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■12613 / inTopicNo.73)  Re[23]: 「コーランを読む」井筒俊彦
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/13(Thu) 18:54:01)
    愛満開さん こんばんは

    仏壇が偶像崇拝になるとは、考えたこともないですね。仏壇が指し示す、仏教の真理や釈迦、菩薩、あるいは衆生に意識が向かうのであれば、宗教として何ら問題はないと思います。

    キリスト教における、絵画や彫刻などの視覚的な表象が、旧約聖書的な偶像崇拝にあたらないとされる理由もほぼ同じですね。その上、キリスト教の要諦中の要諦が、神が人間になったという受肉なので、感覚的な対象としての人間は愛を振り向けるべき最大の対象になる。隣人愛。
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■12614 / inTopicNo.74)  Re[24]: 「コーランを読む」井筒俊彦
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/13(Thu) 19:10:30)
    コーランは書物として凄いと思います。井筒俊彦は外国語の超のつく天才で、最盛期には40を超える外国語を操っていたと言われ、英語その他の現代ヨーロッパ語は簡単すぎて外国語とは感じないと豪語していたらしい。その井筒俊彦でもアラビア語には苦労したというほど、アラビア語は難しいと。アラビア語で朗誦するコーランは、圧倒的な世界を開示するそうです。

    その井筒俊彦のライフワークが、東洋哲学、東洋宗教の共時的な構造モデルの研究。大乗仏教や禅はもちろん、そこにコーランや聖書が地続きになる世界。
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■12615 / inTopicNo.75)  Re[24]: 「コーランを読む」井筒俊彦
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/13(Thu) 19:45:57)
    knowing itselfさんこんばんは
    なかなか子供だった自分には、仏壇のお釈迦様が、偶像崇拝だからダメなんだと
    外へ投げ捨ててしまったのですが、偶像の定義は難しいですね。
    それを簡単にコーランを読んでダメだと思って投げ捨ててしまうなんて・・・。

    > 仏壇が偶像崇拝になるとは、考えたこともないですね。仏壇が指し示す、仏教の真理や釈迦、菩薩、あるいは衆生に意識が向かうのであれば、宗教として何ら問題はないと思います。
    >
    > キリスト教における、絵画や彫刻などの視覚的な表象が、旧約聖書的な偶像崇拝にあたらないとされる理由もほぼ同じですね。その上、キリスト教の要諦中の要諦が、神が人間になったという受肉なので、感覚的な対象としての人間は愛を振り向けるべき最大の対象になる。隣人愛。

    モーセの十戒には、「あなたはいかなる像も作ってはならない。」と記されていますが、本当は、絵画も含まれるのですよね。
    それは、偶像を認めることによって、信仰の対象が本来の神ではなく人が作った像に移ってしまうからダメなのでしょう。

    なので、初期のキリスト教では絵画も禁止して記号で描いていたそうです。
    でも、当時のヨーロッパの識字率はとても低くて僧侶以外は、聖書など読む人は限られた人しかいなかったので、布教のために絵画で民衆に示さないといけない必要性から絵画や彫刻が許されてきたようです。

    それは、像そのものを信仰対象にしているのではなく、その背後にある神を崇拝しているのだから問題ないのだと、そういうロジックなのですね。







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■12616 / inTopicNo.76)  Re[25]: 「コーランを読む」井筒俊彦
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/13(Thu) 19:51:02)
    No12614に返信(knowing itselfさんの記事)
    > コーランは書物として凄いと思います。井筒俊彦は外国語の超のつく天才で、最盛期には40を超える外国語を操っていたと言われ、英語その他の現代ヨーロッパ語は簡単すぎて外国語とは感じないと豪語していたらしい。その井筒俊彦でもアラビア語には苦労したというほど、アラビア語は難しいと。アラビア語で朗誦するコーランは、圧倒的な世界を開示するそうです。
    >
    > その井筒俊彦のライフワークが、東洋哲学、東洋宗教の共時的な構造モデルの研究。大乗仏教や禅はもちろん、そこにコーランや聖書が地続きになる世界。

