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■19832 / inTopicNo.73)  前期独我論>ザビビのふくろうさんへ
  
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/11(Sat) 16:45:29)
    2021/12/11(Sat) 17:33:40 編集(投稿者)

    ザビビのふくろうさん、こんにちは。レスありがとうございます。
    何か今回は一転して、私のせいかな。。。(笑)、刺激的かつ充実した議論となり感謝です。

    No19824に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > 若干、質問の意図がつかみにくい気がしているので、答えが的外れになったらすみません。とりあえず、回答します。
    > その「何か」とは、
    > 「それこそが私を比類なき存在たらしめているところのものであり、私だけが知り得、他者には知ることも思考することもできないもの。
    > これこそが真に存在するもの、現実(リアル)であるもの。」
    > のことです。
    > したがって、その「何か」が独我論のことを述べているというより、このような何かがある比類のない私の世界こそ/だけが世界(真に存在するもの、現実(リアル))なのだ、と主張することが独我論である、と言ったほうがいいんじゃないでしょうか。
    > 私の見方では、このこと独我について、例の対話のパロディーで示したように、少なくとも二つの立場があると――文法的・形式的独我と、永井の偶然的独我〈私〉――という感じです。
    > ざーっと書いたので、ちょっと、正確な言い方か自信は少しありませんが。

    なるほど、少し意外な回答でしたが上記であれば(先のレスでも述べた通り)パニチェとほぼ同じ解釈ですね。
    ザビビのふくろうさんの解釈では「二つの立場――文法的・形式的独我と、永井の偶然的独我〈私〉」のうちウィトゲンシュタインの真意は前者ということですか?
    確認ですが、ザビビのふくろうさんにとって『論考』の独我論と上記の独我論は同じものでしょうか?
    またザビビのふくろうさんはウィトゲンシュタインの独我論について前期と後期は同じですか、それとも何らかの変更や上書きなどがなされたと考えていますか?
    ちょい興味があるので質問責めみたいになってますが興味本位からのもので他意はありません。

    > ******************************
    > >「読める」というのは、「ウィトゲンシュタインの真意、意図がそうであると読める」ということです。
    > この件ですけど,この点に関して、永井は次のように言っていますね。
    > 『論考』の独我論は一般的自我(誰もが主体のあり方としてはそれであるような自我)の独我論にすぎない。少なくとも、そう読まれざるをえない。(『ウィトゲンシュタイン入門』 83頁)
    > しかし,永井はその前に,それはウィトゲンシュタインの真意ではない,というような意味のことを言っていますよね(同書,81〜82頁)。真意とは次であるとも。
    > 「自我は,すでに形式によって満たされた世界の限界をなすことによって,それにいわば実質を,もっと強くいえば存在を,付与するのである。」
    > これは明らかに,永井の言う〈私〉です。
    > つまり,永井は『論考』の言う哲学的「私」の真意は〈私〉であるが,それは一般的自我として読まれざるをえない,と言っているわけです。

    はい、そうですね、同意します。

    > で,確認したいのですが,この永井の解釈と,パニチェさんの解釈は異なる,ということでしょうか?
    > それとも,この永井の考えと、パニチェさんも同じだとみていいんでしょうか?
    > というか、確認したいんですが、より一般的に言って、パニチェさんの『論考』解釈は、永井の解釈と同じとみなしてよいのでしょうかね?

    異なります。『論考』の言う「私」は一般的な自我ですし、形而上学的主体(哲学的自我)は〈私〉とは同じではありません。先のレスでも述べた通り、共通するところはありますが、写像理論たらしめるところは〈私〉ではありえません。少なくとも「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」めいた表現は『論考』では出てきません。出てこない以上「普通に読む」のが妥当だろうと思っています。

    > もしそう(あるいは、少なくとも基本的に一致している、近い)なら、永井の考えについてはここのところ復習したので、ポイントを絞ってある程度まとまった批判が書けると思います。
    > そこでのポイントが、たぶんパニチェさんにとっても知りたいポイントなのではないかと今のところ思われるんですよね。(『論考』の「私」は一般的自我ではないのか?)
    > 下でこのポイントについて少し書きますが、たぶん十分にはなりません。
    > 永井の『ウィトゲンシュタイン入門』をもとにして、ウィトゲンシュタイン解釈批判を書いた後で、それに対して、パニチェさんの意見を聞いたほうが早いかも、とも思います。
    > あと,二―クラには『ウィトゲンシュタイン入門』を持っている人が他にもいらっしゃるみたいなので,ロムしている人にもそのほうが分かりやすいのではないかと思うのですが、どうでしょうかね?

    はい、賛成ですし、永井氏とパニチェの読解は異なりますが興味はありますので有難いです。

    > *****************
    > >>A 「私は私の世界である」を、普通の一人称代名詞にとるということは、この「私」は、「ザビビのふくろう」や、「パニチェ」といった固有名に置換可能な語であるということになりますよね。
    >>そうすると、この命題は、実在世界の中に存在するザビビのふくろうやパニチェその他、人間主体一般に成り立つ経験的真理を語る命題になるのではありませんか。つまり、形而上学的(超越論的)命題ではないということになりませんか。
    > >>ここが少し私とは異なります。「私は私の世界である」が何故「形而上学的(超越論的)命題」となるのでしょうか?
    > >>私にはよく分かりません。『論考』において形而上学的とされるのは世界に属さないが故に語りえない、指し示すことしかできない対象ではないでしょうか?
    >
    > いや、たぶん、ほかの論点から抱いている先入見で、分からなくなっているだけじゃないかと思います。
    > というのも、先入見なく普通に読めば、ほぼ学校国語読解レベルで明らかなはずだと思うんですよね。でもまあ、一応きちんと言いましょうか。

