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■No37183に返信(悪魔ちゃんさんの記事) > No37151のつづき、 > わたしがわかんなかった、フッサールの言う「モナド」ね。これってライプニッツが使ってたみたいで、前にネットでいろいろ見たんだけどよく分かんなかったんだけど、 > > No37109の(4)に、 > フッサールの「モナド」概念、ってあって、その中から簡単に書き出して見ると、 > ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ > ・@フッサールによれば、「モナド」とは「全き具体化において受け取られたエゴ」(Hua T,102)、「具体的で純粋な主観性」(Hua\,216)である。つまり「モナド」とは、最も具体的な自我を表す概念である。「具体的」とはどういうことか。それは「繋がりのあったものを抽象的に切り取ることはしない」ということである。 > ・Aフッサールは「主観的」と呼ばれる経験が、そのまま「客観的」と呼ばれる「対象そのもの」と地続きであると、考えている。 > ・Bそこで「モナド」という語は、ある種の媒介的な相関そのものを言い表す語として用いられている。主体的な働きだけでなもなく、対象的な収斂点だけでもなく、それらが不可分に媒介し合う相関の出来事そのものが、「モナド」と呼ばれるのである。 > ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ > ってあった。(4)からはここんとこだけ抽出。 > > 「媒介」って言うのをネットで調べてら、実用日本語表現辞典に > 〔媒介(ばいかい)とは、二つ以上の事物や現象が互いに関連付けられるための中間的な存在を指す言葉である。〕 > ってあった。 > > 簡単に見て、 > フッサールの言う「モナド」っていうの、〈具体的な、生まれつき備わってる、ななかだちする場〉、ってひとまず見ることにした。 > この〈場〉っていうのは意識のなかにあるもののことを言ってるんだとわたし見てるから、〈領域〉とか〈領分〉って言ってもいいかな。 >
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■37310
/ inTopicNo.1)
Re[32]: つれづれなるままに 14
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/16(Thu) 18:50:24)
【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の中の第50,51,52節からのわたしの抜粋が書けたんだけど、いまのわたしが想定しているのを先に書いとくと、
No37289
の訳注(38)にある、
〔「対になること」によって初めて、「私の」と「他者の」が言わば同時に生成してくる〕
っていう見方ね。
ってすると〜、
何と何が対(つい)になるのかしら?
これが今回のわたしの物語りのテーマになるのかな?
引用返信
/
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■37298
/ inTopicNo.2)
Re[31]: つれづれなるままに 14
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/14(Tue) 19:44:26)
https://youtu.be/ScV--okedWI?si=nBRUxMjDoY4UsPbq
感性と我思うの間にある領域がその人の〈自〉なのかも?
引用返信
/
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■37289
/ inTopicNo.3)
Re[30]: つれづれなるままに 14
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■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/12(Sun) 11:00:25)
No37287
のつづき、
【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の
第52節 共現前は、独自の確認する様式をもった経験である(p204〜)
のなかからわたしがの抜粋したところは、
本文(D)
***************
・・・・・「異なるもの(フレムト)〔他者〕」は、自分固有のものの類似物(アナロゴン)としてのみ考えることができる。それは必然的に、その意味の構成ゆえに、私の最初に客観化された自我と私の原初的世界との「志向的変様(37)」として現れる。つまり、他者は、現象学的には自己の「変様」として現れるのだ(私の自己が「私の」というこの性格を受け取る(38)のは、ここで対になることが必然的に現れて、対比が行われることによってである)。したがって、類比による変様において、この自我の具体性はまずその原初的世界として、次に十分に具体的な我(エゴ)として属するものすべてが共現前する、ということは明らかである。言い換えれば、共現前によって、私のモナドにおいて別のモナドが構成されるのである。・・・・(p206)
***************
訳注
・・・・・・・・・・・・・
(37)
intentionale Modifikation:「変様」とは、フッサールが『論理学研究』以来、よく使ってきた用語で、本書でもこれまで目立たない仕方ですでに使われてきている。しかし、ここでは特に、「現在させる働き」と「準現在させる働き」の間に、また、「現前」と「共現前」の間にも、後者は前者の「志向的変様」という関係がある、それゆえ、「自分固有のもの」と「異なるもの」の間にも、同様な「志向的変様」の関係がある、という点が強調されている。しかし、このような主張は、その後、フィンクによって、「現様態の優位」を主張する「思弁的思考(形而上学)」として批判されることになった。