    へえーっ、お詳しいですね。
    でも、そうした井筒先生の論理を広げていったら、いったいどんな世界になったのでしょうか。

    八百万の神、あるいは、本地垂迹説のような神仏習合の世界観だったのでしょうか。何か、とても日本人を感じます。
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■12634 / inTopicNo.77)  Re[25]: 「コーランを読む」井筒俊彦
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/14(Fri) 19:00:11)
    愛満開さん こんばんは

    >>仏壇が偶像崇拝になるとは、考えたこともないですね。仏壇が指し示す、仏教の真理や釈迦、菩薩、あるいは衆生に意識が向かうのであれば、宗教として何ら問題はないと思います。
    >>
    >>キリスト教における、絵画や彫刻などの視覚的な表象が、旧約聖書的な偶像崇拝にあたらないとされる理由もほぼ同じですね。その上、キリスト教の要諦中の要諦が、神が人間になったという受肉なので、感覚的な対象としての人間は愛を振り向けるべき最大の対象になる。隣人愛。
    >
    > モーセの十戒には、「あなたはいかなる像も作ってはならない。」と記されていますが、本当は、絵画も含まれるのですよね。
    > それは、偶像を認めることによって、信仰の対象が本来の神ではなく人が作った像に移ってしまうからダメなのでしょう。
    >
    > なので、初期のキリスト教では絵画も禁止して記号で描いていたそうです。
    > でも、当時のヨーロッパの識字率はとても低くて僧侶以外は、聖書など読む人は限られた人しかいなかったので、布教のために絵画で民衆に示さないといけない必要性から絵画や彫刻が許されてきたようです。
    >
    > それは、像そのものを信仰対象にしているのではなく、その背後にある神を崇拝しているのだから問題ないのだと、そういうロジックなのですね。

    そうだと思います。ただ、偶像崇拝というのは人間にとって非常に根深い問題で、絵画などの芸術についての偶像崇拝なんて大したことではないと思います。例えばスマホ中毒などは、現代的な偶像崇拝の一つのあり方でしょう。スマホ中毒にあたるようなことを、人間は別のあり方でずっとやり続けてきたと思います。偶像崇拝があるところ、罪があり、罪があるところ偶像崇拝がある。人間はありとあらゆる対象に偶像崇拝的に関わってしまう生き物なのかと。

    仏教的には、貪瞋痴は偶像崇拝に相当すると考えます。

    井筒俊彦の東洋思想の共時的構造化については、岩波文庫の「意識と本質」がズバリそのことを論じていましたね。
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■12640 / inTopicNo.78)  すばらしいハンドルネーム
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/14(Fri) 19:44:46)
    愛満開というハンドルネームに感心しているんですが、偶像崇拝や罪は、愛満開でないときに生まれると思います。それ自身において、完全に満たされ、充満し、欠けがまったくなく、しかも一切閉じることなく完全に開かれている。こそこそが三位一体の神でしょう。罪や偶像崇拝は、三位一体の神から離れるとき必然的に生じる。逆にいうと、罪や偶像崇拝から解放されるには、三位一体の神に戻るしかないというのがキリスト教の世界観ですね。
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■12641 / inTopicNo.79)  Re[26]: 「コーランを読む」井筒俊彦
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/14(Fri) 21:11:15)
    knowing itselfさんこんばんは

