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■13422 / inTopicNo.73)  Re[14]: 最後の晩餐の絵が
  
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/31(Mon) 08:43:27)
    knowing itselfさん 解説ありがとうございます。

    > キリストの体である聖体がパンの外観に隠れて現存するに至ることがこれほど重視(カトリックのすべてといって過言ではない)されるのは、父なる神から地上の人間世界に、聖霊が降ってきたまぎれない証拠とされるからですね。三位一体の交わりの極限。

    なるほど、聖霊の証拠だったのですね。
    ここで、疑問に思ったのですが・・・

    「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」
    (ヨハネによる福音書6・44)

    これは、ご利益を求めて押しかけてきた群衆に対してのイエス様のお言葉ですが、
    この後に、例の「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」という御言葉に続きます。

    神は万人を救済するためにこの世に来られたのだと思いますが、これって、予め神の御計画により予定された人だけがそのようになると言う事でしょうか。
    つまり、予定説のように、救われる人はあらかじめ決められていると言う事でしょうか。


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■13423 / inTopicNo.74)  Re[15]: 最後の晩餐の絵が
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/31(Mon) 09:19:49)
    ttp://fujisawachurch.sakura.ne.jp/worship/pulpit/2020fy/200809pulpit.html

    「ですから、イエス様のことを本当に知りたいと思うなら、実際に食べてみるしかありません。食べてみなければその良さを知ることもないからです。それゆえ、イエス様を信じているということは、実際にイエス様を食べてみて、そのおいしさを知って、そして、また食べたくなるほどにその味に満足しているということです。」日本基督教団藤沢教会 

    これって、悪魔ちゃんが書き込みされたことととても似ているなあと思いました。

    イエス様の肉がおいしいとか不味いとかの話ではないと思います。
    勿論、教会の牧師様も、そのことを話されているとは思えませんが、信仰とは、自由意思によるのですが、やはり難しい、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」という神の計らい無くして信仰は無いように思えました。
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■13424 / inTopicNo.75)  Re[26]: ごはん
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/31(Mon) 09:21:24)
    No13411に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ねえ、
    > 「パン」じゃなくて「ごはん」についてキリストさんはなんか言ってる?

    食文化の違いですから何も語ってはいないです。
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■13426 / inTopicNo.76)  「信じる者は永遠の命を得ている」
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/31(Mon) 10:17:50)
    横浜指路教会 牧師 藤掛順一先生の説教の中に「神の計らい」まさにこのことを述べられているところがありました。

    「主イエスを独り子なる神と信じる信仰は、イエスが神であることの証拠を示されて納得して信じるようになるというものではなくて、父なる神によって導かれて与えられるのです。」

    そして、そのためには、「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」という御言葉から「父なる神によって教えられ、そのみ言葉を聞いて学ぶ、それは聖書のみ言葉に聞くということです。」ということでした。

    さらに、「ですから、父がわたしにお与えになる人、父が引き寄せて下さる人というのは、聖書のみ言葉をしっかり聞く人です。聖書から神の教えを受けることによってこそ私たちは、主イエスが独り子なる神であることを信じることができるのです。」

    ここから「主イエス・キリストは、天から降って来て世に命を与えるパンです。父なる神が天から与えて下さるまことのパンです。このパンを食べる者は、永遠の命を得るのです。」と繋がります。

    「独り子なる神主イエスの十字架の死と復活があったからこそ、主イエスは命のパンであり、このパンを食べるならば、その人は永遠に生きると言うことができるのです。」

    ttp://www.yokohamashiloh.or.jp/reihai/message/shiloh_message190901mf.htm

    大変、ためになる内容だと思います。
    しかし信仰者も、この世においては、未信者と同様に、病気になり年をとり必ず死ぬときが訪れますが、最後の審判では復活し永遠の生命を得るのであり、それを希望に生きていきたいと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■13432 / inTopicNo.77)  Re[27]: ごはん
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/31(Mon) 18:14:16)
    ■13424、
    >食文化の違いですから何も語ってはいないです。<
    愛満開さん、ありがとございます。
引用返信/返信 削除キー/
■13433 / inTopicNo.78)  Re[15]: 最後の晩餐の絵が
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/31(Mon) 18:45:56)
    愛満開さん こんば

    > 「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」
    > (ヨハネによる福音書6・44)

    > これは、ご利益を求めて押しかけてきた群衆に対してのイエス様のお言葉ですが、
    > この後に、例の「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」という御言葉に続きます。
    >
    > 神は万人を救済するためにこの世に来られたのだと思いますが、これって、予め神の御計画により予定された人だけがそのようになると言う事でしょうか。
    > つまり、予定説のように、救われる人はあらかじめ決められていると言う事でしょうか。

    予定説をとらなければそのような結論にはならないと思います。予定性を取らなければならない必然性がよくわかりません。
引用返信/返信 削除キー/
■13434 / inTopicNo.79)  恵みの宗教と業の宗教
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/31(Mon) 18:55:20)
    https://youtu.be/h2FXh70_cTo

