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■19873 / inTopicNo.61)  Re[22]: 余計なお世話
  
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/11(Sat) 21:50:38)
    No19871に返信(きまぐれなロム者さんの記事)
    > Es gibt also wirklich einen Sinn, in welchem in der Philosophie nichtpsychologisch vom Ich die Rede sein kann.
    > Das Ich tritt in die Philosophie dadurch ein, dass »die Welt meine Welt ist«.
    > Das philosophische Ich ist nicht der Mensch, nicht der menschliche Körper, oder die menschliche Seele, von der die Psychologie handelt, sondern das metaphysische Subjekt, die Grenze - nicht ein Teil - der Welt.

    ありがとうございます。

    “philosophische Ich”ですね。
引用返信/返信 削除キー/
■19871 / inTopicNo.62)  余計なお世話
□投稿者/ きまぐれなロム者 -(2021/12/11(Sat) 21:33:32)
    Es gibt also wirklich einen Sinn, in welchem in der Philosophie nichtpsychologisch vom Ich die Rede sein kann.
    Das Ich tritt in die Philosophie dadurch ein, dass »die Welt meine Welt ist«.
    Das philosophische Ich ist nicht der Mensch, nicht der menschliche Körper, oder die menschliche Seele, von der die Psychologie handelt, sondern das metaphysische Subjekt, die Grenze - nicht ein Teil - der Welt.
引用返信/返信 削除キー/
■19869 / inTopicNo.63)  Re[20]: ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/11(Sat) 21:25:20)
    2021/12/11(Sat) 22:12:48 編集(投稿者)
    2021/12/11(Sat) 22:04:51 編集(投稿者)
    2021/12/11(Sat) 21:59:49 編集(投稿者)

    えーと、
    自我
    はもちろん
    das Ich
    ですよ。
    取り急ぎ。
    専門家はほとんど「自我」と術語として訳します。
    丘澤訳だけが、ドイツ文学者だからか、「私」とされています。

    ちなみに英訳では、

    Ogden訳では、

    the I

    Macguinness訳では

    the self

    です。

    なので、わかりやすいだろうと思って、私は意図的に「私」と訳したわけです。
引用返信/返信 削除キー/
■19867 / inTopicNo.64)  Re[21]: 感想失礼します。
□投稿者/ pipit -(2021/12/11(Sat) 21:06:08)
    パニチェさん、こんばんは!
    No19804
    レスありがとうございます(o^^o)♪

    >
    ザビビのふくろうさんが引用した。。。

    【5.641 それゆえ、哲学において、非心理学的に「私」を論じうる意味は確かにある。「私」は、「世界は私の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。】はどの書籍の和訳なんだろう?

    大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集1 論理哲学論考」では。。。。
    【5.641 従って、哲学で非心理学的に自我を論じうることの意義が、現実に存在するのである。「世界は私の世界である」ということを通して、自我は哲学の中へ入ってくる。
    哲学的な自我は人間ではない。人間の肉体でも、心理学が関わる人間の魂でもない。それは形而上学的な主体であり、世界の部分ではなくて、限界である。】とある。

    上記は哲学的自我は形而上学的主体と述べているのでその通り。

    大修館書店では「私」ではなく「自我」と訳してる。
    原語ではどうなってるのかな。。。「私」と「自我」を異なる表記にしていれば「私」と訳すべきではないし、「私」と同じ語なら「自我」と訳すべきではない。
    パニチェは「私」「哲学的自我」「形而上学的主体」と別の表記にしているのは、文脈において意味が異なるからだと考えている。<

    おぉ、翻訳の問題も潜んでたのかもなのですね...

    (でも、pipitの勝手な感想としては、、、哲学論議楽しそうー♪)
    おつかれさまです!!



