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■36732 / inTopicNo.73)  ダンマパダ第九章『悪』・116
  
□投稿者/ pipit -(2024/03/06(Wed) 22:38:09)
    みなさまこんばんは。今日から『悪』の章です。

    (Bhikkhu Sujatoさま英訳)

    Rush to do good,

    shield your mind from evil;

    for when you’re slow to do good,

    your thoughts delight in wickedness.


    (英訳のpipit日訳)

    善行を急ぐように

    心を悪から守るように

    なぜならあなたが善を行うことにゆっくりしているとき、

    あなたの思いは悪を喜ぶから。

引用返信/返信 削除キー/
■36674 / inTopicNo.74)  Dutiyamarapasasutta
□投稿者/ pipit -(2024/02/28(Wed) 11:10:19)
    2024/02/28(Wed) 12:20:24 編集(投稿者)

    みなさまこんにちは(^O^)

    中村元先生訳の岩波文庫で、釈尊が悟った弟子に教えを伝えなさいと語ったシーンを見つけました。

    岩波文庫『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤU』中村元先生訳、p18.19にある、
    『わな(二)』という経典でした。

    相応部経典(そうおうぶきょうてん)の悪魔相応の第一章の第五節におさめられているようです。

    ↓関西パーリ語実習会さまが日訳されていました。

    https://suttacentral.net/sn4.5/jpn/kansai?lang=en&reference=none&highlight=false


    ↓光明寺さまのサイトではパーリ語原語も見ることができて本当にありがたいですm(_ _)m

    https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsgv/sn04/sn04c05.files/sheet001.htm

    この経文では、最後に悪魔さんがでてきて、
    釈尊に詩で語りかけるんですけど、

    光明寺さまが釈尊の締めくくりの言葉として
    『死魔よ、そなたは打ち破られた』
    と日訳されている箇所を、

    Bhikkhu Sujatoさまは、
    『You’re beaten, terminator!』
    (DeepL日訳: 負けたな、ターミネーター!)

    と英訳されてて、映画のターミネーター像を思い出しました
    (^◇^;)強そうな悪魔さんだー

    https://suttacentral.net/sn4.5/en/sujato?lang=en&layout=plain&reference=none&notes=asterisk&highlight=false&script=latin
引用返信/返信 削除キー/
■36668 / inTopicNo.75)  ダンマパダ第八章『千』・115
□投稿者/ pipit -(2024/02/27(Tue) 00:25:01)
引用返信/返信 削除キー/
■36624 / inTopicNo.76)  ダンマパダ第八章『千』・114
□投稿者/ pipit -(2024/02/23(Fri) 23:27:04)
    みなさまこんばんは。ダンマパダ114です(^^)

    Better to live a single day
    seeing the state free of death

    than to live a hundred years
    blind to the state free of death.

    死から解放されている境地を見て一日を生きる方がよい。

    死から解放されている境地を見ることなく百年を生きるよりは。

引用返信/返信 削除キー/
■36604 / inTopicNo.77)  ダンマパダ第八章『千』・113
□投稿者/ pipit -(2024/02/22(Thu) 00:08:43)
    2024/02/22(Thu) 00:11:37 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは。ダンマパダ113のBhikkhu Sujatoさま英訳のpipit日訳です。

    Better to live a single day
    seeing rise and fall

    than to live a hundred years
    blind to rise and fall.


    生じることと滅することを見て
    一日を生きる方がよい

    生じることと滅することを見ずに
    100年の間生きるより

    (pipit雑感)
    seeing(見て) と訳されている原語は、passato で、辞書を見てみると、
    passati 見る;見出す,知る とありました。

    ヴィパッサナーのパッサナーと同じ単語かなーと思ったので、vi は接頭語かな?と辞書で見ると、
    vi- 分,離,別,異,反 とありました。

    vipassati では、観察する,観法をなす. とありました。

    wiki『ヴィパッサナー』では、※抜粋引用。記号省略。
    『ヴィパッサナー(巴: vipassana[注釈 1], ウィパッサナーとも[4])は「観察する」を意味する[5]。また、ヴィパッサナー(巴: vi-passana)とは「分けて観る」、「物事をあるがままに見る」という意味である[要出典]。』

