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■21820 / inTopicNo.73)  Re[16]: 144 自己統合の意識とは
  
□投稿者/ pipit -(2022/03/28(Mon) 19:53:41)
    J. M. D. Meiklejohnさんの英訳
    For the manifold representations which are given in an intuition would not all of them be my representations, if they did not all belong to one self-consciousness, that is, as my representations (even although I am not conscious of them as such), they must conform to the condition under which alone they can exist together in a common self-consciousness, because otherwise they would not all without exception belong to me.

    英訳のDeepL機械翻訳
    直観の中で与えられる多様な表象は、もしそれらがすべて一つの自己意識に属していなけれ ば、それらすべてが私の表象とはならない。つまり、私の表象として(私がそれらをそのように 意識していなくても)、それらはただ共通の自己意識の中に共に存在しうる条件に適合し なければならない。そうしなければ、それらはすべて例外なく私に属するとは言えないからであ る。
引用返信/返信 削除キー/
■21818 / inTopicNo.74)  144 自己統合の意識とは
□投稿者/ pipit -(2022/03/28(Mon) 19:49:28)
    続きだよー

    J. M. D. Meiklejohnさんの英訳
    The unity of this apperception I call the transcendental unity of self-consciousness, in order to indicate the possibility of à priori cognition arising from it.

    DeepL機械翻訳
    この知覚の統一を、私は自己意識の超越論的統一と呼び、そこから生じるアプリオリな認識の可能性を示している。
引用返信/返信 削除キー/
■21797 / inTopicNo.75)  第二版原文
□投稿者/ pipit -(2022/03/27(Sun) 22:18:10)
引用返信/返信 削除キー/
■21796 / inTopicNo.76)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/27(Sun) 22:14:40)
    ※文字化けしそうな文字は、似た形のアルファベットに置き換えしてます。

    (カント原文)
    Ich nenne sie die reine Apperzeption, um sie von der empirischen zu unterscheiden, oder auch die ursprungliche Apperzeption, weil sie dasjenige SelbstbewuBtsein ist, was, indem es die Vorstellung Ich denke hervorbringt, die alle anderen muB begleiten konnen, und in allem BewuBtsein ein und dasselbe ist, von keiner weiter begleitet werden kann.

    (上記のDeepL機械翻訳.日訳)
    私がこれを純粋知覚と呼ぶのは、経験的知覚、あるいは原初的知覚と区別するためであり、それは、私が考える観念を生み出すことによって、他のすべての観念を伴うことができなければならず、すべての意識において一如であるその自己意識が、それ以上のものを伴うことができないものだからである。

    (上記原文のDeepL機械翻訳.英訳)
    I call it the pure apperception, in order to distinguish it from the empirical, or also the original apperception, because it is that self-consciousness which, by producing the idea I think, which must be able to accompany all others, and is one and the same in all consciousness, cannot be accompanied by any further.

    『Apperzeption』が原文みたいだね。
    機械翻訳さんは知覚と日訳してるけど、統覚の方が馴染みな日訳の気がするね。
引用返信/返信 削除キー/
■21794 / inTopicNo.77)  Re[14]: 知覚と統覚
□投稿者/ pipit -(2022/03/27(Sun) 21:52:28)
    No21792に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > もちょっと、ごめんね
    >
    > >I call it pure apperception, in order to distinguish it from empirical;<
    > のとこと、
    > わたしが訳すと、
    > <私は「それ」を純粋な統覚と呼ぶ、経験的なものから区別される「それ」において、>
    > ってなるんだけど、
    >
    > 「it」「それ」って何かしら?
    >

    その前の文章が、

    But this representation, “I think,” is an act of spontaneity; that is to say, it cannot be regarded as belonging to mere sensibility. I call it pure apperception, in order to distinguish it from empirical;