引用返信/返信 削除キー/
■19866 / inTopicNo.65)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/11(Sat) 20:54:05)
    最後のところだけ返信しておきます。

    No19838に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > 意味をなしますし、私の解釈では整合的に読めます。

    ここは異議はありますが次回に回しましょう。

    > ちなみに、私の解釈は黒崎宏先生(「『論考』『青色本』読解」「ウィトゲンシュタインと独我論」)および先にも挙げた米澤克夫先生の解釈と近いですし、入不二基義さんの『ウィトゲンシュタイン』の43頁の解釈「私=私の世界=世界=生」とも一致しています。

    私もNo19783の返信で「それぞれの生において実在世界は私の世界として、また私の言語となりえます。」とカキコしてます。

    > まあ、改めて、少し詳しく説明します。

    よろしくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■19864 / inTopicNo.66)  Re[20]: 感想失礼します。
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/11(Sat) 20:48:07)
    2021/12/11(Sat) 21:01:04 編集(投稿者)

    No19863に返信(pipitさんの記事)
    > みなさまこんばんは!

    > No19835
    > >これ、ロムしている皆さんの意見もぜひ聞きたいので、どなたかレスいただけないでしょうか?<

    > 詳しいことは全然わかりませんが、国語的に読めば、

    > >T:5.641 それゆえ、哲学において、非心理学的に「私」を論じうる意味は確かにある。「私」は、「世界は私の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。<

    > 『哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。』

    > (一部分を省略)

    > 『哲学的な「私」とは、(略)、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。』

    > と省略できる気が私はするので、普通の国語的な解釈からすれば

    > 【哲学的な「私」・ならば→形而上学的な主体・ならば→世界の限界】
    > と読めるのではないかと思いました。

    > でも、よくわかりませんけど、
    > 形而上学的といっても、結局実在と一緒になる、って雰囲気なのかな?って思いました(ただの感想ですみません)

    > 形式が「私」としたら、「私」は語れないけど、結局全部「私」みたいな???

    > いいかげんな感想をすみませんm(_ _)m
    > いろいろな方がご意見くださるといいですね!

    > みなさまおつかれさまでーす(^ ^)


    pipitさん、レスありがとうございます。
    pipitさんのレスのお陰で和訳の違いに気付きました。

    ザビビのふくろうさんが引用した。。。

    【5.641 それゆえ、哲学において、非心理学的に「私」を論じうる意味は確かにある。「私」は、「世界は私の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。】はどの書籍の和訳なんだろう?

    大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集1 論理哲学論考」では。。。。
    【5.641 従って、哲学で非心理学的に自我を論じうることの意義が、現実に存在するのである。「世界は私の世界である」ということを通して、自我は哲学の中へ入ってくる。
    哲学的な自我は人間ではない。人間の肉体でも、心理学が関わる人間の魂でもない。それは形而上学的な主体であり、世界の部分ではなくて、限界である。】とある。

    上記は哲学的自我は形而上学的主体と述べているのでその通りで同意します。

    大修館書店では「私」ではなく「自我」と訳してる。
    原語ではどうなってるのかな。。。「私」と「自我」を異なる表記にしていれば「私」と訳すべきではないし、「私」と同じ語なら「自我」と訳すべきではない。
    パニチェは「私」「哲学的自我」「形而上学的主体」と別の表記にしているのは、文脈において意味が異なるからだと考えている。


引用返信/返信 削除キー/
■19863 / inTopicNo.67)  感想失礼します。
□投稿者/ pipit -(2021/12/11(Sat) 20:18:38)
    みなさまこんばんは!

    No19835
    >これ、ロムしている皆さんの意見もぜひ聞きたいので、どなたかレスいただけないでしょうか?<

    詳しいことは全然わかりませんが、国語的に読めば、

    >T:5.641 それゆえ、哲学において、非心理学的に「私」を論じうる意味は確かにある。「私」は、「世界は私の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。<

    『哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。』

    (一部分を省略)

    『哲学的な「私」とは、(略)、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。』

    と省略できる気が私はするので、普通の国語的な解釈からすれば

    【哲学的な「私」・ならば→形而上学的な主体・ならば→世界の限界】
    と読めるのではないかと思いました。


    でも、よくわかりませんけど、
    形而上学的といっても、結局実在と一緒になる、って雰囲気なのかな?って思いました(ただの感想ですみません)

    形式が「私」としたら、「私」は語れないけど、結局全部「私」みたいな???

