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■21777 / inTopicNo.13)  Re[34]: 謎。
  
□投稿者/ 田秋 -(2022/03/27(Sun) 09:09:48)
    おはようございます、ザビビのふくろうさん

    ボクは論理学の門外漢なのですが

    命題論理は述語論理を内包している(その逆?)、というか
    互いが排他的に存在しているものではない
    という認識は間違っていますか?
引用返信/返信 削除キー/
■21774 / inTopicNo.14)  Re[33]: 謎。
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/03/26(Sat) 23:43:17)
    エフニさん
    レスをありがとうございます。

    No21770に返信(エフニさんの記事)
    > ■No21758に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >>■No21753に返信(エフニさんの記事)
    > >>論考で使われている論理は「命題論理」のみである。
    > >>
    > >>なぜか「述語論理」は使われていない。
    > >>
    > >>「命題論理」の生みの親フレーゲは、「述語論理」とのセットで「一階述語論理」を構築した。
    > >>
    > >>何故、片手落ちの「命題論理」だけで、世界を解明できると思ったのだろう。
    >>
    >>いきなりの口出し、失礼します。
    >>
    >>見落とされているようです。
    >>『論考』は成功しているかどうかは措いて、述語論理を扱っています。
    >>例えば、T:5.52番台をご覧になればよろしいかと。
    >
    >
    > 私の言い方だとラフになってしまいますので、他者の言をもって正確を期しますね。
    >
    > 「現代論理学の基礎的部分は「命題論理」と「述語論理」の二部門からなる。ウィトゲンシュタインの「真理関数の理論」は、ほぼこの命題論理の体系に相当する。」(野家啓一)
    >
    > 「「論考」は論理語を否定詞および接続詞に限定している。これは現代論理学の観点から言えば「命題論理」と呼ばれる体系の道具立てにとどまっている。」(野矢茂樹)
    *******************
    確かに、それら引用文だけ見ると、誤解されるのも無理はないかと思います。
    でも、それはあくまで野矢先生が書いているように、「現代論理学の観点から言えば」そうなるというだけですね。
    『論考』では、量化命題を含むすべての命題は、要素命題にOperator Nを有限回適用することによって構成可能な真理関数であるとみなされます( T:6、T:6.001)。
    だからこそ「命題の一般形式」と書いているわけです。
    ですから、誤解を恐れずラフに言えば、ウィトゲンシュタインは、述語論理は命題論理(真理関数理論)に還元可能と考えたってことです。
    これが、あなたが「謎」とおっしゃっている問題の、単純な答えです。
    この解釈について、専門家の間では、ほぼ争いはないと言ってよいと思います。
    ただ、残念ながら、ウィトゲンシュタインのその目論見は失敗した、というのが解釈上の定説でもありますが。

    以上の私の説明が不十分であれば(だと思いますが(笑))、
    こういった点について、あなたが引用されている野矢先生の「『論理哲学論考』を読む」の9章や、飯田隆『言語哲学大全U』に、テクニカルな面にも触れて少し詳しい説明がありますので、お読みになるといいと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■21770 / inTopicNo.15)  Re[32]: 謎。
□投稿者/ エフニ -(2022/03/26(Sat) 20:48:36)
    No21758に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > ■No21753に返信(エフニさんの記事)
    >>論考で使われている論理は「命題論理」のみである。
    >>
    >>なぜか「述語論理」は使われていない。
    >>
    >>「命題論理」の生みの親フレーゲは、「述語論理」とのセットで「一階述語論理」を構築した。
    >>
    >>何故、片手落ちの「命題論理」だけで、世界を解明できると思ったのだろう。
    >
    > いきなりの口出し、失礼します。
    >
    > 見落とされているようです。
    > 『論考』は成功しているかどうかは措いて、述語論理を扱っています。
    > 例えば、T:5.52番台をご覧になればよろしいかと。


    私の言い方だとラフになってしまいますので、他者の言をもって正確を期しますね。

    「現代論理学の基礎的部分は「命題論理」と「述語論理」の二部門からなる。ウィトゲンシュタインの「真理関数の理論」は、ほぼこの命題論理の体系に相当する。」(野家啓一)

