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■19707 / inTopicNo.85)  ワンくんの識別力
  
□投稿者/ pipit -(2021/12/05(Sun) 22:23:09)
    ワンくんの好きでないドッグフード出したら、
    食べなかったので、
    上にボーロ(おやつ)をパラパラ置いたら、

    ボーロだけ食べた。。。
引用返信/返信 削除キー/
■19698 / inTopicNo.86)  Re[10]: ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/05(Sun) 19:24:17)
    2021/12/05(Sun) 19:24:39 編集(投稿者)

    No19695に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > パニチェ氏へ

    > ■No19694に返信(パニチェさんの記事)
    >>レスありがとうございます。

    >>■No19692に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > >>【補足修正】
    > >>各主体概念の使用については、以下のように修正したほうがいいかもしれないと思っています。
    >>
    > >>実在論は、実在世界から独立の実体としての哲学的自我、形而上学的自我を否定する。
    > >>近代の観念論哲学は、デカルト以来、認識論的主体、超越論的主観、すなわち、思考し、表象する主体として哲学的自我を語ってきた。そこで、これらを認識論的観念論と言おう。
    > >>この観念論的主観=主体は、「我々としての我」、すなわち、人間主観とみなせる。
    > >>しかし、ウィトゲンシュタインは、その思考し、表象する主観を否定消去し、哲学的自我(形而上学的自我)として、世界の限界としての私、即ち独我論的主体を残した。
    > >>いわば、我々のうち、我だけを残したわけである。
    > >>ただし、その独我論的主体も、実在世界から独立の実体としては存在を無化されて世界の限界=形式とされ、残ったのは実在世界のみ、ということになった。
    >>
    >>デカルトのコギトを観念論哲学に含めるかどうかは微妙ですが、それは横に置くとして。。。
    >>なるほど。上記の読解はパニチェ的にもしっくりきます。
    >>おそらく、ザビビのふくろうさんとのウィトゲンシュタイン読解で異なるところは〈私〉をウィトゲンシュタイン哲学で見るか見ないかでしょうね。
    >>
    >>ちなみに独我論を象徴する「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」の「私」は普通の一人称代名詞と読みますか、それとも形而上学的主体と読みますか?
    >>
    >
    > 「普通の一人称代名詞」を固有名に置換可能なものだとしたら、この場合置換不可能だから、

    > もちろん意味的には、「形而上学的主体」であり、「独我論的主体」です。

    > ただ、少し詳しく言うと、「私」という語を用いている限り、やっぱり文法的には一人称代名詞ともいえるわけじゃないですか?
    > だけど、文脈に応じてその意味は異なるわけで、T:5.63の場合は、独我論的主体を意味する、ってことです。

    なるほど。やはり、ここですね。
    ザビビのふくろうさんとパニチェの論考読解の分岐点は。
引用返信/返信 削除キー/
■19696 / inTopicNo.87)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/05(Sun) 18:42:41)
    No19693に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > ウィトゲンシュタインの入門書復習の流れで,
    > 永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)
    > も現在話題になっているところ,つまり独我論について論じたところを中心にざっと目を通しました。
    > それと,以下の諸論考も。

    > 永井均「ウィトゲンシュタインの独我論」(『〈私〉の存在の比類なさ』(勁草書房)』
    > 永井均「〈私〉の存在」(『〈魂〉に対する態度』(勁草書房)』
    > 「たまたまの孤独――ウィトゲンシュタインの「語りえぬ」問い(『ウィトゲンシュタイン』(道の手帖)河出書房新社
    > 『独我論』『私/自我』(「ウィトゲンシュタインの知88」(新書館)

    ほぉ!真摯な取り組みですね。

    > で,やっぱり,『論考』の独我論解釈は,ひどいと思うね(笑)

    なるほど、そうですか。

    > まあ,それは措くとして,パニチェ氏が何度か,私にどう思うか質問していた

    > 『私はこう言おう。「正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。──だが、その私とは誰だ。──くそっ。私の言い方はまずいがそこに何かがあるんだ!君だって私の個人的な経験というものがあり、またそれには最も重要な意味での隣人というものがないことを否定すまい。──だが君はそれがたまたま孤独だと言うつもりではないだろう。君の言いたいのはその何かの文法上の位置が隣人のない場所にあるということだろう。「しかしどうしたわけか我々の言語には、そこに他と比べることのできない何か、すなわち真に現前している経験、があるということがあらわれてはこないのだ。私はそのことに甘んずるべきだと君は言いたいのか。」(おかしいことに、日常生活で日常言語を使っていて何かに甘んじなければならないと我々が感じることはまったくない。)ウィトゲンシュタイン全集6「個人的経験」および「感覚与件」について P.323より』