(38)
「他者は、現象学的には私の自己の「変様」だとすると「私」というのが先にあるのでなければならないだろう。ところが、この括弧内では、「対になること」によって初めて「私の」という性格を受け取るのだとすると、それに先立って「私の」という性格がるわけではないことになる。「対になること」によって初めて、「私の」と「他者の」が言わば同時に生成してくるわけである。「我は汝と対比のなかで初めて構成される」(『間主観性の現象学』第一巻)という言い方も、この脈略で理解されよう。
・・・・・・・・・・・・・
これでわたしが抜粋したところはひとまずこれでおしまい〜、だけど、
つづくよ。
引用返信
/
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■37287
/ inTopicNo.4)
Re[29]: つれづれなるままに 14
▲
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■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/12(Sun) 09:17:04)
No37286
のつづきね
【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の、
第51節 他者経験には、連合によって構成するものとして、「対になる」という契機が含まれている(p201〜)
から、わたしが抜粋したところは、
本文(B)
***************
私の原初的な領分の内部で、一つの物体が私固有の身体(ライプ)=物体(ケルパー)(34)に類似するものとして、〔私の身体と〕同様に身体として捉えられるのは、類比によってであった。
ここでの類比による把握に特有なことを特徴づけようとする時、まず最初に出会うのは、ここでは根源的に創設する原本が常に生き生きと現在しており、それゆえ原創設そのものが常に生き生きと動いたままだ、という特徴である。そして第二に出会うのは、この類比によって共現前するものは決して現実には至ることはできず、それゆえ、本来的な知覚に至ることはできないという、すでにその必然性において知られるようになった特性である。第一の特性と密接に関連することだが、我(エゴ)と他我(アルター・エゴ)は常にそして必然的に、根源的な「対(ペア)になる(35)」という仕方で与えられる。・・・・・(p201)
***************
訳注(アキュートアクセントは省略するよ)
・・・・・・・・・・・・・
(34)Leib-Korper:注(17)に述べた、「身体」と「物体」の区別を踏まえながらも、その両面をもつと捉えられているものをこう呼んでいる。
(35)Paarung:「対(Paar)にすること/なること」を指す。後にのべられるように、フッサールはこれを「受動的綜合の一つの根源的形式」として考えており、その意味で、「対にする」より「対になる」としたほうが適切と思われる。また、このあと、「対になること」は「連合と呼ばれる受動的綜合の一つの根源的形式」とされるが、「連合は受動的発生の原理である」(本書第39節)とも言われており、フッサール自身ここで論じているのは「静態的な分析」(本書第48節)であると断りながらも、発生的現象学に属する問題圏に踏み込んでしまっている。
・・・・・・・・・・・・・
本文(C)
***************
・・・・・いま私の原初的な領分のうちに一つの物体が際立って現れ、それが私の身体と似ている、すなわち、それが私の身体と現象的に対になるに違いないという状態である場合、その物体は意味がおしかぶせられることによって、直ちに私の身体から身体という意味を受け取るにちがいない。・・・・・(p203)
***************
できるだけ少しだけ抜粋することにしてる。
つづく
引用返信
/
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■37286
/ inTopicNo.5)
Re[28]: つれづれなるままに 14
▲
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■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/12(Sun) 09:09:31)
No37282
のつづき、
今日は、まず、抜粋部分を書いてくことにするよ。
第50節 他者経験は、「共現前」(類比による統覚)として、間接的な志向性をもつ(p195〜)
から、わたし抜粋したところは
No15221
で書いたから、今回は書かないけど、第50節での本文の抜粋部分を(A)ってしとく。
つづく
引用返信
/
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■37282
/ inTopicNo.6)
Re[27]: つれづれなるままに 14
▲
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■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/11(Sat) 16:04:46)
No37281
で見たように、
わたしの語の使い分けや、フッサールの言う「他者経験」と「他我問題」や「独我論」とをごちゃまぜにしないように、気をつけたところ。
で、
「他者経験」について、なんだけど、
これについては、【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の、第50節、第51節、第52節のところを読み返していた。
次からは、ここんところからわたしが抜粋したところをまず書いて、そのあと、それらのわたしの見方を書いてくことにするね。
ちなみに、ちょっと書いとくと、
第五省察 超越論的な存在の場をモナドの間主観性としてあらわにする(p161〜)