    「「論考」は論理語を否定詞および接続詞に限定している。これは現代論理学の観点から言えば「命題論理」と呼ばれる体系の道具立てにとどまっている。」(野矢茂樹)
引用返信/返信 削除キー/
■21766 / inTopicNo.16)  Re[33]: 謎。
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/03/26(Sat) 19:30:23)
    2022/03/26(Sat) 20:02:18 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん

    No21765に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > お邪魔しま〜す
    >
    > ザザビのふくろうさん、
    >
    > >T:5.52<って、
    > 【論理はすべてを包括し、世界を映し出す。そこで使われるものが、どうしてこんな特殊なもの――特殊なカギ針と特殊な編み方−―でよいのだろうか。それはひとえに、その一目一目がすべて限りなく細かい網の目へと、巨大ない鏡へと、編み上げられていくからにほかならない。】
    >
    > でいい?

    ダメです(笑)
    それ、T:5.511だから。
    私の言ってるのはT:5.52と、その注釈の諸命題。
    確認してね。述語論理式が書いてあるから。

引用返信/返信 削除キー/
■21765 / inTopicNo.17)  Re[32]: 謎。
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/26(Sat) 18:57:54)
    お邪魔しま〜す

    ザザビのふくろうさん、

    >T:5.52<って、
    【論理はすべてを包括し、世界を映し出す。そこで使われるものが、どうしてこんな特殊なもの――特殊なカギ針と特殊な編み方−―でよいのだろうか。それはひとえに、その一目一目がすべて限りなく細かい網の目へと、巨大ない鏡へと、編み上げられていくからにほかならない。】

    でいい?
引用返信/返信 削除キー/
■21758 / inTopicNo.18)  Re[31]: 謎。
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2022/03/26(Sat) 12:26:54)
    No21753に返信(エフニさんの記事)
    > 論考で使われている論理は「命題論理」のみである。
    >
    > なぜか「述語論理」は使われていない。
    >
    > 「命題論理」の生みの親フレーゲは、「述語論理」とのセットで「一階述語論理」を構築した。
    >
    > 何故、片手落ちの「命題論理」だけで、世界を解明できると思ったのだろう。

    いきなりの口出し、失礼します。

    見落とされているようです。
    『論考』は成功しているかどうかは措いて、述語論理を扱っています。
    例えば、T:5.52番台をご覧になればよろしいかと。
引用返信/返信 削除キー/
■21753 / inTopicNo.19)  謎。
□投稿者/ エフニ -(2022/03/25(Fri) 19:37:56)
    論考で使われている論理は「命題論理」のみである。

    なぜか「述語論理」は使われていない。

    「命題論理」の生みの親フレーゲは、「述語論理」とのセットで「一階述語論理」を構築した。

    何故、片手落ちの「命題論理」だけで、世界を解明できると思ったのだろう。
引用返信/返信 削除キー/
■21142 / inTopicNo.20)  波動関数ψの意味
□投稿者/ パニチェ -(2022/02/27(Sun) 10:59:40)
    2022/02/27(Sun) 21:06:48 編集(投稿者)

    *** 以下、大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集5 解釈 P161〜P162」よりの引用 ***

    もし我々が例えばラッセルの計算を解釈しようと思うならば、そこに出てくる「無限な」とか「(アレフ0の記号(文字化けによって表示されず)」とかの記号は、それが本来有すべき構文法的文脈には適合しない、という事が明らかになるだろう。何故なら、適合するとすれば意味が生ずるから。即ち、「無限な」という語の構文法は、無限に対するラッセルの記号の構文法と全く別のものなのである。・・中略・・計算は、それが応用可能であるところのもの全てに、応用可能なのである。(そしてそれ以上のことを言うことができない。)

    *************** 引用終わり ***************

    アインシュタインを代表とする古典物理の素朴実在論(物理の対象は我々の意識とは無関係に存在する)に対するボーアらの実証主義(観測結果のみが物理の対象であり、その背後に実在など存在しないし、観測できないものは物理の俎上に載せない)の元となる論理実証主義の原型となる言明。

    観測問題を問題とすること自体がナンセス。
    波動関数ψは応用可能であるから使用するのであって、それを解釈することはナンセンスということか。
    これらの発想は道具主義と揶揄されることもある。


