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■22015 / inTopicNo.25)  悪魔ちゃんへ
  
□投稿者/ pipit -(2022/04/03(Sun) 21:23:04)
    悪魔ちゃん、こんばんは(^○^)

    No22011

    > >前者って何のことか悪魔ちゃんわかる?<
    > 『デカルト的省察』の「他者経験」の問題について書いてあるところから抜粋したんだけど、今は二種類の統覚を問題としてるし、ここカントのだから現象学のをあんまり持ちだすのもなんだと思って、ちょっと省略したよ。ごめんね。キリのいい所を書き写して置くね。<

    ごめんね、引用ありがとう!m(_ _)m


    > 【ここで次のように仮定してみよう。私たちの知覚の場に他の人間が一人現れる。このことを原初的に還元して言えば、私の原初的自然の知覚の場に或る物体(ケルパー)が現れ、それは原初的な物体としてもちろん<

    ここまでは理解できるかなー。

    >、単に私自身を規定するものの部分(「内在的超越」)にすぎない。<

    他人は、物体として、私自身を規定するものの一部分ということ??


    >この自然と世界のうちでは、私の身体(ライプ)が、身体(機能している器官)として根源的に構成されている。<

    うん。

    >また構成されることができる唯一の物体(ケルパー)である。<

    私の身体が、器官としての唯一の物体ということ??


    >だから、そこにある物体〔他の人間〕はなるほど身体として捉えられているが、それはこの〔身体という〕意味を、私の身体の把握からの転移によって得るのでなければならない。<


    (他人という物体=身体)≠(器官としての物体=私の身体)

    機能してる器官である私の身体、から、他人の身体を推測する、ってことかな。


    >しかもそれは、それ特有の身体性という術語を現に直接的に、それゆえ原初的に実証すること、すなわち本来的な知覚によって実証することは排除するような仕方においてである。<

    縮めるよ、

    身体性という術語を、知覚によって実証することは排除するような仕方

    によって、

    他人の身体の意味を得る、ということ?


    >私の原初的領分の内部での、あそこにある物体を私の物体と結びつける類似性のみが、<

    なるほど!
    他人としての物体を、私の身体と結びつける、

    で、類似性がわからないな
    類似性のみが、

    >前者を他の〔他人の〕身体として「類比によって」捉えるように動機づけるための基礎を与えることができるということは、初めから明らかである。<

    あー、類似してる感じ、ということかな、
    その感じが、

    他人としての物体を、他人の器官としての身体として、捉える基礎となっている、ということかな。


    >それゆえ、それは或る種の類似にもとづく統覚という把握の働きであろうが、<

    他人としての物体を、身体と結びつける働きのことかな、


    >だからと言って、それは類推〔類比推理(32)〕なのではない。<

    他人の身体と見ることは、類推ではない、と。

    >ここで言う統覚(33)とは推理ではないし、思考作用でもない。】<

    推理ではなく、人間の持つ認識力による必然的結びつきと言いたいのかな?違うかな?



    > 訳注(32)
    > 〔Analorgiechlu&#223;:類比を使った推論(Schlu&#223;)という知的操作である。<

    他人という物体を、他人の身体とみることは、他者(他の人の心)についての知を類推してるわけではない、と言ってるんだね?

    >他者(他の人の心)についての知を類推説によって定式化したのは、J・S・ミルであったが、それに対して批判を加え、「いかなる推論でもなく、或る根源的で、それ以上遡ることのできない本能的事実」として「感情移入」を主張したのがリップスであった。〕<

    統覚は推理でも思考作用でもない、と。

    > 訳注(33)
    > 〔Apperzeption:Perzeption(もとはラテン語perceptioで、「知覚」の意)に前つづりAd-(「方向・接近・隣接・接着」の意)が付け加えられたもの。もとはライプニッツが、対象を判明に知覚するとき、その知覚作用自体にもわれわれは気づく、このことを「統覚」と呼んで哲学的概念として定着させた。その後、カントは、感性的直観の多様が悟性により結合される場合の、統一を形成する主観の根源的働きを「統覚」と呼んだ。フッサールは、カントの用法を踏まえながらも、或るものの端的な把握としての「知覚」と区別して、さまざまな把握を取りまとめて統一的に知覚することを「統覚」と呼んでいる。〕<



    > こういうのて、「他我問題」にも関係してくる気がしてるのね。
    > 「他我問題」にコトバンクに、
    > 〔〈他人の心〉をいかにしてわれわれは知りうるかという哲学的問題。例えば,友人と赤の交通信号を見る。そのとき私と友人の赤の感覚は同じだろうか違うだろうか。あるいは,友人はそもそも何かの色を感じているのだろうか。それを直接にテストする方法はありえない。私は友人ではないからである。しかし間接的方法ならある,というのがこの〈他我問題〉での類推説である。赤を見たときの私の行動的反応と友人のそれとがほぼ同じならば友人は私とほぼ同じ感覚をもったと類推できる,というのである。〕
    > っていうのあるけど、<

    上記で悪魔ちゃんが引用してくれた箇所を読むぶんには、フッサールさんは類推説はとらないかんじだね。


    > それ以前に、わたしが「私」の存在に気づく、っていうことはどういくことなのかな?っていうのを問題としてるのが「他者経験の問題」で、<

    うん。


    >「それは他者である」っていう判断の潜在に〈それは「私」ではない〉っていうのがあるじゃないか、ってわたし見てるのね。<

    あー、なるほど。

    >「私」があって「他者」、この二つは対になって存在してる、って見てるのねわたし。<

    私があるなら、私以外も、対になってる感じかな。

    >じゃあ、「私」ってなあに?ってなるのね。<

    うん。


    > あと、こういうのって「自己意識」−―〔自己意識、あるいは自意識。自己が存在あことに気づく能力であり、外界や他人と区別された、自我としての意識〕っていうのとも関係してくるんじゃないかしら?って。<

    うん。


    > あと、もう一つのは、
    > 【すでに物が見えている子供は、例えばハサミの使い方を初めて理解した後では、一目で直ちにハサミをハサミとして見るようになる。<

    うん。

    >しかし、それはもちろん顕在的な再生産や比較によってでもなければ、或る推論を行うことによってでもない。とは言いながら、では、どのようにして統覚が生じるのか、さらに、どのようにして統覚はその意味と意味の地平を通じてそれ自身でその発生を志向的に遡って指示しているのか、については非常に多様である。<

    >対象的意味の段階形成には、統覚の段階形成が対応している。結局、私たちはいつも二種類の統覚の根本的な区別に戻ってくることになる。一つには、その発生からして純粋に原初的領分に属するような統覚と、もう一つには他我という意味とともに現れ、より高次の発生のおかげで、この意味のうえに新しい意味を積み重ねるような統覚、という二つの統覚の区別である。・・・】
    > で〜す。<

    うん。

    > 【すでに物が見えている子供は、例えばハサミの使い方を初めて理解した後では、一目で直ちにハサミをハサミとして見るようになる。】っていとこ、「直観」っていうのと関係してくるってわたし気がしてる。<

    認知症の人が、ハサミをハサミとわからなくなる現象は、何が起きてるのかな??


    > ごめんね、「What」で書いたことをくり返してるだけになっちゃてる〜。<

    こちらこそ、お手数かけてごめんね、感謝です!

