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■13143 / inTopicNo.25)  Re[12]: 聖変化
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/24(Mon) 19:48:26)
    ■13139、
    >カトリックでこれをどう理解しているかというと、最後の晩餐のパンはパンではないということ。目の前のパンをパンと思って食べるとしたら、アウトです。パンがキリストの体に変わっているとしなければ。外観はパンだけど実体は完全にキリストになっている。<
    っていうことは、カトリックさんはパンを食べるとき、〈私はキリストの肉を食べている〉と思って食べてる、っていうことでいいかしら?
    そしてカトリックさんはこう言うの、「あ〜、この肉、美味しい!」って。

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■13144 / inTopicNo.26)  Re[13]: 聖変化
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/24(Mon) 19:51:12)
    No13143に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■13139、
    > >カトリックでこれをどう理解しているかというと、最後の晩餐のパンはパンではないということ。目の前のパンをパンと思って食べるとしたら、アウトです。パンがキリストの体に変わっているとしなければ。外観はパンだけど実体は完全にキリストになっている。<
    > っていうことは、カトリックさんはパンを食べるとき、〈私はキリストの肉を食べている〉と思って食べてる、っていうことでいいかしら?
    > そしてカトリックさんはこう言うの、「あ〜、この肉、美味しい!」って。

    そんな趣旨のことは書いていませんが。どこをどう読むとそうなる?
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■13145 / inTopicNo.27)  聖変化
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/24(Mon) 19:56:48)
    wikiで聖変化を検索することからか。アリストテレス哲学が背景にあるので、本当はかなり難しい。だけど、西洋哲学史上、エポックメイキング。ギリシャ哲学とキリスト教が見事に合体した瞬間。
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■13146 / inTopicNo.28)  Re[13]: リアルプレゼンスの理解の違い
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/24(Mon) 20:16:29)
    >私がパンであるを喩えやシンボルではなく、文字通りに取る。

    >これは最後の晩餐を端的に指し示す。

    この動画の内容は、次の通りでよろしいでしょうか。
    加筆訂正願えればと思います。

    「主の晩餐について4つの見解が示されました。

    カトリックでは、パンとワインの形が変わるものではなくパンはまだパンのように見え、パンのような味がするし、ワインはワインのような香りがする。
    人間として私たちに知覚の変化は無いようです。

    ただ、パンとワインは、単なるパンとワインでは無く、「聖変化」したパンとワインは、イエス・キリストの体と血なのでしょう。

    譬え派のルターは、キリストの体と血とが聖餐式のパンとぶどう酒とに共存するとしています。これは、スポンジと水の譬えのようなものです。スポンジは水ではなく、水はスポンジではありませんが、2つは一緒と言えるものです。

    ハルドリッチ・ツヴィングリの見解は、主の晩餐は、我々の罪のために十字架で血を流されたキリストの贖罪を思い出すのに役立つとしています。

    シンボル派で第四のジャン・カルヴァン見解は象徴的で精神的な存在の見解と呼ばれるものです。教会と聖霊との交流が描かれています。」

    なかなか難しいですね。
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■13147 / inTopicNo.29)  Re[14]: 聖変化
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/24(Mon) 20:21:55)
    ■13144
    >そんな趣旨のことは書いていませんが。どこをどう読むとそうなる?<
    ノーセルフさんが言ったことに関してだけからよ。
    どこから、っていうのは、あなたがが言った
    >外観はパンだけど実体は完全にキリストになっている<
    から。

    あなたが言っていることは、こんなん(■13143)かな〜、って思っただけ。


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■13151 / inTopicNo.30)  Re[14]: 聖変化
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/24(Mon) 21:03:37)
    knowing itselfさん、悪魔ちゃんこんばんは。

    ここは、とても大事なところかなと思います。
    knowing itselfさんのハイレベルについていくのが大変な話なのですけども。

    >>っていうことは、カトリックさんはパンを食べるとき、〈私はキリストの肉を食べている〉と思って食べてる、っていうことでいいかしら?
    >>そしてカトリックさんはこう言うの、「あ〜、この肉、美味しい!」って。
    >
    > そんな趣旨のことは書いていませんが。どこをどう読むとそうなる?

