□投稿者/ pipit -(2021/02/17(Wed) 21:39:08)
| こんばんは。 カント哲学は、本当に多解釈なんだよ。だから、私は実際に自分でカントの文章を理解したいと思って、、、苦戦してる(^^;;
第二版書き換え問題も、カントの意図は変化してない、と、解釈している解説も、私の理解ではたくさんあると思っている(解説文章もわたしには難しいよ(T-T))
感性と悟性なんだけど、カント自身はどちらも大事、どちらも優劣つけれない、みたいなこと言ってたよ。
『この二つの能力の特性を比較してみても、どちらが勝ってるとも言えない。感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは[対象を]思考することができない。』 B76あたり 中山元先生訳『純粋理性批判2』p19より引用
ここから(も)私見書くね。
カントは感性と悟性という二つの幹は、わたしたちに知られていない一つの根から出てる、って言ってたよね。
『この二つの〈幹〉とは感性と知性[=悟性]であり、これらはおそらくまだわたしたちには知られていない一つの共通の〈根〉から生まれてきたものである。感性によって、わたしたちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。』 B29あたり 中山元先生訳『純粋理性批判1』p63より引用
わたし、この〈根〉が、生きるためという気持ちなんじゃないかと今は思ってるん。
だから、感性も悟性も、機能の面でどちらかが統制として優先的に働いたとしても、価値としては等価、ってかんじになんとなく捉えてるん。
私は、顕在意識や、エピソード記憶を作る機能として、『純粋理性批判』を見てるところがあるん。
生に有利な認識を作るために備わっている人間の能力の分析、そんなかんじにみてるところもあるん。
また私の捉え方は変わっていくかもやけどね。
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