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■20118 / inTopicNo.25)  Re[28]: 永井の独我論解釈について
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/12/25(Sat) 20:14:27)
    ザビビのふくろうさん こんばんは


    > 「私に見えるものだけが真に見えるものである」
    > と言う「私」を、『論考』は、それを語りえず示される独我論的主体、世界の限界たる形而上学的主体として示しました。

    永井氏が、この↑「示し」と違うことを主張しているということですか。もうひとつよくわかりません。「示し」には同意しているのではないでしょうか。

    > つまり、『論考』が既にその解答を、ある意味、純粋な形で(語りえぬものとして)示しているのです。

    > ところが、(喩えると)語らない(抽象的)芸術作品――いわゆる何が言いたいのかよくわからない詩でも映画でも――っていうのがありますが、ああいうのと同じで、『論考』は語らず示すだけなので、永井のような人には理解できないわけです。解説、説明がないから。
    > いわば、詩を「語るもの」としてしか理解できないので(∽ 形而上学的自我を一般的自我と解釈してしまう)、 詩の示すものを理解できずチンプンカンプンであるように、『論考』の意味が理解できないわけです(『論考』を詩だと言っているわけではありません。あくまで喩え)。

引用返信/返信 削除キー/
■20101 / inTopicNo.26)  Re[28]: 『論考』の独我論解釈について
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/25(Sat) 08:11:51)
    おはようございます、ザビビのふくろうさん。
    返信ありがとうございます。

    No20093に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > パニチェさん

    > >ウィトゲンシュタインは「人間がミクロコスモスであるということは真である」と草稿で述べています。
    > >「私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」であると同時に「人間がミクロコスモスであるということは真である」なら『論考』の独我論とは人間誰しもにとっての独我論ということになりませんか?
    > >ザビビのふくろうさんは「人間がミクロコスモスであるということは真である」という言葉をどのように解釈されてますか?

    > 結局,回答としては、これまでと同じことになりますね。
    > つまり、「私」を一人称代名詞として読むか,形而上学的主体として読むかどうかの違いに帰着すると思います。
    >  「私は私の世界である(ミクロコスモス)」
    >  「人間はミクロコスモスである」
    > という文を,私は両方とも形而上学的命題(超越論的命題)(語りえず,示される真理)として解釈します。

    > 永井のように,「私」を一般的自我と解釈して,
    >  「私は私の世界である(ミクロコスモス)」
    > を,主体それぞれに成り立つ(真である)一般的真理(語り得る真理)であると解釈するのと相即して,この
    > 「人間がミクロコスモスであることは真である」
    > という文を,形而上学的真理を述べた文として解釈するのではなく,
    >  「人間が死すべきものであることは真である」
    > と同様,人間主体それぞれに成り立つ(真である)ような一般的真理を表す文であると解釈する限り,『論考』の独我論は理解できないであろうというのが私の立場です(前述したように,その解釈だと主体各々にとってのミクロコスモスが(複数個)存在し,独我論になりえないし、下の等式も成立しえないから)。

    > つまり,No19961の【補足】で取り上げた『全集1 212頁』の唯一の「世界霊魂(形而上学的主体)」として「私」も「人間」も解釈すべきである,というのが私の立場であるということです。

    > そのように解釈するとき、そのときに限り、次の等式が成り立ち

    >  私(形而上学的主体)
    > =私の世界(ミクロコスモス)
    > =(実在論的)世界(マクロコスモス)
    >
    > ゆえに、
    >  独我論=実在論
    > が成り立つ。
    > と言えるのです。

    なるほど、やはりそういう読解になるんですね。
    同意はできませんが了解しました。
    よいクリスマスを♪
引用返信/返信 削除キー/
■20093 / inTopicNo.27)  『論考』の独我論解釈について
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/24(Fri) 17:31:55)
    2021/12/24(Fri) 17:45:31 編集(投稿者)

    パニチェさん

    >ウィトゲンシュタインは「人間がミクロコスモスであるということは真である」と草稿で述べています。
    >「私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」であると同時に「人間がミクロコスモスであるということは真である」なら『論考』の独我論とは人間誰しもにとっての独我論ということになりませんか?
    >ザビビのふくろうさんは「人間がミクロコスモスであるということは真である」という言葉をどのように解釈されてますか?