    確かに私のような信者にしてみたら当然の反応ですが、未信者の普通の日本人にしたら、悪魔ちゃんの話も何となく分かるのではないでしょうか。

    これは、真摯に十字架での贖罪を実存的に自分のこととして受け入れ悔い改めて
    初めて過越の祭りと最後の晩餐そして、三位一体の神の恩寵と愛が理解できるのではないのかなと思います。
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■13164 / inTopicNo.31)  Re[14]: リアルプレゼンスの理解の違い
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/25(Tue) 18:53:54)
    愛満開さん こんばんは


    > 「主の晩餐について4つの見解が示されました。
    >
    > カトリックでは、パンとワインの形が変わるものではなくパンはまだパンのように見え、パンのような味がするし、ワインはワインのような香りがする。
    > 人間として私たちに知覚の変化は無いようです。
    >
    > ただ、パンとワインは、単なるパンとワインでは無く、「聖変化」したパンとワインは、イエス・キリストの体と血なのでしょう。
    >
    > 譬え派のルターは、キリストの体と血とが聖餐式のパンとぶどう酒とに共存するとしています。これは、スポンジと水の譬えのようなものです。スポンジは水ではなく、水はスポンジではありませんが、2つは一緒と言えるものです。

    ルターも喩えではないと思います。永遠の天において実在しているキリストが、地にも遍在する。聖餐に天の永遠のキリストが遍在する。喩えではなくリアルに。
    ただ、カトリックでは、パンとワインの実体がキリストの体と血の実体にトランスフォームするのなら対し、ルターではパンとワインの実体はそのまま。これがスポンジの比喩でしょうか。そこに水としてのキリストもリアルプレゼンスする。スポンジと水はルターのリアルプレゼンス理解を説明する比喩でしょう。

    > ハルドリッチ・ツヴィングリの見解は、主の晩餐は、我々の罪のために十字架で血を流されたキリストの贖罪を思い出すのに役立つとしています。

    そうだと思います。

    > シンボル派で第四のジャン・カルヴァン見解は象徴的で精神的な存在の見解と呼ばれるものです。教会と聖霊との交流が描かれています。」

    カルバンはシンボルだといっていますが、そのシンボルには霊がリアルプレゼンスしているとしています。霊が天のキリストに向かって上昇するのと天から下降するのと、同時に働いている。シンボルといっても、霊が充満しきったシンボルですから、普通にシンボルと言われる立場とは違うと思います。

    私見をいうと、リアルプレゼンスの中味が霊だけで体を除くのは、キリスト教の基本中の基本から外れ、グノーシス的になるのではという疑問があります。

    ルターもツウィングリもカルバンも、カトリックのリアルプレゼンス理解のそれぞれの側面を強調している感じだなという印象ですね。反カトリックをことさら意識し過ぎだと思います。
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■13166 / inTopicNo.32)  創世記の読み間違いについて
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/25(Tue) 19:27:11)
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■13172 / inTopicNo.33)  わたしがいのちのパン
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/25(Tue) 19:57:21)
    > 原罪から脱出するには、りんごでもザクロでも、対象を特定できる自然物じゃだめなんでしょう。パンやお米でも、パンやお米をターゲットにしたら、りんごと同じでしょ、本質的に?自然界で特定できるものじゃ何にしても偶像崇拝になる。パンの外観のまま、実体だけがキリストにならなければ。もちろん不可視不可食です。パクパク食べるのは外観としてのパン。

    現代のキリスト教は、聖書をそのまま字義どおりに杓子定規に捉えないことが多い。進化論などとの共存は珍しくない。しかし、カトリックは、わたしはパンであるについては、字義どおりに捉えることを絶対に譲らない。どうしてか。人間の穴の空いた渇望は、地上のいかなる対象によっても満たされないから。パンのようなもの、パン食べるようにじゃ、地上のまんまでしょ。パンの代わりに何をもってきても同じ。よって、喩え、シンボル、記号、イメージ、方便などであることの徹底的な否定。三位一体の交わりに直接合体する以外に、穴の空いた渇望が癒やされことはありえない。あなたがたに与えられないわたしがパンであるとは、おそらくそういうこと。
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■13178 / inTopicNo.34)  Re[15]: リアルプレゼンスの理解の違い
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/25(Tue) 20:24:59)
    knowing itselfさんこんばんは
    書き込みの添削ありがとうございます。
    なかなか、ヒアリングだけでは、英語力が無いので理解が乏しいので解説をお願いした次第です。

