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■36403 / inTopicNo.25)  Re[27]: 時間論の系譜
  
□投稿者/ rest -(2024/02/03(Sat) 11:04:32)
    2024/02/03(Sat) 11:20:12 編集(投稿者)
    No36299に返信(restさんの記事)
    > ■No36228に返信(restさんの記事)
    >>2024/01/22(Mon) 09:34:04 編集(投稿者)
    >>■No36150に返信(restさんの記事)
    > >>2024/01/14(Sun) 09:12:12 編集(投稿者)
    > >>■No36029に返信(restさんの記事)
    >>>>■No34818に返信(restさんの記事)
    > >>>>2023/10/29(Sun) 22:29:54 編集(投稿者)
    > >>>>
    > >>>>時間論の系譜には二つある。
    > >>>>哲学者マクタガートにおけるA系列、B系列、C系列の捉え方、とカントの時間論。
    > >>>>前者はA系列のA特性と出来事のB特性が矛盾し従ってA系列の時間は実在せず、B系列=A系列+C系列なのでA系列が成り立たない以上B系列も成り立たない。残るはC系列のみである、とする考え方。映像フィルムのようなC系列のみが実在し、変化を示すA系列を幻想とした。(入不二基義 著『時間は実在するか』講談社現代新書 参照)
    > >>>>次にカントの時間論。まず空間はすなわち三次元空間は唯一無二であること(『純粋理性批判』B39)これは何を意味するのかというと過去も未来も無数の三次元空間から成り立っているとする過去実在論、未来実在論と一線を画する考え方である。現在時における現実の三次元空間がただ一つだけあって過去、未来の三次元空間は実在しない。無数ではない。この唯一無二の空間が永遠に存在し永遠の現在が示される。時間とは社会的約束事であり実体はない。「時間に絶対的実在性を認めることは不可能である。時間は我々の内的直観の形式にほかならない」(同著 B54)
    > >>>> 後者は私のカント解釈である。
    >>>>
    >>>>追記。「予知夢」というのがあって、未来の実在性の根拠としている人もいるが、はたして根拠たりえるだろうか。予言の当たる確率というところを検索してもらえればわかるが科学的観点からみると予言の当たる確率は非常に低い、むしろ当たらない確率が高い。予言(予知夢)が当たったとされる事例は科学の前提である再現性はなく、科学的分析では偶然の一致、認知バイアス、後付けの解釈などによって説明されることが一般的。予知夢では未来の実在性の証拠たりえない。
    >>>> 「来年のことを言ったら鬼が笑う」、「一寸先は闇」というように未来の非実在性こそ現実的のように思えるがどうだろうか。キリスト教のヨハネの黙示録に示されるような終末預言を信じておられる方もいるが、旧約聖書のヨナ書において神が預言を撤回される場面があるので、同じように黙示録的預言を撤回される可能性もある。つまり未来は映像フィルムのように決定論的に実在するのではなく、神の計画(意志)として存在していると考えたほうが自然だろうと思う。
    >>>>
    >>>>時間の非実在性を前提にすると(ただし同じ時間の非実在性を説くマクタガートのc系列の映像フィルムのような時間観と違って)過去も未来も実在しない「永遠の現在」が見えてくる。「永遠」は確かに自覚できるけれども自己の存在は永遠ではない。やがて「死」が訪れる。死後「無」になる恐怖はないだろうか。仏教では「無記」というかたちで思考停止する。修行の邪魔になるので考えるな、ということらしいが「無」の恐怖は修行で消えるだろうか。
    > >>
    > >>追記2.三次元空間の唯一無二性、ただひとつの空間というのが「永遠の現在」の根拠であるが、永遠でない生命の「死」は三次元空間の本質であるところの「無」へ回帰する。非永遠の存在の「死」は永遠の「無」へ導かれる。
    > >> もし命が永遠なら、命の価値、「尊さ」は認識されない。医学も不要になるし、保険会社もつぶれる。永遠ではない、限られた命だからこそ、命を惜しみ、命を尊ぶのかもしれない。しかし自分の身近なひとには長生きしてもらいたい、できれば永遠の命をと思うかもしれない。永遠は無条件に尊いとも思っている。非永遠には非永遠の価値があり、永遠には永遠の価値があるということか。
    > >> 「三次元空間」の本質は「無」とも「空」ともいわれている。仏教においては般若心経の「色不異空。空不異色色即是空。空即是色」として説かれ、キリスト教では旧約聖書の『伝道者の書』に「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」と示されている。
    > >> 「無」の空間は存在するので「有」でもある。論理的には矛盾して成り立たないが、現実的には成り立っている。「無」は「有」でもある。これは何を意味するのだろうか。死んだら「無」になる、というのは死んだら「有」でもある、ということか。まるでシュレディンガーの猫のようだ。
    > >>
    >>>
    >>追記3.『東京物語』で有名な小津安二郎監督の墓が鎌倉の禅寺にある。その墓碑銘には『無』とだけ記してある。非永遠の命を受け入れ、「無」の世界を受容する境地だったのだろう。死後「無」を受け入れ、命の尊さを知るゆえの諦めなのかもしれない。死の意義を深く自覚するということだろうか。死後の「無」には意味、価値があると。
    >> しかし凡夫は永遠の沈黙に耐えられるだろうか。どうしても死後の「無」への恐怖 が生じてしまう。そこで死後の生の可能性を考えてみることにする。まず「無」は存在するので「有」である。物質を無限分割するとゼロになる。それは「無」のもつ「有」の性質である。形はないが確かに存在する「有」である。それはあらゆる物質の生みの親、出発点であると考えられる。だから死後「無」は別の生の可能性を含んだものと考えられる。生まれる前の「無」は「有」であり、存命中も「有」であり、死後の「無」も「有」である。たぶん記憶はないが自己意識は永遠に続くかもしれない。凡夫にとってはそれを信じるしかない。
    >> 永遠の三次元空間をのぞいて、あらゆる事物は変化する。ひとの命も。平家物語に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」とあるごとく「諸行無常」ということのようだ。万物流転が宿命か。
    >
    > 追記4.予知に関して再考。科学的思考は類推と個別化のバランスが大切だと前に述べた。バランスが崩れるとたとえば類推が行き過ぎると妄想が生じる。今の事象が以前夢みたことと同じだ、類推がはじまると微妙な違いが無視されて個別化ができなくなり、やっぱり未来は実在するのだ、と思い込んでしまう。その他の可能性が無視されるという現象。偶然の一致も含めて。
    >  新約聖書のルカの福音書22章34節「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないといいます。」とイエスは予知している。ペテロは牢であろうと死であろうとイエスについていくといっていたが予知通りにことは進んでいく。未来が予知通りに進むなら未来が実在するのではないかと考えてしまうのが類推による思い込みだろう。その他の可能性を考えないからそうなるといえる。使徒行伝2章4節において精霊に満たされた弟子たちが突如として異邦人の言葉を話しはじめた。同様にして精霊に導かれたペテロが予知通りの行動をしたと考えられる。この場合の予知は計画であってあらかじめ未来の実在を前提としない。