    いいかげんな感想をすみませんm(_ _)m
    いろいろな方がご意見くださるといいですね!

    みなさまおつかれさまでーす(^ ^)




引用返信/返信 削除キー/
■19838 / inTopicNo.68)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/11(Sat) 18:41:28)
    パニチェさん

    No19837に返信(パニチェさんの記事)
    > ■No19835に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    >>>論点は上記の「私」と形而上学的主体が同じか否かだと思います。
    >>>私は異なる根拠として5.61にも『論考』にも多く使用されている「我々」、一人称複数代名詞によって写像理論が導かれ説明されているということを主張しています。
    >>>これに反論していただくことが次の議論展開になると考えており、多少直近のレスはお互いの主張の繰り返しで、堂々巡りになっているように思います。
    >
    >>わかっていますよ^^
    >>ちゃんとしたその点についての説明は次にするとして、その前に、「それでもちょっとなあ…」と思う点について、言わせてください(笑)
    >
    > はいはい(笑)。
    >
    >>っていうのはね、T:5.641で、
    >>@ 「世界は私の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。 
    >>A 哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。
    >
    >>って書いてあるわけでしょ?
    >>だったら、写像理論云々の前提を一度横に置いて、読んでもらえませんかね?
    >>で、フツーに読めば
    >
    >>>論点は上記の「私」と形而上学的主体が同じか否かだと思います。
    >
    >>とあなたは言うけど、同じだとしかとりようがないと思うんですけど、ね。
    >>横に置いても、読めませんか?
    >>それとも、横に置けないかな?(笑)
    >
    > 無理ですって(笑)
    >
    > 普通に読めば「私」は一人称複数代名詞だし、「我々」は一人称複数代名詞ですって。
    >
    >>>上記のどの「私」が形而上学的主体とイコールで、どの「私」が一人称代名詞の「私」でしょうか。
    >>>それとも上記の全ての「私」が形而上学的主体ということですか?
    >
    >>「思考し、表象する主体」以外は、すべて形而上学的主体(=《私》)です。
    >
    > 以下で意味をなしますか?
    >
    > ************************************
    >
    > 形而上学的主体は形而上学的主体の世界である。(ミクロコスモス。)
    >
    > 思考し表象する主体は存在しない。もし形而上学的主体が「形而上学的主体が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは形而上学的主体の身体について報告がなされ、またどの部分が形而上学的主体の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。
    >
    > 主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。
    >
    > 世界の中のどこに形而上学的主体が認められるのか。
    >
    > それゆえ、哲学において、非心理学的に「形而上学的主体」を論じうる意味は確かにある。「形而上学的主体」は、「世界は形而上学的主体の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。哲学的な「形而上学的主体」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。

    ***************
    意味をなしますし、私の解釈では整合的に読めます。
    ちなみに、私の解釈は黒崎宏先生(「『論考』『青色本』読解」「ウィトゲンシュタインと独我論」)および先にも挙げた米澤克夫先生の解釈と近いですし、入不二基義さんの『ウィトゲンシュタイン』の43頁の解釈「私=私の世界=世界=生」とも一致しています。

    まあ、改めて、少し詳しく説明します。

引用返信/返信 削除キー/
■19837 / inTopicNo.69)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/11(Sat) 18:19:34)
    2021/12/11(Sat) 18:51:35 編集(投稿者)

    No19835に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > >論点は上記の「私」と形而上学的主体が同じか否かだと思います。
    > >私は異なる根拠として5.61にも『論考』にも多く使用されている「我々」、一人称複数代名詞によって写像理論が導かれ説明されているということを主張しています。
    > >これに反論していただくことが次の議論展開になると考えており、多少直近のレスはお互いの主張の繰り返しで、堂々巡りになっているように思います。