    > について,私の理解を示すのに,次のような一種のパロディーをつくってみました。
    > 原文の対話体を,ウィトゲンシュタインを示唆する人物「W」と(かなり梟化していますが(笑)),永井均を示唆する「N」の対話として,元の対話を敷衍したものになっています。もちろん,ウィトゲンシュタインの他の発言――例えば『青本』(117頁)――なども参考にした上でです。
    > この人物Nの発言は,基本的に,先の諸論考で永井が述べている独我論についての考えをもとに私が解釈したもの(最後の「純粋私的言語」云々ってとこは違うけど)。したがって,ここに私の永井哲学理解が示されていることになります。と言っても,永井「独在論」ではなく,「永井による『ウィトゲンシュタインの独我論』解釈」ということですが。
    > ただし,ちょっと気になるのが,これ,ウィトゲンシュタインの原文(翻訳)にいろいろつけ加えて,ある意図を強調する形に翻案したものなので,ある意味盗作。
    > 許されるのか?(笑)
    > だめならすぐ削除。ってことで,とりあえず投稿します。

    ありがとうございます。

    > ********************
    >
    > N:私はこう言おう。「正直なところを言えば,たしかに,私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」と。
    > W:「激しく同意だね。私には他の誰にもない何かがある。うん,その通りだ!」
    > N:「いやいや,違う違う。私だけに何か,つまり「真の現前している経験」とでも言うしかないものがあるって言ってるんだ。」
    > W:「全くその通り。私だけに「真の現前している経験」がある!」
    > N:「いや,違うんだって。もっと言うとだね,真に存在するって言えるのはこの私の経験,この私の世界だけなんだよ。」
    > W:「いやー,ますます同感だね!!この私の世界だけが存在する!独我論だよね!」
    > N:「だから,違うんだって」
    > W:「えー,違うの?なんでさー。」
    > N:「違うんだよ。だって,君は私の言ったことをそのまま繰り返しているだけじゃないか。それじゃまるで,私に成り立つことは,全く君にも対称的に成り立つってことだろう。独我論になるわけないじゃん。そんなのおかしいに決まっている。」
    > W:決まってる?どういうこと?
    > N:いや,だからさ,私は私にしかないものがある,って言ってるわけだよ。それは唯一無二なんだよ。その意味で,私は唯一無二の存在,比類のない存在なんだよ。だから,君にもある,なんてことはあってはならないんだよ。君にもあるんだったら,何ら比類のない存在じゃないことになるだろう。だからそもそも君が同意するなんておかしいんだよ。
    > W:だったら,君の言っているその「私」って,実存哲学で言う「実存としての私」のことかい?例えば,「N」という名前がさす,唯一無二の存在,取り替え不可能な君という存在のことかい?」
    > N:いや,そうじゃないんだよな。Nである私が取り替え不可能な実存であるとしても,それは同じ意味で,君,Wにも言えることだからね。ほら,「誰もがみんなオンリーワン」,ってことだろう?
    > W:だったら,君の言う「私」って誰なのさ?
    > N:くそっ,私の言い方はまずいがそこに何かがあるんだよ!君だって私の個人的経験というものがあって,またそれには最も重要な意味での隣人というものがないことを否定はしないだろう。
    > W:だけど,君はそれがたまたまの孤独だというつもりではないだろう。
    > 「私は本質的に孤独なんだ。私は孤独でしかありえない存在だ。」そう言いたいのではないのかい?
    > だとすれば,君の言いたいのは,その何かの文法上の位置が隣人のない場所にあるということだろう。
    > 例えば「私は私の歯痛を感じる」というのは同語反復的に冗長だ。
    > 誰だって感じることのできるのは自分の痛みだけだからだ。
    > これは文法的真理だよね。
    > だから「私はあなたの歯痛を感じている」は,文法的に間違った文であるわけだ。
    > つまり,「私はxの歯痛を感じている」の「x」には,「私(自分)」しか代入できない。
    > この「x」には,「私」以外の「あなた」も「彼」も代入できない,その意味で隣人が存在しないんだよ。
    > 「この私の痛み」は,他の誰にも知ることのできない「この私」だけのものだ。
    > それゆえ「この私の痛み」という言葉で私が意味していることそのものも,私しか真には理解できない。
    > そして「この私の経験」こそが「真の現前している経験」なんだ。
    > 君が言いたいその「誰か」とはこの「この私」のことだろう。
    > このことは私が今ここで見ている「この世界」――これだけが唯一の現実(リアル)だ――についてだって言えることなんだ。
    > 「この私の世界」だけが「真の現前している経験」であり,本当の現実(リアル)であり,そしてこれ以外に本当のリアルなんてものはないんだと,君はそう言いたいんじゃないのか。
    > N:う〜ん,ある意味そうだと言いたくもなるんだが,だが,けしてそうじゃないんだ。むしろ私が言いたいのは、「たまたまの孤独である」ってことなんだ。というのも,それが必然的孤独、つまり、それが文法的真理である限り,「私」が誰であろうとも,どの「私」にも成り立ってしまうじゃないか。当然誰もがそれを理解してしまう。だけど,ここが重要なんだが,君がそれを理解している時点で,もうそれ――つまり,君が理解していること――は私が言ってることとは違うはずなんだよ。私の言いたいのは,本質的に,君には知ることも,理解することもできてはならないこと,なんだ。しかし,どうしたわけか我々の言語には,そこに他と較べることのできない何か,すなわち「この真に現前している経験」があるということがあらわれてこないんだよ。だから,私がそれをどんなふうに言い表したところで,さっきの君と同じように,他人は必ず違った意味に理解してしまうんだ。だから,その都度,「違う」って否定するしかないわけだよ。そのことによってしか,私の言わんとすることは示すことができないんだ。」
    > W:じゃあ,我々の言語では,その何かをけして表現できないと,君はそう言いたいわけだね。
    > N:いいや,言いたいわけじゃないよ。残念ながら,言表不可能であるというその事実に甘んじざるをえない,ということだよ。
    > W:ふ〜ん。「甘んじざるをえない」ね…。でも,おかしなことに,日常生活で日常言語を使っていて何かに甘んじなければならないと我々が感じることはまったくないんだよね。だってさ,君はまるで他人がきみの真意を曲解するみたいに言うけど,何かそれで困ることがあるのかい?
    > N:そりゃ,日常生活では,それでべつに困りはしないさ。だったら何だって言うんだよ。だから,私が本当は甘んじてなどいないとでもきみは言いたいのか。それとも,きみは私が甘んずるべきであると言いたいのか。
    > W:いや僕は,きみが甘んじていないなどと言うつもりもないし,そのことに君は甘んずるべきだとは言わないよ。
    > だけど,もし君がそれに甘んじたくないとすればだね,君の言うその「真に現前している経験」を記述することができ,かつ,「本質的に自分だけに理解可能で,他者には理解不可能な言語」を君は手に入れる必要があるんじゃなかろうか。
    > でないと,きみの主張は,「論」とすら言えないよね。言表不可能だって言うんだからさ。
    > つまり,もし君が,君のその言わんとしていることを「論」として主張したいのであれば,それは自分だけが知ることのできる経験を記述し,かつ,当然自分だけがその意味を理解することのできる言語よってのみだから,いわば「純粋私的言語」と言うべきものが必要であるように思われるね。
    > N:ふむ。なるほど。それはそうかもしれないね。
    > W:それゆえ,その純粋私的言語というものが,ほんとうにありうるのか?ということが,この上なく重要な問題になるんじゃないかな?
    >  いわば,純粋独我論の運命は,純粋私的言語が存在可能か否かにかかっている,と言ったら言い過ぎだろうか?

