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■11072
/ inTopicNo.37)
Re[11]: カント的〈現象〉
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□投稿者/ pipit
-(2021/02/16(Tue) 20:27:28)
> 以上は感性論での現象の記述について、ですが、次に論理学での現象についての記述を見ていこうと思っています。<
道中(?)、カントの真理観などにも、なんとか、触れていけたらと思っています。
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■11079
/ inTopicNo.38)
現象について山口裕之先生の本から
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□投稿者/ pipit
-(2021/02/17(Wed) 16:04:05)
『語源から哲学がわかる事典』山口裕之先生著、日本実業出版社、p215から引用します。
※ギリシア語は引用できていません。
『(略)
phenomenonの語源は、ギリシア語の「ファイノメノン:」である。
語源も何も、そのままの音写である。
これは、先に説明した「ファンタシアー:表象」(205ページ)と同じく、動詞「ファイノー:光を当てる、現れさせる」に由来する。
ファイノメノンはファイノーの中動・受動分詞なので「現れたもの」ということである。
英語ではappearanceと訳される。
(略)』
p215より引用
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■11080
/ inTopicNo.39)
Re[13]: カントにおける感性と悟性との関係
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2021/02/17(Wed) 18:55:07)
■11071
>実は悟性が感性にちょっかい出してた、<
っていうpipitさまの直観、わたしもそんな感じがしてるんだけど。
『行動の構造』で、メルポンはこんなことを言ってる。
【‥‥カントの「超越論的感性論」の意味は、だいたいこのようなものである(33)。だが、この批判主義的態度は暫定的なものでしかありえないはずであり、『純粋理性批判』の第二版がそれを示している。実際われわれは、「〔感性〕に与えられたもの」と「〔悟性によって〕思考されたもの」との関係とか、純粋感覚ともいうべき〈惰性的な「物」〉に対する意識の作用とか、また「触発」と認識の関連、感覚的意識と悟性的意識の連関などをどう考えたらよいであろうか。そのように反省してみると、カントにおいては、結局のところ、感覚的と言える意識は存在せず、「感性論」と「分析論」の分裂とか、所産的意識といったものは存在しないことになってくる(34)。…‥認識の〈質料〉は、意識の自己反省に際して、意識によって設けられる極限概念となり、もはや、認識を構成するものではなくなるのである。だが、そのときから、知覚は「悟性的認識」の一変種となり、またそれのもっている積極的な面から言えば〈判断〉となるわけである。】
(33)原注:「超越論的感性論」は、〈経験内容〉ばかりではなく、ついには〈空間形式〉それ自身をさえ、人間の構成した〈偶然的なもの〉にもとづけているほどである。
(34)原注:よく知られているように、『純粋理性批判』の第二版は、〈感性〉から「形式的直観」、つまり「超越論的感性論」の言う「われわれの触発される仕方」を奪って、それを〈悟性〉に与え、また〈超越論的想像力〉の三段の綜合――を放棄して、意識のすべての水準‐−それは抽象的分析によってのみ区別される――に「我思う」が現前してるということを、第一版よりもいっそう明らかにしようとしているのである。
これはカントのをメルが見て、っていうことになるんだけど、じっさいカントの『純粋理性批判』第二版ではどうなってるのかな〜?って。
それと同書の訳注に、カントの有名な言葉として、
〔直観に与えれれる多様な表象が総合されて、〈一つの経験〉ないし〈一つの認識〉となるためには、それらの表象が「我思う」に関係づけられていなければないない。〕
って書いてあるんだけど、このへんもどうなのかな?って。
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■11081
/ inTopicNo.40)
Re[14]: phenomenon,現象
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2021/02/17(Wed) 19:07:18)
■11079、pipitさま、ファイノメノン、ありがと。
現象学における「phenomenon(現象)」については、ハイデガーの『存在と時間』のなかで書いてある。かなり長いんで、休みの日にそれタイピングしてWhatのところで見ることにするね。
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■11090
/ inTopicNo.41)
悪魔ちゃんへ
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□投稿者/ pipit
-(2021/02/17(Wed) 21:39:08)
こんばんは。
カント哲学は、本当に多解釈なんだよ。だから、私は実際に自分でカントの文章を理解したいと思って、、、苦戦してる(^^;;
第二版書き換え問題も、カントの意図は変化してない、と、解釈している解説も、私の理解ではたくさんあると思っている(解説文章もわたしには難しいよ(T-T))
感性と悟性なんだけど、カント自身はどちらも大事、どちらも優劣つけれない、みたいなこと言ってたよ。
『この二つの能力の特性を比較してみても、どちらが勝ってるとも言えない。感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは[対象を]思考することができない。』
B76あたり 中山元先生訳『純粋理性批判2』p19より引用
ここから(も)私見書くね。
カントは感性と悟性という二つの幹は、わたしたちに知られていない一つの根から出てる、って言ってたよね。