引用返信/返信 削除キー/
■22011 / inTopicNo.26)  Re[28]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/04/03(Sun) 18:51:26)
    なんかpipitさまの捉えとわたしのと同じところがあって、なんかうれしい。

    とくに
    >カントの場合は、結合は全部思考の仕事としてるみたいなんだよ。<
    っていうとこ。

    >前者って何のことか悪魔ちゃんわかる?<
    『デカルト的省察』の「他者経験」の問題について書いてあるところから抜粋したんだけど、今は二種類の統覚を問題としてるし、ここカントのだから現象学のをあんまり持ちだすのもなんだと思って、ちょっと省略したよ。ごめんね。キリのいい所を書き写して置くね。

    【ここで次のように仮定してみよう。私たちの知覚の場に他の人間が一人現れる。このことを原初的に還元して言えば、私の原初的自然の知覚の場に或る物体(ケルパー)が現れ、それは原初的な物体としてもちろん、単に私自身を規定するものの部分(「内在的超越」)にすぎない。この自然と世界のうちでは、私の身体(ライプ)が、身体(機能している器官)として根源的に構成されている。また構成されることができる唯一の物体(ケルパー)である。だから、そこにある物体〔他の人間〕はなるほど身体として捉えられているが、それはこの〔身体という〕意味を、私の身体の把握からの転移によって得るのでなければならない。しかもそれは、それ特有の身体性という術語を現に直接的に、それゆえ原初的に実証すること、すなわち本来的な知覚によって実証することは排除するような仕方においてである。私の原初的領分の内部での、あそこにある物体を私の物体と結びつける類似性のみが、前者を他の〔他人の〕身体として「類比によって」捉えるように動機づけるための基礎を与えることができるということは、初めから明らかである。それゆえ、それは或る種の類似にもとづく統覚という把握の働きであろうが、だからと言って、それは類推〔類比推理(32)〕なのではない。ここで言う統覚(33)とは推理ではないし、思考作用でもない。】
    訳注(32)
    〔Analorgiechlu&#223;:類比を使った推論(Schlu&#223;)という知的操作である。他者(他の人の心)についての知を類推説によって定式化したのは、J・S・ミルであったが、それに対して批判を加え、「いかなる推論でもなく、或る根源的で、それ以上遡ることのできない本能的事実」として「感情移入」を主張したのがリップスであった。〕
    訳注(33)
    〔Apperzeption:Perzeption(もとはラテン語perceptioで、「知覚」の意)に前つづりAd-(「方向・接近・隣接・接着」の意)が付け加えられたもの。もとはライプニッツが、対象を判明に知覚するとき、その知覚作用自体にもわれわれは気づく、このことを「統覚」と呼んで哲学的概念として定着させた。その後、カントは、感性的直観の多様が悟性により結合される場合の、統一を形成する主観の根源的働きを「統覚」と呼んだ。フッサールは、カントの用法を踏まえながらも、或るものの端的な把握としての「知覚」と区別して、さまざまな把握を取りまとめて統一的に知覚することを「統覚」と呼んでいる。〕

    こういうのて、「他我問題」にも関係してくる気がしてるのね。
    「他我問題」にコトバンクに、
    〔〈他人の心〉をいかにしてわれわれは知りうるかという哲学的問題。例えば,友人と赤の交通信号を見る。そのとき私と友人の赤の感覚は同じだろうか違うだろうか。あるいは,友人はそもそも何かの色を感じているのだろうか。それを直接にテストする方法はありえない。私は友人ではないからである。しかし間接的方法ならある,というのがこの〈他我問題〉での類推説である。赤を見たときの私の行動的反応と友人のそれとがほぼ同じならば友人は私とほぼ同じ感覚をもったと類推できる,というのである。〕
    っていうのあるけど、
    それ以前に、わたしが「私」の存在に気づく、っていうことはどういくことなのかな?っていうのを問題としてるのが「他者経験の問題」で、「それは他者である」っていう判断の潜在に〈それは「私」ではない〉っていうのがあるじゃないか、ってわたし見てるのね。「私」があって「他者」、この二つは対になって存在してる、って見てるのねわたし。じゃあ、「私」ってなあに?ってなるのね。
    あと、こういうのって「自己意識」−―〔自己意識、あるいは自意識。自己が存在あことに気づく能力であり、外界や他人と区別された、自我としての意識〕っていうのとも関係してくるんじゃないかしら?って。

    あと、もう一つのは、
    【すでに物が見えている子供は、例えばハサミの使い方を初めて理解した後では、一目で直ちにハサミをハサミとして見るようになる。しかし、それはもちろん顕在的な再生産や比較によってでもなければ、或る推論を行うことによってでもない。とは言いながら、では、どのようにして統覚が生じるのか、さらに、どのようにして統覚はその意味と意味の地平を通じてそれ自身でその発生を志向的に遡って指示しているのか、については非常に多様である。対象的意味の段階形成には、統覚の段階形成が対応している。結局、私たちはいつも二種類の統覚の根本的な区別に戻ってくることになる。一つには、その発生からして純粋に原初的領分に属するような統覚と、もう一つには他我という意味とともに現れ、より高次の発生のおかげで、この意味のうえに新しい意味を積み重ねるような統覚、という二つの統覚の区別である。・・・】
    で〜す。
    【すでに物が見えている子供は、例えばハサミの使い方を初めて理解した後では、一目で直ちにハサミをハサミとして見るようになる。】っていとこ、「直観」っていうのと関係してくるってわたし気がしてる。

    ごめんね、「What」で書いたことをくり返してるだけになっちゃてる〜。






引用返信/返信 削除キー/
■22008 / inTopicNo.27)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/04/03(Sun) 15:07:21)
    悪魔ちゃん、こんにちは♪
    返信ありがとう!

    No22006
    > >例えば「私は考える」としゃべる音源機械があるとして、音源機械は自分に気付いてるから「私は考える」としゃべってるわけではないよね?音源機械にとって「私は考える」としゃべることがアプリオリ(経験より前に)決定されてるとき、音源機械が自己の存在に気づくか否かは、しゃべる原因になってないと思うんだ。<
    > ごめん、これ、わたしよくわかんない。でも思ったことを言っちゃうね。「機械」が、よね。機械が「私は考える」って喋ってるのよね。このとき機械は、「私は考える」って喋ってるのは誰?とは問わないし、そもそも「私」ってなあに?なんて考えないんじゃないかしら。<

    うん。

    > No21790あたりのにわたしがどうしてこだわっているのかっていうと、
    > カントは「Apperzeption(統覚)」っていうのどう見てるのかな〜?って思ったのね。
    > 以下は、現象学のわたしのから見たカントの「統覚」について、わたしに分かりやすくするためのお話しね。<

    うん。わたしもカントの統覚、ややこしくて、ちゃんとわかってないんだよね。

    > でね、どうやらフッサールは二種類の[Apperzeption(統覚)]を見てるようなのね。
    > 『デカルト的省察』のなかに、<

    @とAをつけさせてもらうね。


    > 【…私の原初的領分の内部での、あそこにある物体を私の物体と結びつける類似性のみが、<

    もうここが難しいよ。先を読んでみるね。


    >前者を他の〔他人の〕身体として「類比によって」捉えるように動機づけるための基礎を与えることができるということは、初めから明らかである。<

    前者って何のことか悪魔ちゃんわかる?

    前者を他人の身体に例えて?
    捉えるように動機づけるための基礎を与えるのが、
    結びつける類似性?

    >それゆえ、それは或る種の類似にもとづく統覚という把握の働きであろうが、だからと言って、それは類推〔類比推理〕なのではない。ここで言う統覚とは推理ではないし、思考作用でもない。】<

    ψ(`∇´)ψ


    > 【…では、どのようにして統覚が生じるのか、さらに、どのようにして統覚はその意味と意味の地平を通じてそれ自身でその発生を志向的に遡って指示しているのか、については非常に多様である。<

    こっから、二種類の統覚の説明になるのかな?

    >対象的意味の段階形成には、統覚の段階形成が対応している。<


    >結局、私たちはいつも二種類の統覚の根本的な区別に戻ってくることになる。<

    これが↓まず@だね。
    >一つには、その発生からして純粋に原初的領分に属するような統覚と、<

    @純粋に原初的領分に属する統覚

    ↓A
    >もう一つには他我という意味とともに現れ、より高次の発生のおかげで、この意味のうえに新しい意味を積み重ねるような統覚、という二つの統覚の区別である。・・・】
    > ってある。<

    A 他我の意味のうえに新しい意味を積み重ねる統覚

    この@Aの統覚がある。

    > No21977で、わたしが、
    > >ここからは、カントは[Apperzeption〈統覚〉]を[der empirischen〈経験的(統覚)〉] と[reine Apperzeption〈純粋統覚〉]に分けてるっていうことだけを抽出しとく。<
    > って見たように、カントも「統覚」を二種類に分けて見てるんじゃないかって(あ、逆にフッサールがカントに習って、かな?)。カントの場合、「経験的統覚」と「純粋統覚」って呼んだ二種類の統覚に、かな。<

    うん。pipitもそう思ってる。
    カントの場合は、
    (1)経験的統覚
    (2)純粋統覚
    の区別があると思ってる。

    > 「Apperzeption(統覚)」なんだけど、
    > 「現象学事典」に、
    >
    > 〔〈統覚〉は基本的には〈統握〉と同義である。『論理学研究』Uでは、しばしば〈統覚〉と〈統握〉は並置され言い換られている。<

    統覚=統握 として使用OKということかな?