    面白いというか、ある意味正鵠を射たパロディーですね。
    上記は永井均氏が言うところの言語表現したために必然的に陥る「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」を表しています。
    私の読解は上記をNがWで、Wがザビビのふくろうさんだと考えておりますが。。。。^^
    何れににしても「私的言語が成立するか否か」が純粋独我論の運命にかかるというのは同意します。

引用返信/返信 削除キー/
■19695 / inTopicNo.88)  Re[9]: ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/05(Sun) 18:35:24)
    パニチェ氏へ

    No19694に返信(パニチェさんの記事)
    > レスありがとうございます。
    >
    > ■No19692に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    >>【補足修正】
    >>各主体概念の使用については、以下のように修正したほうがいいかもしれないと思っています。
    >
    >>実在論は、実在世界から独立の実体としての哲学的自我、形而上学的自我を否定する。
    >>近代の観念論哲学は、デカルト以来、認識論的主体、超越論的主観、すなわち、思考し、表象する主体として哲学的自我を語ってきた。そこで、これらを認識論的観念論と言おう。
    >>この観念論的主観=主体は、「我々としての我」、すなわち、人間主観とみなせる。
    >>しかし、ウィトゲンシュタインは、その思考し、表象する主観を否定消去し、哲学的自我(形而上学的自我)として、世界の限界としての私、即ち独我論的主体を残した。
    >>いわば、我々のうち、我だけを残したわけである。
    >>ただし、その独我論的主体も、実在世界から独立の実体としては存在を無化されて世界の限界=形式とされ、残ったのは実在世界のみ、ということになった。
    >
    > デカルトのコギトを観念論哲学に含めるかどうかは微妙ですが、それは横に置くとして。。。
    > なるほど。上記の読解はパニチェ的にもしっくりきます。
    > おそらく、ザビビのふくろうさんとのウィトゲンシュタイン読解で異なるところは〈私〉をウィトゲンシュタイン哲学で見るか見ないかでしょうね。
    >
    > ちなみに独我論を象徴する「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」の「私」は普通の一人称代名詞と読みますか、それとも形而上学的主体と読みますか?
    >

