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■21741 / inTopicNo.85)  pipitさんへ (;´・ω・)
  
□投稿者/ うましか -(2022/03/24(Thu) 07:31:39)
    2022/03/24(Thu) 07:42:06 編集(投稿者)

    おはようございますー

    なかなか投稿できませんが、

    pipitさんの考察は楽しく読ませていただいてますm(__)m


    No.21740 (pipitさん)

    >『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p369-372

    これはおもしろい解説ですね! (・ω・)ノ

    ・ 自己統合の意識(自己意識の超越論的な統一):「わたしは考える」



    ・ 懐疑の対象とならない確実なもの:「コギト」

    これらは、「事態としてはアポステリオリにみえるとしても、事柄としてはアプリオリなものなの」、という視点からみると、一致するのかなー(゚Д゚;)??!

    >この根源的な自己統合の意識は、バークリ的な「観念論」のいう意味での「根源的な」自我ではない。

    とはいえ、バークリ的な観念論にも、根源的な自我("esse est percipi"と関係あるのか?(;´・ω・))があるようで、中山がどう区別しているのかわからないところですが…

    すみません、支度しながら思いつきを書いたので、まちがっているかも
    (;´Д` A```



    ではまた〜

    【追記】

    バークリの「根源的な自我」?について気になったのでメモ

    https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/81.html




引用返信/返信 削除キー/
■21740 / inTopicNo.86)  Re[11]: 144 自己統合の意識とは
□投稿者/ pipit -(2022/03/23(Wed) 23:39:36)
    みなさま、こんばんは。
    No21728
    >ちょっと先読み的になるけど、中山先生による、デカルトやバークリの説と比較しての解説もあったので、またカントの統覚概念を理解する助けとして、p370-372の中山先生の解説を次の投稿で引用させていただこうと思います。<

    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p369-372より引用

    (中山元先生の解説文章)
    『(略)だからぼくがケヤキを意識したときは、その意識は白紙のようにケヤキの像を記録するが、その意識の後にキジバトの意識がつづくとき、ケヤキの意識は消滅してしまってはならない。
    しかもキジバトの意識は白紙の上に書かれたように、真新しいものでなければならない。
    しかもそれらの意識が別々の白紙のようにひらひらと宙を漂うのではなく、同じ〈わたし〉の意識のうちで統合されていなければならない。
    「それでなければわたしは、自分が意識する像の数と同じだけの多様な異なる自己をもっていることになってしまうだろう」(145)。
    この統合の可能性を実現するのが、ケヤキについての意識とキジバトについての意識につねに「伴うことができる」〈わたし〉の意識なのである。
    この自己統合の意識は、〈わたし〉という意識のアイデンティティを確立するとともに、わたしのうちの複数の意識の統合を実現するのである。
    この二つの統合において、「自己意識の超越論的な統一」(144)が成立するのである。

     カントはこの自己統合の意識を「わたしは考える」と表現した。
    これはデカルトの「コギト」と似た表現であるが、ここで目的とされているのは、デカルトのように、懐疑の対象とならない確実なものをみつけだすことではなく、
    すべての直観作用とそれによる像を内的に統一する能力の存在を示すことなのだ。
    「できるのでなければならない」(同)という表現は、それが「能力」であることを暗示的に示唆している。
    〈わたし〉はたんに触発されて像を直観する存在ではなく、多様なもののマッスを一つの像に統一する能力をそなえた能動的な主体なのであり、その能力の働きが、この「根源的な自己統合の意識」(同)なのである。
    この能力は「知性そのものなのである」(145n)というカントの力強い断言に注目しよう。