    追記5.未来は実在しないけれども「過去」は実在するという見方をする人がけっこういるようだ。そこで「過去」の実在性について検討してみたい。
     哲学者マクタガートの時間論においてA系列は過去と未来は明確に区分されているけれどもB系列においては区分されていない。それどころか過去と未来は重なっている。B系列=A系列+C系列なのでB系列の中にA系列が含まれている。たとえばある時点からみた未来は別の時点からみると過去になるということが生じる。年表を考えてみたらいい。1960年から未来は1980年からみると過去になる。未来は過去でもあるということになる。その結果「未来」が実在しなければ「過去」も実在しないということが導かれる。過去も未来も時間軸(年表)においてひとつながりの連続体なので切り離して考えることはできない。
     マクタガートはA系列の「変化」を幻想として、すなわち仏教的な「諸行無常」を否定して「変化」のないB系列(正確にはA系列を否定しているのでC系列)、変化のない映像フィルムのみを認めている。そこにおいては過去も未来もいっしょなので未来の実在性を否定すれば必然的に過去の実在性も否定されることになる。
     カントの三次元空間の唯一無二説からは「未来」の無数の三次元空間や「過去」の無数の三次元空間の実在性を否定して「現在」における現実の三次元空間のみを唯一無二と考えることができる。そこにおいては三次元空間をのぞいてはすべてが変化するという「諸行無常」を本質と考える。「時間」とは太陽の変化を基準に考え出された社会的約束事であり、すなわちルールとして存在している。この「時間」には背景に年表という実体はない。マクタガート的にはA系列が実在であってB系列は幻想なのだと結論としていえる。ただ「過去」は実在しないとはいえ有用性があることは間違いない。過去の記憶、記録から教訓を得たり、事実を再構成したり役立っていることも銘記しておきたい。
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■36342 / inTopicNo.26)  余談。党議拘束への疑問
□投稿者/ rest -(2024/01/31(Wed) 09:49:34)
    2024/01/31(Wed) 10:51:47 編集(投稿者)
    2024/01/31(Wed) 09:52:39 編集(投稿者)
    2024/01/31(Wed) 09:52:30 編集(投稿者)

    私の過去ログに保存しておきたいので他のトピから転記します。

    投稿者/ rest -(2024/01/27(Sat) 22:24:52)

    以前に大手のマスコミに投稿して没になった原稿の大筋をまとめてみた。
    仮定の話だが、仮に国会の衆議院がが100名の議員で構成されているとしよう。それぞれの地域を代表してきている選挙で選ばれた議員だ。ある議案が提出された。ある国と戦争を開始するという法案がだされた。賛成が40名で反対が60名だった。本来なら法案は否決されるはずだが通過してしまった。なぜか、それは個人より組織が優先するという政党政治があったからだ。自民党が60名おり、野党が40名だ。自民党内部で35名が賛成で25名が反対だった。野党は40名全員が反対だった。反対が65名で多数なのになぜか法案が可決してしまった。党議拘束が自民党全員に適用され、反対派の25名は賛成にまわったからだ。この結果戦争法案は自民党60名の可決で通過してしまった。政治家個人では国民の民意を反映しているのに、組織優先にすると民意が反映されなくなる。国民全体でみると一部の少数派が実権をにぎることになり、独裁政治となんら変わらない。自民党の賛成派の中にさらに派閥という組織をつくると国民全体から見るとごく少数の人たちが権力を握り、民意が反映せず独裁的な派閥政治が横行してしまう。現代は非常に危険な時代だと思う。