    そうかぁ、ヴィパッサナーって細かく見るという意味なのかと勝手に思ってたけど、細かく見るというのは、分けて見るということでもあるんだなーと思いました。

    そういえばカントのクリティーク(批判)も語源は『分ける』だと御子柴先生がおっしゃってたような...
    本を探すと、『自分で考える勇気 カント哲学入門』岩波ジュニア新書、p19に載っていました。
    『「批判(ドイツ語でクリティーク、Kritik)」はギリシア語で「分ける」という意味をもつクリノーという言葉に由来します。』
    引用終了。

    あーそういえば、認識を一枚の織物として、糸や構造を分けてみて行く...
    まぁ、論証と観察は異なる領域の作業なんでしょうけどね(^ ^)


引用返信/返信 削除キー/
■36598 / inTopicNo.78)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2024/02/20(Tue) 18:47:27)
    時さん、こんばんはー(^○^)

    No36596
    > 仏陀は、”業”の定義を思念や想念の事だとしています。なぜならば、人はまずは思念して想念として起こったことの次に三行(業)(身行(業)・口行(業)・意行(業))に移すからだという事です。これは人が、心に浮かんだことを言動に移しているという事を考えると分かると思います。<

    ダンマパダの最初の二偈を思い起こしました。

    『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。---車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。』

    『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。---影がそのからだから離れないように。』

    (『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元先生訳、p10より引用)


    > そしてこの業の発生源が三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)の場合には、不善人となります。(人間の大半がこの状態だという事も分かると思います)
    >
    > 三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)→業(思念・想念)→不善の行(身行・口行・意行)=不善人です。
    >
    > この三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を、各修行により滅尽できれば、涅槃(貪欲・瞋恚・愚痴の滅)という境地の獲得者・体現者となり、この場合には、前回書きました不善人から、結果的に善人に変化しているという事です。
    >
    > 涅槃体現(三毒の滅)→業(思念・想念)→善の行(身行・口行・意行)=善人です。
    >
    > 例えば、瞋恚(人を害する心や悪意を持つ)者が修行により、無瞋恚者に変化する、または、偸盗(与えられていない物を盗み心を起こして取る)者が修行により離偸盗者に変化するという事で、不善人から善人に変化しますね。
    >
    > ですので、上記の三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を各修行により滅尽できたときには、涅槃の体現者であり善人となります。
    >
    > そして通常、善人ではない不善人は無明の状態だという事です。無明とは、四聖諦を知らないことと定義されていますので、四聖諦を知ることができれば、無明は滅尽され、出口の見えない苦の世界、五取蘊苦(世間)の世界から抜け出ることができますという事のようです。ここで、過去に何度も繰り返したであろう輪廻転生というメビウスリングの輪が、この人間界で切れます。
    >
    > 四聖諦を遍く学びきれれば、苦の滅尽された世界(境地)でその死を迎えるときまで心穏やかに暮らせるという事ですね。時の理解が正しいのであれば、仏典内の仏陀やサーリプッタやモッガラーナたちは、見かけ上は同じ世界に生存していたとしても、常に平穏(平安)な心の状態を獲得していたと思います。<

    ダンマパダ最初のニ偈を引用したこともあり、そういえばダンマパダの最後はどうしめくくられてるのかなーと見てみました。

    ダンマパダ423
    『前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、---かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。』
    (中村元先生訳、同本p69より引用)

    でした。

    > まだまだ細かいことは多くあるのですが、思いつくままにざっとした感じで書いてみましたが、あまりpipitさんご自身で学ばれていることの邪魔をしてもいけませんので、また何かありましたら書き込みをさせていただきたいと思います。
    >
    > では、今回はこの辺で。m(__)m<

