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■11102 / inTopicNo.49)  Re[22]: pipitさまへ
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/18(Thu) 19:20:12)
    『人間の認識には二つの〈幹〉があることを指摘しておくだけで十分であろう。』
    うん。そして「一つの」。

    No10498で紹介してくれた中山元訳『純粋理性批判1』の
    『まだわたしたちには知られれてない一つの共通の〈根〉から生まれてきたものである。』、カントはい〈いまだ〉で終わったのかしら?このことについて、カントは言ってない、っていうことから、いまだわたしたちに知られてないそういうものが存在するんだ、っていうことで物語が終わるんだったら、うん、そうね、カントが言うんだから、で、問いは終わりにしてしまえば、もう”みずから”考える必要がなくなるのかも?

    Whatとのところで、「一つの」について、
    ニーチェの「善悪の彼岸11」を書き写してみるね。ぎりぎり字数なんで、抜粋だけになると思う。

    pipitさまって、フィロソフィアしてる〜、ってわたし見てるから。
    でもいいよ。気がむいたらで。だってニーチェは何も言ってないから。





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■11104 / inTopicNo.50)  Re[23]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/18(Thu) 19:33:51)
    ■11102、あれ?10498じゃなかった?No間違えちゃったみたい。

    あらてめて、
    『導入のためのこの序論としての役割におおいては、人間の認識には二つの〈幹〉があることを指摘しておくだけで十分であろう。この二つの〈幹〉とは感性と知性[=悟性]であり、これらはおそらく、まだわたしたちには知られていない一つの共通の〈根〉から生まれてきたものである。感性によって、わたしたちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。』中山元先生訳『純粋理性批判1p63

    っていうところね。
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■11106 / inTopicNo.51)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/02/18(Thu) 20:53:17)
    2021/02/18(Thu) 22:05:59 編集(投稿者)
    2021/02/18(Thu) 21:04:58 編集(投稿者)

    私見書きます。

    人間にとっての先天的総合判断がいかにして可能か?

    可能としている、ある能力が、人間の内にあるといえる権利があるのだ、と、カントは主張した。(超越論的感性論、超越論的論理学、などかな?)

    その主張は、どこにつながるか?

    それは、形而上学は、感性を超えた範囲については、万人共通の『知識』となり得ない、につながるとわたしは思っています。(なぜなら、人間がアプリオリに総合判断する能力は、カント的いかにして?の解明では、感性による現前の素材の提供が必ず必要とされるから。総合は、感性と悟性が結びついての、総合・判断となるから。違うかな?)

    pipitの表現で言えば、感性を超えた範囲の『知識』を、客観的共通知識として、自分にも他人にも強制することはできない、ということ。

    カントの狙いは、そこにあるかと思っています。

    全然違うかもやけどね(^ ^)

    ちゃんと、私に、わかるとき、今世のうちにくるかな、無理かな(^^;;
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■11107 / inTopicNo.52)  Re[25]: 悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/02/18(Thu) 20:59:48)
    > pipitの表現で言えば、感性を超えた範囲の『知識』を、客観的共通知識として、自分にも他人にも強制することはできない、ということ。<

    同時に、信仰の自由も確保することができる。

    わたしは、カント哲学について考えているとき、

    自分という世界の立法者は、自分である、というフレーズが(カント哲学に当てはまるか当てはまらないかは私にわからないけど)、浮かんできます。

    理解してへんかもやけどね!
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■11108 / inTopicNo.53)  Re[26]: 悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/02/18(Thu) 21:01:17)
    No11107に返信(pipitさんの記事)
    >>pipitの表現で言えば、感性を超えた範囲の『知識』を、客観的共通知識として、自分にも他人にも強制することはできない、ということ。<
    >
    > 同時に、信仰の自由も確保することができる。
    >

    ない、という共通知識もうちたてられないからね(^_-)
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■11118 / inTopicNo.54)  日記
□投稿者/ pipit -(2021/02/20(Sat) 08:00:08)
    いつもながら、『超越論的論理学』の箇所も、理解するのに苦労してます(-_-;)

    その中で、個人的に響いた文章は、

    『だから対象の概念を感覚的なものにすること、すなわち概念に直観の対象を与えることが必要であると同時に、直観を理解できるものにすること、すなわち直観の対象を概念のもとに配置することもまた必要なのである。』
    B76あたり、『純粋理性批判2』中山元先生訳、p19より引用

    です。
    本文では、純粋な認識論として記述されたものでしょうけど、
    私の心には、本文から少し離れて、実践論用の文章としてもいいなあと思いました。

    思ったことを、形にすることを目指す、ですね(^ ^)、、、あ、前半部分だけやわ〜
    後半は、、、観察、とか?! ちょっと苦しいかな(^^;;

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■11120 / inTopicNo.55)  Re[26]: 悪魔ちゃんへ
□投稿者/ knowing itself -(2021/02/20(Sat) 08:51:29)
    おはようございます。横レス失礼します。

    No11107に返信(pipitさんの記事)

    > わたしは、カント哲学について考えているとき、
    >
    > 自分という世界の立法者は、自分である、というフレーズが(カント哲学に当てはまるか当てはまらないかは私にわからないけど)、浮かんできます。