    >この並置は、ApperzeptionがPerzeptionとの伝統的な対比によって(高次の知覚だという)誤解を生むのを避けるためである。<

    お、では、Apperzeptionは知覚ではなく、統握だということなのかな?

    >‥‥このように〈統覚〉は〈統握〉と基本的に同義であるが、<

    うん。

    >しかし、後者に比べ、前者は何かと何かの〈結びつき〉という意味を、より強く与えられていると言える。<

    統覚は結びつける能力ということでもいいのかな。

    >…なお〈統覚〉の語はカントと深く関わる。<

    お!カント来たー(≧∀≦)

    >カントは「純粋統覚」(根源的統覚)を「我思考するという表象を産み出すところの自己意識」だとしている。<

    うん。

    >これによって、直観に与えられる多様な諸表象、一つの自己意識に属することが可能となる。…〕
    >
    > ってあるんだけど、このなかの、〔カントは「純粋統覚」(根源的統覚)を「我思考するという表象を産み出すところの自己意識」だとしている。<

    うん。


    >これによって、直観に与えられる多様な諸表象、一つの自己意識に属することが可能となる。〕っていうところ、おかげで分かった気がする。<

    うん。pipitの場合、わかったと思っても、あれ?となることも多いんやけど
    (^^;;
    カントのせいなのか、pipitのせいなのか。。。両方なのか。。。


    > あと、〔「純粋統覚」(根源的統覚)〕ってある。<

    うん。

    > 「純粋統覚」を[reine Apperzeption]「pure apperception」、そして、田村さんや中山さんが[ursprungliche]を「根源的」て訳してるのと同じように、ここでも[ursprungliche Apperzeption]を「根源的統覚」って訳してるんだとすると、「純粋統覚」括弧(根源的統覚)、ということは、(a)[reine Apperzeption]を別名[ursprungliche Apperzeption]と呼んでいる、ってここでも見てるのかもしれない。<

    うん。でも、多数が勘違いしてる場合もあるよね。
    そんなつもりじゃなかったのよぉ(byカント)みたいな。


    > ひとまず、[Apperzeption(統覚)]には二種類ある、っていうところはカントとフッサールとは共通してるって見とくことにしたよ。<

    うん。

    > で、わたしの書いちゃうね。
    >
    > 「統覚」っていうの、わたし簡単に見ちゃって、精神において〈何かと何かを結びつける働き〉ってして、二種類の統覚ってうのを、〈感性における統覚〉と〈思-考における統覚〉ってしてる。<

    うん。


    > わたし、二種類の統覚、〈感性における統覚〉と〈思-考における統覚〉を名で区別するために、前者を〈統覚Apperzeption〉、後者を〈統握Auffassung 〉ってしてる。<

    ほぉ、おもしろいね。
    ここは、カント的、と、現象学的?メルロ=ポンティさん的?との分水嶺かもだね。
    ※カントの場合は、結合は全部思考の仕事としてるみたいなんだよ。

    >
    『デカルト的省察』の訳注に〔Apperzeption:Perzeption(もとはラテン語perceptioで、「知覚」の意)に前つづりAd-(「方向・接近・隣接・接着」の意)が付け加えられたもの。〕を〈知覚に接着した〉って見て、「現象学事典」で、〔統握の原意は理解・解釈であり〕ってあって、これは思-考におてのもの、って見ちゃってるから。<


    知覚に接着してるのが、統覚Apperzeptionで、

    思考内で思考物同士を結合させてるのが、統握、って感じに捉えてるのかな?


    > 表象をおりまぜると、〈感性における多種多様な表象の結びつけ〉と〈思-考における多種多様な表象の結びつけ〉として、統覚と統握ね。<

    うん。


    > これからの課題は、田村さんが訳してるような、
    > 『もはや他のどんなものからも導き出すことのできないような』「自己意識」[SelbstbewuBtsein] 「self-consciousness」が問題になるわね。わたしの表言では〈「私」ってなあに?〉っていうことになるのかな。<

    うん。わたしも気が重いんだけど、カント的↓

    > 『もはや他のどんなものからも導き出すことのできないような』「自己意識」[SelbstbewuBtsein] 「self-consciousness」が問題になるわね。わたしの表言では〈「私」ってなあに?〉っていうことになるのかな。<

    ↑の考え方を、、、
    知りたいような、難しくて、めんどくさくて、嫌になってるような、、、

    二律背反の気持ちー(二律背反、、、宿題姉様がよく使ってた気がするワード♪)


    > あと、「intuition(直観)」も問題ね。<

    うん。
    なんかメルポンさんの考え方の方がオシャレでカッコ良さげだよね。(イメージ)


    > こういうような話しができてわたしうれしい。
    >

    ありがとね!わたしもうれしいよ(*^ω^*)♪
引用返信/返信 削除キー/
■22006 / inTopicNo.28)  Re[26]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/04/03(Sun) 11:51:54)
    pipitさま、読んでくれてありがと。

    >悪魔ちゃんには少しクセがありすぎかもだね。<
    う・ふ・ふ (*^▽^*)、そうよ〜、わたしクセ者(怪しい者)、だって悪魔ちゃんなんだもの。

    >pipit私見では、中山先生の訳においては、Apperzeption=自己統合の意識=統覚と捉えてるよ。<
    >中山先生は、Apperzeptionの一単語を「自己統合の意識」と訳してるのだと思ってるよ。<
    なるほど〜。

    >かなり中山先生の見解も訳に盛り込まれている感じもあるしね。<
    わたしもそんな感じに見える。

    >自己統合の意識=統覚 で考えてみると、悪魔ちゃん的にはどうなるのかな??<
    中山さんの「自己統合」っていうの、さっぱりでわかんない。ここでは中山さんの「統覚」の意味(「自己統合の意識」の意味)はひとまず横に置いとくね。

    >例えば「私は考える」としゃべる音源機械があるとして、音源機械は自分に気付いてるから「私は考える」としゃべってるわけではないよね?音源機械にとって「私は考える」としゃべることがアプリオリ(経験より前に)決定されてるとき、音源機械が自己の存在に気づくか否かは、しゃべる原因になってないと思うんだ。<
    ごめん、これ、わたしよくわかんない。でも思ったことを言っちゃうね。「機械」が、よね。機械が「私は考える」って喋ってるのよね。このとき機械は、「私は考える」って喋ってるのは誰?とは問わないし、そもそも「私」ってなあに?なんて考えないんじゃないかしら。


    No21790あたりのにわたしがどうしてこだわっているのかっていうと、
    カントは「Apperzeption(統覚)」っていうのどう見てるのかな〜?って思ったのね。

    以下は、現象学のわたしのから見たカントの「統覚」について、わたしに分かりやすくするためのお話しね。

    でね、どうやらフッサールは二種類の[Apperzeption(統覚)]を見てるようなのね。
    『デカルト的省察』のなかに、

    【…私の原初的領分の内部での、あそこにある物体を私の物体と結びつける類似性のみが、前者を他の〔他人の〕身体として「類比によって」捉えるように動機づけるための基礎を与えることができるということは、初めから明らかである。それゆえ、それは或る種の類似にもとづく統覚という把握の働きであろうが、だからと言って、それは類推〔類比推理〕なのではない。ここで言う統覚とは推理ではないし、思考作用でもない。】

    【…では、どのようにして統覚が生じるのか、さらに、どのようにして統覚はその意味と意味の地平を通じてそれ自身でその発生を志向的に遡って指示しているのか、については非常に多様である。対象的意味の段階形成には、統覚の段階形成が対応している。結局、私たちはいつも二種類の統覚の根本的な区別に戻ってくることになる。一つには、その発生からして純粋に原初的領分に属するような統覚と、もう一つには他我という意味とともに現れ、より高次の発生のおかげで、この意味のうえに新しい意味を積み重ねるような統覚、という二つの統覚の区別である。・・・】

    ってある。

    No21977で、わたしが、
    >ここからは、カントは[Apperzeption〈統覚〉]を[der empirischen〈経験的(統覚)〉] と[reine Apperzeption〈純粋統覚〉]に分けてるっていうことだけを抽出しとく。<
    って見たように、カントも「統覚」を二種類に分けて見てるんじゃないかって(あ、逆にフッサールがカントに習って、かな?)。カントの場合、「経験的統覚」と「純粋統覚」って呼んだ二種類の統覚に、かな。