    いつでも大歓迎ですよー(*^ω^*)♪

    最近の天候は寒暖の差が激しいですね、どうぞお気をつけてくださいませ。
    いつもありがとうございます!
    (^人^)
引用返信/返信 削除キー/
■36596 / inTopicNo.79)  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2024/02/20(Tue) 00:19:49)
    2024/02/20(Tue) 11:33:46 編集(投稿者)

    pipitさんへ。こんばんは。返信をありがとうございます。

    > 行為は業(カルマ)となるということなのかなぁと思いました。

    仏陀は、”業”の定義を思念や想念の事だとしています。なぜならば、人はまずは思念して想念として起こったことの次に三行(業)(身行(業)・口行(業)・意行(業))に移すからだという事です。これは人が、心に浮かんだことを言動に移しているという事を考えると分かると思います。

    そしてこの業の発生源が三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)の場合には、不善人となります。(人間の大半がこの状態だという事も分かると思います)

    三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)→業(思念・想念)→不善の行(身行・口行・意行)=不善人です。

    この三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を、各修行により滅尽できれば、涅槃(貪欲・瞋恚・愚痴の滅)という境地の獲得者・体現者となり、この場合には、前回書きました不善人から、結果的に善人に変化しているという事です。

    涅槃体現(三毒の滅)→業(思念・想念)→善の行(身行・口行・意行)=善人です。

    例えば、瞋恚(人を害する心や悪意を持つ)者が修行により、無瞋恚者に変化する、または、偸盗(与えられていない物を盗み心を起こして取る)者が修行により離偸盗者に変化するという事で、不善人から善人に変化しますね。

    ですので、上記の三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を各修行により滅尽できたときには、涅槃の体現者であり善人となります。

    そして通常、善人ではない不善人は無明の状態だという事です。無明とは、四聖諦を知らないことと定義されていますので、四聖諦を知ることができれば、無明は滅尽され、出口の見えない苦の世界、五取蘊苦(世間)の世界から抜け出ることができますという事のようです。ここで、過去に何度も繰り返したであろう輪廻転生というメビウスリングの輪が、この人間界で切れます。

    四聖諦を遍く学びきれれば、苦の滅尽された世界(境地)でその死を迎えるときまで心穏やかに暮らせるという事ですね。時の理解が正しいのであれば、仏典内の仏陀やサーリプッタやモッガラーナたちは、見かけ上は同じ世界に生存していたとしても、常に平穏(平安)な心の状態を獲得していたと思います。

    > 兄上に書いていただいた仏教用語の区分けを表にしたらわかりやすいかなと作ってみました。
    > 先述のwikiにのっていた英訳もつけてみました。

    おー、これ、pipitさんが作られたのですね。よくできていると思います^^

    まだまだ細かいことは多くあるのですが、思いつくままにざっとした感じで書いてみましたが、あまりpipitさんご自身で学ばれていることの邪魔をしてもいけませんので、また何かありましたら書き込みをさせていただきたいと思います。

    では、今回はこの辺で。m(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■36595 / inTopicNo.80)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2024/02/19(Mon) 22:38:11)
    時さん、こんばんは(^▽^)/

    No36585
    > 正精進とは、四正断の努力に励む事。
    > 四正断とは、不善を生じないよう勤める事。既に生じた不善を除こうと勤める事。善を生ずるよう勤める事。既に生じた善を増すように勤める事。
    >
    > ここで出てくる、善と不善ですが、、
    >
    > 善(の法)とは、離殺生・離偸盗・離邪淫・離妄語・離両舌・離悪口・離綺語・無貪欲・無瞋恚・正見です。
    > 不善(の法)とは、殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見の事です。
    >
    > このうち、離殺生・離偸盗・離邪淫が、身行の善法です。
    >      殺生・偸盗・邪淫が、身行の不善法です。
    >
    > このうち、離妄語・離両舌・離悪口・離綺語が、口行の善法です。
    >      妄語・両舌・悪口・綺語が、口行の不善法です。
    >
    > このうち、無貪欲・無瞋恚・正見が意行の善法です。
    >      貪欲・瞋恚・邪見が意行の不善法です。
    >
    > これら3つを合わせて、三行(身行・口行・意行)=行と表現しますが、仏陀自身はこの行を業と表現しています。<