『この二つの〈幹〉とは感性と知性[=悟性]であり、これらはおそらくまだわたしたちには知られていない一つの共通の〈根〉から生まれてきたものである。感性によって、わたしたちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。』
B29あたり 中山元先生訳『純粋理性批判1』p63より引用
わたし、この〈根〉が、生きるためという気持ちなんじゃないかと今は思ってるん。
だから、感性も悟性も、機能の面でどちらかが統制として優先的に働いたとしても、価値としては等価、ってかんじになんとなく捉えてるん。
私は、顕在意識や、エピソード記憶を作る機能として、『純粋理性批判』を見てるところがあるん。
生に有利な認識を作るために備わっている人間の能力の分析、そんなかんじにみてるところもあるん。
また私の捉え方は変わっていくかもやけどね。
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■11091
/ inTopicNo.42)
Re[16]: 悪魔ちゃんへ
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□投稿者/ pipit
-(2021/02/17(Wed) 21:42:18)
No11090
>わたし、この〈根〉が、生きるためという気持ちなんじゃないかと今は思ってるん。<
カント自身は、〈根〉がなんなのかは明確に記述してないんだと思う。
だから、いろんな人がいろんなこと言ってそう。
、、、カント先生のせいやね!!(カント先生の文章〜〜〜
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■11093
/ inTopicNo.43)
カントの友人・グリーンさん
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□投稿者/ pipit
-(2021/02/18(Thu) 14:59:09)
御子柴善之先生の『カント純粋理性批判』のコラムに、カントの友人・グリーンさんのことが載っていました。
カント先生は時間正確な生活をしたと言われてますが、
それ以上に時間に厳密だったのが、グリーンさんだったという記述があるそうです。
御子柴善之先生のコラムより引用
『しかし、グリーンの時間正確さはこの程度ではありません。
ある晩、カントはグリーンと翌日の朝八時に馬車で遠乗りに出かける約束をしました。
当日、どうしたことかカントが二分ほど遅れてしまったようです。
それでも、グリーンの乗った馬車が見えるとこまで駆け付けました。
グリーンは、カントが慌ててやって来る様子が見えているにもかかわらず馬車を出発させてしまい、止まることがなかったそうです。
カントは、こういう人と生涯の親友となったのです。』
p363より引用
、、、、、、、マンガやね (#^.^#)
引用返信
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■11096
/ inTopicNo.44)
超越論的論理学の箇所を読むために
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□投稿者/ pipit
-(2021/02/18(Thu) 17:42:33)
超越論的論理学、の箇所を読んでいこうと思うのですが、、、
そうなると『超越論的』の意味をザクッとでも知らないと、、、(あ〜ぁ、避けれなかったかぁ、、、)
カント自身の初版での定義(の一つ)
(カントの文章)中山元先生訳
『対象そのものを認識するのではなく、対象一般についてのわたしたちのアプリオリな諸概念を認識しようとする認識を、超越論的な認識と呼ぶ』
『純粋理性批判1』p251.訳注より引用
第二版での定義
(カントの文章)中山元先生訳
『わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ。』
同本p57より引用
・・・・『超越論的』の語句解説は、諸先生方によってさまざまだと思いますが、
わたしに、意味としてわかりやすかったのは、山口裕之先生の解説です。
(ただ、いろいろな観点からさまざまな意見が出るかもですが)
(山口裕之先生の解説文)
『カントは、中世哲学の「超越的:transcendent」という言葉に対して、自らの哲学を「超越論的:transcendental」であると主張した。
カントが言うには、「超越的」とは人間が経験できる範囲を超えていることである。従来の形而上学が考察してきた「神」や「人間の死後の魂の存続」や「人間の自由」などがそれである。
経験の範囲を超えているので、それらのことがらについての説が正しいとも間違っているとも証明することはできない。
対して、「超越論的」とは、経験を可能にしている前提条件(アプリオリなもの)についての探究のことである。
経験の前提条件は経験の中に含まれず、その意味では「経験を超越しているもの」ではあるが、こちらの方はわれわれの感性(感覚能力)や悟性(理解能力)や理性(推論能力)のあり方を分析することによって探究できるし、それを自分がやる、としたのである。』
『語源から哲学がわかる事典』山口裕之先生著、p112.113より引用
さて、ということで、超越論的論理学、、、、、入れるかなあ〜 ? (^◇^;)
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■11097
/ inTopicNo.45)
Re[19]: 感性と知性
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2021/02/18(Thu) 17:54:23)
■11090の、カントの、
『この二つの能力の特性を比較してみても、どちらが勝ってるとも言えない。感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは[対象を]思考することができない。』
『この二つの〈幹〉とは感性と知性[=悟性]であり、これらはおそらくまだわたしたちには知られていない一つの共通の〈根〉から生まれてきたものである。感性によって、わたしたちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。』
っていうのわかりやすいです。
わたしのばあい現象学からだけど、わたしも意識(精神)を大きく2つに分節して、〈感性〉と〈知性〉ってして見てます。
カントのばあいの「二つの能力」って“何の”?