    > わかっていますよ^^
    > ちゃんとしたその点についての説明は次にするとして、その前に、「それでもちょっとなあ…」と思う点について、言わせてください(笑)

    はいはい(笑)。

    > っていうのはね、T:5.641で、
    > @ 「世界は私の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。 
    > A 哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。

    > って書いてあるわけでしょ?
    > だったら、写像理論云々の前提を一度横に置いて、読んでもらえませんかね?
    > で、フツーに読めば

    > >論点は上記の「私」と形而上学的主体が同じか否かだと思います。

    > とあなたは言うけど、同じだとしかとりようがないと思うんですけど、ね。
    > 横に置いても、読めませんか?
    > それとも、横に置けないかな?(笑)

    無理ですって(笑)
    普通に読めば「私」は一人称単数代名詞だし、「我々」は一人称複数代名詞ですって。

    > >上記のどの「私」が形而上学的主体とイコールで、どの「私」が一人称代名詞の「私」でしょうか。
    > >それとも上記の全ての「私」が形而上学的主体ということですか?

    > 「思考し、表象する主体」以外は、すべて形而上学的主体(=《私》)です。

    以下で意味をなしますか?

    ************************************

    形而上学的主体は形而上学的主体の世界である。(ミクロコスモス。)

    思考し表象する主体は存在しない。もし形而上学的主体が「形而上学的主体が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは形而上学的主体の身体について報告がなされ、またどの部分が形而上学的主体の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。

    主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。

    世界の中のどこに形而上学的主体が認められるのか。

    それゆえ、哲学において、非心理学的に「形而上学的主体」を論じうる意味は確かにある。「形而上学的主体」は、「世界は形而上学的主体の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。哲学的な「形而上学的主体」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。
引用返信/返信 削除キー/
■19836 / inTopicNo.70)  前期独我論
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/11(Sat) 18:05:53)
    2021/12/11(Sat) 20:36:05 編集(投稿者)

    以下、大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集1 論理哲学論考」より引用

    ******************************************

    5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。

    5.61 論理は世界を満たしている。世界の限界は、論理の限界でもある。
    従って我々は論理において、世界にはこれこれが存在するが、かのものは存在しない、等と語ることはできない。
    というのも外見上このことは或る可能性の排除をお前提にしているが、この排除は実情ではありえないからである。というのも仮にそうだとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならないからである。つまりそのようになるのは、論理が世界の限界を他の側からも考察しうる場合なのである。
    我々が考えることのできないことを、我々は考えることができない。従って我々が考えることができないことを、我々は語ることもできない。

    5.62 この見解が、唯我論がどの程度真理であるか、との問を決定するための鍵を与える。
    即ち、唯我論が考えている(言わんとする)ことは全く正しい。ただそのことは語られることができず、自らを示すのである。
    世界が私の世界であることは、唯一の言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに、示されている。

    5.62 世界と生は一つである。

    5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)

    5.631 思考し表象する主体は存在しない。もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。

    5.632 主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。

    5.633 世界の中のどこに形而上学的主体が認められるのか。
    ここでの事情は眼と視野との場合と全く同じである。と君は語るであろう。しかし現実には君は眼を見ないのである。
    そして視野における何物からも、それが眼によって見られていることは推論されえない。

    <略>

    5.641 従って、哲学で非心理学的に自我を論じうることの意義が、現実に存在するのである。「世界は私の世界である」ということを通して、自我は哲学の中へ入ってくる。
    哲学的な自我は人間ではない。人間の肉体でも、心理学が関わる人間の魂でもない。それは形而上学的な主体であり、世界の部分ではなくて、限界である。

    *************** 引用終わり ***************

引用返信/返信 削除キー/
■19835 / inTopicNo.71)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/11(Sat) 17:59:57)
    2021/12/11(Sat) 18:03:19 編集(投稿者)

