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■36786 / inTopicNo.73)  Re[13]: 日記
  
□投稿者/ pipit -(2024/03/13(Wed) 10:51:19)
    2024/03/13(Wed) 10:52:10 編集(投稿者)

    No36785
    >朝倉先生も柔軟そうで、でも芯がありそうで、『倫理学』の学者さんなのかなぁ、<

    検索してみたら、倫理学限定の先生じゃなかったようです。

    ↓2024年2月に発売された朝倉友海先生の本
    『ことばと世界が変わるとき
     意味変化の哲学』

    http://www.transview.co.jp/smp/book/b641608.html

    の試し読みができて、朝倉先生の経歴ものってて、専門は『哲学』とありました。
    『京都大学理学部卒業』とあるので、理系から哲学に進まれたのかなぁ
    とても幅広く勉強されている先生だったのですね(゚Д゚)

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■36785 / inTopicNo.74)  日記
□投稿者/ pipit -(2024/03/13(Wed) 09:44:24)
    2024/03/13(Wed) 09:55:38 編集(投稿者)

    みなさまこんにちはー

    カントは善悪をどう表現してるのかな?と検索して見つけた動画がとてもおもしろかったです。(カント倫理学については複雑そうで自分でコツコツ読んでいくしかないかなと思いましたが^^;)

    朝倉友海先生
    『悪をめぐる三つのパラドックス』

    https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_2077/

    動画内容についての記事
    https://ocw.u-tokyo.ac.jp/eaa06/


    荘子、カント、ニーチェ、天台思想などなど様々な話題が出てきて、勉強になりました。

    朝倉先生も柔軟そうで、でも芯がありそうで、『倫理学』の学者さんなのかなぁ、
    カント学者の秋元康隆先生も元気があっておもしろそうだなぁと思ってるのですが、
    『倫理学』の先生(?)にそれぞれの志をもって進まれているような印象を受ける方たちがおられるのは、門外漢ながら嬉しい気持ちになります(#^.^#)

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■36783 / inTopicNo.75)  Re[11]: ダンマパダ第九章『悪』・117.118
□投稿者/ pipit -(2024/03/12(Tue) 23:15:20)
    みなさまこんばんはー。ダンマパダ117.118です♪

    If you do something bad, don’t do it again and again,

    don’t set your heart on it, for piling up evil is suffering.


    If you do something good, do it again and again,

    set your heart on it, for piling up goodness is joyful.



    もしも悪いことをするなら、 それを何度も行わないで、

    それを志向しないで、 悪が積まれるのは苦しみだから。



    もしも善いことをするなら、 それを何度も行って、

    それを志向して、 善が積まれるのは喜びだから。
引用返信/返信 削除キー/
■36741 / inTopicNo.76)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/07(Thu) 20:04:12)
    兄上さま、こんばんはー(^O^)

    No36739
    > 私の理解での仏教では、物事の判断基準を、損得感情や有利不利ではなくて善悪で判断します。そこで大切なのは、大元の善とは何か?悪(不善)とは何か?になると思います。
    >
    > 善と悪の初期での具体的な分類は、以前、pipitさんが表にして下さったもので良いと思います。
    >
    > 善法(離殺生・離偸盗・離邪淫・離妄語・離両舌・離悪口・離綺語・無貪欲・無瞋恚・正見)
    > 悪法(殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見)です。
    >
    > 仏典全体としての印象での悪(不善)は、自身の心の中で生起する、怠け心や物事の先延ばし、不安や恐怖や欲望といった事のようです。悪魔との対話等で出てくる悪魔の正体は、大鎌を持った黒装束のおどろおどろしい実体としての物などではなく、自身の心の中の不善(悪)を助長させる機根(理解する度量・器・性格)の事のようですね。逆に自身の心の中でのなにがしかの善のふとした気づきやその確認を神々との対話という形で表現しているようです。<

    ダンマパダ116を訳したとき、仏教的『悪』ってなにかなぁ??と思って、それから、時さんに書き込みいただいた十善十悪のことも思い起こしました。


    > ですから悪魔の正体を見破ると、悪魔(悪)は消え去るしかありません。
    > 「死魔よ、そなたは打ち破られた」「負けたな、ターミネーター!」です(笑)
    >
    > ですので、日々少しずつ善を心がけて、自身の心の中で発見した悪に気が付くたびに、少しずつ悪をなさないように心がけて、そして善をなすように心がけた生活を送ることでしょうか。
    >
    > ・不善を生じないよう勤める事。
    > ・既に生じた不善を除こうと勤める事。
    > ・善を生ずるよう勤める事。
    > ・既に生じた善を増すように勤める事。
    >
    > の4つで四正断と表現し、これに日々励むことを八支聖道の中の正精進と表現しています。
    >
    > 心を悪から守るように出来ればよいですね^^

    怠け者でだらしない私でも、四正断や正精進の教えが心にあるだけでも、知らない時より護られているように思えてしまいます。

    だらしないので、よく釈尊にしかられてる気持ちになりますけど....
    (ーー;)

    時さん、いつもありがとうございます!