”認識“における?それとも”意識“における?
わたしのばあい後者の方。
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■11098
/ inTopicNo.46)
Re[19]: 超越論的論理学の箇所を読むために
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□投稿者/ pipit
-(2021/02/18(Thu) 18:01:19)
超越論的ではない、【一般的な論理学】について述べているカントの文章を引用します。
(カントの文章)中山元先生訳
『すでに指摘したように一般論理学は、認識のすべての内容を切り捨て、認識と客観との関係をすべて無視しながら、認識相互の関係の論理的な形式、すなわち思考一般の形式を考察するのである。(略)一般論理学がとりあつかうのは、心のうちに思い描かれたさまざまな像であり、この像が最初からアプリオリにわたしたちに与えられたものなのかどうか、それともたんに経験的に与えられたものかどうかは問題としないのである。そして一般論理学がこれらの像を考察する際に適用するのは、知性がこうした像をたがいに関係させるときに利用する法則だけである。だから一般論理学は、心のうちで思い描かれた像がどのような源泉から生まれたかは問題とせずに、こうした像に適用されうる知性の形式だけを考察するのである。』
B80あたり 『純粋理性批判2』p25.26より引用
以上が、一般論理学のカントの捉え方ですね。
御子柴善之先生の解説を引用します。
『一般論理学は形式論理学と呼ばれることもあるように、一切の内容を捨象します。したがって、なんらかの客観にかかわることはありません。論理学がSやPといった記号を用いて展開できるのはそのためです。』
『カント純粋理性批判』p112より引用
※※※※※※※※
超越論的論理学は、上のような一般論理学とはどこが違うと言うのでしょうか?
また後ほど、カントの言を、、、読んでみます!
引用返信
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■11099
/ inTopicNo.47)
悪魔ちゃんへ
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□投稿者/ pipit
-(2021/02/18(Thu) 18:06:03)
こんばんは〜
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No11097
に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
> ■11090の、カントの、
> 『この二つの能力の特性を比較してみても、どちらが勝ってるとも言えない。感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは[対象を]思考することができない。』
> 『この二つの〈幹〉とは感性と知性[=悟性]であり、これらはおそらくまだわたしたちには知られていない一つの共通の〈根〉から生まれてきたものである。感性によって、わたしたちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。』
> っていうのわかりやすいです。
> わたしのばあい現象学からだけど、わたしも意識(精神)を大きく2つに分節して、〈感性〉と〈知性〉ってして見てます。
>
> カントのばあいの「二つの能力」って“何の”?
> ”認識“における?それとも”意識“における?
> わたしのばあい後者の方。<
多分、認識なんじゃないかな?哲学難しいからわからんけど(ー ー;)
引用した箇所の前文が、
『人間の認識には二つの〈幹〉があることを指摘しておくだけで十分であろう。』
中山元先生訳
やったよ!
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■11100
/ inTopicNo.48)
Re[21]: 悪魔ちゃんへ
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□投稿者/ pipit
-(2021/02/18(Thu) 18:10:41)
あ、欠落してたわ、ごめん。
前文は、
『導入のためのこの序論としての役割においては、人間の認識には二つの〈幹〉があることを指摘しておくだけで十分であろう。』
やった。m(_ _)m
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