    「普通の一人称代名詞」を固有名に置換可能なものだとしたら、この場合置換不可能だから、

    もちろん意味的には、「形而上学的主体」であり、「独我論的主体」です。

    ただ、少し詳しく言うと、「私」という語を用いている限り、やっぱり文法的には一人称代名詞ともいえるわけじゃないですか?
    だけど、文脈に応じてその意味は異なるわけで、T:5.63の場合は、独我論的主体を意味する、ってことです。


引用返信/返信 削除キー/
■19694 / inTopicNo.89)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/05(Sun) 18:19:22)
    レスありがとうございます。

    No19692に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > 【補足修正】
    > 各主体概念の使用については、以下のように修正したほうがいいかもしれないと思っています。

    > 実在論は、実在世界から独立の実体としての哲学的自我、形而上学的自我を否定する。
    > 近代の観念論哲学は、デカルト以来、認識論的主体、超越論的主観、すなわち、思考し、表象する主体として哲学的自我を語ってきた。そこで、これらを認識論的観念論と言おう。
    > この観念論的主観=主体は、「我々としての我」、すなわち、人間主観とみなせる。
    > しかし、ウィトゲンシュタインは、その思考し、表象する主観を否定消去し、哲学的自我(形而上学的自我)として、世界の限界としての私、即ち独我論的主体を残した。
    > いわば、我々のうち、我だけを残したわけである。
    > ただし、その独我論的主体も、実在世界から独立の実体としては存在を無化されて世界の限界=形式とされ、残ったのは実在世界のみ、ということになった。

    デカルトのコギトを観念論哲学に含めるかどうかは微妙ですが、それは横に置くとして。。。
    なるほど。上記の読解はパニチェ的にもしっくりきます。
    おそらく、ザビビのふくろうさんとのウィトゲンシュタイン読解で異なるところは〈私〉をウィトゲンシュタイン哲学で見るか見ないかでしょうね。

    ちなみに独我論を象徴する「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」の「私」は普通の一人称代名詞と読みますか、それとも形而上学的主体と読みますか?

引用返信/返信 削除キー/
■19693 / inTopicNo.90)  Re[8]: パニチェ氏へ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/05(Sun) 18:13:37)
    パニチェさん

    ウィトゲンシュタインの入門書復習の流れで,

    永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)

    も現在話題になっているところ,つまり独我論について論じたところを中心にざっと目を通しました。
    それと,以下の諸論考も。

    永井均「ウィトゲンシュタインの独我論」(『〈私〉の存在の比類なさ』(勁草書房)』
    永井均「〈私〉の存在」(『〈魂〉に対する態度』(勁草書房)』
    「たまたまの孤独――ウィトゲンシュタインの「語りえぬ」問い(『ウィトゲンシュタイン』(道の手帖)河出書房新社
    『独我論』『私/自我』(「ウィトゲンシュタインの知88」(新書館)

    で,やっぱり,『論考』の独我論解釈は,ひどいと思うね(笑)
    まあ,それは措くとして,パニチェ氏が何度か,私にどう思うか質問していた

    『私はこう言おう。「正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。──だが、その私とは誰だ。──くそっ。私の言い方はまずいがそこに何かがあるんだ!君だって私の個人的な経験というものがあり、またそれには最も重要な意味での隣人というものがないことを否定すまい。──だが君はそれがたまたま孤独だと言うつもりではないだろう。君の言いたいのはその何かの文法上の位置が隣人のない場所にあるということだろう。「しかしどうしたわけか我々の言語には、そこに他と比べることのできない何か、すなわち真に現前している経験、があるということがあらわれてはこないのだ。私はそのことに甘んずるべきだと君は言いたいのか。」(おかしいことに、日常生活で日常言語を使っていて何かに甘んじなければならないと我々が感じることはまったくない。)ウィトゲンシュタイン全集6「個人的経験」および「感覚与件」について P.323より』

    について,私の理解を示すのに,次のような一種のパロディーをつくってみました。
    原文の対話体を,ウィトゲンシュタインを示唆する人物「W」と(かなり梟化していますが(笑)),永井均を示唆する「N」の対話として,元の対話を敷衍したものになっています。もちろん,ウィトゲンシュタインの他の発言――例えば『青本』(117頁)――なども参考にした上でです。
    この人物Nの発言は,基本的に,先の諸論考で永井が述べている独我論についての考えをもとに私が解釈したもの(最後の「純粋私的言語」云々ってとこは違うけど)。したがって,ここに私の永井哲学理解が示されていることになります。と言っても,永井「独在論」ではなく,「永井による『ウィトゲンシュタインの独我論』解釈」ということですが。
    ただし,ちょっと気になるのが,これ,ウィトゲンシュタインの原文(翻訳)にいろいろつけ加えて,ある意図を強調する形に翻案したものなので,ある意味盗作。
    許されるのか?(笑)
    だめならすぐ削除。ってことで,とりあえず投稿します。
    ********************