    追記。最も理想的な政治形態はなんだろうか、と考えている。ニーチェの精神的貴族による政治というのは、衆愚化された大衆政治の対極にあるものと思う。それは理想ではあるがそれに近いもっと民度の高い民主主義というのも考えていいのかもしれない。それには国民の教育レベルが高くなければならないと思うが。ところでそのための理想の教育ってなんだろう?利己主義とは違う夏目漱石の「個人主義」か、一方的な犠牲愛か、そのほか何があるだろうか。指針となるのは。
引用返信/返信 削除キー/
■36299 / inTopicNo.27)  Re[26]: 時間論の系譜
□投稿者/ rest -(2024/01/27(Sat) 10:41:11)
    2024/01/28(Sun) 08:46:01 編集(投稿者)
    2024/01/27(Sat) 23:07:35 編集(投稿者)
    2024/01/27(Sat) 10:58:53 編集(投稿者)
    No36228に返信(restさんの記事)
    > 2024/01/22(Mon) 09:34:04 編集(投稿者)
    > ■No36150に返信(restさんの記事)
    >>2024/01/14(Sun) 09:12:12 編集(投稿者)
    >>■No36029に返信(restさんの記事)
    > >>■No34818に返信(restさんの記事)
    >>>>2023/10/29(Sun) 22:29:54 編集(投稿者)
    >>>>
    >>>>時間論の系譜には二つある。
    >>>>哲学者マクタガートにおけるA系列、B系列、C系列の捉え方、とカントの時間論。
    >>>>前者はA系列のA特性と出来事のB特性が矛盾し従ってA系列の時間は実在せず、B系列=A系列+C系列なのでA系列が成り立たない以上B系列も成り立たない。残るはC系列のみである、とする考え方。映像フィルムのようなC系列のみが実在し、変化を示すA系列を幻想とした。(入不二基義 著『時間は実在するか』講談社現代新書 参照)
    >>>>次にカントの時間論。まず空間はすなわち三次元空間は唯一無二であること(『純粋理性批判』B39)これは何を意味するのかというと過去も未来も無数の三次元空間から成り立っているとする過去実在論、未来実在論と一線を画する考え方である。現在時における現実の三次元空間がただ一つだけあって過去、未来の三次元空間は実在しない。無数ではない。この唯一無二の空間が永遠に存在し永遠の現在が示される。時間とは社会的約束事であり実体はない。「時間に絶対的実在性を認めることは不可能である。時間は我々の内的直観の形式にほかならない」(同著 B54)
    >>>> 後者は私のカント解釈である。
    > >>
    > >>追記。「予知夢」というのがあって、未来の実在性の根拠としている人もいるが、はたして根拠たりえるだろうか。予言の当たる確率というところを検索してもらえればわかるが科学的観点からみると予言の当たる確率は非常に低い、むしろ当たらない確率が高い。予言(予知夢)が当たったとされる事例は科学の前提である再現性はなく、科学的分析では偶然の一致、認知バイアス、後付けの解釈などによって説明されることが一般的。予知夢では未来の実在性の証拠たりえない。
    > >> 「来年のことを言ったら鬼が笑う」、「一寸先は闇」というように未来の非実在性こそ現実的のように思えるがどうだろうか。キリスト教のヨハネの黙示録に示されるような終末預言を信じておられる方もいるが、旧約聖書のヨナ書において神が預言を撤回される場面があるので、同じように黙示録的預言を撤回される可能性もある。つまり未来は映像フィルムのように決定論的に実在するのではなく、神の計画(意志)として存在していると考えたほうが自然だろうと思う。
    > >>
    > >>時間の非実在性を前提にすると(ただし同じ時間の非実在性を説くマクタガートのc系列の映像フィルムのような時間観と違って)過去も未来も実在しない「永遠の現在」が見えてくる。「永遠」は確かに自覚できるけれども自己の存在は永遠ではない。やがて「死」が訪れる。死後「無」になる恐怖はないだろうか。仏教では「無記」というかたちで思考停止する。修行の邪魔になるので考えるな、ということらしいが「無」の恐怖は修行で消えるだろうか。
    >>
    >>追記2.三次元空間の唯一無二性、ただひとつの空間というのが「永遠の現在」の根拠であるが、永遠でない生命の「死」は三次元空間の本質であるところの「無」へ回帰する。非永遠の存在の「死」は永遠の「無」へ導かれる。
    >> もし命が永遠なら、命の価値、「尊さ」は認識されない。医学も不要になるし、保険会社もつぶれる。永遠ではない、限られた命だからこそ、命を惜しみ、命を尊ぶのかもしれない。しかし自分の身近なひとには長生きしてもらいたい、できれば永遠の命をと思うかもしれない。永遠は無条件に尊いとも思っている。非永遠には非永遠の価値があり、永遠には永遠の価値があるということか。
    >> 「三次元空間」の本質は「無」とも「空」ともいわれている。仏教においては般若心経の「色不異空。空不異色色即是空。空即是色」として説かれ、キリスト教では旧約聖書の『伝道者の書』に「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」と示されている。
    >> 「無」の空間は存在するので「有」でもある。論理的には矛盾して成り立たないが、現実的には成り立っている。「無」は「有」でもある。これは何を意味するのだろうか。死んだら「無」になる、というのは死んだら「有」でもある、ということか。まるでシュレディンガーの猫のようだ。
    >>
    > >
    > 追記3.『東京物語』で有名な小津安二郎監督の墓が鎌倉の禅寺にある。その墓碑銘には『無』とだけ記してある。非永遠の命を受け入れ、「無」の世界を受容する境地だったのだろう。死後「無」を受け入れ、命の尊さを知るゆえの諦めなのかもしれない。死の意義を深く自覚するということだろうか。死後の「無」には意味、価値があると。
    >  しかし凡夫は永遠の沈黙に耐えられるだろうか。どうしても死後の「無」への恐怖 が生じてしまう。そこで死後の生の可能性を考えてみることにする。まず「無」は存在するので「有」である。物質を無限分割するとゼロになる。それは「無」のもつ「有」の性質である。形はないが確かに存在する「有」である。それはあらゆる物質の生みの親、出発点であると考えられる。だから死後「無」は別の生の可能性を含んだものと考えられる。生まれる前の「無」は「有」であり、存命中も「有」であり、死後の「無」も「有」である。たぶん記憶はないが自己意識は永遠に続くかもしれない。凡夫にとってはそれを信じるしかない。
    >  永遠の三次元空間をのぞいて、あらゆる事物は変化する。ひとの命も。平家物語に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」とあるごとく「諸行無常」ということのようだ。万物流転が宿命か。