    パニチェさん
    ******************
    T: 5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)
    T: 5.631 思考し表象する主体は存在しない。もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。
    T: 5.632 主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。
    T: 5.633 世界の中のどこに形而上学的主体が認められるのか。
    T:5.641 それゆえ、哲学において、非心理学的に「私」を論じうる意味は確かにある。「私」は、「世界は私の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。
    ***************************
    >論点は上記の「私」と形而上学的主体が同じか否かだと思います。
    >私は異なる根拠として5.61にも『論考』にも多く使用されている「我々」、一人称複数代名詞によって写像理論が導かれ説明されているということを主張しています。
    >これに反論していただくことが次の議論展開になると考えており、多少直近のレスはお互いの主張の繰り返しで、堂々巡りになっているように思います。

    わかっていますよ^^
    ちゃんとしたその点についての説明は次にするとして、その前に、「それでもちょっとなあ…」と思う点について、言わせてください(笑)

    っていうのはね、T:5.641で、
    @ 「世界は私の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。 
    A 哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。

    って書いてあるわけでしょ?
    だったら、写像理論云々の前提を一度横に置いて、読んでもらえませんかね?
    で、フツーに読めば

    >論点は上記の「私」と形而上学的主体が同じか否かだと思います。

    とあなたは言うけど、同じだとしかとりようがないと思うんですけど、ね。
    横に置いても、読めませんか?
    それとも、横に置けないかな?(笑)

    これ、ロムしている皆さんの意見もぜひ聞きたいので、どなたかレスいただけないでしょうか?

    ****************
    ということで、パニチェさんとの争点となっているポイントを含めて、
    永井の『ウィトゲンシュタイン入門』批判の形でなるべくわかりやすくまとめてみたいと思います。対象とするのは、同書における『論考』の独我論に関する説明です。
    この本を持っている方は、ぜひとも議論に参加していただきたいので、よければお願いします。
    ちょっと時間がかかるかもしれませんが、ご了承ください^^
    ************************

    PS:ああ、編集で新たに付け加わりましたね。

    >上記のどの「私」が形而上学的主体とイコールで、どの「私」が一人称代名詞の「私」でしょうか。
    >それとも上記の全ての「私」が形而上学的主体ということですか?

    「思考し、表象する主体」以外は、すべて形而上学的主体(=《私》)です。

    ちなみに、
    No19832
    >少し表現しにくいのですが形而上学的主体は世界に属さないから世界と言語を写像として捉えらる、写像理論たらしめる形而上学的主体ではある

    という解釈は、飯田隆先生が著書『ウィトゲンシュタイン』(106頁)で根拠薄弱であると認めつつ提出した考え方と同じもので、野矢先生も、無理筋だと述べた(「『論理哲学論考』を読む」(214頁))の考えですよね。
    そして、それを永井の〈私〉とみなさないのであれば、それは永井が否定する超越論的主観ということになります(『ウィトゲンシュタイン入門』(81頁)が、それでいいんでしょうか?

引用返信/返信 削除キー/
■19833 / inTopicNo.72)  補足>ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/11(Sat) 16:56:42)
    2021/12/11(Sat) 17:16:06 編集(投稿者)

    以下、大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集1」からの引用

    ******************************************

    T: 5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)
    T: 5.631 思考し表象する主体は存在しない。もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。
    T: 5.632 主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。
    T: 5.633 世界の中のどこに形而上学的主体が認められるのか。
    T:5.641 それゆえ、哲学において、非心理学的に「私」を論じうる意味は確かにある。「私」は、「世界は私の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。

    *************** 引用終わり ***************

    論点は上記の「私」と形而上学的主体または主体が同じか否かだと思います。
    私は異なる根拠として5.61にも『論考』にも多く使用されている「我々」、一人称複数代名詞によって写像理論が導かれ説明されているということを主張しています。

    上記のどの「私」が形而上学的主体とイコールで、どの「私」が一人称代名詞の「私」でしょうか。
    それとも上記の全ての「私」が形而上学的主体ということですか?

    これに反論していただくことが次の議論展開になると考えており、多少直近のレスはお互いの主張の繰り返しで、堂々巡りになっているように思います。
引用返信/返信 削除キー/

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