    「Apperzeption(統覚)」なんだけど、
    「現象学事典」に、

    〔〈統覚〉は基本的には〈統握〉と同義である。『論理学研究』Uでは、しばしば〈統覚〉と〈統握〉は並置され言い換られている。この並置は、ApperzeptionがPerzeptionとの伝統的な対比によって(高次の知覚だという)誤解を生むのを避けるためである。‥‥このように〈統覚〉は〈統握〉と基本的に同義であるが、しかし、後者に比べ、前者は何かと何かの〈結びつき〉という意味を、より強く与えられていると言える。…なお〈統覚〉の語はカントと深く関わる。カントは「純粋統覚」(根源的統覚)を「我思考するという表象を産み出すところの自己意識」だとしている。これによって、直観に与えられる多様な諸表象、一つの自己意識に属することが可能となる。…〕

    ってあるんだけど、このなかの、〔カントは「純粋統覚」(根源的統覚)を「我思考するという表象を産み出すところの自己意識」だとしている。これによって、直観に与えられる多様な諸表象、一つの自己意識に属することが可能となる。〕っていうところ、おかげで分かった気がする。
    あと、〔「純粋統覚」(根源的統覚)〕ってある。
    「純粋統覚」を[reine Apperzeption]「pure apperception」、そして、田村さんや中山さんが[ursprungliche]を「根源的」て訳してるのと同じように、ここでも[ursprungliche Apperzeption]を「根源的統覚」って訳してるんだとすると、「純粋統覚」括弧(根源的統覚)、ということは、(a)[reine Apperzeption]を別名[ursprungliche Apperzeption]と呼んでいる、ってここでも見てるのかもしれない。

    ひとまず、[Apperzeption(統覚)]には二種類ある、っていうところはカントとフッサールとは共通してるって見とくことにしたよ。

    で、わたしの書いちゃうね。

    「統覚」っていうの、わたし簡単に見ちゃって、精神において〈何かと何かを結びつける働き〉ってして、二種類の統覚ってうのを、〈感性における統覚〉と〈思-考における統覚〉ってしてる。

    わたし、二種類の統覚、〈感性における統覚〉と〈思-考における統覚〉を名で区別するために、前者を〈統覚Apperzeption〉、後者を〈統握Auffassung 〉ってしてる。『デカルト的省察』の訳注に〔Apperzeption:Perzeption(もとはラテン語perceptioで、「知覚」の意)に前つづりAd-(「方向・接近・隣接・接着」の意)が付け加えられたもの。〕を〈知覚に接着した〉って見て、「現象学事典」で、〔統握の原意は理解・解釈であり〕ってあって、これは思-考におてのもの、って見ちゃってるから。

    表象をおりまぜると、〈感性における多種多様な表象の結びつけ〉と〈思-考における多種多様な表象の結びつけ〉として、統覚と統握ね。

    これからの課題は、田村さんが訳してるような、
    『もはや他のどんなものからも導き出すことのできないような』「自己意識」[SelbstbewuBtsein] 「self-consciousness」が問題になるわね。わたしの表言では〈「私」ってなあに?〉っていうことになるのかな。

    あと、「intuition(直観)」も問題ね。


    こういうような話しができてわたしうれしい。

引用返信/返信 削除キー/
■21992 / inTopicNo.29)  Re[25]: 悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/04/02(Sat) 21:42:32)
    2022/04/02(Sat) 22:59:04 編集(投稿者)
    2022/04/02(Sat) 21:57:59 編集(投稿者)

    続きです。
    No21989


    >(4)それは わたしは「純粋な統覚」と名づけ、
    >(5)経験的なものから区別するため、
    >(6)あるいは「オリジナルの統覚」、<

    > (6)が、(5)にかかる<
    > 場合、<
    > 〔私がこれを純粋知覚(pure apperception)と呼ぶのは、経験的知覚(the empirical)、あるいは原初的知覚 (original apperception)と区別するためであり、…〕(a)<

    > 前者(a)の場合は、[der empirischen〈経験的(統覚)〉] (the empirical)を、[ursprungliche Apperzeption〈オリジナルの統覚〉] (original apperception)とも呼ぶ、っていうふうに見えるし、<

    うん。

    >(6)が、
    >(4)にかかる
    > 後者(b)の場合は、[reine Apperzeption〈純粋統覚〉] (pure apperception)を、[ursprungliche Apperzeption〈オリジナルの統覚〉] (original apperception)とも呼ぶ、っていうふうに見える。<

    うん。pipitは今のところそう思ってるね。


    > 田村さんのは『私はこの表象を経験的統覚と区別するために純粋統覚、あるいはまた根源的統覚とも名づける。』で後者(b)の方かな。<

    そうだね。

    >中山さんのも『わたしはこの像を[感性による]経験的なものと区別するために、「純粋な自己統合の意識[=統覚]」と呼ぶことにする。これはあるいは「根源的な自己統合の意識」とも呼べる』で、(b)になるんだと思う。<

    うん、そうだとpipitも思ってる。

    > 中山さんの訳?なんだけど、「純粋な自己統合の意識[=統覚]」の[=統覚]はどこにかかってるのかしら?「純粋な自己統合の意識」に?それとも「意識」に?<

    pipit私見では、中山先生の訳においては、

    Apperzeption=自己統合の意識=統覚

    と捉えてるよ。

    >もし「純粋な自己統合の意識」[=統覚]だとしたら、『…「統覚」と呼ぶことにする。これはあるいは「根源的な自己統合の意識」とも呼べる』ってなって、ちょっと原文のとは違う感じ。「意識」だけにかかってるんだとしたら「純粋な自己統合の統覚」ってなって『…「純粋な自己統合の統覚」と呼ぶことにする。これはあるいは「根源的な自己統合の意識」とも呼べる』ってなる。こっちのほうがそんな感じがする。「自己統合」を抜かすと「純粋な統覚」「根源的な意識」ってなる。<

    自己統合の意識=統覚 で考えてみると、悪魔ちゃん的にはどうなるのかな??


    >ところで、中山さんは原文のどこを「自己統合」って訳してるのかしら?<

    pipitは、中山先生は、Apperzeptionの一単語を「自己統合の意識」と訳してるのだと思ってるよ。

    >
    [SelbstbewuBtsein]?これドイツ語翻訳では「自己意識」ってあった。英語では「self-consciousness」に当たるんだと思う。「self-consciousness」をネットで調べて見たら〔自己意識、あるいは自意識。自己が存在することに気づく能力であり、外界や他人と区別された、自我としての意識〕ってあった。で、「自己統合」をネットで調べて見たんだけどなんかよくわかんなかった。なんか、山中さんのはわたしにとっては分かりにくい。彼の訳にはあまり深入りしないほうがよさそう。<

    pipitは中山先生訳も好きなんだけど、悪魔ちゃんには少しクセがありすぎかもだね。
    哲学用語をきちんと知ってる方には、かえって意味を掴み難くなるかもだね。
    かなり中山先生の見解も訳に盛り込まれている感じもあるしね。


    > カントは(a)[reine Apperzeption〈純粋統覚〉]を別名[ursprungliche Apperzeption〈オリジナルの統覚〉]と呼んでいるのか、(b)[der empirischen〈経験的(統覚)〉]を別名[ursprungliche Apperzeption〈オリジナルの統覚〉]と呼んでいるのかはわたしには分かんない。<

    うん。pipitは、今のところ(a)と思ってる。

    >[ursprungliche]は、「元の、当初の、オリジナルの、初期、最初の」だった。もし、〈経験(感性)における統覚〉を〈最初の統覚〉として見ると(b)になるようにもわたし思えるんだけど。ここらへんはどちらにも取れるっていうことで保留にしといて、ここからは、カントは[Apperzeption〈統覚〉]を[der empirischen〈経験的(統覚)〉] と[reine Apperzeption〈純粋統覚〉]に分けてるっていうことだけを抽出しとく。<

    うん。


    > (7)weil sie dasjenige SelbstbewuBtsein ist,〈なぜなら自己意識は、〉(9) indem es die Vorstellung Ich denke hervorbringt,〈することによって それは 〈“私は考える”という表象〉をもたらす、〉
    > ってすると、[Vorstellung Ich denke〈“私は考える”という表象〉]は、[SelbstbewuBtsein〈自己意識〉]から生まれてくるもの、って見られる。<

    うん。pipitは一応、この(7-12)が、ursprunglicheと名づける理由と捉えてるんだ。


    >〈自己意識〉を〈外界や他人と区別された、自己が存在することに気づく能力、自我としての意識〉ってすると、〈外界や他人と区別された、自己が存在することに気づく能力、自我としての意識〉(自己意識)によって、〈“私は考える”という表象〉が生まれてくる、っていうことになる。<

    これ、カントの場合微妙だと思うんだ。

    例えば「私は考える」としゃべる音源機械があるとして、
    音源機械は自分に気付いてるから「私は考える」としゃべってるわけではないよね?

