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■No37310に返信(悪魔ちゃんさんの記事) > 【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の中の第50,51,52節からのわたしの抜粋が書けたんだけど、いまのわたしが想定しているのを先に書いとくと、 > No37289の訳注(38)にある、 > > 〔「対になること」によって初めて、「私の」と「他者の」が言わば同時に生成してくる〕 > > っていう見方ね。 > > ってすると〜、 > 何と何が対(つい)になるのかしら? > これが今回のわたしの物語りのテーマになるのかな? >
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■37465
/ inTopicNo.1)
Re[57]: つれづれなるままに 14
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■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/09(Sun) 15:50:48)
No37456
を〈af〉(悪魔ちゃんのファンタジー)ってするね。
〈af〉のようにわたしに見られたことから、そこはかとなく書きつくって見るよ。
〈af〉-Cのようにして見たことから、
「対(ペア)化」が行われる、ってして見ることは、〈(他者の)体〉を「対象として見る」んじゃなくて、
No15252
にあるような、
〔非対象化的・非主題的な次元で捉える〕みたいなことなのかも、とも見てる。
〈(他者の)体+(私の)自〉(p+ap)の〈(私の)自〉(ap)っていうのは“想像によるもの”だから、
(p+ap)は、〈(私の)自+体〉の「変様態」とも見れる。
これ、
No37392
の、
『他者は、現象学的には自己《自と体》の「変様」として現れるのだ』から来てる。この《自と体》、今思うと〈(私の)自と体〉ってして見てもよかったかな、って。だから「(他者)は、〈(私の)自+体〉の変様として、〈(私の)自〉に現れる」。
こう見たとき、
No37392
に、
『私のモナドにおいて別のモナドが構成される』ってあって、わたし『モナド』を〈自〉ってして見たんだけど、
付帯された〈(私の)自〉(ap)は想像によるものだから、(ap)は〈(私の)自〉そのものじゃなくて、別の〈自〉ってして見ると、
「(私の)モナド〈自〉において、別のモナド〈自〉(ap)が構成される」ってして見ることもできるかも、って。
No37396
の、〔自己移入〕、
そして、
No37402
の、〔私がそこにいるかのように〕
については、
「自己移入」の「自己」を〈(私の)自と体〉の〈(私の)自〉の方として見て、
そして、〔私がそこにいるかのように〕の、〔私〕を〈(私の)自〉として見ると、
〔私がそこにいるかのように〕は、
「(私)のうちで〈端的な知覚-されたもの〉である〈(他者の)体〉が〈(私の)体〉と似ているとういことから、〈(他者の)体〉〔そこ〕が、あたかも〈(私の)体〉であるかのように、想像による〈(私の)自〉が〔そこ〕にいるかのように」
みたいふうにも見れる。
*〈af〉-D、Eのように見たから、
No37110
で見たように、「MHC」っていうのとなんか似てるかも、って思ったのかも。
No37417
に、わたしに思われた、
〈何と何が対(ペア)になって、どこに現れ、次に、どこで、何と何が対比されるの?〉
は、〈af〉のようになった。
あと、ちょっと思ったんだけど、
〈af〉-Bのような見方、だから、
「他我問題」――〈他人の心〉をいかにしてわれわれは知りうるかという哲学的問題。
「独我論」――自我とその意識だけが実在し、いっさいのものは、自我の意識のなかに存在するにすぎないとする立場。
っていうのが生まれてきてるんじゃないかしら?とも。
引用返信
/
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■37456
/ inTopicNo.2)
Re[56]: つれづれなるままに 14
▲
▼
■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/07(Fri) 19:27:01)
【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の第50,51,52節からわたしが抜粋したところを、
No37372
No37384
No37392
のようにして見て、
No37439
のように見たところで、
私に現前するものが「他者(人)」のばあいを見て見ることにする。
いまは乳幼の頃に遡ってそのうちで見ようとしてるから、「私」っていうのは、
No37367
で見たDの、
乳幼の頃の「私」=〈自と体〉あるいは〈自+体〉