     この根源的な自己統合の意識は、バークリ的な「観念論」のいう意味での「根源的な」自我ではない。
    この意識は認識の起源であり、自発的な能力を持つという意味では創造的なものではあるが、この意識が成立するためには「さまざまな像の総合」が必要である。
    〈わたし〉は一つの像を意識し、次に別の像を意識し、それらの像の総合を意識することで、自己を同一の主体として認識するのである。
    「与えられたさまざまな像のうちに含まれる多様なものを、わたしが一つの意識のうちに結合できるときに初めて、わたしはこれらの像における意識の同一性をみずから心に思い描くことができるようになる」(145)からだ。
    しかしこの意識の同一性は、さまざまな像を認識した後になってやっと事後的に成立するものではない。
    「まださまざまな像の総合は意識していないとしても、そのような総合が可能であることを前提としている」(同)からである。
    これは事態としてはアポステリオリにみえるとしても、事柄としてはアプリオリなものなのであり、これが超越論的な自己統合をもたらすのだ。その意味ではこれは人間が認識するためには「必然的なもの」(146)である。
     この意識の同一性は、認識が成立するための二大原則の一つである。
    この原則は「直観に含まれるすべての多様なものが、自己統合の意識の根源的で総合的な統一の条件にしたがう」(147)ことと、表現される(もう一つの原則は感性についての原則であり、直観されたものが、空間と時間という形式にしたがうことである)。』

    いったんここで引用を終了しますが、この後に続く解説文も、わかりやすく感じます。
    ので、また、読み進めるうちで対応箇所になると、引用させていただくかもしれません。

引用返信/返信 削除キー/
■21728 / inTopicNo.87)  Re[10]: 144 自己統合の意識とは
□投稿者/ pipit -(2022/03/22(Tue) 22:32:51)
    No21727
    > ★J. M. D. Meiklejohnさんの英訳
    省略
    > ★DeepL機械翻訳
    > 私の表現には、必ず「I think」が伴います。
    > なぜなら、そうでなければ、私の中に、考えることのできない何かが表象されてしまうからです。
    > 言い換えれば、表象は不可能か、少なくとも私との関係においては無であるかのどちらかでしょう。

    ============
    pipit雑感

    何か見たり聞いたり考えたり、それらがみんな(表象)ととらえると、
    その(表象)には全部「I think」という自己意識が伴っていなくてはならない、と。

    ※ちなみに中山先生は、『「伴うことができるのでなければならない」』と訳されてて、巧みな表現であると解説されてたので、原語はそのような表現なのかもしれません。
    いくつか中山先生の解説を引用します。

    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p368より引用
    (中山先生の解説文)
    『カントが「伴うことができるのでなければならない」というのは、この逆説を巧みに逃れている。「できる」だけであって、「伴って」いては困るのだ。』
     
    と、パラパラと解説箇所をめくってみて、、、

    ちょっと先読み的になるけど、中山先生による、デカルトやバークリの説と比較しての解説もあったので、またカントの統覚概念を理解する助けとして、p370-372の中山先生の解説を次の投稿で引用させていただこうと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■21727 / inTopicNo.88)  Re[9]: 144 自己統合の意識とは
□投稿者/ pipit -(2022/03/22(Tue) 22:09:32)
    No21726

    ★J. M. D. Meiklejohnさんの英訳

    The “I think” must accompany all my representations,

    for otherwise something would be represented in me which could not be thought;

    in other words, the representation would either be impossible, or at least be, in relation to me, nothing.

    ★DeepL機械翻訳

    私の表現には、必ず「I think」が伴います。

    なぜなら、そうでなければ、私の中に、考えることのできない何かが表象されてしまうからです。

    言い換えれば、表象は不可能か、少なくとも私との関係においては無であるかのどちらかでしょう。
引用返信/返信 削除キー/
■21726 / inTopicNo.89)  Re[8]: 144 自己統合の意識とは
□投稿者/ pipit -(2022/03/22(Tue) 20:48:57)
    2022/03/22(Tue) 20:51:35 編集(投稿者)

    The “I think” must accompany all my representations, for otherwise something would be represented in me which could not be thought; in other words, the representation would either be impossible, or at least be, in relation to me, nothing. That representation which can be given previously to all thought is called intuition. All the diversity or manifold content of intuition, has, therefore, a necessary relation to the “I think,” in the subject in which this diversity is found. But this representation, “I think,” is an act of spontaneity; that is to say, it cannot be regarded as belonging to mere sensibility.