    追記4.予知に関して再考。科学的思考は類推と個別化のバランスが大切だと前に述べた。バランスが崩れるとたとえば類推が行き過ぎると妄想が生じる。今の事象が以前夢みたことと同じだ、類推がはじまると微妙な違いが無視されて個別化ができなくなり、やっぱり未来は実在するのだ、と思い込んでしまう。その他の可能性が無視されるという現象。偶然の一致も含めて。
     新約聖書のルカの福音書22章34節「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないといいます。」とイエスは予知している。ペテロは牢であろうと死であろうとイエスについていくといっていたが予知通りにことは進んでいく。未来が予知通りに進むなら未来が実在するのではないかと考えてしまうのが類推による思い込みだろう。その他の可能性を考えないからそうなるといえる。使徒行伝2章4節において精霊に満たされた弟子たちが突如として異邦人の言葉を話しはじめた。同様にして精霊に導かれたペテロが予知通りの行動をしたと考えられる。この場合の予知は計画であってあらかじめ未来の実在を前提としない。
引用返信/返信 削除キー/
■36228 / inTopicNo.28)  Re[25]: 時間論の系譜
□投稿者/ rest -(2024/01/20(Sat) 10:29:31)
    2024/01/22(Mon) 09:34:04 編集(投稿者)
    2024/01/21(Sun) 09:04:08 編集(投稿者)
    2024/01/21(Sun) 08:52:27 編集(投稿者)
    2024/01/20(Sat) 10:33:11 編集(投稿者)
    No36150に返信(restさんの記事)
    > 2024/01/14(Sun) 09:12:12 編集(投稿者)
    > ■No36029に返信(restさんの記事)
    >>■No34818に返信(restさんの記事)
    > >>2023/10/29(Sun) 22:29:54 編集(投稿者)
    > >>
    > >>時間論の系譜には二つある。
    > >>哲学者マクタガートにおけるA系列、B系列、C系列の捉え方、とカントの時間論。
    > >>前者はA系列のA特性と出来事のB特性が矛盾し従ってA系列の時間は実在せず、B系列=A系列+C系列なのでA系列が成り立たない以上B系列も成り立たない。残るはC系列のみである、とする考え方。映像フィルムのようなC系列のみが実在し、変化を示すA系列を幻想とした。(入不二基義 著『時間は実在するか』講談社現代新書 参照)
    > >>次にカントの時間論。まず空間はすなわち三次元空間は唯一無二であること(『純粋理性批判』B39)これは何を意味するのかというと過去も未来も無数の三次元空間から成り立っているとする過去実在論、未来実在論と一線を画する考え方である。現在時における現実の三次元空間がただ一つだけあって過去、未来の三次元空間は実在しない。無数ではない。この唯一無二の空間が永遠に存在し永遠の現在が示される。時間とは社会的約束事であり実体はない。「時間に絶対的実在性を認めることは不可能である。時間は我々の内的直観の形式にほかならない」(同著 B54)
    > >> 後者は私のカント解釈である。
    >>
    >>追記。「予知夢」というのがあって、未来の実在性の根拠としている人もいるが、はたして根拠たりえるだろうか。予言の当たる確率というところを検索してもらえればわかるが科学的観点からみると予言の当たる確率は非常に低い、むしろ当たらない確率が高い。予言(予知夢)が当たったとされる事例は科学の前提である再現性はなく、科学的分析では偶然の一致、認知バイアス、後付けの解釈などによって説明されることが一般的。予知夢では未来の実在性の証拠たりえない。
    >> 「来年のことを言ったら鬼が笑う」、「一寸先は闇」というように未来の非実在性こそ現実的のように思えるがどうだろうか。キリスト教のヨハネの黙示録に示されるような終末預言を信じておられる方もいるが、旧約聖書のヨナ書において神が預言を撤回される場面があるので、同じように黙示録的預言を撤回される可能性もある。つまり未来は映像フィルムのように決定論的に実在するのではなく、神の計画(意志)として存在していると考えたほうが自然だろうと思う。
    >>