で見る。
あと、「私」と「他者」の区別がはっきりしてない状態のとして、これらを( )で括ることにする。
こういうのを、
〈(私の)自と体〉、これを〈(私の)自〉と〈(私の)体〉に分節。
ってして表すことにするよ。
で、わたし次のような物語り作って見た。
@〈(私の)自〉と〈(私の)体〉が結びついて、〈(私の)自+体〉が覚知される。 まずこれあるのね。
A(私に)現前しているもの(他者/人)は、(私の)端的な知覚においては、見えるものである身体や身振りが捉えられてる。
これを〈(他者の)体〉って表すよ。見えるものである(他者の)身体や身振りが〈端的な知覚-されてるもの〉のことね。
これ(p)ね。
B見えないものである〈(他者の)自(分)〉は端的な知覚-されてないのね。
ちなみにわたし、 (私に)現前してる(他者/人)の意識として、乳幼のばあいは〈(他者の)自〉、大人のばあいは〈(他者の)自分〉ってしてる。
C(p)が〈(私の)自〉に現れてきて、(p)は〈(私の)体〉と似ている――「類似」、って感じるのね。
そして、〈自〉の想像によって、(p)に〈(私の)自〉がくっつくのね――「付帯」とか「準現前化」。
こうして、(p)と〈(私の)自〉が対(ペア)になって――「対化」、〈(他者の)体+(私の)自〉が構成されるのね。
これ(p+ap)ね。 想像による〈(私の)自〉を(ap)ってしてる。
Dこんどは、〈(他者の)体+(私の)自〉(p+ap)が〈(私の)自〉に現れるのね。
ここで、〈(他者の)体+(私の)自〉と〈(私の)自+体〉が比べられるのね――「対比」。
Eこのとき、〈(私の)自〉は、〈(他者の)体〉(p)は、〈(私の)体〉“ではないもの”、って覚起されるのね。
そして、 〈(私の)体〉“ではないもの”を「ほかのひとの」、〈(私の)自+体〉を「わたしの」、って“言う”ようになってく。
No37412
の訳注(38)の、
〔「対になること」によって初めて、「私の」と「他者の」が言わば同時に生成してくるわけである。〕
っていうのはこういうこと言ってるんじゃないかしら?って。
No15252
のなかに、
「類比化的統覚」ってあるけど、これを@〜Dのようなもの、ってわたし見たのね。
引用返信
/
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■37441
/ inTopicNo.3)
Re[55]: つれづれなるままに 14
▲
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■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/05(Wed) 19:41:37)
■37440、なかったみたい。
引用返信
/
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■37440
/ inTopicNo.4)
Re[54]: つれづれなるままに 14
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■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/05(Wed) 19:38:37)
■37438、
でもなんかおもしろそう。
ニークラアーカイブ?的なの。
ためしに、
No1
はどうかな?
引用返信
/
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■37439
/ inTopicNo.5)
Re[53]: つれづれなるままに 14
▲
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■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/05(Wed) 18:25:33)
No37417
でまとめたの、図式的にして見たから、添付しとく。
perceptionを〈端的な知覚〉ってして、これを(p)ってして、
「統覚」≒「共現在化」≒「付帯現前化」って見て、
「統覚」ap-perception=(p+ap)
618×277 => 600×268
72.jpg
/
33KB
引用返信
/
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■37438
/ inTopicNo.6)
Re[52]: つれづれなるままに 14
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■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/05(Wed) 18:20:26)
■37431、違うところ提示されるみたい。わたし、そこのこと言ってるんじゃないからね。