    だから、

    itは、this representation, “I think,” のことなんじゃないかなぁと思うんだけど、違ったらごめんねー
引用返信/返信 削除キー/
■21793 / inTopicNo.78)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/27(Sun) 21:47:59)
    2022/03/27(Sun) 21:58:39 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、いらっしゃーい
    いつでもどうぞー(o^^o)

    No21791
    > わたし
    > perception=知覚
    > apperception=統覚
    > ってして見てて、両者は区別して見てるんだけど、
    >
    > ここには[perception]っていう語は出てきてないよね。
    > DeepL機械翻訳では[apperception]を「知覚」って訳してる見たいだけど、じゃあ[perception]はなんて訳すのかしら?
    >
    > >中山先生は同箇所の原文を(純粋な自己統合の意識[=統覚])(根源的な自己統合の意識)と日訳されてます。<
    > 中山ちゃんの、なんかわかんないんだけど、「自己統合」っていうの、原文ではどのように書かれてあるのかしら?<

    とりあえずね、

    perception and apperception
    をDeepL機械翻訳にかけてみたら、

    知覚と認識

    と今回は出たよ。

    なんか毎回違うみたい。AIの人工知能?

    カントの原文は後でさがしてみるね!

引用返信/返信 削除キー/
■21792 / inTopicNo.79)  Re[13]: 知覚と統覚
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/27(Sun) 21:21:51)
    もちょっと、ごめんね

    >I call it pure apperception, in order to distinguish it from empirical;<
    のとこと、
    わたしが訳すと、
    <私は「それ」を純粋な統覚と呼ぶ、経験的なものから区別される「それ」において、>
    ってなるんだけど、

    「it」「それ」って何かしら?

引用返信/返信 削除キー/
■21791 / inTopicNo.80)  Re[12]: 知覚と統覚
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/27(Sun) 20:54:00)
    お邪魔しまするよ
    ■21790、
    >英訳 I call it pure apperception, in order to distinguish it from empirical; or primitive apperception, because it is self-consciousness which, whilst it gives birth to the representation “I think,” must necessarily be capable of accompanying all our representations.<

    わたし
    perception=知覚
    apperception=統覚
    ってして見てて、両者は区別して見てるんだけど、

    ここには[perception]っていう語は出てきてないよね。
    DeepL機械翻訳では[apperception]を「知覚」って訳してる見たいだけど、じゃあ[perception]はなんて訳すのかしら?

    >中山先生は同箇所の原文を(純粋な自己統合の意識[=統覚])(根源的な自己統合の意識)と日訳されてます。<
    中山ちゃんの、なんかわかんないんだけど、「自己統合」っていうの、原文ではどのように書かれてあるのかしら?




引用返信/返信 削除キー/
■21790 / inTopicNo.81)  Re[11]: 144 自己統合の意識とは
□投稿者/ pipit -(2022/03/27(Sun) 19:52:57)
    No21789の続き

    英訳
    I call it pure apperception, in order to distinguish it from empirical; or primitive apperception, because it is self-consciousness which, whilst it gives birth to the representation “I think,” must necessarily be capable of accompanying all our representations.

    DeepL機械翻訳
    私はこれを、経験的な知覚と区別するために、純粋な知覚、あるいは原初的な知覚と呼んでいます。なぜなら、これは自己意識であり、「私は考える」という表現を生み出す一方で、私たちのすべての表現に必ず付随していなければならないものだからです。

    (純粋な知覚、
    あるいは原初的な知覚)
    と訳されてる英訳部分は、

    (pure apperception)
    (primitive apperception)ですね

    中山先生は同箇所の原文を
    (純粋な自己統合の意識[=統覚])
    (根源的な自己統合の意識)
    と日訳されてます。

引用返信/返信 削除キー/
■21789 / inTopicNo.82)  Re[10]: 144 自己統合の意識とは
□投稿者/ pipit -(2022/03/27(Sun) 19:44:58)
    みなさま、こんばんは。
    No21727 の続きです。

    J. M. D. Meiklejohnさんの英訳
    That representation which can be given previously to all thought is called intuition. All the diversity or manifold content of intuition, has, therefore, a necessary relation to the “I think,” in the subject in which this diversity is found.
    But this representation, “I think,” is an act of spontaneity; that is to say, it cannot be regarded as belonging to mere sensibility.