    音源機械にとって「私は考える」としゃべることがアプリオリ(経験より前に)決定されてるとき、
    音源機械が自己の存在に気づくか否かは、しゃべる原因になってないと思うんだ。



    > こう見たとき、デカルトの[Ego cogito, ergo sum, sive existo]を想い出す。前にわたしが調べたのを書き写してみますね。
    >
    > ネットで、
    > 〔「我思う、故に我在り」(われおもう、ゆえにわれあり、仏: Je pense, donc je suis[1]、羅: Cogito ergo sum)は、デカルトが仏語の自著『方法序説』(Discours de la m&#233;thode)の中で提唱した有名な命題である。『方法序説』の他、『省察』、『哲学原理』、『真理の探究』でも類似した表現が使われているが、一様でなく、その解釈について争いがある。ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)との標題が有名だが、これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。『方法序説』の幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(&#201;tienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲し、Ego cogito, ergo sum, sive existo との表現がされている。デカルト自身がラテン語で書いた『哲学原理』(Principia philosophiae)ではego cogito, ergo sum、『省察』では、Ego sum, ego existo と表現されている。〕
    > ってあった。
    > そこでラテン語で検索したら、
    > (ラ)sum:1人称:sum(スム)(I am)、私はいる。(ラテン語コピュラの一人称単数・直説法・現在形)私は〜である。
    > (ラ)Ego:私は。私が。第一人称。→「わたしは」と一人称的に表記する
    > (ラ)ergo:したがって existo:存在 cogito:考える sive:また
    > ってあった。で、これで訳してみると、
    > *Ego cogito, ergo sum, sive existo=わたし 考える、したがって 私はいる、また 存在する
    > *ego cogito, ergo sum=わたし 考える、したがって 私はいる
    > *Ego sum, ego existo=わたし 私はいる、私 存在する
    > ってなった。<




    > もし、カントが、〔〈外界や他人と区別された、自己が存在することに気づく能力、自我としての意識〉(自己意識)によって、〈”私は考える”という表象〉が生まれてくる〕のようなことを言ってるんだとしたら、デカルトの[Ego cogito, ergo sum, sive existo]を逆に(自己意識が存在する、ゆえに“私は考える”という表象が生まれる)反復してるようにも思える。<

    あ、うん、

    >自己意識が存在する、ゆえに“私は考える”という表象が生まれる<

    これは、カント的な考え方にpipitには思えるよ。


    > でもよく考えて見ると[Ich denke]「I think」「私は考える」のなかにはすでに[Ich]「I」「私」が入っちゃてるから、とりたててのことじゃないかも。<

    うん。私見では、ここから、デカルト批判に向けていくのかも、と、思ってるよ。


    >(1)〜(9)では、「私」あるいは「自己意識」というのがどのようにして生まれてくるのかについての記述じゃないみたい。
    >
    > (10)(11)(12)のところはわたしに分かりやすい文章にするのはできなかったで〜す。
    > 訳としては、
    >
    > I call it pure apperception, in order to distinguish it from empirical; or primitive apperception, because it is self-consciousness which, whilst it gives birth to the representation “I think,” must necessarily be capable of accompanying all our representations.
    > (DeepL機械翻訳)
    > 私はこれを、経験的な知覚と区別するために、純粋な知覚、あるいは原初的な知覚と呼んでいます。なぜなら、これは自己意識であり、「私は考える」という表現を生み出す一方で、私たちのすべての表現に必ず付随していなければならないものだからです。
    > の(DeepL機械翻訳)の「知覚」→「統覚」、「表現」→「表象」に置き換えたのと、
    >
    > 田中さんの訳
    > 『私はこの表象を経験的統覚と区別するために純粋統覚、あるいはまた根源的統覚とも名づける。なぜならこの統覚は、すべての他の表象に伴うことができなければならず、すべての意識において同一のものである「私は思考する」という表象を生み出すので、もはや他のどんなものからも導き出すことのできないような自己意識だからである。』
    >
    > のが、わたしにとってはわかりやすかった。<

    うん。田村一郎先生の訳だね。
    『純粋理性批判 上』宇都宮芳明監訳、以文社、p188に載ってた訳だよ。この本は複数の先生が分担して訳されてるんだ。珍しいよね。


    > 『もはや他のどんなものからも導き出すことのできないような』、「自己意識」(外界や他人と区別された、自己が存在することに気づく能力、自我としての意識)は問題よね。わたしなりに見ると「私」が問題。<

    うん。

    > 長くなっちゃってごめんね。一生懸命調べて考えて見たから。<

    おつかれさま、読めて嬉しいです (*^▽^*)
    書いてくれてありがとね!

引用返信/返信 削除キー/
■21989 / inTopicNo.30)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/04/02(Sat) 20:58:37)
    2022/04/02(Sat) 23:03:29 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、書き込みありがと、嬉しいです
    (^_^)おつかれさま!

    悪魔ちゃんの書き込みを、pipitが自分が理解しやすいように、書いてる場所を移動変更したりさせてもらうね。m(_ _)m

    No21977
    > (独)
    > (1)Diese Vorstellung aber ist ein Aktus der Spontaneitat,
    > わたしの訳
    > (1) しかしこの表象は 一つの自発的な活動、

    > (2)d.i.
    > (2) d.i.←わたしこれわかんない

    > (3) sie kann nicht als zur Sinnlichkeit gehorig angesehen werden.
    > (3) それは 当然 感性から 発生 とはみなされない。

    > (4)Ich nenne sie die reine Apperzeption,
    > (4) それは わたしは「純粋な統覚」と名づけ、

    > (5)um sie von der empirischen zu unterscheiden,
    > (5) 経験的なものから区別するため、

    > (6)oder auch die ursprungliche Apperzeption,
    > (6) あるいは「オリジナルの統覚」、

    > (7)weil sie dasjenige SelbstbewuBtsein ist,
    > (7) なぜなら自意識は、

    > (8) was,
    > (8) 何?、

    > (9) indem es die Vorstellung Ich denke hervorbringt,
    > (9) することによって それは 〈“私は考える”という表象〉をもたらす、

    > (10) die alle anderen muB begleiten konnen,
    > (10) 全員 その他を 同行できなければならない、

    > (11)und in allem BewuBtsein ein und dasselbe ist,
    > (11) と すべての意識 一つの と 同じこと は、


    > (12)von keiner weiter begleitet werden kann.
    > (12) から さらに いかなる 付随 発生する できる。

    > 日本語の選択なんだけど、(1)の[Vorstellung]は、(9)に[Vorstellung Ich denke]ってあるから、〈[Ich denke]という[Vorstellung]〉って言うことだと思う。で、この[Vorstellung]は、ネットによると「考え・考え方・概念・想像・認識・理解・イメージ」ってあった。pipitさまからの情報のなかで、英訳で「idea」これは「観念」、「representation」これは「表現」、中山さんのは「像」、田村さんのは「表象」ってなってるんだと思う。
    > DeepL機械翻訳の[Apperzeption]→「知覚」とか、「representation」→「表現」っていうのはなんか違うと思う。
    > で、わたしどうしようかって思ったんだけど、[Vorstellung]→「representation」→「表象」ってすることにした。
    > で、[Vorstellung Ich denke]は、〈“私は考える”という表象〉ってしたよ。<

    うん、pipitも

    > で、[Vorstellung Ich denke]は、〈“私は考える”という表象〉ってしたよ。<

    ↑そう思ってる。



    > 「representation(表象)」っていうの、「現象学事典」にあったんだけど〔表象は単にあるものやことが意識に現れるその働き〕ってわたししてる。〔意識に〕だから〈感性に〉にも〈思-考に〉も現れるもの、として、re-presentationだから〈再び〉っていう意味も含んでるものとして、また〈表象する〉という能動的にも〈表象される〉という受動的にも使われるものとして、わたし見てる。
    > ここで、「representation(表象)」を、中島義道さんが言う「私が私の前に何ものかを立てる」っていう能動的な意味として見て見ると、 [Vorstellung Ich denke〈「私は考える」という表象〉]において、(1)は、〈「私は考える」という、私が私の前に何ものかを立てる、というのは自発的な活動、〉って見ることもできるかも。<