数字の前にNoつけるとそこに行けるように設定されてるどおりにコンピュータは働いてくれてるみたい。
「12345」「456」っていうのそこのこと言ってるんじゃないからね。
言われたことを忠実に実行してるコンピュータちゃん、ごめんね、わたしが言おうしてることはそこじゃないの。
引用返信
/
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■37431
/ inTopicNo.7)
Re[51]: つれづれなるままに 14
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■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/04(Tue) 19:44:23)
わたし、マイナンバーが書いてる紙なくしちゃたみたい。どうやら、捨てちゃったみたい。
当然、わたしの番号知らないし、そのカードつくってないんだけどね。
マイナンバーは「この私」を数字で表してるよね。例えば、あなたは
No12345
…ですよ、ってね。
私は
No12345
…です、って意思表示したい人がマイナンバーカード作ったのね。
これ作った人、自分のこと、名前じゃなくて、マイナンバーでいえばいいのに、
「私は
No456
…です」、って。
マスも排便係を自負してるんだったら、「コウノ」っていう名前じゃなくて、「No…‥」はこう発言してる、っていう言い方に変えればいいのにね。
引用返信
/
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■37417
/ inTopicNo.8)
Re[50]: つれづれなるままに 14
▲
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■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/02(Sun) 19:43:37)
No37416
はちょと横に置いとくとして、
No37415
のようにして見たなかで、
(a)、(p-ap)、(G-V)、〈ap〉をまとめちゃうと、
「統覚≒共現在化≒付帯現前化」⇒perception(端的な知覚)+ap(準現在化/付帯されてるもの/記憶・想像によるもの/思い込み)
ってしてわたし見ることになった。
perception(端的な知覚)――〈端的な知覚-されてるもの〉――を(p)ってすると、
「統覚≒共現在化≒付帯現前化」=(p+ap)
ってなる。だいぶ簡単になってきた感じ〜。
こういうんで見ると、
たとえばね、
No36191
の(w)の中にある、
〔知覚対象は単なる現前(Prasenz)ではなくつねに付帯現前(Apprasenz)なのである〕
わたしなりに見ると、
〈(私)に現前する「対象」は、(私の)うちでは、単なる(p)ではなく、つねに(p+ap)なのである〉
ってなるのね。
いっぱい書きつくればしちゃったけど、今日はここまでにしとく。
このつづきは、
No37414
の、
〈何かと何かが対(ペア)になって、次に、何かと何かが対比される〉の、〈何か〉へと向かうんだけど、
あ、
『ここで対になることが必然的に現れて、対比が行われることによってである』の、『現れて』を抜かしてた。
で、
〈何かと何かが対(ペア)になって、どこに現れ、次に、どこかで、何かと何かが対比される〉の?
の、〈何か〉と〈どこ〉へと向かうことになるんだけど、今日のお喋りはこれでおしまい〜。
引用返信
/
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■37416
/ inTopicNo.9)
Re[49]: つれづれなるままに 14
▲
▼
■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/02(Sun) 18:42:43)
No37415
に関連して、
「付帯現前化」と「準現前化」とは異なる、みたいなのが書いてあったのでちょっと書いとくことにする。
No37109
の(3)、「他我構成論の概略」の中に、
@〔‥‥他者は、まず原初的領域のうちに物体として現出するが、超越論的自我は「ここ」にある私の身体と「そこ」にある物体との間で類似にもとづいた「対化(Paarung)」を生じる。…‥しかし他我はあくまでも「そこ」における物体の現前化に結びついて、間接的に共に現前するだけである。この「そこ」にある物体の現前化結びつきつつ、私ではない他の自我を「共に現前させる作用」をフッサールは「付帯現前化(Apprasentation)」と呼ぶ。この意識の働きは、想起や想像といった「準現在化(Vergegenwartigung)」の作用とは異なり、私が直接的には充実することができない「他者経験に特有の準現在化」の働きを意味する。他者の他者性ともいうべき「根源的な到達不可能性」は、この付帯現前化の間接性によって保証される。こうして「そこ」に現れる物体は、対化という「連合の意味付与の過程全体に応じて、(私がそこにいるかのように)そこという様態において、今共に現に存在する自我として付帯現前される」のである。