引用返信/返信 削除キー/
■20160 / inTopicNo.21)  大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集5」
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/29(Wed) 16:36:35)
    **** 以下、大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集5 P61」からの引用 ****

    1929年12月22日 日曜日(シュリック宅にて)
    独我論
    私は以前には、通常我々みんなが使っている日常言語と、我々が現実に知っているもの、従って現象、を表現するところの基本的言語とが存在する、と思っていた。私はまだ、第一の言語体系についても、第二の言語体系についても語ってきた。私はこれから、なぜ私はこの考えについてもはや固執しないのか、詳しく述べようと思う。

    *************** 引用終わり ***************

    ウィトゲンシュタインが語ってきた言語論とは上記の日常言語と基本的言語を対象としたものだろう。

引用返信/返信 削除キー/
■20130 / inTopicNo.22)  Re[27]: ウィトゲンシュタインと西田幾多郎
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/26(Sun) 08:46:14)
    2021/12/26(Sun) 09:05:47 編集(投稿者)

    おはようございます、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No20120に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>パニチェはどうも『論考』では〈私〉は読み取れません。もちろん『論考』で示される形而上学的主体というのは〈私〉を含むものですが(表現が適切かどうかはともかく)『論考』時点では純化されていない。
    >>ウィトゲンシュタインから〈私〉が読み取れるのは青色本あたりからです(もっともパニチェはウィトゲンシュタイン全集2巻〜4巻は持ってないのでこの間にあるかもしれませんが)。

    > 永井氏もその時期のウィトゲンシュタインを評価するとかいっていたような。

    そうです。以下のところですね。
    【私が何よりも感動したのは、「他人は『私が本当に言わんとすること』を理解できてはならない、という点が本質的なのである」という最後の一文である。私の解するところでは、ウィトゲンシュタインの哲学活動のほとんどすべてが、陰に陽に、この洞察に支えられて成り立っている。むしろ、彼はこの洞察から哲学を開始したとさえ言えるのではないだろうか。それは画期的と言ってよいが、しかし哲学史などというつまらないものを全部いっぺんに吹き飛ばすほどに、画期的なのだ。少なくとも、私にとってはそうであった。(永井均著『ウィトゲンシュタイン入門 P20』より)】

    パニチェと永井氏のウィトゲンシュタイン読解の違いは『論考』から〈私〉を読み取るかどうかの一点につきます。永井氏が言うように『論考』も含めて「ウィトゲンシュタインの哲学活動のほとんどすべてが、陰に陽に、この洞察に支えられて成り立っている。」と読み取っているところです。パニチェは『論考』の形而上学的主体というのは〈私〉を核にはしているものの写像理論上の世界に含まれない対象としているために「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」によって変質してしまうような対象まで純化していないように思えるということです。
    「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」が読み取れるのは永井氏が上記の前段で引用した青色本からであるということです。

    念のためですが永井氏が「形而上学的主体」を一般的な自我のこととして読み取っているとパニチェは判断しているということではありません。それは以下の永井氏の言説で明確だと思います。

    【たとえば彼が「この言語(それだけを私が理解する言語)」と書くとき、それは「その言語(それだけをその人が理解する言語)」のことを言っているのではない。『論考』の内部では語られることも示されることもないこの事実が、『論考』のすべてを支えている──私にはそう思われるのである。もしそうでないとすれば、つまり『論考』の自我が単に一般的な先験的=超越論的自我にすぎないのであれば、価値や倫理をめぐるすべての議論は、誰にでも当てはまる一つの教説と化するであろう。そうなれば、『論考』のもつ類例のない美しさの多くは、失われるように思われる。『論考』は教説を説く本ではないのだ。(本書四十七頁参照)。(同書P83〜P84より)】

    ここは永井氏が永井哲学として読み過ぎている部分(そうではない部分もある)もあるとは思っています。

    パニチェは写像理論が(『論考』時点では)誰にとっても当てはまる言語論として提起されている以上、その言語世界に属さない主体は〈私〉を含んだ(あるいは〈私〉を核としてそこに纏っている)先験的=超越論的自我も含むだろうと考えています。「『論考』の内部では語られることも示されることもない」〈私〉は青色本以降に読み取れる、読み取れることをもって判断する(言語表現が不可能な対象ですから、もちろん直接的に読み取れる、読み取れない云々ではありませんが)ということです。