    ※また後ほどこの部分から読んでみます!
引用返信/返信 削除キー/
■21725 / inTopicNo.90)  Re[7]: 144 自己統合の意識とは
□投稿者/ pipit -(2022/03/22(Tue) 20:45:50)
    > 144部分の英訳を次の投稿にコピペしてみます<

    アクセス禁止で投稿できないので、
    少しずつ見ていくことにします (^_^)v

    とりあえず第一六項 自己統合の意識[=統覚]の根源的で総合的な統一について

    の部分の英訳ー

    Of the Originally Synthetical Unity of Apperception § 12

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap43


引用返信/返信 削除キー/
■21724 / inTopicNo.91)  144 自己統合の意識とは
□投稿者/ pipit -(2022/03/22(Tue) 20:41:20)
    B132あたりです。

    第一六項
    自己統合の意識[=統覚]の根源的で総合的な統一について

    144 自己統合の意識とは★
    145 認識の最高原則
    145n 超越論的な哲学の最高点
    146 自己統合の意識における根源的で総合的な統一

    ※『純粋理性批判』カント/中山 元先生訳 全7巻の目次とタイトル・リスト参照

    https://www.kotensinyaku.jp/common/guide/pdf/kant01-07.pdf
     
    =============
    144部分の英訳を次の投稿にコピペしてみます。
引用返信/返信 削除キー/
■21723 / inTopicNo.92)  次は演繹論の統覚の話題っぽい
□投稿者/ pipit -(2022/03/22(Tue) 20:22:56)
    みなさま、こんばんは☆彡

    ただいま、純理の【純粋知性概念の根拠づけ[=演繹]】を読解していってて、光文社古典新訳文庫から『純粋理性批判』の訳本を出版されている、中山元先生のタイトルを読解の導きとして使用させていただいています。

    中山先生がつけられた段落番号とタイトルについての光文社さんの投稿
    https://mobile.twitter.com/kotensinyaku/status/1267379513081712640
     
    以下https://www.kotensinyaku.jp/column/2011/09/005064/
    より引用

    『中山 元さんによる新訳『純粋理性批判 』では、すべての段落にタイトルと番号がつけてあり、解説はすべてこの番号で行われています。このタイトルと番号をピックアップして、タイトル・リストをPDFで作成しました。 訳者あとがきでもふれていらっしゃいますが、かつて中山さんご自身も理解を確かめるためにタイトル・リストを作成されていたそうです。 ぜひ、カントの思考を理解するための一助としてご活用ください。
    (略)
    《訳者あとがきより》
    「ページの指示は紙の上の配置という偶然的な要素に依存したものである。ページ数よりもカントが一つの思考のブロックとして示した段落を指示するほうが、カントの思考に忠実だと考えたのである。読者はできればこの段落の番号とタイトルだけを書き取ってタイトル・リストを作ってほしい。(中略)そして本書を通読した後で、このリストを眺めながら、そこで何が書かれていたか、思い出してほしいのだ。ぼくも昔、自分の理解をたしかめるために、よくやったこと・・・」』
    引用終了

    ※※※※※※※※※※

    ということで、 No21711(第一五項 結合一般の可能性について)の続き。
    さぁ、沼の深部と噂されることもある場所へ。。。;( 'Θ' )

    第一六項
    自己統合の意識[=統覚]の根源的で総合的な統一について

    144 自己統合の意識とは★次はココ!
    145 認識の最高原則
    145n 超越論的な哲学の最高点
    146 自己統合の意識における根源的で総合的な統一

引用返信/返信 削除キー/
■21721 / inTopicNo.93)  届いた日記
□投稿者/ pipit -(2022/03/22(Tue) 18:29:39)
    Amazonで、後◯◯円購入すれば送料無料ー
    の魅惑(罠?)にまんまとはまって、

    ラジオ体操ブーブーR2くん(名前うろ覚え)のほかに、黒ちゃん先生こと黒崎政男先生の本も買っちゃった。

    今日届いて、読むの楽しみ♪
引用返信/返信 削除キー/
■21713 / inTopicNo.94)  思いついた日記
□投稿者/ pipit -(2022/03/21(Mon) 19:38:03)
    あ!
    別解釈思いついた!

    一と他が、同一像(の部分と部分)か否かはここでは考慮しない。

    多様という場での行為を前提とするとき、

    一は他と常に区別され得る!