    そうなのですね。
    十善十悪を検索したら、英語のWikipediaには『Kammapatha』という項目に載っていました。
    行為は業(カルマ)となるということなのかなぁと思いました。
    wiki『Kammapatha』
    https://en.wikipedia.org/wiki/Kammapatha

    >>不善を生じないよう勤める事。
    >>既に生じた不善を除こうと勤める事。
    >>善を生ずるよう勤める事。
    >>既に生じた善を増すように勤める事。
    >
    > の4つで正精進ですので、、例えばですが、口行の妄語(嘘の言葉)=嘘つきの人(妄語者)がいたとして、このままでは不善人ですから、仏教を学んだとすると、これが善法に変わるような精進(心がけ等の努力)が必要になりますね。嘘の言葉を吐く不善人(妄語者)が、嘘を吐かないように日々努力して、その人が妄語者ではなくなったときに離妄語者となり、過去には不善人だった人が正精進によって善人になっていくという事でしょう。
    >
    > これが上記の、
    >
    >>不善を生じないよう勤める事。
    >>既に生じた不善を除こうと勤める事。
    >>善を生ずるよう勤める事。
    >>既に生じた善を増すように勤める事。
    >
    > という事だと思いますし、同時に、邪(不善)の捨断と正(善)の具足の為に励むと言う事ですね。<

    はい(^▽^)

    >>絶対に呆れられると思うのですが、ダンマパダ112などを読んで、
    >>( ̄∀ ̄)死ぬ前の一日だけでもがんばったらチャンスあるのかしら....
    >>と怠け心全開で、悪だくみ思考してましたけど、
    >
    > 呆れはしません。逆に時の個人的な経験からすると、少しでも学ぼうとする人の存在は現世での希望です。
    > 何事も、何も実行せずに言葉としての知識だけで長年を終わらせるよりも、少しでも学び、実体験した方が良いと思います。それが、例え死ぬ直前の1日だけでもです。<

    そう言っていただけてありがたいです
    (;^_^A

    > 人間の転生先は、悪趣(地獄界・餓鬼界・畜生界)が多いと記載されています。勿論、中には天界転生者や解脱者も少なからずいるのでしょう。そして仏陀の言葉を学べるのは人間界だけですね。(天界の神々でも学べないようです)
    >
    > 何の因果か、仏教に興味がわき、仏典に触れることができ、学ぶことができました。今、現世での時は、人間だからですね。
    >
    > 原始の内容を理解するのは簡単ではないようです。しかし、全体を通して内容としての道理としてのお話の筋は通っていると感じます。
    >
    > 仏陀のお話が全て本当ならば、、多くの人間の来世が人間だというのは高い確率で外れそうです。例え天界に転生したとしても、そこから再度転生は続くようですよ。仏陀のお話が本当ならばですが。
    >
    > でも、本当だと仮定すると、”少なくとも現世での生活で”正しい善の道を歩めることになりますので、それだけでも時にとっての価値はあるように思いました。

    仏教に出会えて本当に幸せだと日々感じています。
    もし前世でも仏教に出会っていたなら、その人生を生きた方に、ありがとうと、また仏教に触れることができたよと報告したい気持ちになります。
    人間に生まれるのは大変難しいことと仏典では述べられてるのに、全然修行できてないなぁ
    (-_-;)

    兄上に書いていただいた仏教用語の区分けを表にしたらわかりやすいかなと作ってみました。
    先述のwikiにのっていた英訳もつけてみました。
    パーリ仏典はこのような区分けがいっぱいあっておもしろいなぁと思っています。
    勉強になります。ありがとうございます!


