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■12526 / inTopicNo.97)  うましかさんへ
  
□投稿者/ pipit -(2021/05/09(Sun) 15:02:28)
    怠け心で、『カント事典』を開いてなかったのですが、
    【演繹】の項目を開いたら、
    「形而上学的演繹」と「超越論的演繹」を対比させて記述されてる箇所がありました。
    抜粋引用します。

    『カント事典』弘文堂、p39〜『演繹』より抜粋引用。執筆・石川文康先生、湯浅正彦先生。
    『(略)
    カント哲学においては、総じて、経験に由来するのではないアプリオリな概念やアプリオリな総合判断が普遍的かつ必然的に経験の対象へと関連すること(普遍的かつ必然的な客観的妥当性)を証明するような議論を「超越論的演繹」と言い、
    そうした概念や判断がまさにアプリオリな起源をもち現に所有されていることを明示する議論を「形而上学的演繹」と言う。
    (略)
    要するにカントは、(1)最高原理のアプリオリな起源と所有の明示、ならびに、
    (2)その原理としての機能(客観的妥当性)の確立を目指して哲学的な議論を展開したのであり、
    (1)が形而上学的演繹、
    (2)が超越論的演繹である。
    (略)
    第一に、純粋悟性概念をアプリオリな概念として提示する手続きが形而上学的演繹と呼ばれる。具体的には、悟性が判断を成立させる論理的な機能と、純粋悟性概念であるカテゴリーとの一致という原理にもとづいて、諸カテゴリーが体系的かつ完全に導出される。
    古来カテゴリーとは、存在者の最も基本的な存在構造を示す存在論的根本概念であり、『純粋理性批判』は一面において形而上学、とりわけその基礎理論としての存在論の再構築の企てであってみれば、純粋悟性概念の導出が「形而上学的」演繹と呼ばれるのも当然であろう。
    第二に、事実問題と権利問題との区別にもとづき、カテゴリーの客観的妥当性を証明する議論が超越論的演繹と呼ばれる。
    (略)』
    引用終了。

    うましかさんの投稿がきっかけで、目を通しました。
    感謝です(^人^)
引用返信/返信 削除キー/
■12531 / inTopicNo.98)  pipitさんへ >カント事典!
□投稿者/ うましか -(2021/05/09(Sun) 16:02:15)
    こんにちは。pipitさん。
    おじゃまします。

    やあ『カント事典』、でましたね!
    私ももっております。

    *******

    ご紹介の「演繹」の欄は、pipitさんから最初に問いのご提示があったさいに調べて読みましたが、まったく歯が立たずわかりませんでした。

    専門家がカントの言葉をつかって再構成している解説を読んでも、カントのつかう言葉(術語?)の理解があいまいな私にわからないのは当然なのかもしれません。

    しかたがないのでときに読めもしない原文にたちかえり、訳文や解説ではわからない何かを自分の理解のためのきっかけにしようともがいております。


    今後もそんな感じで『純粋理性批判』にチャレンジします!



    しかしこの状況、底なし沼を予感させますね〜(;゚Д゚)
    いや、私はすでにはまっているのか。。。





    どっちでもいいか!

    それでは〜


引用返信/返信 削除キー/
■12542 / inTopicNo.99)  うましかさんへ☆カント事典!
□投稿者/ pipit -(2021/05/09(Sun) 17:31:30)
    2021/05/09(Sun) 17:48:49 編集(投稿者)

    No12531に返信(うましかさんの記事)
    > こんにちは。pipitさん。
    > おじゃまします。
    >
    > やあ『カント事典』、でましたね!
    > 私ももっております。
    >
    > *******
    >
    > ご紹介の「演繹」の欄は、pipitさんから最初に問いのご提示があったさいに調べて読みましたが、まったく歯が立たずわかりませんでした。
    >
    > 専門家がカントの言葉をつかって再構成している解説を読んでも、カントのつかう言葉(術語?)の理解があいまいな私にわからないのは当然なのかもしれません。<

    お持ちでしたか!
    そうですね、わたしも、解説などが全然理解できないことが多々あります(^^;


    > しかたがないのでときに読めもしない原文にたちかえり、訳文や解説ではわからない何かを自分の理解のためのきっかけにしようともがいております。<

    はい!よかったら一緒に考えさせてくださいね(^o^)/

    > 今後もそんな感じで『純粋理性批判』にチャレンジします!
    >
    >
    >
    > しかしこの状況、底なし沼を予感させますね〜(;゚Д゚)
    > いや、私はすでにはまっているのか。。。
    >
    >
    >
    >
    >
    > どっちでもいいか!
    >
    > それでは〜<

    わたし自身には、うましかさんとカント哲学について話せてとても嬉しいのですが、うましかさん本人にとってカント沼にはまることの吉凶を考えてしまいます(~_~;)

    迷宮みたいな作りな気がして、、

    何が善いのか、無明のわたしにはわからないのですが、

    うましかさんにとって、善くなりますように !! 

