体の神との関係がおかしければ、やはり悔い改めによって三位一体の神との交わりを希求しないと、やはり、三位一体の神との交わりよりは、違う世界に行きたいという自由意思を尊重するということになるでしょう。
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■13609 / inTopicNo.95)  最後の審判
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/05(Sat) 18:53:46)
    particular judgementとfinal judgement

    救われるか救われないか、天国かそうでないかは、
    前者で明らかになる。それとは別に、戦々恐々と白黒二元の有無も言わさぬ後者の裁きを待つというのではない。なんでそんな固定観念をもつのだろうか?

    それでは、前者とは別に後者のfinal judgementがやがて行われる意味はどこに?

    その意味は、救われて既に天国にいる人たちが、神の救済ストーリーの中で果たした役割が客観的に明らかにされること。喩えでいうと、巨大なジグゾーパズルが完成するのはときに、どのピースでどこに嵌るかが一望の下に明るみに出されるようなものだと思います。
    大きなピースで目立つところにあるか、ちっちゃなピースなのかは、救いと何の関係もない。それが特別の選びです。なので、二重予定説とfinal judgementは全く無関係。業や大きないよる救いともまったく関係ない。ピースを作り、絵をつくり、パズルを完成されるのは神であって、人間はそれに応答しただけ。
引用返信/返信 削除キー/
■13613 / inTopicNo.96)  Re[39]: 最後の審判
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/05(Sat) 19:57:59)
    knowing itselfさんこんばんは。
    いつも信仰のためになる深遠なお話ありがとうございます。

    > particular judgementとfinal judgement
    これは、各自の臨終死後すぐに受ける個別の「私審判」と世界の終わりにすべての人々が受ける最後の審判という「公審判」との違いでよろしいでしょうか。

    > 救われるか救われないか、天国かそうでないかは、
    > 前者で明らかになる。それとは別に、戦々恐々と白黒二元の有無も言わさぬ後者の裁きを待つというのではない。なんでそんな固定観念をもつのだろうか?

    と言う事は、死後すぐに天国と地獄への選別が行われ、個人的には、生きている現世のうちから神との愛の交わりが得られているのなら、それが、そのまま死後にも継続していると考えていました。

    > それでは、前者とは別に後者のfinal judgementがやがて行われる意味はどこに?
    >
    > その意味は、救われて既に天国にいる人たちが、神の救済ストーリーの中で果たした役割が客観的に明らかにされること。喩えでいうと、巨大なジグゾーパズルが完成するのはときに、どのピースでどこに嵌るかが一望の下に明るみに出されるようなものだと思います。
    > 大きなピースで目立つところにあるか、ちっちゃなピースなのかは、救いと何の関係もない。それが特別の選びです。なので、二重予定説とfinal judgementは全く無関係。業や大きないよる救いともまったく関係ない。ピースを作り、絵をつくり、パズルを完成されるのは神であって、人間はそれに応答しただけ。

    仰る通りだと思います。
    そして、最後の審判の後、世の終わりに神の国は完成します。


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