    結局,回答としては、これまでと同じことになりますね。
    つまり、「私」を一人称代名詞として読むか,形而上学的主体として読むかどうかの違いに帰着すると思います。
     「私は私の世界である(ミクロコスモス)」
     「人間はミクロコスモスである」
    という文を,私は両方とも形而上学的命題(超越論的命題)(語りえず,示される真理)として解釈します。

    永井のように,「私」を一般的自我と解釈して,
     「私は私の世界である(ミクロコスモス)」
    を,主体それぞれに成り立つ(真である)一般的真理(語り得る真理)であると解釈するのと相即して,この
    「人間がミクロコスモスであることは真である」
    という文を,形而上学的真理を述べた文として解釈するのではなく,
     「人間が死すべきものであることは真である」
    と同様,人間主体それぞれに成り立つ(真である)ような一般的真理を表す文であると解釈する限り,『論考』の独我論は理解できないであろうというのが私の立場です(前述したように,その解釈だと主体各々にとってのミクロコスモスが(複数個)存在し,独我論になりえないし、下の等式も成立しえないから)。

    つまり,No19961の【補足】で取り上げた『全集1 212頁』の唯一の「世界霊魂(形而上学的主体)」として「私」も「人間」も解釈すべきである,というのが私の立場であるということです。

    そのように解釈するとき、そのときに限り、次の等式が成り立ち

     私(形而上学的主体)
    =私の世界(ミクロコスモス)
    =(実在論的)世界(マクロコスモス)

    ゆえに、
     独我論=実在論
    が成り立つ。
    と言えるのです。

引用返信/返信 削除キー/
■20092 / inTopicNo.28)   永井の独我論解釈について
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/24(Fri) 17:26:14)
    knowing itselfさん

    >永井氏による「ウィトゲンシュタインの独我論」理解については、ちくま新書の「入門」p20〜23はどうですか。とくにp21の最終段落。

    >「私に見えるものだけが…」と強調されたその「私」とは何か、それが問題のすべてなのである。(同書22頁)

    「私に見えるものだけが真に見えるものである」
    と言う「私」を、『論考』は、それを語りえず示される独我論的主体、世界の限界たる形而上学的主体として示しました。
    つまり、『論考』が既にその解答を、ある意味、純粋な形で(語りえぬものとして)示しているのです。

    ところが、(喩えると)語らない(抽象的)芸術作品――いわゆる何が言いたいのかよくわからない詩でも映画でも――っていうのがありますが、ああいうのと同じで、『論考』は語らず示すだけなので、永井のような人には理解できないわけです。解説、説明がないから。
    いわば、詩を「語るもの」としてしか理解できないので(∽ 形而上学的自我を一般的自我と解釈してしまう)、 詩の示すものを理解できずチンプンカンプンであるように、『論考』の意味が理解できないわけです(『論考』を詩だと言っているわけではありません。あくまで喩え)。

    それが中期以降になると、ウィトゲンシュタインは、『論考』の著者もそうであった独我論病を治療対象としてメタ言語的に語りますから(ex.「他人は『私が本当に言わんとすること』を理解できてはならない、という点が本質的なのである」)、ようやく少し理解できて、「あっ、ウィトゲンシュタインは独我論病の苦しさ、人に理解してもらえなさをよくわかってる!!」って、永井はきっと感激したわけです(同書、20頁)。で、自分と同類だと勘違いしたんだろうと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■20083 / inTopicNo.29)  『論考』の独我論解釈について
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/23(Thu) 22:24:07)
    ザビビのふくろうさん、こんばんは、レスありがとうございます。
    せっかくですからひとつ質問させて下さい。

    No20067に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    ************************************
    論考
    5.63私は私の世界である。(ミクロコスモス。)

    草稿1916年10月9日(P275)
    しかし出来事がくり返されるのが不可能ということは、物体が同じ時に二つの場所にありえないということと全く同様に、出来事の論理的本質の中にあるのである。
    人間がミクロコスモスであることは真である。私は私の世界である。
    ************************************

    ウィトゲンシュタインは「人間がミクロコスモスであるということは真である」と草稿で述べています。
    「私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」であると同時に「人間がミクロコスモスであるということは真である」なら『論考』の独我論とは人間誰しもにとっての独我論ということになりませんか?
    ザビビのふくろうさんは「人間がミクロコスモスであるということは真である」という言葉をどのように解釈されてますか?