    うん。ここちょっと問題含みかもで、カントは感性は感受だと言ってるんだけど、表象という現象を考えたら、

    > 「representation(表象)」を、中島義道さんが言う「私が私の前に何ものかを立てる」っていう能動的な意味として見て見ると、<

    という意味も含めてかもだけど、『カントとオートポイエーシス』の著者、山下和也先生は、感性による表象も、能動入ってるんじゃない?みたいな意見を述べてた記憶があるよ。


    > [reine Apperzeption]は「純粋統覚」ってして、
    > [die ursprungliche Apperzeption]の[ursprungliche]は、「元の、当初の、オリジナルの、初期、最初の」ってあった。
    > でひとまず〈オリジナルの統覚〉ってした。pipitさまが提示してくれたなかでは、英語では「original」、「primitive」でDeepL機械翻訳では両方「原初的」ってなってたと思う。中山、田村さんのは「根源的」って訳してるのかな。<

    うん。


    > (5)の[der empirischen] を〈経験的の〉、〈経験的なもの〉って訳したんだけど、これ、〈感性に発生してるもの〉ともわたし見てる。田村さんは「経験的統覚」って訳してるみたい。[empirischen Apperzeption]とは書いてないけど、わたしもそう見ることにした。<

    そうだね、何か経験の後、という意味で、アポステリオリ的に生じる統覚みたいなのかなー?

    > ここで整理すると、(1)〜(5)は、
    > [Vorstellung Ich denke〈“私は考える”という表象〉]は、自発的な活動だから、[der empirischen〈経験的(統覚)〉](感性におけるもの)とは区別して[reine Apperzeption〈純粋統覚〉]と名づける。
    > っていうことになるのかな。<

    うん。

    >(4)それは わたしは「純粋な統覚」と名づけ、
    >(5)経験的なものから区別するため、
    >(6)あるいは「オリジナルの統覚」、<
    > ここでわかりずらいのが、(6)が、(5)にかかるのか?、(4)にかかるのか?、っていうこと。<

    pipit私見では、
    (4)と(6)が並列?で、
    ※それをわたしは「純粋な統覚」あるいは「オリジナルな統覚」と名づける。※

    (5)は、(4)の理由なんじゃないかな?
    ※経験的なものから区別するために、「純粋な統覚」と名づける。※


    > (6)が、(5)にかかる<
    > 前者の場合、<
    > (上記のDeepL機械翻訳.日訳)〔私がこれを純粋知覚(pure apperception)と呼ぶのは、経験的知覚(the empirical)、あるいは原初的知覚 (original apperception)と区別するためであり、…〕(a)

    あー、なるほど、original apperceptionをどのように捉えるか、が問題になってきそうだね。

    > (4)にかかる<
    > 後者の場合、
    > (DeepL機械翻訳)〔私はこれを、経験的な知覚と区別するために、純粋な知覚、あるいは原初的な知覚と呼んでいます。…〕(b)
    > ってなるのかな?<

    pipit私見では、
    (6)と名づけるを理由が、(7から12)で述べられてるのかなと思ったよ。

    一旦ここまでを投稿するね!
引用返信/返信 削除キー/
■21985 / inTopicNo.31)  Re[23]: 訳・日記
□投稿者/ pipit -(2022/04/02(Sat) 18:44:46)
    はやく勉強したいぞー p(^_^)qもすこしあとでねー
引用返信/返信 削除キー/
■21984 / inTopicNo.32)  Re[25]: 超越論的感性論 第六項:Z−2
□投稿者/ pipit -(2022/04/02(Sat) 18:27:50)
    2022/04/02(Sat) 18:29:23 編集(投稿者)

    うましかさんへ
    No21969

    こんばんは!

    >時間は、形態にも或いは位置その他にも属さず、それとは逆に、私たちの内的状態における諸表象の関係を規定する。<

    ここ、おもしろいなーと個人的に思いました。
    内的状態における諸表象の関係を規定する、のが、時間という形式。(・∀・)カントのヘンジン。。。



    >◇そして、この内的直観はいかなる形態をも与えないという、まさにこの理由で、私たちはまたこの欠陥を類比によって補うことをもとめ、時間継続を無限に進行する一つの線によって示すが、この線においては、多様なものは一次元しかもたない一つの系列を形成し、私たちはこの線の諸固有性にもとづいて、線の諸部分は同時に存在するのに時間の諸部分はいつでも継起的に存在するという唯一の点を除いて、時間のすべての固有性を推論するのである。

     ※1 線の諸部分は同時に存在する
     ※2 時間の諸部分はいつでも継起的に存在する

    ◇このことからさらに明白なのは、時間の表象はそれ自身直観であるということに他ならない。というのは、時間のあらゆる関係は外的直観で表現されるからである。

     ※3 外的直観と内的直観(;´・ω・)?<

    沼ですねー

    ちょっと※3が、個人的にはわからないです。
    前半は、線を書くという空間において仮表現する事態を表現してるのかな、と、思ってるのですが、

    あ!!
    外的直観の変化で時間が表現されるということ?

    私たちが、時間を感じるのは、表象Aと表象Bの対比?を必要とすること?

    違うかもだけど、さっき思いついたこと吟味せずに書きました。

    勉強おつかれさまです(^○^)


引用返信/返信 削除キー/
■21983 / inTopicNo.33)  Re[22]: 訳
□投稿者/ pipit -(2022/04/02(Sat) 18:16:11)
    悪魔ちゃんへ

    No21977
    うぉー、ありがとー

    ゆっくり読ませてもらうね!楽しみです♪

    また返信書き込みするねー ( ^ω^ )♪
引用返信/返信 削除キー/
■21977 / inTopicNo.34)  Re[21]: 訳
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/04/02(Sat) 15:39:03)
    お邪魔しま〜す。

    No21790あたりからの、わたしまだそこらへんだよ〜
    カントの原文、ネットのドイツ語調べて、わたしなりに訳してみて、pipitさまが提示してくれたいろんな訳と比較してみたよ。

    (独)
    (1)Diese Vorstellung aber ist ein Aktus der Spontaneitat,
    (2)d.i.
    (3) sie kann nicht als zur Sinnlichkeit gehorig angesehen werden.
    (4)Ich nenne sie die reine Apperzeption,
    (5)um sie von der empirischen zu unterscheiden,
    (6)oder auch die ursprungliche Apperzeption,
    (7)weil sie dasjenige SelbstbewuBtsein ist,
    (8) was,
    (9) indem es die Vorstellung Ich denke hervorbringt,
    (10) die alle anderen muB begleiten konnen,
    (11)und in allem BewuBtsein ein und dasselbe ist,
    (12)von keiner weiter begleitet werden kann.

    わたしの訳
    (1) しかしこの表象は 一つの自発的な活動、
    (2) d.i.←わたしこれわかんない
    (3) それは 当然 感性から 発生 とはみなされない。
    (4) それは わたしは「純粋な統覚」と名づけ、
    (5) 経験的なものから区別するため、
    (6) あるいは「オリジナルの統覚」、
    (7) なぜなら自意識は、
    (8) 何?、
    (9) することによって それは 〈“私は考える”という表象〉をもたらす、
    (10) 全員 その他を 同行できなければならない、
    (11) と すべての意識 一つの と 同じこと は、
    (12) から さらに いかなる 付随 発生する できる。

    これがわたしには精一杯

    日本語の選択なんだけど、(1)の[Vorstellung]は、(9)に[Vorstellung Ich denke]ってあるから、〈[Ich denke]という[Vorstellung]〉って言うことだと思う。で、この[Vorstellung]は、ネットによると「考え・考え方・概念・想像・認識・理解・イメージ」ってあった。pipitさまからの情報のなかで、英訳で「idea」これは「観念」、「representation」これは「表現」、中山さんのは「像」、田村さんのは「表象」ってなってるんだと思う。
    DeepL機械翻訳の[Apperzeption]→「知覚」とか、「representation」→「表現」っていうのはなんか違うと思う。
    で、わたしどうしようかって思ったんだけど、[Vorstellung]→「representation」→「表象」ってすることにした。
    で、[Vorstellung Ich denke]は、〈“私は考える”という表象〉ってしたよ。