    > 私見をいうと、リアルプレゼンスの中味が霊だけで体を除くのは、キリスト教の基本中の基本から外れ、グノーシス的になるのではという疑問があります。
    >
    > ルターもツウィングリもカルバンも、カトリックのリアルプレゼンス理解のそれぞれの側面を強調している感じだなという印象ですね。反カトリックをことさら意識し過ぎだと思います。

    キリストの体が聖体において実際に存在するとするリアルプレゼンスについては、
    本当に分かりにくいのですが、いろいろ書き込みをして頂いて何となく分かりかけたかなと思っています。

    やはり、三位一体の神が、傷つき神への完全な捧げものの仔羊として屠られた
    それほどまでも、人間を愛されたことに感慨深いものを感じます。
    リアルプレゼンスは、やはり、このことを忘れてはありえないのではないかなと思っていますが如何でしょうか。
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■13181 / inTopicNo.35)  Re[13]: わたしがいのちのパン
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/25(Tue) 20:30:42)
    knowing itselfさんのもう一つの書き込みについて述べてみたいと思います。

    >>原罪から脱出するには、りんごでもザクロでも、対象を特定できる自然物じゃだめなんでしょう。パンやお米でも、パンやお米をターゲットにしたら、りんごと同じでしょ、本質的に?自然界で特定できるものじゃ何にしても偶像崇拝になる。パンの外観のまま、実体だけがキリストにならなければ。もちろん不可視不可食です。パクパク食べるのは外観としてのパン。
    >
    > 現代のキリスト教は、聖書をそのまま字義どおりに杓子定規に捉えないことが多い。進化論などとの共存は珍しくない。しかし、カトリックは、わたしはパンであるについては、字義どおりに捉えることを絶対に譲らない。どうしてか。人間の穴の空いた渇望は、地上のいかなる対象によっても満たされないから。パンのようなもの、パン食べるようにじゃ、地上のまんまでしょ。パンの代わりに何をもってきても同じ。よって、喩え、シンボル、記号、イメージ、方便などであることの徹底的な否定。三位一体の交わりに直接合体する以外に、穴の空いた渇望が癒やされことはありえない。あなたがたに与えられないわたしがパンであるとは、おそらくそういうこと。

    この「人間の穴の空いた渇望は、地上のいかなる対象によっても満たされないから。」という一文は、本当に素晴らしいと思います。

    まさに、その通りだと思います。
    このことに、感謝できるか、そうでないかが、生きることの幸と不幸との線引きをするポイントのように感じます。
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■13188 / inTopicNo.36)  Re[16]: 創世記の読み間違いについて
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/25(Tue) 21:01:16)
    創世記の動画ありがとうございます。

    科学の足かせのために神を信じられないとしたら、これほど不幸なことは無いのかなと思っていました。

    吉川浩満氏の『理不尽な進化 増補新版』(ちくま文庫)は、“絶滅”という観点から歴史を捉えかえすことで、ままならない生物の歴史、ひいては、哲学思想の観点から進化を捉え返して、人生の四苦八苦を考えさせられる名著でした。

    理不尽なことは、世の中に本当に満ち満ちているわけですから。

    このままだと、無常観に苛まれて息苦しい人生になりそうで、まかり間違うと朝に電車にふらふらと飛び込みたくなる衝動に駆られるのではないかなと思います。

    ですが、knowing itselfさんの「人間の穴の空いた渇望は、地上のいかなる対象によっても満たされないから。」という言葉のように、こうした虚しさを打ち破ってくれるのが、贖罪と恩寵による三位一体の神の愛なのではないのかなと思います。

    このことが、遠回りでも、一番幸福になれる道なのではないかなと思いました。
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