引用返信/返信 削除キー/
■20126 / inTopicNo.23)  永井の独我論解釈について
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/25(Sat) 23:09:19)
    knowing itselfさん
    こんばんは。

    >> 「私に見えるものだけが真に見えるものである」
    >> と言う「私」を、『論考』は、それを語りえず示される独我論的主体、世界の限界たる形而上学的主体として示しました。

    >永井氏が、この↑「示し」と違うことを主張しているということですか。もうひとつよくわかりません。「示し」には同意しているのではないでしょうか。

    繰り返しますが、永井は『論考』の独我論的主体を一般的自我と解釈しています。
    これは独我論的主体を語りうるものと解釈しているということです。
    つまり、彼は、語りうるものと、語りえず示されるものとの区別がついていないということを意味します。これが私の見解です。
    理解してもらえなかったようですが、理由・根拠は既に詳しく述べましたので、これ以上は繰り返しません。

引用返信/返信 削除キー/
■20120 / inTopicNo.24)  Re[26]: ウィトゲンシュタインと西田幾多郎
□投稿者/ knowing itself -(2021/12/25(Sat) 20:29:18)
    パニチェさん こんばんは

    >>「ウィトゲンシュタイン入門」永井均p81〜82につぎのように述べています。
    >
    >>通常、超越論的哲学においては、主体としての自我が、素材としての世界に対して形式(形相)を、つまり意味を付与することによって、内的関係がはじめて設定される、と考えられている。ウィトゲンシュタインにおいてはそうではない。自我は、すでに形式によって満たされた世界の限界なすことによって、それにいわば実質を、もっと強くいえば存在を、付与するのである。「私」とは、世界に意味を付与する主体ではなく、世界をこの世界として存在させている世界の実質そのものなのである。それが『論考』的独我論の真意であり、だからこそ、それは、形式上は純粋な実在論とぴったりと重なるのである。
    >> それゆえ、他者とは、自分とは別の意味付与を行う別の主体のことではなく、この世界とは別の限界を持った別の世界のことでなければならない。なぜなら、限界が異なる世界は別の世界だからである。自我と形式の、主体と意味の、この分裂と逆接の感覚こそが、ウィトゲンシュタイン哲学のー前期後期を通じて変わらぬー強烈な現代性である。
    >
    >>ーーーー
    >
    >>この書では、〈私〉という表記は使用されていませんが、いわんとすることは同じだと思います。「私」とは「実質」、もっといえば〈実質〉になりますか。無主体論との違和感は、個人的に感じません。
    >
    > 永井氏は『論考』からウィトゲンシュタインに〈私〉を読み取っていますね。

    そうですね。「ウィトゲンシュタイン入門」のその辺りの解説は、永井哲学そのままですね。

    > パニチェはどうも『論考』では〈私〉は読み取れません。もちろん『論考』で示される形而上学的主体というのは〈私〉を含むものですが(表現が適切かどうかはともかく)『論考』時点では純化されていない。
    > ウィトゲンシュタインから〈私〉が読み取れるのは青色本あたりからです(もっともパニチェはウィトゲンシュタイン全集2巻〜4巻は持ってないのでこの間にあるかもしれませんが)。

    永井氏もその時期のウィトゲンシュタインを評価するとかいっていたような。

    > それと最近気づいたことは〈私〉は意識した時点でパニチェの私的空間でも変質しているように思われるということです。
    > 言葉による変質とも異なるのですが、唯識の言葉を借りるなら意識した時点で能観の体(観る〈私〉)と所観の境(観られる〈私〉)とに分断され変質するということです。
    >
    > おそらく意識する以前の〈私〉は「無位の真人」とか、みのりさんに教えてもらったスコット・キロピーの「気づき(西田哲学の「純粋経験」のような状態)」であるかもしれず、もしそうであるなら無主体論や無我とも相性がいいのかもしれませんが、未だ探究の途上です。

引用返信/返信 削除キー/

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