    N:私はこう言おう。「正直なところを言えば,たしかに,私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」と。
    W:「激しく同意だね。私には他の誰にもない何かがある。うん,その通りだ!」
    N:「いやいや,違う違う。私だけに何か,つまり「真の現前している経験」とでも言うしかないものがあるって言ってるんだ。」
    W:「全くその通り。私だけに「真の現前している経験」がある!」
    N:「いや,違うんだって。もっと言うとだね,真に存在するって言えるのはこの私の経験,この私の世界だけなんだよ。」
    W:「いやー,ますます同感だね!!この私の世界だけが存在する!独我論だよね!」
    N:「だから,違うんだって」
    W:「えー,違うの?なんでさー。」
    N:「違うんだよ。だって,君は私の言ったことをそのまま繰り返しているだけじゃないか。それじゃまるで,私に成り立つことは,全く君にも対称的に成り立つってことだろう。独我論になるわけないじゃん。そんなのおかしいに決まっている。」
    W:決まってる?どういうこと?
    N:いや,だからさ,私は私にしかないものがある,って言ってるわけだよ。それは唯一無二なんだよ。その意味で,私は唯一無二の存在,比類のない存在なんだよ。だから,君にもある,なんてことはあってはならないんだよ。君にもあるんだったら,何ら比類のない存在じゃないことになるだろう。だからそもそも君が同意するなんておかしいんだよ。
    W:だったら,君の言っているその「私」って,実存哲学で言う「実存としての私」のことかい?例えば,「N」という名前がさす,唯一無二の存在,取り替え不可能な君という存在のことかい?」
    N:いや,そうじゃないんだよな。Nである私が取り替え不可能な実存であるとしても,それは同じ意味で,君,Wにも言えることだからね。ほら,「誰もがみんなオンリーワン」,ってことだろう?
    W:だったら,君の言う「私」って誰なのさ?
    N:くそっ,私の言い方はまずいがそこに何かがあるんだよ!君だって私の個人的経験というものがあって,またそれには最も重要な意味での隣人というものがないことを否定はしないだろう。
    W:だけど,君はそれがたまたまの孤独だというつもりではないだろう。
    「私は本質的に孤独なんだ。私は孤独でしかありえない存在だ。」そう言いたいのではないのかい?
    だとすれば,君の言いたいのは,その何かの文法上の位置が隣人のない場所にあるということだろう。
    例えば「私は私の歯痛を感じる」というのは同語反復的に冗長だ。
    誰だって感じることのできるのは自分の痛みだけだからだ。
    これは文法的真理だよね。
    だから「私はあなたの歯痛を感じている」は,文法的に間違った文であるわけだ。
    つまり,「私はxの歯痛を感じている」の「x」には,「私(自分)」しか代入できない。
    この「x」には,「私」以外の「あなた」も「彼」も代入できない,その意味で隣人が存在しないんだよ。
    「この私の痛み」は,他の誰にも知ることのできない「この私」だけのものだ。
    それゆえ「この私の痛み」という言葉で私が意味していることそのものも,私しか真には理解できない。
    そして「この私の経験」こそが「真の現前している経験」なんだ。
    君が言いたいその「誰か」とはこの「この私」のことだろう。
    このことは私が今ここで見ている「この世界」――これだけが唯一の現実(リアル)だ――についてだって言えることなんだ。
    「この私の世界」だけが「真の現前している経験」であり,本当の現実(リアル)であり,そしてこれ以外に本当のリアルなんてものはないんだと,君はそう言いたいんじゃないのか。
    N:う〜ん,ある意味そうだと言いたくもなるんだが,だが,けしてそうじゃないんだ。むしろ私が言いたいのは、「たまたまの孤独である」ってことなんだ。というのも,それが必然的孤独、つまり、それが文法的真理である限り,「私」が誰であろうとも,どの「私」にも成り立ってしまうじゃないか。当然誰もがそれを理解してしまう。だけど,ここが重要なんだが,君がそれを理解している時点で,もうそれ――つまり,君が理解していること――は私が言ってることとは違うはずなんだよ。私の言いたいのは,本質的に,君には知ることも,理解することもできてはならないこと,なんだ。しかし,どうしたわけか我々の言語には,そこに他と較べることのできない何か,すなわち「この真に現前している経験」があるということがあらわれてこないんだよ。だから,私がそれをどんなふうに言い表したところで,さっきの君と同じように,他人は必ず違った意味に理解してしまうんだ。だから,その都度,「違う」って否定するしかないわけだよ。そのことによってしか,私の言わんとすることは示すことができないんだ。」
    W:じゃあ,我々の言語では,その何かをけして表現できないと,君はそう言いたいわけだね。
    N:いいや,言いたいわけじゃないよ。残念ながら,言表不可能であるというその事実に甘んじざるをえない,ということだよ。
    W:ふ〜ん。「甘んじざるをえない」ね…。でも,おかしなことに,日常生活で日常言語を使っていて何かに甘んじなければならないと我々が感じることはまったくないんだよね。だってさ,君はまるで他人がきみの真意を曲解するみたいに言うけど,何かそれで困ることがあるのかい?
    N:そりゃ,日常生活では,それでべつに困りはしないさ。だったら何だって言うんだよ。だから,私が本当は甘んじてなどいないとでもきみは言いたいのか。それとも,きみは私が甘んずるべきであると言いたいのか。
    W:いや僕は,きみが甘んじていないなどと言うつもりもないし,そのことに君は甘んずるべきだとは言わないよ。
    だけど,もし君がそれに甘んじたくないとすればだね,君の言うその「真に現前している経験」を記述することができ,かつ,「本質的に自分だけに理解可能で,他者には理解不可能な言語」を君は手に入れる必要があるんじゃなかろうか。
    でないと,きみの主張は,「論」とすら言えないよね。言表不可能だって言うんだからさ。
    つまり,もし君が,君のその言わんとしていることを「論」として主張したいのであれば,それは自分だけが知ることのできる経験を記述し,かつ,当然自分だけがその意味を理解することのできる言語よってのみだから,いわば「純粋私的言語」と言うべきものが必要であるように思われるね。
    N:ふむ。なるほど。それはそうかもしれないね。
    W:それゆえ,その純粋私的言語というものが,ほんとうにありうるのか?ということが,この上なく重要な問題になるんじゃないかな?
     いわば,純粋独我論の運命は,純粋私的言語が存在可能か否かにかかっている,と言ったら言い過ぎだろうか?