は、
第42節 独我論という非難に対抗して、他者経験の問題を呈示する
から始まってて、そのなかに、
『さて、新しい省察を始めるにあたって、一見すると重大であるように見える一つの非難を手がかりにすることにしよう。・・・・
省察する自我である私が、現象学的な判断停止(エポケー)によって、絶対的で超越論的な我(エゴ)へと還元される時、わたしは独我(ソルス・イプセ)になってしまうのではないだろうか。現象学という標題のもとで一貫した自己解明を行っている限り、私は独我(ソルス・イプセ)に留まるのではないだろうか。それゆえ、客観的な存在の問題を解決したつもりになって、もう哲学として登場しようとしている現象学は、超越論的な独我論という烙印を押されるべきではないだろうか。〔こう非難されるわけである。〕・・・』
ってある。(〔 〕内は訳者による補足説明ね)
フッサールのいう「超越論的」っていうの、
No37157
で見たように、わたしのばあい「純粋」ってして見てるから、
〈現象学は、純粋な独我論という非難があった〉――のかな?って。
わたしここらへんよく知らないけど。
つづく
引用返信
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■37281
/ inTopicNo.7)
Re[26]: つれづれなるままに 14
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■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/11(Sat) 15:55:29)
な〜んかいろいろお喋りしてきたけど、
No37109
の資料の中に出て来る「私」にまつわる語についての、わたしのだいたいできたところで、
つぎに、フッサールの言う「他者経験」について見てくことにするよ。
あ、その前に、わたしの、ちょっと書いとく。
「私」っていう語に対しては、「他者」って言う語を使うことにした。
「他人」でもいいんだけど、そうすると「私人」ってしなくちゃだから、ひょっとヘンな感じだし。
あと、「他者」って言うの、一般には「私」に対して「他の人」のこと、だから、「人」のことを指す語ね。
「他者」は、広い意味で、私の外にあるものすべてのもの、たとえば、「ヒト科」に対して「他の動植物(たとえばイヌやネコや草木)」や、「物体(たとえば石や包丁)」っていうのも指すばあいも考えられるんだけど、これはそういうのはちょっと横に置いとくことにする。
「他我」っていうのあるけど、これ〈他者の考える我〉ってしわたし見るから、ようするに他者の意識のなかのことを言い表している、ってして見てる。だからわたしのばあい、「他者」と「他我」はちょっと違うく見てる。
「私」とか「他者」っていう語は、〈意識(精神)〉と〈身体〉の両方を指していて、「他我」っていうのは、意識(とくに考えることする意識の領域)の方だけを指してる、ってして見てる。
「他我問題」って言うのあるみたい。
改訂新版 世界大百科事典 からのをちょっと書いて見るね。
・・・・・・・・・・・・・・・
〈他人の心〉をいかにしてわれわれは知りうるかという哲学的問題。例えば,友人と赤の交通信号を見る。そのとき私と友人の赤の感覚は同じだろうか違うだろうか。あるいは,友人はそもそも何かの色を感じているのだろうか。それを直接にテストする方法はありえない。私は友人ではないからである。しかし間接的方法ならある,というのがこの〈他我問題〉での類推説である。・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
ってある。なんか難しそうだけど、わたし見たのは、
私の心や〈他人の心〉は存在する、これ前提となってて、でも、それを知ることができるの?とか、「それ」の私の感じと他人の感じは同じ?みたな問題なんだと思う。
「独我論」っていうのあるみたい。
精選版 日本国語大辞典 に、
・・・・・・・・・・・・・・・
〘名〙 (solipsism の訳語) 自我とその意識だけが実在し、いっさいのものは、自我の意識のなかに存在するにすぎないとする立場。独在論。唯我論。
・・・・・・・・・・・・・・・
ってあった。
「独我主義」、これって人によってその捉え方が違うのかもしれないけど、この解説からだでけで見たわたしのは、
「自我」を〈考えることする自〉ってしてるから、
〈考えることする自〉とその意識(考えることする領域の意識)だけがが実在し、いっさいのものは、〈考えることする自〉の領域という意識のなかに存在するにすぎないとする立場。〉
っていうことになるのね。
いづれにしても、「他我問題」や「独我論」は、意識についてのお話しだと思うんだけど、フッサールの「他者経験」っていうのは意識だけじゃなくて身体も含めて「他者」って言うふうにわたし見てる。
引用返信
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■37278
/ inTopicNo.8)
Re[25]: つれづれなるままに 14
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/10(Fri) 20:11:21)
「既存」ってあるよね。
その既存のなかで「生きのびる」っていうのあるよね。
引用返信
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■37276
/ inTopicNo.9)
Re[24]: つれづれなるままに 14
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/10(Fri) 18:33:11)
No37239
は後でわたしのお喋りのなかで、またでてくるかも、っていうことで書いとくことにしたのね。
フッサールが見てるような、
〔能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。〕
ここ、問題となるとこかも?