    アブラハム系宗教における、選び、特別に選ばれることの意味。
    選ばれるとは、特権を享受、利益の独り占め、他者支配のためにあるのではない。
    イスラエルの選びもこの観点から理解しなければならない。

    アブラハム系宗教において、選ばれるとは、その人間や共同体に注がれた無条件かつ一方的な恵みの「導管(通り道)」になることを意味する。恵みを世界全体に波及させるために。

    あと、選ばれることは、必ずしも救いの最終的確定を意味しない。

    硬直した予定説はこの点からも疑問。
引用返信/返信 削除キー/
■13435 / inTopicNo.80)  Re[16]: 最後の晩餐の絵が
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/31(Mon) 20:37:41)
    knowing itselfさんこんばんは。
    いつも、ためになる解説や動画ありがとうございます。
    特にバロン司教の話は大変ためになりました。

    >>神は万人を救済するためにこの世に来られたのだと思いますが、これって、予め神の御計画により予定された人だけがそのようになると言う事でしょうか。
    >>つまり、予定説のように、救われる人はあらかじめ決められていると言う事でしょうか。
    >
    > 予定説をとらなければそのような結論にはならないと思います。予定性を取らなければならない必然性がよくわかりません。

    それは、神が選択、つまりある人を選ばれるからです。その理由は分かりませんが。なので、人智の計り知れない神の御業が予定されていると言う事ではないのかなと思います。

    バロン司教は、神の選択性を認めたうえで、それを他者へ振り向ける仏教でいうところの回向でしょうか。
    それは、決して他者を支配するための選択ではないというのはキーポイントになると思います。

    それから、仏教は、因果応報であるとの解説があり、もちろん基本はその点にあり
    自分の行った言動は、決して消え去るものでない、二度と元には帰らない(覆水盆に返らず)ので一瞬一瞬を真剣に生きなければならない、まるで車運転の安全教習のような、「注意一秒怪我一生」の緊張と真剣さの修行を求めているように思います。

    この因果応報を踏まえて、阿弥陀如来は、凡夫を救われる。
    まるでイエス様の贖罪と恩寵のように「悪人正機」説で救われるのですね。
引用返信/返信 削除キー/
■13450 / inTopicNo.81)  Re[17]: 最後の晩餐の絵が
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/01(Tue) 19:11:53)
    愛満開さん こんばんは

    > >>神は万人を救済するためにこの世に来られたのだと思いますが、これって、予め神の御計画により予定された人だけがそのようになると言う事でしょうか。

    ここは明確に違うと思います。バロン司教も違うというでしょう。特別に恵みを与えるべく予定されたのは、その恵みを独占せずに世界中に拡散させるためというのが、「選良」の意味です。イスラエルだけが救われるという聖書解釈がキリスト教ではありえないのと同じだと思います。

    > >>つまり、予定説のように、救われる人はあらかじめ決められていると言う事でしょうか。

    二重予定説を否定する予定説なら、それはキリスト教の基本だと思います。天地創造前から予定されていた、となるでしょう。


    > それは、神が選択、つまりある人を選ばれるからです。その理由は分かりませんが。なので、人智の計り知れない神の御業が予定されていると言う事ではないのかなと思います。

    ここもバロン司教のいうように、ある人を選んで恵みを注いだのは、恵みを拡散させる通路にするためであって、恵みを狭く囲い込むためではないのでしょう。

    > バロン司教は、神の選択性を認めたうえで、それを他者へ振り向ける仏教でいうところの回向でしょうか。
    > それは、決して他者を支配するための選択ではないというのはキーポイントになると思います。
    >
    > それから、仏教は、因果応報であるとの解説があり、もちろん基本はその点にあり
    > 自分の行った言動は、決して消え去るものでない、二度と元には帰らない(覆水盆に返らず)ので一瞬一瞬を真剣に生きなければならない、まるで車運転の安全教習のような、「注意一秒怪我一生」の緊張と真剣さの修行を求めているように思います。
    >
    > この因果応報を踏まえて、阿弥陀如来は、凡夫を救われる。
    > まるでイエス様の贖罪と恩寵のように「悪人正機」説で救われるのですね。

    恵みと業については、どの宗教でも二つの要素をもたざるをえないと思います。どちらかだけで貫徹することは困難で、密かに潜り込ませているのかなと。大乗仏教が恵みの要素を取り入れざるをえなかったのは、普遍宗教であれば当然かもしれません。
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■13452 / inTopicNo.82)  Re[18]: 最後の晩餐の絵が
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/01(Tue) 19:42:12)
    knowing itselfさんこんばんは

    いつも信仰の糧になる大切なお話、ありがとうございます。

    >>>>つまり、予定説のように、救われる人はあらかじめ決められていると言う事でしょうか。
    >
    > 二重予定説を否定する予定説なら、それはキリスト教の基本だと思います。天地創造前から予定されていた、となるでしょう。

    私も二重予定説には反対で、あくまで神の御計画としての予定説を信じているところです。なぜなら、はじめからある人を滅びるように予定していたなんて、まるで悪魔のようですから。