    議論を蒸し返すつもりはないのですがザビビのふくろうさんの上記に対する回答に興味があるので質問しました。

引用返信/返信 削除キー/
■20080 / inTopicNo.30)  Re[25]: ウィトゲンシュタインと西田幾多郎
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/23(Thu) 22:07:07)
    2021/12/23(Thu) 22:45:49 編集(投稿者)

    こんばんは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No20055に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 「ウィトゲンシュタイン入門」永井均p81〜82につぎのように述べています。

    > 通常、超越論的哲学においては、主体としての自我が、素材としての世界に対して形式(形相)を、つまり意味を付与することによって、内的関係がはじめて設定される、と考えられている。ウィトゲンシュタインにおいてはそうではない。自我は、すでに形式によって満たされた世界の限界なすことによって、それにいわば実質を、もっと強くいえば存在を、付与するのである。「私」とは、世界に意味を付与する主体ではなく、世界をこの世界として存在させている世界の実質そのものなのである。それが『論考』的独我論の真意であり、だからこそ、それは、形式上は純粋な実在論とぴったりと重なるのである。
    >  それゆえ、他者とは、自分とは別の意味付与を行う別の主体のことではなく、この世界とは別の限界を持った別の世界のことでなければならない。なぜなら、限界が異なる世界は別の世界だからである。自我と形式の、主体と意味の、この分裂と逆接の感覚こそが、ウィトゲンシュタイン哲学のー前期後期を通じて変わらぬー強烈な現代性である。

    > ーーーー

    > この書では、〈私〉という表記は使用されていませんが、いわんとすることは同じだと思います。「私」とは「実質」、もっといえば〈実質〉になりますか。無主体論との違和感は、個人的に感じません。

    永井氏は『論考』からウィトゲンシュタインに〈私〉を読み取っていますね。
    パニチェはどうも『論考』では〈私〉は読み取れません。もちろん『論考』で示される形而上学的主体というのは〈私〉を含むものですが(表現が適切かどうかはともかく)『論考』時点では純化されていない。
    ウィトゲンシュタインから〈私〉が読み取れるのは青色本あたりからです(もっともパニチェはウィトゲンシュタイン全集2巻〜4巻は持ってないのでこの間にあるかもしれませんが)。

    それと最近気づいたことは〈私〉は意識した時点でパニチェの私的空間でも変質しているように思われるということです。
    言葉による変質とも異なるのですが、唯識の言葉を借りるなら意識した時点で能観の体(観る〈私〉)と所観の境(観られる〈私〉)とに分断され変質するということです。

    おそらく意識する以前の〈私〉は「無位の真人」とか、みのりさんに教えてもらったスコット・キロピーの「気づき(西田哲学の「純粋経験」のような状態)」であるかもしれず、もしそうであるなら無主体論や無我とも相性がいいのかもしれませんが、未だ探究の途上です。

引用返信/返信 削除キー/
■20075 / inTopicNo.31)  永井の『論考』の独我論解釈について
□投稿者/ knowing itself -(2021/12/23(Thu) 21:07:55)
    ザビビのふくろうさん レスありがとうございます。

    永井氏による「ウィトゲンシュタインの独我論」理解については、ちくま新書の「入門」p20〜23はどうですか。とくにp21の最終段落。
引用返信/返信 削除キー/
■20067 / inTopicNo.32)  永井の『論考』の独我論解釈について
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/23(Thu) 17:50:52)
    knowing itselfさん,
    パニチェさん

    話のコンテキストを離れてしまうのでレスしないでおこうと思っていたんですが,
    どうしても言いたくなって,書いてしまいます(笑)。すみませんm(__)m
    スルーしてください。