わたしのつぎの話題、「他者経験」についてなんだけど、しばらく『デカルト的省察』を読み返してて、わたしの見方がだいたいできてきから、後で書くね。
引用返信
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■37239
/ inTopicNo.10)
Re[23]: つれづれなるままに 14
▲
▼
■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/04(Sat) 18:43:55)
No37238
のつづき、
【「現象学事典」弘文堂2014】にあったの、前にも一部書いたと思うけど、今回は全部書いとく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
受動的総合/能動的総合 [(独)passive Synthesis/aktive Synthesis]
フッサールにおいて総合は意識の原形式であり、その特徴は「流れ去る多様の統一」と規定される。サイコロという統一的対象の知覚は、どの側面から、どの距離で、どの光のもとで、見るか(さらには、どのように触れるかなど)に応じて変化する多様な現れ方を通して、その総合として成立する。この知覚したサイコロをのちに想起するときにも、かつて知覚したサイコロと同一のサイコロの想起であるという同一性の意識は総合にとってつくり出される。こうした個別的意識体験の総合が可能になのは、もともと意識生の全体が総合的に統一化されているからである。この普遍的総合の根本形式はすべてを包括する内的時間意識である。「能動的/受動的」という発生的現象学の基本概念は、以前から使用されていた「顕在的/潜在的」「主題/背景(地平)」などの対概念を力動化したものである。自我はいま見えているサイコロの面前を主題として顕在的に意識していると同時に、裏面を背景として潜在的に意識している。この区別の根拠は自我の関わり方の相違にある。「能動的/受動的」の区別も同様であり、能動的総合はとくに自我的な作用であるに対して、受動的総合は自我の関与なしにおのずから生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。
能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。受動的総合の基底をなすのは内的時間意識による時間構成であり、キネステーゼによる空間構成とともに総合の形式条件を形成する。実質的条件をなすのは連合法則に従う布置形成である。布置形成によって図と地が分化し、地から浮き上がった図が自我を触発する。自我は図に注目して把握的に対向する。それが触発の受容であり、能動性の最低段階をなす。受動的総合と能動的総合の境界線はここに引かれる。把握する、解明する、関係づけるなどの低次の能動的総合を超えた、数える、述定するなどの高次の能動的総合においては、数や述定的事態がなどのイデア的対象が産出される。能動的総合は作用としてはまもなく過ぎ去るが、その成果は自我極に沈殿し、習慣として妥当しつづける。習慣は第二の受動性として、より高度の能動的総合の土台となる。したがって、すべての能動性に先立つ受動性と能動性に由来する受動性が区別される。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ってある。
わたしのばあい、
「自我」を〈考えることする自〉ってしてて、「能動的総合」を〈考知性〉、「受動的総合」を〈感知性〉って言うことにしてるから、
〔能動的総合はとくに自我的な作用であるに対して、受動的総合は自我の関与なしにおのずから生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。〕
の部分、わたし的に言うと、
《〈考知性〉はとくに〈考えることする自〉的な作用であるに対して、〈感知性〉は〈考えることする自〉の関与なしに〈自ずから〉生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。〈考知性〉はすべて〈感知性〉を土台にして行われる。》
ってなる。
〔おのずから〕を〈自ずから〉ってして見たよ。
ここに出てくる、「内的時間意識」、「触発」、「自我極」っていうの、今回の資料にも出てくるんだけど。
「キネステーゼ」っていうのは、
No37189
でちょっと書いた。
現象学に関心がに人にはどうでもいい話しなんだけどね。
引用返信
/
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■37238
/ inTopicNo.11)
Re[22]: つれづれなるままに 14
▲
▼
■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/04(Sat) 15:54:52)
No37237
の感想ね。
「先-自我的」、「間モナド的」、「先-対象的」、「先-反省的」、「先-言語的」ってあるんだけど、
(a)の「先-自我的」っていうの、わたしのばあい、〈考えることする前の自〉って見るし、「先-反省的」の「反省」っていうのはたぶんデカルトのだと思うから、だいたい同じようなことなんだと思う。
(b)にある、
「間モナド的」は、
No37183
で見たように
〈間にある、具体的な、生まれつき備わってる、ななかだちする領域的〉、ってなるんだけど、なんか分かりにくい。
〔受動的で先-自我的な間モナド的原コミュニケーション〕ってあるから、
〈受動的の領域で、考えることする前の自のような、なかだちする領域での原コミュニケーション、って見たらいいのかな?