引用返信/返信 削除キー/
■36739 / inTopicNo.77)  Re[11]: ダンマパダ第九章『悪』・116
□投稿者/ 時 -(2024/03/07(Thu) 13:23:02)
    2024/03/07(Thu) 14:18:16 編集(投稿者)
    2024/03/07(Thu) 14:10:08 編集(投稿者)

    pipitさんへ。こんにちは。

    No36732に返信(pipitさんの記事)

    > 善行を急ぐように
    > 心を悪から守るように
    > なぜならあなたが善を行うことにゆっくりしているとき、
    > あなたの思いは悪を喜ぶから。

    私の理解での仏教では、物事の判断基準を、損得感情や有利不利ではなくて善悪で判断します。そこで大切なのは、大元の善とは何か?悪(不善)とは何か?になると思います。

    善と悪の初期での具体的な分類は、以前、pipitさんが表にして下さったもので良いと思います。

    善法(離殺生・離偸盗・離邪淫・離妄語・離両舌・離悪口・離綺語・無貪欲・無瞋恚・正見)
    悪法(殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見)です。

    仏典全体としての印象での悪(不善)は、自身の心の中で生起する、怠け心や物事の先延ばし、不安や恐怖や欲望といった事のようです。悪魔との対話等で出てくる悪魔の正体は、大鎌を持った黒装束のおどろおどろしい実体としての物などではなく、自身の心の中の不善(悪)を助長させる機根(理解する度量・器・性格)の事のようですね。逆に自身の心の中でのなにがしかの善のふとした気づきやその確認を神々との対話という形で表現しているようです。

    ですから悪魔の正体を見破ると、悪魔(悪)は消え去るしかありません。
    「死魔よ、そなたは打ち破られた」「負けたな、ターミネーター!」です(笑)

    ですので、日々少しずつ善を心がけて、自身の心の中で発見した悪に気が付くたびに、少しずつ悪をなさないように心がけて、そして善をなすように心がけた生活を送ることでしょうか。

    ・不善を生じないよう勤める事。
    ・既に生じた不善を除こうと勤める事。
    ・善を生ずるよう勤める事。
    ・既に生じた善を増すように勤める事。

    の4つで四正断と表現し、これに日々励むことを八支聖道の中の正精進と表現しています。

    心を悪から守るように出来ればよいですね^^
引用返信/返信 削除キー/
■36732 / inTopicNo.78)  ダンマパダ第九章『悪』・116
□投稿者/ pipit -(2024/03/06(Wed) 22:38:09)
    みなさまこんばんは。今日から『悪』の章です。

    (Bhikkhu Sujatoさま英訳)

    Rush to do good,

    shield your mind from evil;

    for when you’re slow to do good,

    your thoughts delight in wickedness.


    (英訳のpipit日訳)

    善行を急ぐように

    心を悪から守るように

    なぜならあなたが善を行うことにゆっくりしているとき、

    あなたの思いは悪を喜ぶから。

引用返信/返信 削除キー/
■36674 / inTopicNo.79)  Dutiyamarapasasutta
□投稿者/ pipit -(2024/02/28(Wed) 11:10:19)
    2024/02/28(Wed) 12:20:24 編集(投稿者)

    みなさまこんにちは(^O^)

    中村元先生訳の岩波文庫で、釈尊が悟った弟子に教えを伝えなさいと語ったシーンを見つけました。

    岩波文庫『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤU』中村元先生訳、p18.19にある、
    『わな(二)』という経典でした。

    相応部経典(そうおうぶきょうてん)の悪魔相応の第一章の第五節におさめられているようです。

    ↓関西パーリ語実習会さまが日訳されていました。

    https://suttacentral.net/sn4.5/jpn/kansai?lang=en&reference=none&highlight=false


    ↓光明寺さまのサイトではパーリ語原語も見ることができて本当にありがたいですm(_ _)m

    https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsgv/sn04/sn04c05.files/sheet001.htm

    この経文では、最後に悪魔さんがでてきて、
    釈尊に詩で語りかけるんですけど、

    光明寺さまが釈尊の締めくくりの言葉として
    『死魔よ、そなたは打ち破られた』
    と日訳されている箇所を、

    Bhikkhu Sujatoさまは、
    『You’re beaten, terminator!』
    (DeepL日訳: 負けたな、ターミネーター!)