    当てはまると思います。カント哲学の屋台骨かもしれません。自由意志のもつ意味は、カントでは非常に大きいということでもあるでしょう。
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■11121 / inTopicNo.56)  超越論的論理学!知性の働き
□投稿者/ pipit -(2021/02/20(Sat) 09:06:42)
    まずは、一般論理学と超越論的論理学の区別を、自分の中ではっきりと理解したいのですが、そもそも、論理学って?で、カントの定義としては、
    『論理学は知性一般の規則の学である。』中山先生訳『純粋理性批判2』p20より引用
    とありました。

    ではでは、カントにとっての知性って、なにもの?から読書をはじめてみます。

    (カントの文章)中山元先生訳。中山先生による補注[]は省略してみます。

    B93あたり。『純粋理性批判2』p50〜
    『すべての直観は、感覚的なものであって、触発によって生まれるが、
    概念は機能(フンクツィオン)によって生まれる。
    わたしがこの〈機能〉という語で意味しているものは、心に思い描かれたさまざまな像を一つの共通の像のもとに秩序づける行為の統一的な作用のことである。
    だから、感覚的な直観作用が印象の受容性に根拠づけられているように、概念の営みは、思考の自発性に根拠づけられているのである。
    知性はこれらの概念を、ただ判断するために使用することができる。
    ところで直観を除くと、心に思い描かれたいかなる像も、対象に直接かかわるものではない。
    これと同じように概念もまた、対象と直接にかかわることはない。
    概念が直接に関係するのは、対象についての像であり、これは対象とは異なるものである。
    だから判断とは、対象についての間接的な認識であり、対象の像についての像なのである。
    (略)
    このようにすべての判断は、わたしたちのさまざまな像を統一する働きをする。
    まず対象と直接にかかわる像が存在し、その上位に、その像とそのほかのさまざまな像を含む高次の像があり、これが対象を認識するために利用される。この高次の像において、ほかのさまざまな可能的な認識が、一つにまとめられる。
     ところでわたしたちは、知性のすべての振舞いを結局のところは判断とみなすことができる。
    だから知性とはそもそも判断を下す能力と考えることができる。
    すでに述べたように知性とは、思考する能力だからである。
    思考とは、概念によって認識する行為である。
    (略)』
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■11122 / inTopicNo.57)  knowing itselfさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/02/20(Sat) 09:22:35)
    knowing itselfさん、おはようございます!
    書き込みとても嬉しいです、ありがとうございます(o^^o)♪♪

    No11120に返信(knowing itselfさんの記事)
    > おはようございます。横レス失礼します。
    >
    > ■No11107に返信(pipitさんの記事)
    >
    >>わたしは、カント哲学について考えているとき、
    >>
    >>自分という世界の立法者は、自分である、というフレーズが(カント哲学に当てはまるか当てはまらないかは私にわからないけど)、浮かんできます。
    >
    > 当てはまると思います。カント哲学の屋台骨かもしれません。自由意志のもつ意味は、カントでは非常に大きいということでもあるでしょう。<

    全然、実践理性批判までたどり着けないのですが、
    それでも、チラチラ目にする『純粋理性批判』以外の文章で、そのような印象を受ける文章を目にしたりします。

    ですが、、、ちょっとカントの文章が、、、やっぱり表現がお下手なのですかねぇ(^◇^;)

    ご意見、嬉しいです。ありがとうございます(^ ^)




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■11154 / inTopicNo.58)  『純粋理性批判』の構成
□投稿者/ pipit -(2021/02/22(Mon) 18:05:27)
    今朝思い出したのですが、

    そういえば、カントはアンチノミー(二律背反)論を最初に持ってくる構想も持ってたそうなんですよ。

    解説本を読み直す前に、
    ざくっとpipitの勝手なイメージで書きますね。


    @まず、理性のエラー現場(二律背反)を現行犯逮捕する。

    A次に、なぜ、理性がエラーに陥いったのか捜査する。

    B捜査の結果、超越論的真理を外していたからという説を主張する。

    こういう構想の『純粋理性批判』もあり得たのかなー。

    W石川先生(文康先生、輝吉先生)の本にそれぞれ、別構想があったと載ってた気がするけど、また読めるときに探してみます。
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■11165 / inTopicNo.59)  Re[29]: 『純粋理性批判』の構成
□投稿者/ pipit -(2021/02/23(Tue) 16:37:25)
    No11154に返信(pipitさんの記事)
    > 今朝思い出したのですが、
    >
    > そういえば、カントはアンチノミー(二律背反)論を最初に持ってくる構想も持ってたそうなんですよ。
    >
    > 解説本を読み直す前に、
    > ざくっとpipitの勝手なイメージで書きますね。
    >
    >
    > @まず、理性のエラー現場(二律背反)を現行犯逮捕する。
    >
    > A次に、なぜ、理性がエラーに陥いったのか捜査する。
    >
    > B捜査の結果、超越論的真理を外していたからという説を主張する。
    >
    > こういう構想の『純粋理性批判』もあり得たのかなー。

    休みちゃうかった、つかれたー

    疲れた頭で思うこと書きます。

    二律背反に陥ってる理性が、ある論理道具を使っているぞ

    ふむふむ、その道具、、、感性によって現れたものに使うためのもんなんやで。

    なるほど、でも、これとはまた別の局面で

    理念(理性が作ったもの)の使い道もある、ということになるのかな




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■11166 / inTopicNo.60)  Re[30]: 『純粋理性批判』の構成
□投稿者/ pipit -(2021/02/23(Tue) 16:42:34)
    疲れたので、言いますヨ

    ややこしすぎやないですか 
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