    毎回、深遠な書き込みで自身の信仰が、より深まっていくのを覚えて感謝いたします。

    > >>仏壇が偶像崇拝になるとは、考えたこともないですね。仏壇が指し示す、仏教の真理や釈迦、菩薩、あるいは衆生に意識が向かうのであれば、宗教として何ら問題はないと思います。
    > >>
    > >>キリスト教における、絵画や彫刻などの視覚的な表象が、旧約聖書的な偶像崇拝にあたらないとされる理由もほぼ同じですね。その上、キリスト教の要諦中の要諦が、神が人間になったという受肉なので、感覚的な対象としての人間は愛を振り向けるべき最大の対象になる。隣人愛。
    >>
    >>モーセの十戒には、「あなたはいかなる像も作ってはならない。」と記されていますが、本当は、絵画も含まれるのですよね。
    >>それは、偶像を認めることによって、信仰の対象が本来の神ではなく人が作った像に移ってしまうからダメなのでしょう。
    >>
    >>なので、初期のキリスト教では絵画も禁止して記号で描いていたそうです。
    >>でも、当時のヨーロッパの識字率はとても低くて僧侶以外は、聖書など読む人は限られた人しかいなかったので、布教のために絵画で民衆に示さないといけない必要性から絵画や彫刻が許されてきたようです。
    >>
    >>それは、像そのものを信仰対象にしているのではなく、その背後にある神を崇拝しているのだから問題ないのだと、そういうロジックなのですね。
    >
    > そうだと思います。ただ、偶像崇拝というのは人間にとって非常に根深い問題で、絵画などの芸術についての偶像崇拝なんて大したことではないと思います。例えばスマホ中毒などは、現代的な偶像崇拝の一つのあり方でしょう。スマホ中毒にあたるようなことを、人間は別のあり方でずっとやり続けてきたと思います。偶像崇拝があるところ、罪があり、罪があるところ偶像崇拝がある。人間はありとあらゆる対象に偶像崇拝的に関わってしまう生き物なのかと。

    そうですね。スマホも気を付けたいと思います。
    神との交流を断って他のものに依存するのなら偶像になるのでしょうね。

    > 仏教的には、貪瞋痴は偶像崇拝に相当すると考えます。

    なんか分かる気がします。
    それが、実は、苦しみに繋がっているのに分からない。
    休みにコロナの自粛をせずに街中に飲みに出歩くと、ピノキオで遊び惚けて
    ロバに変えられ売り飛ばされる子供たちのような恐怖を感じます。

    > 井筒俊彦の東洋思想の共時的構造化については、岩波文庫の「意識と本質」がズバリそのことを論じていましたね。

    何か現象学的な視点で書かれていたような気がしますが、もう一度しっかり読んでみたいと思います。
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■12642 / inTopicNo.80)  Re[27]: すばらしいハンドルネーム
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/14(Fri) 21:14:52)
    No12640に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 愛満開というハンドルネームに感心しているんですが、偶像崇拝や罪は、愛満開でないときに生まれると思います。それ自身において、完全に満たされ、充満し、欠けがまったくなく、しかも一切閉じることなく完全に開かれている。こそこそが三位一体の神でしょう。罪や偶像崇拝は、三位一体の神から離れるとき必然的に生じる。逆にいうと、罪や偶像崇拝から解放されるには、三位一体の神に戻るしかないというのがキリスト教の世界観ですね。

    なるほど、体感的にも、そういえるかなと思います。
    自分自身では、三位一体の神に祈るたびに神の愛で心が温かく変えられる気がします。これからも、深く信仰を続けていきたいと思います。 

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■12683 / inTopicNo.81)  Re[27]: 「コーランを読む」井筒俊彦
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/15(Sat) 20:59:35)
    knowing itselfさんこんばんは
    いつも、篤い信仰の糧を戴き大変感謝申し上げます。

    >井筒俊彦の東洋思想の共時的構造化については、岩波文庫の「意識と本質」がズバリそのことを論じていましたね。

    今、再度「意識と本質」を再度読み終えましたが、やはり、凄い内容ですね。
    何か曖昧模糊としていた仏教と儒教とが、はっきりと表舞台に現れた感じで、さらにイスラームを介してあまり記述はなかったのですが改めてキリスト教の三位一体も考えさせられました。

    とにかく、これまでの自分の施策の成果がはっきり書かれている感じがして、とてもよかったですし、このまま読み進めたいと思います。

    特に、仏教は、華厳経の網目のような感じがして良かったし、朱子学の格物窮理も大変、参考になりました。

    出来れば、書き下ろしのものであれば尚さら良かったかなと思いました。




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■12685 / inTopicNo.82)  Re[28]: 「意識と本質」井筒俊彦
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/15(Sat) 21:13:52)
    それから、イスラーム哲学は、「本質」を二つの区別をしているというところがアリストテレスとプラトンとの対決のようで面白かったです。