    >「ウィトゲンシュタイン入門」永井均p81〜82につぎのように述べています。
    *************
    (以下、引用)
    通常、超越論的哲学においては、主体としての自我が、素材としての世界に対して形式(形相)を、つまり意味を付与することによって、内的関係がはじめて設定される、と考えられている。ウィトゲンシュタインにおいてはそうではない。自我は、すでに形式によって満たされた世界の限界なすことによって、それにいわば実質を、もっと強くいえば存在を、付与するのである。「私」とは、世界に意味を付与する主体ではなく、世界をこの世界として存在させている世界の実質そのものなのである。それが『論考』的独我論の真意であり、だからこそ、それは、形式上は純粋な実在論とぴったりと重なるのである。
     それゆえ、他者とは、自分とは別の意味付与を行う別の主体のことではなく、この世界とは別の限界を持った別の世界のことでなければならない。なぜなら、限界が異なる世界は別の世界だからである。自我と形式の、主体と意味の、この分裂と逆接の感覚こそが、ウィトゲンシュタイン哲学のー前期後期を通じて変わらぬー強烈な現代性である。
    **********
    これを読むと,私なんかは,よくこれだけデタラメを書けるなとあきれかえるというか,それどころかこの自分解釈(ただの決めつけ)の正しさへの絶対的確信・思い込みには,ほとんど感心します。
    他者が異なる限界を有し,別の世界であるのなら,誰がどう考えたって独我論になるわけありませんよね?
    『論考』が述べているのは,語られえず示される独我論は正しいということです。
    つまり,誰もが認める二十世紀を代表する哲学的天才が,少なくともある意味で,独我論は正しいと考えているわけです。
    にもかかわらす,なんでそんな誰が考えたって不整合きわまりない(正しいわけがない!)独我論解釈を,『論考』の真意だと言えるのか,理解に苦しみます。
    だって,その解釈だと独我論ですらなく,自己論駁的であることは明明白白なんだから,ウィトゲンシュタインがそんなアホ説を正しいと言うわけないでしょう。
    自分がウィトゲンシュタインの真意を理解できていないだけなのではないかと,なぜ,そう考えない?
    哲学者として,自分のほうがウィトゲンシュタインより優秀だとでも思っているのか?(笑)
    ま,いずれにせよ,フツーに考えて,永井が真意を理解していないというのは明らかなんですよ。
    この歪曲・捏造が「確信犯」によるものなのかどうかは知りませんが,藁人形制作もたいがいにしろと思いますね(その“曲解”がどのようなものであるかは,そのひとつをNo19961で具体的に(誤訳・誤読の指摘として)示しました)。
    初学者がこんなトンデモ解釈を真に受けたら,ほんと気の毒と言うほかありません。

引用返信/返信 削除キー/
■20055 / inTopicNo.33)  Re[24]: ウィトゲンシュタインと西田幾多郎
□投稿者/ knowing itself -(2021/12/22(Wed) 19:08:21)
    パニチェさん レスありがとうございます。

    > パニチェもNo19760で以下のように返信したことがあります。
    >
    > >> 世界と言語を写像たらしめている主体は『論考』で言うところの形而上学的主体ですが、永井均氏の提示する〈私〉はそのような意味や価値付けは行いません。
    > >> この点だけで言えば西田哲学の「純粋経験」に近い主体です。
    > >> 永井均氏も『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』で「〈私〉は存在だけしていて、開けですから見る力のようなものはありますが、動機になるような意味づける力は何もないんですね。(P.175)」と述べています。
    >
    > 〈私〉は何もしないということにおいては永井氏に同意できます。
    > ところが例の「〈仏教3.0〉を哲学する」のバージョンT&Uもそうなんですが、どうも無主体論と〈私〉を絡めるところは未だにしっくり来ないのですがknowing itselfさんはそことらあたりは如何でしょうか。

    「ウィトゲンシュタイン入門」永井均p81〜82につぎのように述べています。

    通常、超越論的哲学においては、主体としての自我が、素材としての世界に対して形式(形相)を、つまり意味を付与することによって、内的関係がはじめて設定される、と考えられている。ウィトゲンシュタインにおいてはそうではない。自我は、すでに形式によって満たされた世界の限界なすことによって、それにいわば実質を、もっと強くいえば存在を、付与するのである。「私」とは、世界に意味を付与する主体ではなく、世界をこの世界として存在させている世界の実質そのものなのである。それが『論考』的独我論の真意であり、だからこそ、それは、形式上は純粋な実在論とぴったりと重なるのである。
     それゆえ、他者とは、自分とは別の意味付与を行う別の主体のことではなく、この世界とは別の限界を持った別の世界のことでなければならない。なぜなら、限界が異なる世界は別の世界だからである。自我と形式の、主体と意味の、この分裂と逆接の感覚こそが、ウィトゲンシュタイン哲学のー前期後期を通じて変わらぬー強烈な現代性である。


    ーーーー

    この書では、〈私〉という表記は使用されていませんが、いわんとすることは同じだと思います。「私」とは「実質」、もっといえば〈実質〉になりますか。無主体論との違和感は、個人的に感じません。
引用返信/返信 削除キー/
■20047 / inTopicNo.34)  写像理論と言語ゲーム
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/21(Tue) 18:52:20)
    2021/12/22(Wed) 07:48:56 編集(投稿者)

    No18590より

    > A.テーブルの上に赤ワインが入ったグラスがある」←事態として世界と言語は結びつく(写像→有意義)
    > B.「赤の上にグラスが入ったテーブルワインがある」←見当がつかない(非写像→無意義)