    >>時間の非実在性を前提にすると(ただし同じ時間の非実在性を説くマクタガートのc系列の映像フィルムのような時間観と違って)過去も未来も実在しない「永遠の現在」が見えてくる。「永遠」は確かに自覚できるけれども自己の存在は永遠ではない。やがて「死」が訪れる。死後「無」になる恐怖はないだろうか。仏教では「無記」というかたちで思考停止する。修行の邪魔になるので考えるな、ということらしいが「無」の恐怖は修行で消えるだろうか。
    >
    > 追記2.三次元空間の唯一無二性、ただひとつの空間というのが「永遠の現在」の根拠であるが、永遠でない生命の「死」は三次元空間の本質であるところの「無」へ回帰する。非永遠の存在の「死」は永遠の「無」へ導かれる。
    >  もし命が永遠なら、命の価値、「尊さ」は認識されない。医学も不要になるし、保険会社もつぶれる。永遠ではない、限られた命だからこそ、命を惜しみ、命を尊ぶのかもしれない。しかし自分の身近なひとには長生きしてもらいたい、できれば永遠の命をと思うかもしれない。永遠は無条件に尊いとも思っている。非永遠には非永遠の価値があり、永遠には永遠の価値があるということか。
    >  「三次元空間」の本質は「無」とも「空」ともいわれている。仏教においては般若心経の「色不異空。空不異色色即是空。空即是色」として説かれ、キリスト教では旧約聖書の『伝道者の書』に「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」と示されている。
    >  「無」の空間は存在するので「有」でもある。論理的には矛盾して成り立たないが、現実的には成り立っている。「無」は「有」でもある。これは何を意味するのだろうか。死んだら「無」になる、というのは死んだら「有」でもある、ということか。まるでシュレディンガーの猫のようだ。
    >
    >
    追記3.『東京物語』で有名な小津安二郎監督の墓が鎌倉の禅寺にある。その墓碑銘には『無』とだけ記してある。非永遠の命を受け入れ、「無」の世界を受容する境地だったのだろう。死後「無」を受け入れ、命の尊さを知るゆえの諦めなのかもしれない。死の意義を深く自覚するということだろうか。死後の「無」には意味、価値があると。
     しかし凡夫は永遠の沈黙に耐えられるだろうか。どうしても死後の「無」への恐怖 が生じてしまう。そこで死後の生の可能性を考えてみることにする。まず「無」は存在するので「有」である。物質を無限分割するとゼロになる。それは「無」のもつ「有」の性質である。形はないが確かに存在する「有」である。それはあらゆる物質の生みの親、出発点であると考えられる。だから死後「無」は別の生の可能性を含んだものと考えられる。生まれる前の「無」は「有」であり、存命中も「有」であり、死後の「無」も「有」である。たぶん記憶はないが自己意識は永遠に続くかもしれない。凡夫にとってはそれを信じるしかない。
     永遠の三次元空間をのぞいて、あらゆる事物は変化する。ひとの命も。平家物語に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」とあるごとく「諸行無常」ということのようだ。万物流転が宿命か。
引用返信/返信 削除キー/
■36187 / inTopicNo.29)  Re[27]: 日産
□投稿者/ アートポット -(2024/01/18(Thu) 01:22:10)
    No36183に返信(restさんの記事)
    > ■No36169に返信(アートポットさんの記事)
    >>こんにちは、restさん
    >>
    >>90年代に日産が一時的に倒産にて理由が自分で調べてもよく分かりません。サービス残業のない会社にてって裏目にでてっていうことでしょうか?
    >
    > 専門外のことを訊かれても答えようがないのでノーコメントとしたいところだが、常識の範囲内でのコメントはできるかもしれない。
    >  90年代はバブル崩壊で企業倒産が続出していた。バブル期にかせいだ金を羽振りよく配当や賃金にまわせば内部留保(自己資本)が薄くなる。するとわずかな赤字でも補填ができなくなり、いきなり倒産というかたちか。あるいはバブル期に過大な借金をかかえ、月々の返済額以下の収益ではつまり利益がでても借金返済が過大で入金よりも出金のほうが多くなりいつか資金ショートが発生する。いわば黒字倒産というかたちか。
    >