    DeepL機械翻訳
    すべての思考に先だって与えられるその表象を直観と呼ぶ。直観の多様性あるいは多様な内容はすべて、したがって、この多様性が見出される対象において、「私は考える」と必然的な関係を持つ。
    しかし、この「思う」という表現は、自発的な行為であり、つまり、単なる感性に属するものとは考えられません。
引用返信/返信 削除キー/
■21754 / inTopicNo.83)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/25(Fri) 22:58:09)
    2022/03/25(Fri) 23:08:52 編集(投稿者)
    2022/03/25(Fri) 23:00:07 編集(投稿者)

    うましかさん、こんばんはー(^ ^)

    No21741
    > >この根源的な自己統合の意識は、バークリ的な「観念論」のいう意味での「根源的な」自我ではない。
    >
    > とはいえ、バークリ的な観念論にも、根源的な自我("esse est percipi"と関係あるのか?(;´・ω・))があるようで、中山がどう区別しているのかわからないところですが…<

    > 【追記】
    >
    > バークリの「根源的な自我」?について気になったのでメモ
    >
    https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/81.html

    リンク先の情報を読ませていただきました。
    おもしろかったです!

    リンク先ページの最後に、

    『バークリーは「心」は実体として存在し、有限と無限の二種があると考える。唯一の無限の心が存在し、それは神のことである。有限の心とは人間の魂のことである。それら二種は実在するとバークリーは考える。その根拠は、観念は確かに存在しており、知覚者が存在しなければ観念は知覚されず、ゆえに観念は存在できない。したがって知覚者、すなわち心は存在するのである。』

    とありましたね。
    この「心」が、バークリ的な根源的な自我になるのかな?

    カントの場合は、もしかしたら、カント的(心)の要素の多の中の一つとして『根源的な自我』が置かれてるのかな??

    そういえば、どういう意味で『根源的』とカントが言ってるのかな?

    と、本を見てみました。

    (カントの文章)
    『これはあるいは根源的な自己統合の意識とも呼べるが、それはこれが、わたしは考えるという像を生みだす自己意識だからである。』
    『純粋理性批判2』p117、B132あたり、中山元先生訳
    とありました。

    それにしても、本当に、ややこしすぎるなと、カントの本をパラパラめくりながら、思いました。。。
    (/ _ ; )

引用返信/返信 削除キー/
■21748 / inTopicNo.84)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/24(Thu) 20:03:14)
    2022/03/25(Fri) 07:10:20 編集(投稿者)
    2022/03/24(Thu) 21:20:56 編集(投稿者)
    2022/03/24(Thu) 21:11:21 編集(投稿者)

    うましかさん、こんにちは!

    No21741
    > なかなか投稿できませんが、
    >
    > pipitさんの考察は楽しく読ませていただいてますm(__)m<

    うれしいですー(*^▽^*)♪


    > No.21740 (pipitさん)
    >
    > >『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p369-372
    >
    > これはおもしろい解説ですね! (・ω・)ノ
    >
    > ・ 自己統合の意識(自己意識の超越論的な統一):「わたしは考える」
    >
    > と
    >
    > ・ 懐疑の対象とならない確実なもの:「コギト」
    >
    > これらは、「事態としてはアポステリオリにみえるとしても、事柄としてはアプリオリなものなの」、という視点からみると、一致するのかなー(゚Д゚;)??!<

    私見書きますね。返信はお気になさらないでくださいね(^ ^)

    デカルトのことをpipitは全然知らないので誤解してるかもですが、
    確かにアプリオリか否かのみの視点から言及すれば、一致するのかもしれませんね。
    カントもデカルトの命題を、『あるいはむしろこの命題は経験に先立つものであり、』と述べてる箇所もありました。(下に引用します)