    そして、、、わたしにも善くありますように
    やっぱり、カントの考えてたこと、知りたくなるなぁ
引用返信/返信 削除キー/
■12543 / inTopicNo.100)  (削除)
□投稿者/ -(2021/05/09(Sun) 17:34:54)
    この記事は(投稿者)削除されました
引用返信/返信 削除キー/
■12544 / inTopicNo.101)  pipitさんへ
□投稿者/ うましか -(2021/05/09(Sun) 17:44:41)
    こんばんは。pipitさん。
    おじゃまします。

    私のつたない考察にコメントいただきありがとうございます。
    なにぶん暗中模索?、五里霧中?のため「わかりません」という返答ばかりとなりますがおゆるしください。

    *******

    >>上の引用について切り口をこう考えてみました。
    >>◇ 「形而上学的〜」と「超越論的〜」のカントの用法の対比と両者の関連
    >>◇それらにおいて、各々なにが行われた(行われていた)か
    >>
    >>まず引用文を整頓。
    >>@ 形而上学的な根拠づけ
    >>思考の一般的な論理的な機能とカテゴリーの機能が完全に一致することで、
    >>カテゴリー一般のアプリオリな起源が明示された<


    > これ、アプリオリな起源、というのは、
    > 知性そのものが起源、ということかな?
    > と、わたしは今のところ思いました。
    > 違うかなぁ。

    なるほど、そうかもしれませんが、私にはよくわかりません。

    私が気になるのは、上の「切り口」であげたように「形而上学的〜」としていることの意味についてです。

    「超越論的〜」も同様です。

    >>A 超越論的な根拠づけ
    >>カテゴリーが直観の対象一般についてのアプリオリな認識をもたらす可能性が明示された<
    >
    >
    > 『直観の』とあるじゃないですか、そこがミソになるのかなぁ、という感じがしてます。
    >
    > もともと、演繹は、直観の対象に人間が対応・呼応させる概念の正当性についての主張だと、今のところ思っているのですが、
    >
    > 直観の対象一般についてのアプリオリな認識をもたらす可能性、とは、
    > 直観が感性的には時間・空間の形式上に現れると表現できるように、
    > 直観として私たちが認識するとき、もう、カテゴリーの形式下に直観が従っている可能性についてを述べてるのかな、と、思ってます。
    > ここらへんは、読んでいかなくては、と、思ってますが(><)
    >
    > 『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p134 では、カントの小タイトルの訳として、
    > 『第ニ〇項 すべての感覚的な直観はカテゴリーにしたがう。カテゴリーは、多様なものそのものが意識のうちにまとまることができるための唯一の条件である』
    > とありますね。
    >
    > 直観を、対象としての直観と知るには、カテゴリーがアプリオリに既に仕組まれている、
    > そんなイメージを持っています。
    >
    > そういうことを述べたのが
    >
    >>A 超越論的な根拠づけ
    >>カテゴリーが直観の対象一般についてのアプリオリな認識をもたらす可能性が明示された<
    >
    > と、うましかさんがまとめてくださった、超越論的演繹ではないかと。
    > もちろん、勘違いしまくってるかもです。m(_ _)m


    いえいえ、ありがとうございます!

    私としては、「形而上学的演繹」という言葉の出現が唐突なのと、おそらくここでしか出てこないことの不思議さが気になっています。

    「形而上学的演繹」とよばれる箇所とは何項なのだろうか?それらの箇所の記述が「形而上学的〜」と称される理由とはなんだろうか?


    超越論的演繹については経験的演繹との区別で説明されていますが、そちらもまだよくわかりません。途上です。

    >>>だからわたしは、これらの概念が対象とどのようにアプリオリにかかわるのかを説明する作業を、超越論的な根拠づけと呼んで、経験的な根拠づけと区別することにする。<
    >>→カント中山元訳2、p.93

    >>この引用文を理解するためには、まずその前にのべられた「根拠づけ」(演繹)の定義をおさえておく必要がありますね。法学書において権限と越権について論ずるさい“何が合法的に認められているか“という「権利問題」と“事実はどうであるか“という「事実問題」について区別しそれぞれ証明をもとめるが、権利問題について権限や権利要求を証明するdartunことを「根拠づけ」とよび、カントの「根拠づけ」は、これに由来するようです。(中山元訳2、p.91-92参照)
    >>
    >>*******<
    >
    > なんとなくですが、dartunのことを、証明書、みたいなイメージで考えたらどうかな?と、自分では思いました。


    私としては、中山が同じ「明示」と訳したところの区別に注目することで、「形而上学的演繹」と「超越論的演繹」の関連性(あるいは区別)を知る手がかりをえられないかな〜とおもったわけですが、ハズレかもしれません(´;ω;`)ウゥゥ



    >うましかさん、おつかれさま、ありがとうです!!


    こちらこそ、おつかれさまです!

    ありがとうございました! (^^)/
引用返信/返信 削除キー/

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