    こんばんは、restさん

    アートポットのために貴重な時間を割いて頂きありがとうございます。

    日産グループは、残業手当100%支給と噂されていたので内部留保が少なかったのかもしれませんね。

    トヨタグループのおかげで今も暮らせて、日産グループのおかげで趣味に熱中できました。

    > 神秘的な薄明光線(天使のはしご)を昼間にみて明日から縁起のいい日々がつづくことを夢想する。

    ご武運を
引用返信/返信 削除キー/
■36183 / inTopicNo.30)  Re[26]: 日産
□投稿者/ rest -(2024/01/17(Wed) 23:30:37)
    No36169に返信(アートポットさんの記事)
    > こんにちは、restさん
    >
    > 90年代に日産が一時的に倒産にて理由が自分で調べてもよく分かりません。サービス残業のない会社にてって裏目にでてっていうことでしょうか?

    専門外のことを訊かれても答えようがないのでノーコメントとしたいところだが、常識の範囲内でのコメントはできるかもしれない。
     90年代はバブル崩壊で企業倒産が続出していた。バブル期にかせいだ金を羽振りよく配当や賃金にまわせば内部留保(自己資本)が薄くなる。するとわずかな赤字でも補填ができなくなり、いきなり倒産というかたちか。あるいはバブル期に過大な借金をかかえ、月々の返済額以下の収益ではつまり利益がでても借金返済が過大で入金よりも出金のほうが多くなりいつか資金ショートが発生する。いわば黒字倒産というかたちか。

    神秘的な薄明光線(天使のはしご)を昼間にみて明日から縁起のいい日々がつづくことを夢想する。
引用返信/返信 削除キー/
■36169 / inTopicNo.31)  日産
□投稿者/ アートポット -(2024/01/17(Wed) 12:05:12)
    こんにちは、restさん

    90年代に日産が一時的に倒産にて理由が自分で調べてもよく分かりません。サービス残業のない会社にてって裏目にでてっていうことでしょうか?
引用返信/返信 削除キー/
■36150 / inTopicNo.32)  Re[24]: 時間論の系譜
□投稿者/ rest -(2024/01/13(Sat) 11:02:44)
    2024/01/14(Sun) 09:12:12 編集(投稿者)
    No36029に返信(restさんの記事)
    > ■No34818に返信(restさんの記事)
    >>2023/10/29(Sun) 22:29:54 編集(投稿者)
    >>
    >>時間論の系譜には二つある。
    >>哲学者マクタガートにおけるA系列、B系列、C系列の捉え方、とカントの時間論。
    >>前者はA系列のA特性と出来事のB特性が矛盾し従ってA系列の時間は実在せず、B系列=A系列+C系列なのでA系列が成り立たない以上B系列も成り立たない。残るはC系列のみである、とする考え方。映像フィルムのようなC系列のみが実在し、変化を示すA系列を幻想とした。(入不二基義 著『時間は実在するか』講談社現代新書 参照)
    >>次にカントの時間論。まず空間はすなわち三次元空間は唯一無二であること(『純粋理性批判』B39)これは何を意味するのかというと過去も未来も無数の三次元空間から成り立っているとする過去実在論、未来実在論と一線を画する考え方である。現在時における現実の三次元空間がただ一つだけあって過去、未来の三次元空間は実在しない。無数ではない。この唯一無二の空間が永遠に存在し永遠の現在が示される。時間とは社会的約束事であり実体はない。「時間に絶対的実在性を認めることは不可能である。時間は我々の内的直観の形式にほかならない」(同著 B54)
    >> 後者は私のカント解釈である。
    >
    > 追記。「予知夢」というのがあって、未来の実在性の根拠としている人もいるが、はたして根拠たりえるだろうか。予言の当たる確率というところを検索してもらえればわかるが科学的観点からみると予言の当たる確率は非常に低い、むしろ当たらない確率が高い。予言(予知夢)が当たったとされる事例は科学の前提である再現性はなく、科学的分析では偶然の一致、認知バイアス、後付けの解釈などによって説明されることが一般的。予知夢では未来の実在性の証拠たりえない。
    >  「来年のことを言ったら鬼が笑う」、「一寸先は闇」というように未来の非実在性こそ現実的のように思えるがどうだろうか。キリスト教のヨハネの黙示録に示されるような終末預言を信じておられる方もいるが、旧約聖書のヨナ書において神が預言を撤回される場面があるので、同じように黙示録的預言を撤回される可能性もある。つまり未来は映像フィルムのように決定論的に実在するのではなく、神の計画(意志)として存在していると考えたほうが自然だろうと思う。
    >
    > 時間の非実在性を前提にすると(ただし同じ時間の非実在性を説くマクタガートのc系列の映像フィルムのような時間観と違って)過去も未来も実在しない「永遠の現在」が見えてくる。「永遠」は確かに自覚できるけれども自己の存在は永遠ではない。やがて「死」が訪れる。死後「無」になる恐怖はないだろうか。仏教では「無記」というかたちで思考停止する。修行の邪魔になるので考えるな、ということらしいが「無」の恐怖は修行で消えるだろうか。