    ただ、カントはその後で、いろいろ述べてて(ここも引用しますね)、
    両者の違いは、実体論的対象か否かなどの視点も絡んでくる可能性も思いました。

    また、引用の最後に出てきますが、

    『この〈わたし〉は思考一般に属するものであるから、これは純粋に知的な概念なのである。
    ただ思考の素材となる経験的な像が存在しない場合には、〈わたしは考える〉という心的な作用も生じないはずである。
    要するに経験的なものは、純粋な知性的な能力を適用し使用するための条件に過ぎないのである。』

    とあり、

    (発生という意味においてですが)【感性による経験的な像が、〈わたしは考える〉の条件となる】はずである、
    とカントは考えているように、pipitには読めます。

    だとすると、疑い得ない存在としての
    @〈わたしは考える〉の主体としての〈わたし〉・・・デカルト

    と、

    A経験的像が生じることで生じる、実存としては付随的な〈わたし〉・・・カント

    という違いがあるのかな、と、思いました。

    そしてややこしいことですが、

    付随的に生じる仕組みがアプリオリ(先験的)であり、
    それがなぜ【認識の最高原則】としてのアプリオリ(超越論的)になるかというと、

    やはり【知識】作成の最高原理として、(人間原理論の構図のように)、〈わたしは考える〉から世界が構築される、、、言い過ぎになるけど、感性的・経験的・像に付随する→わたしは考えるという意識 から わたしを措定する、そして措定されたわたしに対する外的対象としての対象物を規定する、
    主観から客観世界をつくり、(主体が世界を経験する)という(世界)が生じる
    みたいなイメージを今のところ持ちました。
    ※この〈経験〉概念についても、カント的にはとても興味深いことを述べている予感してます。沼ーー(ー ー;)

    全然違うかもですが、今思ってることを書かせていただきました 
    m(_ _)m

    カントの文章を引用しておきますね。

    『純粋理性批判4』カント、中山元先生訳、p137.138、中山先生独自番号462、B423あたり。
    (カントの文章)
    『(略)「わたしは考える」という命題と「わたしは現存する」という命題は、同一の命題なのである。
    この命題が表現しているのは、経験的で未規定な直観なのであり、知覚なのである(だからこの命題が証明しているのは、感性に属する感覚が、この[わたしの]現存を主張する命題の根底にあるということである)。
    あるいはむしろこの命題は経験に先立つものであり、経験においては、知覚の客体をカテゴリーによって時間のもとで規定すべきだが、ここで主張されている現存は、いかなるカテゴリーでもないのである。
    カテゴリーが適用されるのは、未規定なままに与えられた客体ではなく、わたしたちがそれについて何らかの概念をもっているような客体であり、わたしたちはその客体がこうした概念の外にあるものかどうかを知ろうとするのである。

    ここでは未規定な知覚とは、たんに思考一般に与えられた実在的なものを意味するだけであり、現象として与えられたものではないし、物自体(叡智的な存在/ヌーメノン)として与えられたものでもない。
    ただ実際に現存し、「わたしは考える」という命題において、そのようなものとして提示された何かとして与えられているのである。
    ここで注意する必要があるのは、わたしは「わたしは考える」という命題を経験的な命題と呼んだのだが、そのことでわたしは、この命題に含まれるわたしが、経験的な像であることを主張しようとしたわけではないということだ。
    この〈わたし〉は思考一般に属するものであるから、これは純粋に知的な概念なのである。
    ただ思考の素材となる経験的な像が存在しない場合には、〈わたしは考える〉という心的な作用も生じないはずである。
    要するに経験的なものは、純粋な知性的な能力を適用し使用するための条件に過ぎないのである。』
    引用終了

    とりあえずここまでを投稿します。
    後半も後でゆっくり読ませていただきます!

    思ったことを書き込んでいただき、とても嬉しいです。
    ありがとうございます♪

引用返信/返信 削除キー/

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