    「representation(表象)」っていうの、「現象学事典」にあったんだけど〔表象は単にあるものやことが意識に現れるその働き〕ってわたししてる。〔意識に〕だから〈感性に〉にも〈思-考に〉も現れるもの、として、re-presentationだから〈再び〉っていう意味も含んでるものとして、また〈表象する〉という能動的にも〈表象される〉という受動的にも使われるものとして、わたし見てる。
    ここで、「representation(表象)」を、中島義道さんが言う「私が私の前に何ものかを立てる」っていう能動的な意味として見て見ると、 [Vorstellung Ich denke〈「私は考える」という表象〉]において、(1)は、〈「私は考える」という、私が私の前に何ものかを立てる、というのは自発的な活動、〉って見ることもできるかも。

    [reine Apperzeption]は「純粋統覚」ってして、
    [die ursprungliche Apperzeption]の[ursprungliche]は、「元の、当初の、オリジナルの、初期、最初の」ってあった。
    でひとまず〈オリジナルの統覚〉ってした。pipitさまが提示してくれたなかでは、英語では「original」、「primitive」でDeepL機械翻訳では両方「原初的」ってなってたと思う。中山、田村さんのは「根源的」って訳してるのかな。

    (5)の[der empirischen] を〈経験的の〉、〈経験的なもの〉って訳したんだけど、これ、〈感性に発生してるもの〉ともわたし見てる。田村さんは「経験的統覚」って訳してるみたい。[empirischen Apperzeption]とは書いてないけど、わたしもそう見ることにした。

    ここで整理すると、(1)〜(5)は、
    [Vorstellung Ich denke〈“私は考える”という表象〉]は、自発的な活動だから、[der empirischen〈経験的(統覚)〉](感性におけるもの)とは区別して[reine Apperzeption〈純粋統覚〉]と名づける。
    っていうことになるのかな。

    ここでわかりずらいのが、(6)が、(5)にかかるのか?、(4)にかかるのか?、っていうこと。
    前者の場合、
    (上記のDeepL機械翻訳.日訳)〔私がこれを純粋知覚(pure apperception)と呼ぶのは、経験的知覚(the empirical)、あるいは原初的知覚 (original apperception)と区別するためであり、…〕(a)
    後者の場合、
    (DeepL機械翻訳)〔私はこれを、経験的な知覚と区別するために、純粋な知覚、あるいは原初的な知覚と呼んでいます。…〕(b)
    ってなるのかな?
    前者(a)の場合は、[der empirischen〈経験的(統覚)〉] (the empirical)を、[ursprungliche Apperzeption〈オリジナルの統覚〉] (original apperception)とも呼ぶ、っていうふうに見えるし、
    後者(b)の場合は、[reine Apperzeption〈純粋統覚〉] (pure apperception)を、[ursprungliche Apperzeption〈オリジナルの統覚〉] (original apperception)とも呼ぶ、っていうふうに見える。
    田村さんのは『私はこの表象を経験的統覚と区別するために純粋統覚、あるいはまた根源的統覚とも名づける。』で後者(b)の方かな。中山さんのも『わたしはこの像を[感性による]経験的なものと区別するために、「純粋な自己統合の意識[=統覚]」と呼ぶことにする。これはあるいは「根源的な自己統合の意識」とも呼べる』で、(b)になるんだと思う。

    中山さんの訳?なんだけど、「純粋な自己統合の意識[=統覚]」の[=統覚]はどこにかかってるのかしら?「純粋な自己統合の意識」に?それとも「意識」に?もし「純粋な自己統合の意識」[=統覚]だとしたら、『…「統覚」と呼ぶことにする。これはあるいは「根源的な自己統合の意識」とも呼べる』ってなって、ちょっと原文のとは違う感じ。「意識」だけにかかってるんだとしたら「純粋な自己統合の統覚」ってなって『…「純粋な自己統合の統覚」と呼ぶことにする。これはあるいは「根源的な自己統合の意識」とも呼べる』ってなる。こっちのほうがそんな感じがする。「自己統合」を抜かすと「純粋な統覚」「根源的な意識」ってなる。ところで、中山さんは原文のどこを「自己統合」って訳してるのかしら?[SelbstbewuBtsein]?これドイツ語翻訳では「自己意識」ってあった。英語では「self-consciousness」に当たるんだと思う。「self-consciousness」をネットで調べて見たら〔自己意識、あるいは自意識。自己が存在することに気づく能力であり、外界や他人と区別された、自我としての意識〕ってあった。で、「自己統合」をネットで調べて見たんだけどなんかよくわかんなかった。なんか、山中さんのはわたしにとっては分かりにくい。彼の訳にはあまり深入りしないほうがよさそう。

    カントは(a)[reine Apperzeption〈純粋統覚〉]を別名[ursprungliche Apperzeption〈オリジナルの統覚〉]と呼んでいるのか、(b)[der empirischen〈経験的(統覚)〉]を別名[ursprungliche Apperzeption〈オリジナルの統覚〉]と呼んでいるのかはわたしには分かんない。[ursprungliche]は、「元の、当初の、オリジナルの、初期、最初の」だった。もし、〈経験(感性)における統覚〉を〈最初の統覚〉として見ると(b)になるようにもわたし思えるんだけど。ここらへんはどちらにも取れるっていうことで保留にしといて、ここからは、カントは[Apperzeption〈統覚〉]を[der empirischen〈経験的(統覚)〉] と[reine Apperzeption〈純粋統覚〉]に分けてるっていうことだけを抽出しとく。

    (7)weil sie dasjenige SelbstbewuBtsein ist,〈なぜなら自己意識は、〉(9) indem es die Vorstellung Ich denke hervorbringt,〈することによって それは 〈“私は考える”という表象〉をもたらす、〉
    ってすると、[Vorstellung Ich denke〈“私は考える”という表象〉]は、[SelbstbewuBtsein〈自己意識〉]から生まれてくるもの、って見られる。〈自己意識〉を〈外界や他人と区別された、自己が存在することに気づく能力、自我としての意識〉ってすると、〈外界や他人と区別された、自己が存在することに気づく能力、自我としての意識〉(自己意識)によって、〈“私は考える”という表象〉が生まれてくる、っていうことになる。

    こう見たとき、デカルトの[Ego cogito, ergo sum, sive existo]を想い出す。前にわたしが調べたのを書き写してみますね。

    ネットで、
    〔「我思う、故に我在り」(われおもう、ゆえにわれあり、仏: Je pense, donc je suis[1]、羅: Cogito ergo sum)は、デカルトが仏語の自著『方法序説』(Discours de la m&#233;thode)の中で提唱した有名な命題である。『方法序説』の他、『省察』、『哲学原理』、『真理の探究』でも類似した表現が使われているが、一様でなく、その解釈について争いがある。ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)との標題が有名だが、これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。『方法序説』の幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(&#201;tienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲し、Ego cogito, ergo sum, sive existo との表現がされている。デカルト自身がラテン語で書いた『哲学原理』(Principia philosophiae)ではego cogito, ergo sum、『省察』では、Ego sum, ego existo と表現されている。〕
    ってあった。
    そこでラテン語で検索したら、
    (ラ)sum:1人称:sum(スム)(I am)、私はいる。(ラテン語コピュラの一人称単数・直説法・現在形)私は〜である。
    (ラ)Ego:私は。私が。第一人称。→「わたしは」と一人称的に表記する
    (ラ)ergo:したがって existo:存在 cogito:考える sive:また
    ってあった。で、これで訳してみると、
    *Ego cogito, ergo sum, sive existo=わたし 考える、したがって 私はいる、また 存在する
    *ego cogito, ergo sum=わたし 考える、したがって 私はいる
    *Ego sum, ego existo=わたし 私はいる、私 存在する
    ってなった。

    もし、カントが、〔〈外界や他人と区別された、自己が存在することに気づく能力、自我としての意識〉(自己意識)によって、〈”私は考える”という表象〉が生まれてくる〕のようなことを言ってるんだとしたら、デカルトの[Ego cogito, ergo sum, sive existo]を逆に(自己意識が存在する、ゆえに“私は考える”という表象が生まれる)反復してるようにも思える。
    でもよく考えて見ると[Ich denke]「I think」「私は考える」のなかにはすでに[Ich]「I」「私」が入っちゃてるから、とりたててのことじゃないかも。(1)〜(9)では、「私」あるいは「自己意識」というのがどのようにして生まれてくるのかについての記述じゃないみたい。