引用返信/返信 削除キー/
■19692 / inTopicNo.91)  パニチェ氏へ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/05(Sun) 18:03:32)
    パニチェ氏へ

    【補足修正】
    各主体概念の使用については、以下のように修正したほうがいいかもしれないと思っています。

    実在論は、実在世界から独立の実体としての哲学的自我、形而上学的自我を否定する。
    近代の観念論哲学は、デカルト以来、認識論的主体、超越論的主観、すなわち、思考し、表象する主体として哲学的自我を語ってきた。そこで、これらを認識論的観念論と言おう。
    この観念論的主観=主体は、「我々としての我」、すなわち、人間主観とみなせる。
    しかし、ウィトゲンシュタインは、その思考し、表象する主観を否定消去し、哲学的自我(形而上学的自我)として、世界の限界としての私、即ち独我論的主体を残した。
    いわば、我々のうち、我だけを残したわけである。
    ただし、その独我論的主体も、実在世界から独立の実体としては存在を無化されて世界の限界=形式とされ、残ったのは実在世界のみ、ということになった。

    これは以下の二つを根拠にして解釈したものです。
    (1)『草稿』277頁
     私が進んできた道は次のようなものである。観念論は人間をユニークなものとして世界から分離する、唯我論は私だけを分離する。そして最後に、私が見てとるには、私もまた残余の世界に属するのである。従って一方には何も残存しなく、他方にはユニークなものとして残存する。このようにして、観念論は厳格に考え抜かれると実在論に至るのである。(T:5.64を参照)

    (2) フォン・ウリクトの証言
    「私の記憶が正しければ、ウィトゲンシュタインは私に、彼は若き日にショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を読み、彼の最初の哲学は、ショーペンハウアーの認識論的観念論であった、と述べた」

    実質はあんまり変わっていないかもしれませんが、このほうが直感的にもすっきりするかなと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■19688 / inTopicNo.92)  つぶやき
□投稿者/ pipit -(2021/12/05(Sun) 16:10:33)
    キティさんの投稿が読めて嬉しいなー
    (*´ω`*)♪♪♪
引用返信/返信 削除キー/
■19657 / inTopicNo.93)  ザビビのふくろうさん
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/04(Sat) 09:14:02)
    No19653に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > パニチェさん

    > 既に読んでくれているかとも思いますが、No19648は、『論考』T:5.631,5.633,5.6331の解釈です。
    > なので、No19550の補足として読んでもらえればいいと思います。

    > よろしくお願いします。

    はい。読みました。
    あるところまではザビビのふくろうさんと私の論考解釈は一致していますがどこから違ってくるかがより明確になりました。
    ザビビのふくろうさんの論考解釈も興味深く読ませてもらいました。
引用返信/返信 削除キー/
■19655 / inTopicNo.94)  Re[6]: 引用
□投稿者/ みのり -(2021/12/04(Sat) 08:51:11)
    2021/12/04(Sat) 09:02:42 編集(投稿者)