    と英訳されてて、映画のターミネーター像を思い出しました
    (^◇^;)強そうな悪魔さんだー

    https://suttacentral.net/sn4.5/en/sujato?lang=en&layout=plain&reference=none&notes=asterisk&highlight=false&script=latin
引用返信/返信 削除キー/
■36668 / inTopicNo.80)  ダンマパダ第八章『千』・115
□投稿者/ pipit -(2024/02/27(Tue) 00:25:01)
引用返信/返信 削除キー/
■36624 / inTopicNo.81)  ダンマパダ第八章『千』・114
□投稿者/ pipit -(2024/02/23(Fri) 23:27:04)
    みなさまこんばんは。ダンマパダ114です(^^)

    Better to live a single day
    seeing the state free of death

    than to live a hundred years
    blind to the state free of death.

    死から解放されている境地を見て一日を生きる方がよい。

    死から解放されている境地を見ることなく百年を生きるよりは。

引用返信/返信 削除キー/
■36604 / inTopicNo.82)  ダンマパダ第八章『千』・113
□投稿者/ pipit -(2024/02/22(Thu) 00:08:43)
    2024/02/22(Thu) 00:11:37 編集(投稿者)

    みなさまこんばんは。ダンマパダ113のBhikkhu Sujatoさま英訳のpipit日訳です。

    Better to live a single day
    seeing rise and fall

    than to live a hundred years
    blind to rise and fall.


    生じることと滅することを見て
    一日を生きる方がよい

    生じることと滅することを見ずに
    100年の間生きるより

    (pipit雑感)
    seeing(見て) と訳されている原語は、passato で、辞書を見てみると、
    passati 見る;見出す,知る とありました。

    ヴィパッサナーのパッサナーと同じ単語かなーと思ったので、vi は接頭語かな?と辞書で見ると、
    vi- 分,離,別,異,反 とありました。

    vipassati では、観察する,観法をなす. とありました。

    wiki『ヴィパッサナー』では、※抜粋引用。記号省略。
    『ヴィパッサナー(巴: vipassana[注釈 1], ウィパッサナーとも[4])は「観察する」を意味する[5]。また、ヴィパッサナー(巴: vi-passana)とは「分けて観る」、「物事をあるがままに見る」という意味である[要出典]。』

    そうかぁ、ヴィパッサナーって細かく見るという意味なのかと勝手に思ってたけど、細かく見るというのは、分けて見るということでもあるんだなーと思いました。

    そういえばカントのクリティーク(批判)も語源は『分ける』だと御子柴先生がおっしゃってたような...
    本を探すと、『自分で考える勇気 カント哲学入門』岩波ジュニア新書、p19に載っていました。
    『「批判(ドイツ語でクリティーク、Kritik)」はギリシア語で「分ける」という意味をもつクリノーという言葉に由来します。』
    引用終了。

    あーそういえば、認識を一枚の織物として、糸や構造を分けてみて行く...
    まぁ、論証と観察は異なる領域の作業なんでしょうけどね(^ ^)


引用返信/返信 削除キー/
■36598 / inTopicNo.83)  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2024/02/20(Tue) 18:47:27)
    時さん、こんばんはー(^○^)

    No36596
    > 仏陀は、”業”の定義を思念や想念の事だとしています。なぜならば、人はまずは思念して想念として起こったことの次に三行(業)(身行(業)・口行(業)・意行(業))に移すからだという事です。これは人が、心に浮かんだことを言動に移しているという事を考えると分かると思います。<

    ダンマパダの最初の二偈を思い起こしました。

    『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。---車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。』

    『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。---影がそのからだから離れないように。』

    (『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元先生訳、p10より引用)