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引用返信/返信 削除キー/
■36585 / inTopicNo.81)  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2024/02/19(Mon) 08:59:39)
    2024/02/19(Mon) 13:07:26 編集(投稿者)

    pipitさんへ。おはようございます。返信をありがとうございます。

    > 不善を生じないよう勤める事。
    > 既に生じた不善を除こうと勤める事。
    > 善を生ずるよう勤める事。
    > 既に生じた善を増すように勤める事。
    > の4つで正精進という説明ですね。これらは、別名”四正勤・四正断”とも表現されているようです。

    正精進とは、四正断の努力に励む事。
    四正断とは、不善を生じないよう勤める事。既に生じた不善を除こうと勤める事。善を生ずるよう勤める事。既に生じた善を増すように勤める事。

    ここで出てくる、善と不善ですが、、

    善(の法)とは、離殺生・離偸盗・離邪淫・離妄語・離両舌・離悪口・離綺語・無貪欲・無瞋恚・正見です。
    不善(の法)とは、殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見の事です。

    このうち、離殺生・離偸盗・離邪淫が、身行の善法です。
         殺生・偸盗・邪淫が、身行の不善法です。

    このうち、離妄語・離両舌・離悪口・離綺語が、口行の善法です。
         妄語・両舌・悪口・綺語が、口行の不善法です。

    このうち、無貪欲・無瞋恚・正見が意行の善法です。
         貪欲・瞋恚・邪見が意行の不善法です。

    これら3つを合わせて、三行(身行・口行・意行)=行と表現しますが、仏陀自身はこの行を業と表現しています。

    > 不善を生じないよう勤める事。
    > 既に生じた不善を除こうと勤める事。
    > 善を生ずるよう勤める事。
    > 既に生じた善を増すように勤める事。

    の4つで正精進ですので、、例えばですが、口行の妄語(嘘の言葉)=嘘つきの人(妄語者)がいたとして、このままでは不善人ですから、仏教を学んだとすると、これが善法に変わるような精進(心がけ等の努力)が必要になりますね。嘘の言葉を吐く不善人(妄語者)が、嘘を吐かないように日々努力して、その人が妄語者ではなくなったときに離妄語者となり、過去には不善人だった人が正精進によって善人になっていくという事でしょう。

    これが上記の、

    > 不善を生じないよう勤める事。
    > 既に生じた不善を除こうと勤める事。
    > 善を生ずるよう勤める事。
    > 既に生じた善を増すように勤める事。

    という事だと思いますし、同時に、邪(不善)の捨断と正(善)の具足の為に励むと言う事ですね。

    > 絶対に呆れられると思うのですが、ダンマパダ112などを読んで、
    > ( ̄∀ ̄)死ぬ前の一日だけでもがんばったらチャンスあるのかしら....
    > と怠け心全開で、悪だくみ思考してましたけど、

    呆れはしません。逆に時の個人的な経験からすると、少しでも学ぼうとする人の存在は現世での希望です。
    何事も、何も実行せずに言葉としての知識だけで長年を終わらせるよりも、少しでも学び、実体験した方が良いと思います。それが、例え死ぬ直前の1日だけでもです。

    人間の転生先は、悪趣(地獄界・餓鬼界・畜生界)が多いと記載されています。勿論、中には天界転生者や解脱者も少なからずいるのでしょう。そして仏陀の言葉を学べるのは人間界だけですね。(天界の神々でも学べないようです)

    何の因果か、仏教に興味がわき、仏典に触れることができ、学ぶことができました。今、現世での時は、人間だからですね。

    原始の内容を理解するのは簡単ではないようです。しかし、全体を通して内容としての道理としてのお話の筋は通っていると感じます。

    仏陀のお話が全て本当ならば、、多くの人間の来世が人間だというのは高い確率で外れそうです。例え天界に転生したとしても、そこから再度転生は続くようですよ。仏陀のお話が本当ならばですが。

    でも、本当だと仮定すると、”少なくとも現世での生活で”正しい善の道を歩めることになりますので、それだけでも時にとっての価値はあるように思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■36582 / inTopicNo.82)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2024/02/18(Sun) 23:18:58)
    兄上さまー、こんばんはー(^○^)

    No36578
    > 不善を生じないよう勤める事。
    > 既に生じた不善を除こうと勤める事。
    > 善を生ずるよう勤める事。
    > 既に生じた善を増すように勤める事。
    > の4つで正精進という説明ですね。これらは、別名”四正勤・四正断”とも表現されているようです。
    >
    > 正精進とは、邪見の捨断の為、正見の具足の為に励む事。邪思惟の捨断の為、正思惟の具足の為励む事。邪語の捨断の為、正語の具足の為励む事。も、各人の正精進だという仏典内での説明もあるようです。<