    (10)(11)(12)のところはわたしに分かりやすい文章にするのはできなかったで〜す。

    訳としては、

    I call it pure apperception, in order to distinguish it from empirical; or primitive apperception, because it is self-consciousness which, whilst it gives birth to the representation “I think,” must necessarily be capable of accompanying all our representations.
    (DeepL機械翻訳)
    私はこれを、経験的な知覚と区別するために、純粋な知覚、あるいは原初的な知覚と呼んでいます。なぜなら、これは自己意識であり、「私は考える」という表現を生み出す一方で、私たちのすべての表現に必ず付随していなければならないものだからです。
    の(DeepL機械翻訳)の「知覚」→「統覚」、「表現」→「表象」に置き換えたのと、

    田中さんの訳
    『私はこの表象を経験的統覚と区別するために純粋統覚、あるいはまた根源的統覚とも名づける。なぜならこの統覚は、すべての他の表象に伴うことができなければならず、すべての意識において同一のものである「私は思考する」という表象を生み出すので、もはや他のどんなものからも導き出すことのできないような自己意識だからである。』

    のが、わたしにとってはわかりやすかった。

    『もはや他のどんなものからも導き出すことのできないような』、「自己意識」(外界や他人と区別された、自己が存在することに気づく能力、自我としての意識)は問題よね。わたしなりに見ると「私」が問題。

    長くなっちゃってごめんね。一生懸命調べて考えて見たから。

引用返信/返信 削除キー/
■21971 / inTopicNo.35)  Re[20]: 日記
□投稿者/ エイプリル うましか -(2022/04/02(Sat) 11:59:34)
    ク●の自己活用体こそが「オートポイエーシス」! (゚д゚)!

    感じるうましか
    それを知覚するうましか
    それを認識するうましか
    それを感じるうましか
    それを知覚するうましか
    それを認識するうましか
    それを感じるうましか


    ムカデ人間か! (;゚Д゚)(゚Д゚; )







    No21968に返信(pipitさんの記事)
    > オートポイエーシス論において、ある認識を排出物として捉えたとき、、、
    >
    >
    >
    >
    > No20368を再掲します。
    >
    > >みなさま、こんにちは。
    >
    > 【ごくたまに】お口が少し悪め?になる河本英夫先生の、
    > 【ごくたまに】お口が少し悪め?になった箇所が、
    > オートポイエーシスのざっくり全体像的説明として、わかりやすいかも?とpipitは思ったので、その部分を書き起こしてみました。
    > 書き起こしミスしてたらすみません。
    >
    > ※※※※※※※※
    > 方法論研究会「方法としてのオートポイエーシス」(20140301)
    > 講師 河本英夫先生
    >
    > https://youtu.be/CwexPvj90vY
    >
    >
    > 2:12:40→2:15:00
    > (2時間12分40秒くらいから2時間15分くらいまで)
    > 二重作動のことなどの説明に伴い、
    > 生成プロセスの排泄物の話になり、
    >
    > (2:13:10あたりから書き起こし開始)
    > 『プロセスがこういうふうに動いてる、そうして外になにか作られる、作られて普通結晶の場合はクソなんですよ。
    > 真珠貝の真珠、真珠も貝の中に分泌される、もうプロセスの中に入らない。
    > 貝の中にどんどん分泌がたまって、結晶物が、あれー、真珠貝のクソですよ、真珠っていうのは。
    > (略)
    > 結晶ってクソだから。プロセスから外れてるものだから。
    > その形になったときに、このクソをもう一回プロセスを動かすように巻き込むわけ。
    > 一回出たクソを、自分のプロセスの維持の方にこう巻き込むと、出たクソを使ってグルグルグルグルまわる円環ができて、その仕組みができたとき一番現象の、オートポイエーシスの仕組みになるわけです。
    > 一番単純にするとそういう形になる、
    > つまり正確に言うとオートポイエーシスとは、オートポイエーシスなんてかっこいい名前でなくて、クソの自己活用体ですね。
    > クソの自己活用体が、ところがこの時クソの意味が変わっちゃう、ここが問題なんだ。
    > で、この辺がこうポイントなんですよ。』
    > (2:14:55あたりまでの書き起こし終了)
    >
    > ※※※※※※※※
    >
    > 復習
    > No19305
    > 山下先生の本での定義
    >
    >>山下和也先生『カントとオートポイエーシス』p5より、山下先生による定義
    >
    > 「オートポイエーシス・システムとは、
    > 産出物が次の産出プロセスを作動させるという仕方で連鎖する産出プロセス群が作るネットワークの、
    > 循環的に作動して閉鎖した自己完結的閉域である。
    > 閉域形成に参与する産出物をシステムの構成素と呼ぶ」<
    > 再掲終わり
    >

引用返信/返信 削除キー/
■21969 / inTopicNo.36)  超越論的感性論 第六項:Z−2
□投稿者/ エイプリル うましか -(2022/04/02(Sat) 11:31:38)
    2022/04/02(Sat) 17:30:55 編集(投稿者)

    pipitさん、おはようございますー

    桜咲いてますねー

    満開の桜はいいですねー (どうしてそんなにいいのでしょうか(;´Д`A ``` 謎)

    そういえば、むかし知人で桜の花は可憐でよいと言った人がいるのですが、私のあたまのなかにはそのような感覚がなかったので、ちょっと新鮮でした。

    知人がその言葉を使ったときどのような感覚を持って言ったのか、私には定かではなかったのですが、少なくとも私の言語感覚として語「可憐」が桜の花とこれまで関連付いていなかったことは、私のなかでは確かなことなのでした。


    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論

    第二節 時間について
     第六項 これらの概念からの結論

    ◆ a) 時間は、それ自身だけで存立する或るもの、あるいは諸物に客観的規定として結びついていて、したがって、人が諸物の直観のすべての主観的条件を捨象しても残存する或るものではない。なぜなら、第一の場合には、時間は、現実的対象無しでも、それにもかかわらず現実的に存在する或るものとなってしまうであろうからである。しかし、第二の場合に関して言えば、時間は、諸物自身に結びついている一つの規定ないしは秩序として、諸対象にそれらの条件として先行し得ないことになり、だから綜合命題によってア・プリオリに認識されたり直観され得ないことになるであろう。これに反して、この後者のことは、時間が全ての直観がそのもとで私たちの内で生じ得る主観的条件以外の何ものでもないなら、極めてよく生ずることである。なぜなら、その時には内的直観の時間というこの形式は、諸対象に先立って、したがってア・プリオリに、表象され得るからである。

    ---  No.21262 からの続き ---

    ◇ b) 時間は、内的感官〔des inner Sinnes〕の形式、言い換えれば、私たち自身と私たちの内的状態の、直観の形式以外の何ものでもない。なぜなら、時間は外的な諸現象〔aeusserer Erscheinungen〕のいかなる規定でもあり得ないからである。
    時間は、形態にも或いは位置その他にも属さず、それとは逆に、私たちの内的状態における諸表象の関係を規定する。

    ◇そして、この内的直観はいかなる形態をも与えないという、まさにこの理由で、私たちはまたこの欠陥を類比によって補うことをもとめ、時間継続を無限に進行する一つの線によって示すが、この線においては、多様なものは一次元しかもたない一つの系列を形成し、私たちはこの線の諸固有性にもとづいて、線の諸部分は同時に存在するのに時間の諸部分はいつでも継起的に存在するという唯一の点を除いて、時間のすべての固有性を推論するのである。

     ※1 線の諸部分は同時に存在する
     ※2 時間の諸部分はいつでも継起的に存在する

    ◇このことからさらに明白なのは、時間の表象はそれ自身直観であるということに他ならない。というのは、時間のあらゆる関係は外的直観で表現されるからである。

     ※3 外的直観と内的直観(;´・ω・)?



    † 原佑訳上巻、p.163〜p.164参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    Z−1 No.21262、Z−2 No.21969
    Y−1 No.20986
    X−4 No.20772
    X−1 No.20568、X−2 No.20578、X−3 No.20699
    W−10 No.20434
    W−7 No.19817、W−8 No.20105、W−9 No.20168
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168,20434
    第四項 No.20568,20578,20699,20772
    第五項 No.20986
    第六項 No.21262,21969

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