    >>それは、神が選択、つまりある人を選ばれるからです。その理由は分かりませんが。なので、人智の計り知れない神の御業が予定されていると言う事ではないのかなと思います。
    >
    > ここもバロン司教のいうように、ある人を選んで恵みを注いだのは、恵みを拡散させる通路にするためであって、恵みを狭く囲い込むためではないのでしょう。

    仰る通りだと思います。神の恵みを独占するのではなく、広く万人に伝えることこそ信徒の使命なのではないのかなと思います。

    >>この因果応報を踏まえて、阿弥陀如来は、凡夫を救われる。
    >>まるでイエス様の贖罪と恩寵のように「悪人正機」説で救われるのですね。
    >
    > 恵みと業については、どの宗教でも二つの要素をもたざるをえないと思います。どちらかだけで貫徹することは困難で、密かに潜り込ませているのかなと。大乗仏教が恵みの要素を取り入れざるをえなかったのは、普遍宗教であれば当然かもしれません。

    なるほど、信者獲得の為の方便だったと言う事ですね。
    仏教は、やはり、因果応報、決して自分の業は消え去ることが出来ない。

    なので、善業の果実を貯金して誰かのために分け与える。それが回向のなのでしょうが、仏教は徹頭徹尾、自業自得の因果応報であり、悪行を行うことで(因=原因)地獄に堕ちる(果=結果)という物事の結果には必ずそうなる原因があるんだという考え方はとても科学的であり、それを喝破した古代インド人は凄いと思います。

    つまり、人間界にいる今、善行を積む大切さをも述べているように思います。

引用返信/返信 削除キー/
■13480 / inTopicNo.83)  Re[19]: 最後の晩餐の絵が
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/02(Wed) 19:11:16)
    愛満開さん こんばんは

    > >>この因果応報を踏まえて、阿弥陀如来は、凡夫を救われる。
    > >>まるでイエス様の贖罪と恩寵のように「悪人正機」説で救われるのですね。
    >>
    >>恵みと業については、どの宗教でも二つの要素をもたざるをえないと思います。どちらかだけで貫徹することは困難で、密かに潜り込ませているのかなと。大乗仏教が恵みの要素を取り入れざるをえなかったのは、普遍宗教であれば当然かもしれません。
    >
    > なるほど、信者獲得の為の方便だったと言う事ですね。

    そういうことではなく、仏教という宗教の自己展開として自ずからそうなった、あるいは、もともと仏教がもっていた要素が開示されたのか、と考えます。

    > 仏教は、やはり、因果応報、決して自分の業は消え去ることが出来ない。
    >
    > なので、善業の果実を貯金して誰かのために分け与える。それが回向のなのでしょうが、仏教は徹頭徹尾、自業自得の因果応報であり、悪行を行うことで(因=原因)地獄に堕ちる(果=結果)という物事の結果には必ずそうなる原因があるんだという考え方はとても科学的であり、それを喝破した古代インド人は凄いと思います。
    >
    > つまり、人間界にいる今、善行を積む大切さをも述べているように思います。

    業や因果については、ユダヤ聖書にも深い洞察があると思います。十戒は明らかにそのあたりに関わるでしょう。仏教で戒がメチャクチャ本質的であるのとパラレルだと思います。人を殺傷したり、盗んだり、性的にみだらであったり、ウソをついたりがNGなのは、人間や共同体を不幸にする法則への洞察があるからであって、外側から根拠もなく道徳律を押しつけているわけではありません。


引用返信/返信 削除キー/
■13515 / inTopicNo.84)  Re[20]: 最後の晩餐の絵が
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/03(Thu) 08:01:06)
    knowing itselfさんいつも信仰の糧になるお話ありがとうございます。

    >>仏教は、やはり、因果応報、決して自分の業は消え去ることが出来ない。
    >>
    >>なので、善業の果実を貯金して誰かのために分け与える。それが回向のなのでしょうが、仏教は徹頭徹尾、自業自得の因果応報であり、悪行を行うことで(因=原因)地獄に堕ちる(果=結果)という物事の結果には必ずそうなる原因があるんだという考え方はとても科学的であり、それを喝破した古代インド人は凄いと思います。
    >>
    >>つまり、人間界にいる今、善行を積む大切さをも述べているように思います。
    >
    > 業や因果については、ユダヤ聖書にも深い洞察があると思います。十戒は明らかにそのあたりに関わるでしょう。仏教で戒がメチャクチャ本質的であるのとパラレルだと思います。人を殺傷したり、盗んだり、性的にみだらであったり、ウソをついたりがNGなのは、人間や共同体を不幸にする法則への洞察があるからであって、外側から根拠もなく道徳律を押しつけているわけではありません。

    仏教の「因果の道理」が「因果応報」や私たちの行い「カルマ」そして過去、現在、未来をも貫く法則であることは間違いなく誰もこの道理から逃れる術はありません。

    原因のない結果は絶対にありません。
    原因が無いのと原因が分からないのとは違います。

    善因善果
    悪因悪果
    自因自果の自業自得

    今日も出来るだけ良いことが出来るようにカンパリたいと思います。



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