    そういう説明もあるのですね!
    邪の捨断と正の具足の為に励む事かぁ、、、


    >
    > 総じて、正精進は、苦の滅尽や解脱に正しく向かう為の努力やエネルギーの継続の事を言うのでしょうか。
    >
    > 言葉にすると難しいですね。<

    推進力となるのかなぁ

    絶対に呆れられると思うのですが、ダンマパダ112などを読んで、
    ( ̄∀ ̄)死ぬ前の一日だけでもがんばったらチャンスあるのかしら....
    と怠け心全開で、悪だくみ思考してましたけど、

    rest先輩のNo36579の投稿を読んで
    >追記6.「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」(親鸞)
    諸行無常。明日でもいい、という思いから今ある機会を逃がしてしまうことの教訓。<

    反省しました.... _| ̄|○

引用返信/返信 削除キー/
■36578 / inTopicNo.83)  Re[8]: 精進
□投稿者/ 時 -(2024/02/18(Sun) 19:23:21)
    pipitさんへ。こんにちは。

    No36577に返信(pipitさんの記事)

    > 『比丘たちよ、正精進とは何か。未発生の不善(akusalanam)は、これが生じないよう、比丘らは関心を持って努力し精進(ヴィーリャ)することである。発生した不善は、これを解消するよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。未発生の善は、これが生じるよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。発生し成された善は、これが拡大するよう、比丘たちが関心を持って努力し精進することである。比丘たちよ、これを正精進と呼ぶ。』

    不善を生じないよう勤める事。
    既に生じた不善を除こうと勤める事。
    善を生ずるよう勤める事。
    既に生じた善を増すように勤める事。
    の4つで正精進という説明ですね。これらは、別名”四正勤・四正断”とも表現されているようです。

    正精進とは、邪見の捨断の為、正見の具足の為に励む事。邪思惟の捨断の為、正思惟の具足の為励む事。邪語の捨断の為、正語の具足の為励む事。も、各人の正精進だという仏典内での説明もあるようです。

    総じて、正精進は、苦の滅尽や解脱に正しく向かう為の努力やエネルギーの継続の事を言うのでしょうか。

    言葉にすると難しいですね。
引用返信/返信 削除キー/
■36577 / inTopicNo.84)  精進
□投稿者/ pipit -(2024/02/18(Sun) 17:00:57)
    2024/02/18(Sun) 17:03:49 編集(投稿者)

    八正道の一つは『正精進』なんですよね。
    wiki『八正道』に『正精進』について述べられているパーリ経典の訳が載っていました。
    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93

    『比丘たちよ、正精進とは何か。未発生の不善(akusalanam)は、これが生じないよう、比丘らは関心を持って努力し精進(ヴィーリャ)することである。発生した不善は、これを解消するよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。未発生の善は、これが生じるよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。発生し成された善は、これが拡大するよう、比丘たちが関心を持って努力し精進することである。比丘たちよ、これを正精進と呼ぶ。』

    パーリ仏典, 相応部 道相応, 無明品 にあるそうです。

    Bhikkhu Sujatoさまが精進(ヴィーリャ)をenergyに関連して訳されていたのでおもしろく感じました。
    wiki見たら、
    『ヴィーリャ (Virya) の語句的意味は「強い男の状態」[1]「男らしさ」[2]である。ヴェーダ文献では、この用語は「英雄」「剛健さ」と関連付けられている。仏教においては、求道者の「エネルギー」「勤労」と関連付けられ、解脱達成のための必要な条件として繰り返し述べている。』とあって、そうなんだーと初めて知りました。
    ↑上記は語源的意味で、仏教的には↓、
    『阿毘達磨集論によれば、
    ヴィリアとは何か? 常に活発で、献身的で、揺れ動かず、後戻りせず不屈である心の意思である。それはポジティブな貢献への、完成・実現につながるものである。[3]
    大乗仏教のアビダルマでは、ヴィーリャは一般的に「勤勉」と訳される[3]。』
    とのことです。


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