    上記は前期の写像理論においての有意義と無意義。
    これが後期の言語ゲームではBの会話が成立するシチュエーションが想定可能となる。

    あるワインバーはボックス席のテーブルが赤、カウンターが黒であり、店員の間では「赤」と「黒」と呼び合っている。また、初めに出されるサービスのウェルカムワインをカウンター席とボックス席では(セット料金が異なるため)区別しており、それぞれカウンターワイン、テーブルワインと呼んでいる。氷は水割りなどに使う透明の氷とシャンパンクーラーなどに入れる白い氷を使い分けており、それぞれ「グラス」と「ホワイト」と呼び分けているとする。

    Bの「赤の上にグラスが入ったテーブルワインがある」はこのワインバーの言語空間(言語ゲーム)においては「ボックス席の赤いテーブルの上に透明の氷が入ったボックス席に最初にサービスとして出されるウェルカムワインがある」ということを意味していることになる。(通常、ワインに氷を入れるのは邪道と思われがちだが、暑い日にはアルコール度数の高いワインを飲みやすくするため氷を入れるという選択肢もあるとのこと)

引用返信/返信 削除キー/
■20046 / inTopicNo.35)  写像による言語論理の読み取り
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/21(Tue) 17:56:30)
    2021/12/21(Tue) 18:04:45 編集(投稿者)

    せっかくウィトゲンシュタイントピを設置したのだから、私もちょこちょことウィトゲンシュタインについて投稿していこうと思う。今回は『論考』を読み直してチェックすべきだと思うところを引用してみる。

    ***以下、大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集1」からの引用***

    4.001 命題の総計が言語である。
    4.002 各々の語がいかに、そして何を意味するかについての観念を少しも持たずに、各れの意義をも表現しうる言語を構成する能力を人間は有している。
    これは、個々の音がいかに産出されるかを知らずとも話をするのと同様である。
    日常言語は人間という有機体の一部であり、そしてこれらに劣らず複雑である。
    日常言語からの言語の論理を直接読み取ることは人間には不可能である。
    言語は思想に変装を施す。即ち、衣装の外的形式から装われた思想の形式を推論することはできない。何故なら衣装の外的形式は肉体の形式を認識させるのとは全く別の目的に従って形づくられているからである。
    日常言語の理解のための暗黙の取り決めは非常に複雑である。

    *************** 引用終わり ***************

    「4.002日常言語からの言語の論理を直接読み取ることは人間には不可能である」なら、どのように言語の論理を読み取るのか?

    「1.1世界は事実の総計であって、ものの総計ではない」「1.13論理空間における諸事実が世界である」「2.01の事態とは諸対象(事物、もの)の結合である」を前提とし、「3.12命題とは世界と射影関係にある命題記号」であり「4.001 命題の総計が言語である。」とするなら「4.2命題の意義とは、命題の、諸事態の存立非存立の諸可能性との一致不一致である」ことから言語の論理を読み取ろうとする試みが言語の写像理論であるということ。

引用返信/返信 削除キー/
■20043 / inTopicNo.36)  Re[23]: ウィトゲンシュタインと西田幾多郎
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/21(Tue) 14:38:17)
    2021/12/21(Tue) 15:11:39 編集(投稿者)

    こんにちは、knowing itselfさん。横の横レスで失礼します。

    No20042に返信(knowing itselfさんの記事)

    > NHK出版から出た、「西田幾多郎」永井均をもっています。100ページの薄い本ですね。
    > この中で、ウィトゲンシュタインを「史上最初に登場した確信犯」と評する一方で、西田幾多郎は「逆の確信犯」としています。この二人は逆の方向から同じ境地に至ったかのような書き方です。いまいちよくわからないところですが、非常に強い印象をもった。
    > 永井氏は 二人を自分の哲学に引き寄せすぎで、独自の解釈というべきなのかもしれませんが、面白いと思う。

    確かに永井氏は上記の傾向は強いですね。
    パニチェもNo19760で以下のように返信したことがあります。

    >> 世界と言語を写像たらしめている主体は『論考』で言うところの形而上学的主体ですが、永井均氏の提示する〈私〉はそのような意味や価値付けは行いません。
    >> この点だけで言えば西田哲学の「純粋経験」に近い主体です。
    >> 永井均氏も『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』で「〈私〉は存在だけしていて、開けですから見る力のようなものはありますが、動機になるような意味づける力は何もないんですね。(P.175)」と述べています。

    〈私〉は何もしないということにおいては永井氏に同意できます。
    ところが例の「〈仏教3.0〉を哲学する」のバージョンT&Uもそうなんですが、どうも無主体論と〈私〉を絡めるところは未だにしっくり来ないのですがknowing itselfさんはそことらあたりは如何でしょうか。

引用返信/返信 削除キー/

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