あと、「先-対象的」っていうの「非対象的な他者性」と関連してるようにも見えてて、これ、
No37211
で見たような、「対化」、「非対象化的・非主題化的」を想い出す。
(d)の「先-言語的」からは、
No35001
の、
〔フッサールは、この世界を前述語的と名づけ、それを現象学的記述の対象としている。〕みたいなのを想い出してる。
「受動的総合」ってあるけど、次にちょっと書いとくことにする。
引用返信
/
返信
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■37237
/ inTopicNo.12)
Re[21]: つれづれなるままに 14
▲
■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/04(Sat) 14:17:12)
No37109
の資料のから見てるんだけど、
No37236
で(5)からのを少し書いたから、つぎに資料(6)のからのを少し書いとく。
〔フッサールの発生現象学は、20年代からのフッサール現象学の展開を決定づけているが、その内容と方法は、いまだ明確になっていない。この領域は、次第に明らかになっていったという領域そのものの開示のプロセスをもつ。その際、最も重要な契機となったのが、時間構成の分析と、時間内容に重点を置いて深化した時間分析でもある、20年来展開した「受動的綜合の分析」である。この展開に関して興味深いことの一つに、最近公刊された、『時間意識についてのベルナウ草稿』執筆期である1917/18年に、受動的総合の分析の端緒が見出されうることである。〕
って言うことみたい。
これもフッサール現象学を研究している人の論みたいなんだけど、やっぱわたしには難しくてよく分かんなかった。
(6)の中には「原-自我(Ur-Ich)」って言う語は出てきてないんだけど、「先-自我」っていうのが出てきてるところを書き出して見ると、
・・・・・・・・・・
(a)〔間モナド的共同化の能動的な感情移入において、ある人格が他の人格に人格全体で向かうことによって「我と汝の合致」
が生じうる。しかし、そこでは、自分自身の行動を客観視し、対象化する理論的で反省的態度は、決定的な役割をはたしてはいない。能動的間主観性を基づける受動的で先−自我的な間モナド的原コミュニケーションにおいては、いまだ自我極もそれに相関的な対象極も形成されてはいない。しかも、重要なのは、この能動的相互主観性の頂点に位置する「我と汝の合致」においては、形成ずみの自我極と対象極としての汝が消滅し、融合する、ということである。〕
(b)〔原初的な流れる先−自我的で先−対象的な時間化において、形式と内容が不可分離に生じているのと同様に、主観的形式と客観的形式の不可分離性は、我と汝の合致にも妥当するのであり、そこでは他者性に帰属する具体的内容が、非対象的な他者性へと転化しているのである。〕
(c)〔我と汝の合致の超越論的可能性は、対象化する主観と対象化された客観の亀裂の克服である。〕
(d)〔我と汝の合致が、発生的現象学による、無意識的に働き、先−反省的で、先−言語的に働く自己中心化と身体中心化の発生の解明なしには、その達成が難しいのも当然であるといえよう。〕
・・・・・・・・・・
これについてのわたしの感想は後で。
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