    イデア的な本質を示す「マーヒーヤ」と、アリストテレス的な個別的本質の「これであること」を指す「フウィーヤ」の区別なのですが、当時のイスラームは、ある意味、カトリックよりも進んでいたのだと思いました。

    そして、私の好きな詩人リルケのことも「フウィーヤ」だと説明されていて、よくわかっていらっしゃると思いました。 


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■12731 / inTopicNo.83)  Re[29]: 「意識と本質」井筒俊彦
□投稿者/ 愛満開 -(2021/05/16(Sun) 14:11:46)
    knowing itselfさん、それにしても「意識と本質」は、とても良い本ですね。

    現象学のフッサールは、数学的世界を「発見」したガリレオは同時に生世界を「隠蔽」したとして普遍的本質(マーヒーヤ)が生む非現実でよそよそしさを解決するため現象学的還元を提唱し、日常的な生世界の個体的本質(フウィーヤ)の感覚的で直接的な探求をし、それが実存哲学へと発展していったのは承知のことです。

    この「意識と本質」の中では、個体的本質(フウィーヤ)と普遍的本質(マーヒーヤ)とが解説されていますが、特に日本的な直接的で情緒的なものとして本居宣長の具体的な個体から直接に与えられる「もののあわれ」が面白く、儒教の深層心理から発する「格物窮理」等の抽象的な普遍的本質(マーヒーヤ)と比較する箇所がありました。

    それは、個物各々の実在性に直接触れて「本質」を感知するもので意識による分節化される前の個物の実在的本質の把握であり、孔子やプラトンのイデアのように表層意識がとらえる普遍的本質(マーヒーヤ)とは別の概念でした。

    対する仏教哲学は、縁起や空などの本質を否定する見方ですが、個人的には、現象界は、本来、仏教の空論のように本質や実体のないもので、意識によるプラトンの「イデア」や非日常的な意識による普遍的本質(マーヒーヤ)肯定論の朱子学の「格物窮理」、ユングのような、より深層意識の中に「元型」として普遍的本質が実在するとする立場は、実は、有り得ないのではないのかなと思っています。

    つまり、三位一体の神は、人間の意識やこうした現象界からは超越した者であり、何れの普遍的本質(マーヒーヤ)とも異なるのかなと思いました。
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■12732 / inTopicNo.84)  井筒俊彦とキリスト教
□投稿者/ knowing itself -(2021/05/16(Sun) 14:11:55)
    愛満開さん レスありがとうございます。

    > >井筒俊彦の東洋思想の共時的構造化については、岩波文庫の「意識と本質」がズバリそのことを論じていましたね。
    >
    > 今、再度「意識と本質」を再度読み終えましたが、やはり、凄い内容ですね。
    > 何か曖昧模糊としていた仏教と儒教とが、はっきりと表舞台に現れた感じで、さらにイスラームを介してあまり記述はなかったのですが改めてキリスト教の三位一体も考えさせられました。

    井筒俊彦と言えばイスラムというイメージが流布しているようで、キリスト教についてはどちらかというと冷淡なのではという印象をもつ人が多いかもしれませんが、ちょっと違うようです。井筒俊彦の家に住み込んだほど、学問と生活両面で最も近い関係にあった言語学者の鈴木孝夫さんが紹介したエピソードがあります。以下引用します。

    【鈴木】井筒先生に、「先生、イスラームとキリスト教と、もし本当に自分が信徒になるとしたらどちらですか?」と言ったら、「それはキリスト教だね」と。・・・・カトリックが一番、自分の精神的な性に合うと。それは、「なぜイスラームに改宗しないか」という文脈で聞いたわけ。先生は、カトリックが一番合うと。カトリック教徒には、自分はならないけれども。強いて言えば、非常にカトリック的な世界が近いとね。(鈴木孝夫・松原秀一「井筒俊彦の本質直観」)

    引用終わり。

    井筒俊彦の場合、特定宗教に入信するより、東西に通底する普遍的な宗教性と開かれていく方が重要だったのかと思います。
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