    > そしてこの業の発生源が三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)の場合には、不善人となります。(人間の大半がこの状態だという事も分かると思います)
    >
    > 三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)→業(思念・想念)→不善の行(身行・口行・意行)=不善人です。
    >
    > この三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を、各修行により滅尽できれば、涅槃(貪欲・瞋恚・愚痴の滅)という境地の獲得者・体現者となり、この場合には、前回書きました不善人から、結果的に善人に変化しているという事です。
    >
    > 涅槃体現(三毒の滅)→業(思念・想念)→善の行(身行・口行・意行)=善人です。
    >
    > 例えば、瞋恚(人を害する心や悪意を持つ)者が修行により、無瞋恚者に変化する、または、偸盗(与えられていない物を盗み心を起こして取る)者が修行により離偸盗者に変化するという事で、不善人から善人に変化しますね。
    >
    > ですので、上記の三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を各修行により滅尽できたときには、涅槃の体現者であり善人となります。
    >
    > そして通常、善人ではない不善人は無明の状態だという事です。無明とは、四聖諦を知らないことと定義されていますので、四聖諦を知ることができれば、無明は滅尽され、出口の見えない苦の世界、五取蘊苦(世間)の世界から抜け出ることができますという事のようです。ここで、過去に何度も繰り返したであろう輪廻転生というメビウスリングの輪が、この人間界で切れます。
    >
    > 四聖諦を遍く学びきれれば、苦の滅尽された世界(境地)でその死を迎えるときまで心穏やかに暮らせるという事ですね。時の理解が正しいのであれば、仏典内の仏陀やサーリプッタやモッガラーナたちは、見かけ上は同じ世界に生存していたとしても、常に平穏(平安)な心の状態を獲得していたと思います。<

    ダンマパダ最初のニ偈を引用したこともあり、そういえばダンマパダの最後はどうしめくくられてるのかなーと見てみました。

    ダンマパダ423
    『前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、---かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。』
    (中村元先生訳、同本p69より引用)

    でした。

    > まだまだ細かいことは多くあるのですが、思いつくままにざっとした感じで書いてみましたが、あまりpipitさんご自身で学ばれていることの邪魔をしてもいけませんので、また何かありましたら書き込みをさせていただきたいと思います。
    >
    > では、今回はこの辺で。m(__)m<

    いつでも大歓迎ですよー(*^ω^*)♪

    最近の天候は寒暖の差が激しいですね、どうぞお気をつけてくださいませ。
    いつもありがとうございます!
    (^人^)
引用返信/返信 削除キー/
■36596 / inTopicNo.84)  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2024/02/20(Tue) 00:19:49)
    2024/02/20(Tue) 11:33:46 編集(投稿者)

    pipitさんへ。こんばんは。返信をありがとうございます。

    > 行為は業(カルマ)となるということなのかなぁと思いました。

    仏陀は、”業”の定義を思念や想念の事だとしています。なぜならば、人はまずは思念して想念として起こったことの次に三行(業)(身行(業)・口行(業)・意行(業))に移すからだという事です。これは人が、心に浮かんだことを言動に移しているという事を考えると分かると思います。

    そしてこの業の発生源が三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)の場合には、不善人となります。(人間の大半がこの状態だという事も分かると思います)

    三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)→業(思念・想念)→不善の行(身行・口行・意行)=不善人です。

    この三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を、各修行により滅尽できれば、涅槃(貪欲・瞋恚・愚痴の滅)という境地の獲得者・体現者となり、この場合には、前回書きました不善人から、結果的に善人に変化しているという事です。

    涅槃体現(三毒の滅)→業(思念・想念)→善の行(身行・口行・意行)=善人です。

    例えば、瞋恚(人を害する心や悪意を持つ)者が修行により、無瞋恚者に変化する、または、偸盗(与えられていない物を盗み心を起こして取る)者が修行により離偸盗者に変化するという事で、不善人から善人に変化しますね。

    ですので、上記の三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を各修行により滅尽できたときには、涅槃の体現者であり善人となります。

    そして通常、善人ではない不善人は無明の状態だという事です。無明とは、四聖諦を知らないことと定義されていますので、四聖諦を知ることができれば、無明は滅尽され、出口の見えない苦の世界、五取蘊苦(世間)の世界から抜け出ることができますという事のようです。ここで、過去に何度も繰り返したであろう輪廻転生というメビウスリングの輪が、この人間界で切れます。

    四聖諦を遍く学びきれれば、苦の滅尽された世界(境地)でその死を迎えるときまで心穏やかに暮らせるという事ですね。時の理解が正しいのであれば、仏典内の仏陀やサーリプッタやモッガラーナたちは、見かけ上は同じ世界に生存していたとしても、常に平穏(平安)な心の状態を獲得していたと思います。

    > 兄上に書いていただいた仏教用語の区分けを表にしたらわかりやすいかなと作ってみました。
    > 先述のwikiにのっていた英訳もつけてみました。

    おー、これ、pipitさんが作られたのですね。よくできていると思います^^

    まだまだ細かいことは多くあるのですが、思いつくままにざっとした感じで書いてみましたが、あまりpipitさんご自身で学ばれていることの邪魔をしてもいけませんので、また何かありましたら書き込みをさせていただきたいと思います。

    では、今回はこの辺で。m(__)m
引用返信/返信 削除キー/

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