    つまり、レゴブロックが同一のバケツに入ってたブロックでも、
    多様なブロックを結合するという時、
    ブロックの出自としての同一は考慮せず、ブロック一つ一つの多様がいかなる動きに乗せられるのかをこの段落では見ている、とか。

    瞬間的な意識は何かについての意識で、(それが統一された概念への意識であることもあるし、多様状態での未規定素材への意識であることもあるでしょう)

    とりあえず、瞬間的な注視力、あるいは
    思考対象としたとき、

    多様の総合の、素材としての多様の一を表す、って感じはどうかな?

    まあ、別解釈なので、これもはずれかも、あれもはずれかも
    ですけどー

    (/ _ ; )







    No21683に返信(pipitさんの記事)
    > ここも全然わからん (; ̄ェ ̄)
    >
    > [15]英訳省略
    >
    > DeepL機械翻訳
    > [15]これらの表現がそれ自体同一であるかどうか、その結果、一方が他方によって、また他方を通して分析的に思考できるかどうかは、現時点では考慮する必要のない問題である。我々が多様体について語るとき、一方についての我々の意識は、他方についての我々の意識と常に区別される。そして、我々がここで扱うのは、この(可能な)意識の統合に関してのみである。<

引用返信/返信 削除キー/
■21712 / inTopicNo.95)  次は、、、
□投稿者/ pipit -(2022/03/21(Mon) 18:22:06)
    > もう次に行くもんね!! (T ^ T)<

    しかしですね、次は、あれですね、多分。。
    我思うが伴い得なくてはならない、のとこ。。。

    茨の道。。。W(`0`)W



    ※『純粋理性批判』カント/中山 元先生訳 全7巻の目次とタイトル・リストを読解の参考にさせていただきます。

    https://www.kotensinyaku.jp/common/guide/pdf/kant01-07.pdf

    第一五項 結合一般の可能性について
    142 知性による〈総合〉の根源性
    143 総合的な統一
    143n 像についての意識
    第一六項 自己統合の意識[=統覚]の根源的で総合的な統一について★←次はココ!
引用返信/返信 削除キー/
■21711 / inTopicNo.96)  Re[5]: 143n 像についての意識★
□投稿者/ pipit -(2022/03/21(Mon) 17:38:33)
    みなさま、こんにちは。
    No21707の続きです。

    Our Consciousness of the one, when we speak of the manifold, is always distinguishable from our consciousness of the other; and it is only respecting the synthesis of this (possible) consciousness that we here treat.

    ↓DeepL訳
    私たちが多様なものについて語るとき、一方についての私たちの意識は、他方についての私たちの意識と常に区別される。

    ===========


    when we speak of the manifold,
    今問題にされているのは、感性による多様であり、

    多様において
    Our Consciousness of the one
    『一』 という意識は

    is always distinguishable from our consciousness of the other;
    『一以外の他』という意識 から常に区分け可能であり、

     

    and it is only respecting
    ここでは以下の事柄についてのみ取り扱う

    the synthesis of this (possible) consciousness
    この(可能な)意識の総合 のみについて。

    ========

    うーん、難しい!わからん!

    自信ないけど、とりあえず以下のように捉えます。

    【結合とは、多様なものが総合的に統一された像なのであるが、、、

    この段落においては、各像が
    統一像と同一的なものなのかについては考えない。

    この段落で考えられてるのは、多様な像の結合ということであり、

    多様な、という時、
    一の意識は、一以外の意識と区別されるからこその多様なのであり、

    この段落では、
    その多様な可能的意識の総合についてを考察してるのである。】

    全く外してるかものpipitのレゴ例え解釈

    レゴのブロックでお城を作る。
    このとき、お城の一階部分と二階部分が、全体の統一されたお城と同じ構成物なのか否かはこの段落では問題としない。

    この段落では、総合【ブロックを結合させている】行為を問題としており、

    多様なブロックというとき、一ブロックを手にするとき(意識に乗せる時)は、その他のブロックへの意識とは区別されてるわけであり、
    この段落においては、
    毎回違うブロックが結合されてお城ができていく、という働きについて考察してる。

    にゃー!・:*+.(( °ω° ))/.:+

    もう次に行くもんね!! (T ^ T)

引用返信/返信 削除キー/

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