    追記2.三次元空間の唯一無二性、ただひとつの空間というのが「永遠の現在」の根拠であるが、永遠でない生命の「死」は三次元空間の本質であるところの「無」へ回帰する。非永遠の存在の「死」は永遠の「無」へ導かれる。
     もし命が永遠なら、命の価値、「尊さ」は認識されない。医学も不要になるし、保険会社もつぶれる。永遠ではない、限られた命だからこそ、命を惜しみ、命を尊ぶのかもしれない。しかし自分の身近なひとには長生きしてもらいたい、できれば永遠の命をと思うかもしれない。永遠は無条件に尊いとも思っている。非永遠には非永遠の価値があり、永遠には永遠の価値があるということか。
     「三次元空間」の本質は「無」とも「空」ともいわれている。仏教においては般若心経の「色不異空。空不異色色即是空。空即是色」として説かれ、キリスト教では旧約聖書の『伝道者の書』に「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」と示されている。
     「無」の空間は存在するので「有」でもある。論理的には矛盾して成り立たないが、現実的には成り立っている。「無」は「有」でもある。これは何を意味するのだろうか。死んだら「無」になる、というのは死んだら「有」でもある、ということか。まるでシュレディンガーの猫のようだ。


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■36029 / inTopicNo.33)  Re[23]: 時間論の系譜
□投稿者/ rest -(2024/01/06(Sat) 11:17:00)
    No34818に返信(restさんの記事)
    > 2023/10/29(Sun) 22:29:54 編集(投稿者)
    >
    > 時間論の系譜には二つある。
    > 哲学者マクタガートにおけるA系列、B系列、C系列の捉え方、とカントの時間論。
    > 前者はA系列のA特性と出来事のB特性が矛盾し従ってA系列の時間は実在せず、B系列=A系列+C系列なのでA系列が成り立たない以上B系列も成り立たない。残るはC系列のみである、とする考え方。映像フィルムのようなC系列のみが実在し、変化を示すA系列を幻想とした。(入不二基義 著『時間は実在するか』講談社現代新書 参照)
    > 次にカントの時間論。まず空間はすなわち三次元空間は唯一無二であること(『純粋理性批判』B39)これは何を意味するのかというと過去も未来も無数の三次元空間から成り立っているとする過去実在論、未来実在論と一線を画する考え方である。現在時における現実の三次元空間がただ一つだけあって過去、未来の三次元空間は実在しない。無数ではない。この唯一無二の空間が永遠に存在し永遠の現在が示される。時間とは社会的約束事であり実体はない。「時間に絶対的実在性を認めることは不可能である。時間は我々の内的直観の形式にほかならない」(同著 B54)
    >  後者は私のカント解釈である。

    追記。「予知夢」というのがあって、未来の実在性の根拠としている人もいるが、はたして根拠たりえるだろうか。予言の当たる確率というところを検索してもらえればわかるが科学的観点からみると予言の当たる確率は非常に低い、むしろ当たらない確率が高い。予言(予知夢)が当たったとされる事例は科学の前提である再現性はなく、科学的分析では偶然の一致、認知バイアス、後付けの解釈などによって説明されることが一般的。予知夢では未来の実在性の証拠たりえない。
     「来年のことを言ったら鬼が笑う」、「一寸先は闇」というように未来の非実在性こそ現実的のように思えるがどうだろうか。キリスト教のヨハネの黙示録に示されるような終末預言を信じておられる方もいるが、旧約聖書のヨナ書において神が預言を撤回される場面があるので、同じように黙示録的預言を撤回される可能性もある。つまり未来は映像フィルムのように決定論的に実在するのではなく、神の計画(意志)として存在していると考えたほうが自然だろうと思う。

    時間の非実在性を前提にすると(ただし同じ時間の非実在性を説くマクタガートのc系列の映像フィルムのような時間観と違って)過去も未来も実在しない「永遠の現在」が見えてくる。「永遠」は確かに自覚できるけれども自己の存在は永遠ではない。やがて「死」が訪れる。死後「無」になる恐怖はないだろうか。仏教では「無記」というかたちで思考停止する。修行の邪魔になるので考えるな、ということらしいが「無」の恐怖は修行で消えるだろうか。
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■35947 / inTopicNo.34)  Re[30]: 相対性理論についての疑問5
□投稿者/ rest -(2023/12/31(Sun) 19:31:22)
    パニチェさん 貴重なレスありがとうございます。

    No35924に返信(パニチェさんの記事)
    > 2023/12/30(Sat) 17:57:27 編集(投稿者)
    >
    > こんばんは、restさん。横レス失礼します。
    >
    > 私の知識ではrestさんの投稿内容が完全に咀嚼できてないところもあり、ロムのみになっていますがいつも興味深く読ませていただいてます。
    > 今回は全く違う観点というか先入観から時間の遅れついて思うところをカキコしてみます。
    >
    > そもそも過去から未来に不可逆的に流れている時間なんてものがあるのか?
    > 私たちの感覚器官では空間(距離)や運動は知覚できても時間なるものを感知できません。
    >
    > 時間なるものは運動を記述するためにつくりだされた仮象ではないか?ということです。
    > 熱力学の第二法則であるエントロピーの増大則はあくまでも運動の不可逆性であり時間の不可逆性ではないということ。