    世界がほかならぬこの私の世界であることは、どこまでも語りえない。
    むしろ、世界の具体的なあり方をいわば虚心坦懐に、あるがままに語ることにおいて、むしろそこで一切語られていないものとして、独我論が言わんとする形而上学的な主体(哲学的な自我)の存在が自ずと示されることになる。
    つまり、この私は、世界のあり方全体が反映しているもの ─ それゆえ、世界のなかに現れることが決してできないもの ─ としてはじめて自らを示すのである。
    それはちょうど、ある風景がそれ全体で、その絵を描く画家の存在を反映しているのと同様である。
    ・・・・・NHK BOOKS 『はじめてのウィトゲンシュタイン』p65より引用


    形而上学的主体(哲学的自我)を語ろうとしても語りえない。
    なので、語るのではなく、引用にある方法を取ることにより自らを示すことになる。

    「つまり、この私は、世界のあり方全体が反映しているもの ─ それゆえ、世界のなかに現れることが決してできないもの ─ としてはじめて自らを示すのである。」

    この部分がポイントですね。


    私見ですが、非二元(=アドヴァイタ)にも似ていると感じます。
    それらでは、通常の世間的な感覚では主体とされる「私」というものを実体とせず、世界と私は分離していない、主客分離はない、と語るからです。
    主客が分離していると人間が考えるのは、自我思考により発生する分離感が記憶となり保たれているからで、本来は主客の分離はない、というものです。
引用返信/返信 削除キー/
■19654 / inTopicNo.95)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ みのり -(2021/12/04(Sat) 08:36:35)
    2021/12/04(Sat) 09:16:14 編集(投稿者)


    No19648に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > 2021/12/04(Sat) 07:19:19 編集(投稿者)
    > 2021/12/03(Fri) 23:30:14 編集(投稿者)
    >
    > みのりさん
    > こんばんは。
    > 質問に答えさせてもらいます。
    > どういうふうに言えばみのりさんに理解してもらいやすいか、まだつかめないので、わかりにくかったらすみません。

    ザビビのふくろうさん、レスありがとうございます。
    突然の質問に、具体的な例とともにの理解しやすい説明をいただいて、とても感謝しています。

    > *****************
    > >>眼  : 思考し、表象する主観(=認識主観
    >
    > >この「思考し、表象する主観(=認識主観」というのは、「この私」として自分を思う「私」が思考し表象して主観を構成する、というようなことでいいですか?
    >
    > 少し違うように思います。
    > ここではもっと単純に、「考える私」「認識する私」と捉えてもらえればよいと思います。
    > 思考対象、認識対象とセットの、いわゆる「主観‐客観」図式の主観と捉えてください。

    はい。

    > >それと、視野内において見えているところの、自分の身体を含むいろいろなものが
    > 「この私」によって認識されている(見られている)、ということを論理的に推論できない。
    > >ということをおっしゃっていますか?
    >
    > 上で述べたように、「認識する私」としてとらえれば、それでいいと思います。

    はい。

    > 少し、敷衍して説明します。
    > 例えば、現に今、視覚風景――例えば花が見えている場面を考えてください。
    >
    > このとき、通常、我々はこの事態を、
    > 「風景を見ている私」=認識主観
    > 「私に見られている風景」=認識対象
    > というふうに分節して捉えますよね。
    > こんな感じです。

    >  花     ←  眼
    >  認識対象  ←  認識主体
    >  客観    ←  主観
    >
    > つまり、花=「見られているもの」と、それに向かい合って立つ、私=「見ているもの」が、この場面には存在するというモデルで捉えているわけです。
    > すなわち、認識主体である私が、認識対象である花を、見ている、というふうに。

    例えばですが、文章化しようとするとそのように分節して書くというか、説明しないと相手に伝わらないですものね。
    例えば、普段何気に、花瓶に生けられた花を見たりしますが(そうした時、実際のところ、私が花を見ているとかといちいち考えていないけれども)、その事態を言語説明するとなると、「私は花を見ています。」となるように。

    ふくろうさんのご説明を私はこのように捉えさせていただきました。
    違うかもしれませんがとりあえず、書いてみます。

    > しかし、無主体論は、これを否定します。
    > この見えている風景の写生画、見えていることそのままを描いたとしましょう。
    > だとしたら、当然自分の目なんか描かれず、見えている花だけ(その背景も含め)が描かれるはずです。
    > すると、ここには「見ているもの」もなければ「見られているもの」もない。
    > ただ花の姿の立ち現れ(=「見えているもの」)だけが存在するのだ。
    > これが真実の事態そのままである。
    > というふうに捉えるわけです。

