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Re[57]: つれづれなるままに 14
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/06/09(Sun) 15:50:48)
| No37456を〈af〉(悪魔ちゃんのファンタジー)ってするね。
〈af〉のようにわたしに見られたことから、そこはかとなく書きつくって見るよ。
〈af〉-Cのようにして見たことから、
「対(ペア)化」が行われる、ってして見ることは、〈(他者の)体〉を「対象として見る」んじゃなくて、 No15252にあるような、 〔非対象化的・非主題的な次元で捉える〕みたいなことなのかも、とも見てる。
〈(他者の)体+(私の)自〉(p+ap)の〈(私の)自〉(ap)っていうのは“想像によるもの”だから、 (p+ap)は、〈(私の)自+体〉の「変様態」とも見れる。 これ、 No37392の、 『他者は、現象学的には自己《自と体》の「変様」として現れるのだ』から来てる。この《自と体》、今思うと〈(私の)自と体〉ってして見てもよかったかな、って。だから「(他者)は、〈(私の)自+体〉の変様として、〈(私の)自〉に現れる」。 こう見たとき、 No37392に、 『私のモナドにおいて別のモナドが構成される』ってあって、わたし『モナド』を〈自〉ってして見たんだけど、 付帯された〈(私の)自〉(ap)は想像によるものだから、(ap)は〈(私の)自〉そのものじゃなくて、別の〈自〉ってして見ると、 「(私の)モナド〈自〉において、別のモナド〈自〉(ap)が構成される」ってして見ることもできるかも、って。
No37396の、〔自己移入〕、 そして、 No37402の、〔私がそこにいるかのように〕 については、 「自己移入」の「自己」を〈(私の)自と体〉の〈(私の)自〉の方として見て、 そして、〔私がそこにいるかのように〕の、〔私〕を〈(私の)自〉として見ると、 〔私がそこにいるかのように〕は、 「(私)のうちで〈端的な知覚-されたもの〉である〈(他者の)体〉が〈(私の)体〉と似ているとういことから、〈(他者の)体〉〔そこ〕が、あたかも〈(私の)体〉であるかのように、想像による〈(私の)自〉が〔そこ〕にいるかのように」 みたいふうにも見れる。
*〈af〉-D、Eのように見たから、 No37110で見たように、「MHC」っていうのとなんか似てるかも、って思ったのかも。
No37417に、わたしに思われた、 〈何と何が対(ペア)になって、どこに現れ、次に、どこで、何と何が対比されるの?〉 は、〈af〉のようになった。
あと、ちょっと思ったんだけど、 〈af〉-Bのような見方、だから、 「他我問題」――〈他人の心〉をいかにしてわれわれは知りうるかという哲学的問題。 「独我論」――自我とその意識だけが実在し、いっさいのものは、自我の意識のなかに存在するにすぎないとする立場。 っていうのが生まれてきてるんじゃないかしら?とも。
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