    「超弦理論」において10次元のうち6次元は証明されていませんが、残る4次元は一般相対性理論+量子場によって説明しています。ビッグバン以降の宇宙膨張はエントロピーの膨張であり、時間の不可逆性としてとらえているようです。時間の実在性を前提にしていますが、われわれの感覚器官で知覚できるのは3次元までであり4次元以上は想像力でしか、あるいは数学的な類推しかできません。数学的には無限に次元は考えられますが、現実か非現実かの個別化が必要です。科学は類推と個別化のバランスが大切だと考えています。

    >
    > 過去から未来に不可逆に流れる時間なんてものが実在しないのなら、時間の遅れなんてものも成立しない。
    > おそらくrestさんも言及しているように重力によって物理的な運動が影響を受けているということ。
    > 加齢による老化現象や生物年齢もウェルナー症候群など早老症と同じく細胞の物理的な運動の問題であって時間なるものの影響ではない。
    >
    > 量子力学の不確定性原理、位置と運動の不確定性は感覚的に理解できても、時間とエネルギーの不確定性というものがどういうものなのかさっぱり分からない。
    > シュレディンガーも猫の思考実験にしても「いつ毒ガスが発生したのか?」というのは時間の不確定性ではなく、運動の不確定性とすることに何の差異があるのかも(私の知識では)分からない。
    >
    >
    電子を観測したとき、その電子の波動関数が崩壊するので粒子は確率解釈にしたがい観測される。多世界解釈では波動関数が崩壊しないため確率解釈を導出できない。そのため定式化できない、という問題があるようです。波動エネルギーの波も時間という周期性で測定されますが 位置と運動量を同時に測定できないため正確な測定はできないということでしょう。

    シュレディンガーの猫においては観測するまでは生きていた。というよりも生きている猫と死んだ猫が共存していた。重ね合わせの状態です。確かに時間の変化というよりラジウムのα崩壊の半減期という物質の変化後の出来事の判断でもいいと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■35924 / inTopicNo.35)  Re[29]: 相対性理論についての疑問5
□投稿者/ パニチェ -(2023/12/30(Sat) 17:48:29)
    2023/12/30(Sat) 17:57:27 編集(投稿者)

    こんばんは、restさん。横レス失礼します。

    私の知識ではrestさんの投稿内容が完全に咀嚼できてないところもあり、ロムのみになっていますがいつも興味深く読ませていただいてます。
    今回は全く違う観点というか先入観から時間の遅れついて思うところをカキコしてみます。

    そもそも過去から未来に不可逆的に流れている時間なんてものがあるのか?
    私たちの感覚器官では空間(距離)や運動は知覚できても時間なるものを感知できません。

    時間なるものは運動を記述するためにつくりだされた仮象ではないか?ということです。
    熱力学の第二法則であるエントロピーの増大則はあくまでも運動の不可逆性であり時間の不可逆性ではないということ。

    過去から未来に不可逆に流れる時間なんてものが実在しないのなら、時間の遅れなんてものも成立しない。
    おそらくrestさんも言及しているように重力によって物理的な運動が影響を受けているということ。
    加齢による老化現象や生物年齢もウェルナー症候群など早老症と同じく細胞の物理的な運動の問題であって時間なるものの影響ではない。

    量子力学の不確定性原理、位置と運動の不確定性は感覚的に理解できても、時間とエネルギーの不確定性というものがどういうものなのかさっぱり分からない。
    シュレディンガーも猫の思考実験にしても「いつ毒ガスが発生したのか?」というのは時間の不確定性ではなく、運動の不確定性とすることに何の差異があるのかも(私の知識では)分からない。


引用返信/返信 削除キー/
■35913 / inTopicNo.36)  相対性理論についての疑問5
□投稿者/ rest -(2023/12/30(Sat) 09:53:20)

    過去ログより

    投稿者/ rest -(2021/01/16(Sat) 18:56:47)

     一般相対性理論についての私の見解である。第一に光は粒子と波の性質があり、光は標準理論では粒子の質量はゼロといわれているが、実験分野から疑問が呈されている。実験的には光の粒子の質量m≦10^-14ev/c^2といわれている。すると光は質量をもつので当然重力の影響を受けて曲がる、ということがわかる。空間が曲がって光も曲がるということではなく、端に質量をもった粒子が重力で曲がる、ということではないのか。
    第二にGPSにおいて時間の補正がおこなわれることについて、別の見解があることを指摘しておきたい。慣性系ではなく重力系では、地上から位置が高いほど時間が早くなる、ということについて考えてみたい。位置が高くなるほど重力は小さくなる。セシウムの原子時計でも重力の影響を受けるのではないか。遷移によるスペクトル線の周波数を基準にしているが、具体的には放射の9192031770周期を1秒と定義しているが、スペクトル線の電磁波は粒子でもあるのだから、重力の影響を受けて波長に変化をもたらす。地上ほど波長が伸び、同じ周波数でもかかる時間は遅くなる。
    つまり客観的時間の変化ではなく、端に時計の内部構造の変化に過ぎない。

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