しかしここで批判されるのは、上述した仕方で構成される他者が、真に他者足り得るものとして構成されているかということである。そこで次にヘルトによる批判の検討を通じて、フッサールの他我構成論の問題点を探ることにしたい。・・・・〕
で、
No37233
とか、
No37314
へとなるんだけど。
もう一つ、
【「現象学事典」弘文堂2014】の「間主観性」のなかに、
A〔‥‥フッサールの諸説のなかには確かにそのような議論もあるが、それにしても彼は、われわれが他人の経験を直接的に体験するということは認めない。他人の経験はあくまでも「付帯現前化」されているにすぎず、もしそれが直接的にあたえられるとすれば、他人と私の区別がなくなってしまう、とさえフッサールは言っている。そして「付帯現前化」(Apprasentation)という語は、彼の場合、想像の作用的特徴性を表す「準現在化」(Vergegenwartigung)と同義の語として使われるので、そうした他人の与えられ方といわゆる「想像」(Pantasie)との区別もかなり曖昧であり、いかにしてわれわれが「他人を見る」と言えるのはあまり明確ではないのである。‥‥〕(アキュートアクセントは省略)
ってあった。
あと、
〔‥‥たとえばヴィトゲンシュタインならば、われわれはあくまでも「他人」(another person)を見るのであって、決して「他我」ないしその一部を見るのではない、というであろう。「私の彼(他人)に対する態度は、魂に対する態度である。私は、彼が魂をもっているという意見をもつものではない」[『哲学探究』U,iv]〕
とも書いてあった。
@の、〔超越論的自我〕っていうのは「純粋自我」でもいいんだと思う(わたしのでは〈純粋な思考する自〉ってなるんだけど)。これはいいとしても、〔「付帯現前化」は「準現在化」とは異なり「他者経験に特有の準現在化」〕っていうところがわたしに問題だったのね。
たぶんだけど、「準現在化」は、現前するものが「人」以外のものも含まれて言ってるんじゃかいかしら?って。たとえば、(私に)現前するものが「犬」だったり「椅子」のようなばあいも「準現在化」っていうのあって、みたいに。「他者経験に特有の準現在化」の「他者」は「人」のことで、ようするに、(私に)現前するものが〈人のばあいに限っての準現前化〉を「付帯現前化」って言ってる、こんな感じで。
長くなっちゃたので、これについては、こんな感じまでにしとく。
引用返信
/
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■37415
/ inTopicNo.10)
Re[48]: つれづれなるままに 14
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■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/02(Sun) 17:45:58)
No37414
のつづき
おさらいとわたしのね。
(1)「知覚」と「統覚」
については、
No11393
第50節訳注(33)
〔Apperzeption:Perzeption(もとはラテン語perceptioで、「知覚」の意)に前つづりAd-(「方向・接近・隣接・接着」の意)が付け加えられたもの@。・・・フッサールは…‥或るものの端的な把握としての「知覚」Aと区別して、さまざまな把握を取りまとめて統一的に知覚することを「統覚」と呼んでいる。B〕
から。
(独)Apperzeptionは(英)apperceptionみたいだから、こっちで見てくよ。
・@、[apperception]は、[perception](知覚)に[ap-](「方向・接近・隣接・接着」の意)が付け加えられたもの。
[ap-]を、〈くっついてるもの〉として見て、[perception](知覚)に[ap-]っていうものがくっついている、として見たのね。
[ap-]がくっついている[ap-perception]が[perception]にくっついてるって見るのかもだけど、でもこう見たとき、[perception]と[apperception]があって、〈perception+apperception〉が「統覚」っていうことになるから、これちょっと違う気がする。
・Aの〔或るものの端的な把握としての「知覚」〕、このような「知覚」を、
No36316
で見たように、わたし〈端的な知覚〉ってして見ることにしてる。
っていうのは、
No36053
にあるように、
現象学では、〔想像を…知覚と並び知覚にどこまでも近いひとつの表象、つまり像あるいはイメージと見なし〕てるなかで、わたしのなかでは「想像」と「知覚」の区別がいまいちはっきりしなくなっちゃから、現象学の「知覚」っていうの、〈端的な知覚〉ってしてわたし区別して見ることにしてる。