    そういうことなのですね。 わかりました。

    > 少し違う例で言います。
    > 家族写真を見た場合、一人写っていないメンバーが撮影者であったりしますね。
    > つまり、通常、家族写真には、写っているメンバーと、その写真のいわば背後(or手前?)に、こっちを見て写っている家族に向かい合って、それを撮影している写っていないもう一人のメンバーがいる。そんなふうに捉えます。
    > これも「認識主体(主観)―認識対象(客観)」モデルで、解釈しているわけです(〈撮影者〉―撮影対象)。

    言われてみればそれもそうですね。

    > でも、例えば、先ほどの、花が見えている風景が、実は夢だったとしましょう。
    > あるいは水槽の中の脳がコンピュータに見せられている幻覚であったとしましょう(映画『マトリックス』のように)。
    > そうすると、見えている花に向かいあってそれを見ている私、などというものは実際には存在しません。
    > なぜなら、目が夢を見ているわけではなく、
    > 夢はいわば脳の中で生じている現象にすぎないからです(以上の思考実験はいわゆる『デカルト的懐疑』と本質的に同じです)。
    >
    > つまり、「見えているもの」が存在(現象)するとき、
    > それを、
    > 「見るもの(主体)」が「見られているもの(対象)」を見ている、
    > という図式(主観‐客観図式)で捉えるのは間違いだ、とする立場があり、そのひとつが無主体論なのです。

    わかりました。

    > 「間違いだ」ということの根拠は、上で説明したように、
    > 見えているものがあるということが本当であったとしても、それが論理的には夢であったり水槽の中の脳で生じている幻覚である、といった想定が思考実験として可能であるから、それを見ているものがある、ということは論理必然的に導く(推論する)ことはできないからです。平たく言うと、見えているものがあるといっても、それを見ているものがあるとは限らない、ということです。
    > 先ほどの家族写真の例で言うと、写真(に写っているもの)だけでは、その撮影者がいるか否かはわからない。なぜなら三脚で置いて撮った写真かもしれないから、ということになります。

    見ているとされる主体が、夢であったり幻覚であるということが思考実験を通じても説明できるので、見えているものがあってもそれを見ているものがあるとは限らない、ということ。
    こういうことになるのですね。

    > ちなみに、無主体論については、私が前におすすめした入不二基義さんの『ウィトゲンシュタイン』に、章立てして詳しい解説があります。詳しい分、逆に、ちょっと難しいかもしれませんが。

    その節は、ご紹介いただきありがとうございました。
    一通り読んでみましたが私には難しいです。
    難しくて、読んでみたではなくただ文字を追ってみた、というのが正確です。。。

    もう少し初心者向けはないかな、と探し、NHK BOOKS 『はじめてのウィトゲンシュタイン』に目を通してみたんですね。

    この本のp64〜p65にかけて、「独我論を徹底することとは、実在を純粋に語ることである」という見出しでの内容が書かれていまして。
    その内容というのは、ふくろうさんに説明いただいた内容と重なりますね。

    少し引用します。

    ・・・・・
    ウィトゲンシュタインによれば、独我論を徹底させるとは、世界のあり方をあるがままに語ることにほかならないという。
    たとえば、机の上にある本をありとあらゆる視点から眺めて報告する、といったことである。
    そうやって、この私に開けている世界のあり方を具体的に語り続けていく作業は、言うなれば、実在を純粋に語ることである。
    なぜなら、そのようにして語られるのは、机の上に本があることや、ある時間にある場所で雨が降っていることといった、世界の具体的なあり方それ自体のみであり、それらは私によって見られているものだ、といったことは一切語られないからだ。
    むしろ、そのように独我論が表立って語られないからこそ、世界の具体的なあり方を捉えているこの私が存在するという神秘が、自己中心主義などに変質せずに保存されることになる。
    その意味で、「独我論を徹底させれば純粋な実在論と一致する」ことになるのである。
    ・・・・・p64より引用

    この本は、「はじめての」のタイトルにあるように入門書の極み的なものなのだと思うのですが、それでも該当部分などを読んでも難しく感じていました。
    でも、今回、ふくろうさんに質問して教えていただいた部分は、本を読んでももう一つぴんと来なくて、どうにか理解の実感が得られたらな、と考えていた部分に相当していたので、私的にはとてもラッキーでした。

    また、機会があれば教えていただけると嬉しく思います。
    今回は、ほんとうにどうもありがとうございました。

    ロムの方にも参考になると思うので、別な引用も少しします。


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■19653 / inTopicNo.96)  パニチェ氏へ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/04(Sat) 08:36:33)
    パニチェさん

    既に読んでくれているかとも思いますが、No19648は、『論考』T:5.631,5.633,5.6331の解釈です。
    なので、No19550の補足として読んでもらえればいいと思います。

    よろしくお願いします。
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