・Bの〔さまざまな把握を取りまとめて統一的に知覚することを「統覚」と呼んでいる〕
〔‥‥知覚することを「統覚」〕ってなってるけど、@のように、「統覚」ap-perceptionを、「知覚」perceptonに[ap-]がくっついてるものとして見て、この知覚を〈端的な知覚〉として見て、
結局、
「統覚」ap-perception=perception(端的な知覚)+ap
ってして見た。
ちなみに、
(2)「統覚」と「統握」
No11393
で見たように、フッサールは2種類の統覚を見てるようなんだけど、
〈感性〉における統一的なものを「統覚Apperzeption」、
〈思考〉における統一的なものを「統握Auffassung」
ってしてわたし区別してる。
(3)「統覚」と「現在化/準現在化/共現在化」
なんだけど、
〈統覚ap-perception=perception(端的な知覚)+ap〉ってして見たかなで、「現在化/準現在化/共現在化」を見て見たのね。
「現在化/準現在化/共現在化」は、
No36191
の(w)のね。
〔知覚対象は単なる現前(Prasenz)ではなくつねに付帯現前(Apprasenz)なのである〕
のうように現象学では見てるみたいで、
No36984
で、
「付帯現前化」≒「共現在化」≒「統覚」ってして見たんだけど、
・(1)で見たように、〈ap-〉を〈付帯されるもの〉ってして見て、これ「準現在化」とも見たのね。これ、〈記憶や想像によるもの〉で、これ〈思い込み〉ともあった。
ちょっとまとめると、
(a)「統覚」≒「共現在化」≒「付帯現前化」ってして見て、
(p-ap)「統覚」ap-perception=perception(端的な知覚)+ap
ってして、
(G-V)「共現在化(付帯現前化)」=現在化(端的な知覚)+準現在化(付帯されるもの)
ってして、
〈ap〉=〈準現在化〉 〈付帯されるもの〉 ←(思い込み) (記憶や想像によるもの)
ってしてわたし見ることにした。
引用返信
/
返信
削除キー/
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■37414
/ inTopicNo.11)
Re[47]: つれづれなるままに 14
▲
▼
■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/02(Sun) 15:31:49)
No37413
のつづき
No37412
の、 (a-Da)で、
何かと何かが対(ペア)になって、次に、何かと何かが対比される、
って言ってるんだと見たんだけど、この4つの何かはなあに?って、わたしなったのね。
対(ペア)になる、って、
「私と他者が対になる」でもいいのかもだけど、乳幼の頃では自他未分化の状態、ってして見たとき、そして、そのうちで見ようとするとき、「これ」言えないんじゃないかしら、って。だってこの見方はすでに「私」と「他者」の区別ができてる大人の見方になっちゃう気がしてる。
「知覚」「統覚」「現在化/準現在化/共現在化」っていうの、おさらいしながら、いろいろ考えたんね。
つづく
引用返信
/
返信
削除キー/
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■37413
/ inTopicNo.12)
Re[46]: つれづれなるままに 14
▲
■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/06/02(Sun) 15:03:44)
No37412
のつづき
訳注(38)の
〔「対になること」によって初めて、「私の」と「他者の」が言わば同時に生成してくるわけである。〕
っていうことは、
いまは、乳幼の頃に遡ってそのなかで見ようとしてるなかかで、
前にラカンの鏡像段階のときに見た、
No30710
の、(3)-@の、
〔幼児が自他未分化の「癒合的社会性」を生きているところから、どのようにして自己と他者との境界線が引かれるようになるのか?〕
こいうふうに、乳幼の頃は自他未分化とか自他融合の状態で、「私の」と「他者の」っていう区別がまだはっきりと分かってない、っていうことが前提となってるんだと思う。
で、
この状態から(a-Da)っていうことになる、ってフッサールは考えているんだと思う。
「発生的現象学」っていうの、たぶん、自他未分化の状態からどのようにして「私の」と「他者の」が(私)において覚起されてくる?これを考えてるんだと思う。
「私の」と「他者の」の区別がなされる以前のことの話しだから、これからのわたしの喋りのなかでは(私の)とか(他者の)ってして、括弧に入れて書いてくことにする。
つづく
引用返信
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