    以下、少し省略されているところを書き足します。

    T: 5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)
    T: 5.631 思考し表象する主体は存在しない。もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。
    T: 5.632 主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。
    T: 5.633 世界の中のどこに形而上学的主体が認められるのか。
    T:5.641 それゆえ、哲学において、非心理学的に「私」を論じうる意味は確かにある。「私」は、「世界は私の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。

    > これらを読むと,T:5. 641で「世界は私の世界である」に登場する哲学的「私」が形而上学的主体であり、世界の限界である、と言われていますよね。

    ここです、ここ!
    永井氏はともかくパニチェとザビビのふくろうさんの読解の違いとなる分岐点は。。。

    5.63以降は「私の世界」つまり形而上学的主体によって形成される世界と言語を写像と見なした「独我論的(私の言語)世界」について述べており、そこには形而上学的主体は属さないということを述べており、ここの「私」イコール形而上学的主体ではないということです。

    少し表現しにくいのですが形而上学的主体は世界に属さないから世界と言語を写像として捉えらる、写像理論たらしめる形而上学的主体ではあるが、言語世界には含まれない。含まれないが故に語りえない(この部分は〈私〉と共通します)。

    「私」は「5.6言語の限界が私の世界の限界を意味する」の「私」つまり万人が共有するところの語りうる「私」、一人称代名詞であるということです。加えて言うなら一人称代名詞である「私」は5.631で「私が見出した世界」という本に「私は〇〇である」と書くことができる、つまり語りうる対象です。言うまでもないですが、一人称代名詞である「私」と形而上学的主体は全く別個のものということではなく、日常的には語りえない形而上学的主体は語りうる一人称代名詞である「私」を纏っています。5.631の手法によって世界に属さなない形而上学的主体が示さる(語りえないが示すことはできる)対象であるということです。

    > で、この「世界の限界」はT:5.632にも登場しているし、「形而上学的主体」はT:633にも登場しているけど、この二つの命題は、T:5.63の注釈なのだから、「私は私の世界である」の「私」でもあることは間違いないでしょう?

    T:5.63の注釈として「私の世界」について述べているということです。
    で、「私の世界(私の言語の限界が私の世界の限界を意味するところの世界)」には形而上学的主体は含まれない、と。

    ちなみに5.621は5.62の、5.62は5.61の、5.61は5.6の註釈あるいは集合です。
    5.61は「我々」という一人称複数代名詞で5.62から5.621へ導きます。

    > そうすると,この「私」についても,「哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。」と言っていることになるわけだから,この「私」は人間ではない,すなわち,ふくろうやパニチェではない,ってことになります。かつ,形而上学的主体であるとはっきり言っています。
    > とすると、
    > T: 5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)
    > T: 5.641 世界は私の世界である
    > は、まさに形而上学的主体について述べている命題ということになります。
    > よって、これら形而上学的命題である。
    > Q.E.D
    > って大げさだけどさ(笑)。

    大げさとは思いませんが(笑)、上記の理由で形而上学的主体が「私の世界」には含まれないが故に語りえないということを述べている命題です。

    > ってことで、この「私」が、永井の言うような(また、パニチェさんの言うような)、世界内の人間主観一般について成り立つ、一般的自我を意味していない、ってことなんですよ。
    > もちろん、パニチェさんが一般的自我についての議論であるという帰結を導いている写像理論云々の話も分かった上で言っているんです。
    > これは、一言で言うと、示される真理と、語られる真理の区別がついていないということです。
    > 上の形而上学的命題は、アプリオリな形而上学的真理(示される真理)を述べた超越論的命題です。

    パニチェはパニチェとザビビのふくろうさんの読みの違いを認識していますが、ザビビのふくろうさんはザビビのふくろうさんとパニチェの読みの違いに気付いていないということだと思います。

    > 人間主観に一般に成り立つ一般的経験的真理(語られる真理)を語る命題ではないのです。

    写像理論を前提とした形而上学的主体は人間主観一般に成り立たない命題ではなく、普遍的な命題として、少なくともウィトゲンシュタインはこの時点では書いています。
    一般的に成り立たないとすれば、どのような人に如何に成り立つのでしょうか?
    写像理論は語りうる、語りえないのは写像理論たらしめている形而上学的主体のことです。

    > この点について、あんまりプロもわかっていないようなのが意外なんですよね(『論理哲学論考を読む』の341頁注41を見ると、野矢先生も「たしかに、5.6番台の後半は、一般的自我についての議論である」と言っている)。

    私は上記に同意します。

    > この点を正しく理解していると思われるのは、再度復習して調べないと確たることは言えませんが,今現在私の分かる限りでは帝京大の米澤克夫先生(ハッカーの『洞察と幻想』の訳者)だけです(参照:米澤克夫『ウィトゲンシュタインの独我論』(「帝京大学文学部紀要教育学27,184頁参照)。

    興味はありますね。

    > *******************
    > たぶん、説明はこれだけだと不十分だと思いますが、上で述べたように、細かくやるより、『ウィトゲンシュタイン入門』をベースにして、永井批判としてまとめて書いたほうがわかりやすいかもとも思うので、意見をもらえますか?

    途中にチョコチョコ口を挟みました。
    これについての意見をいただければと思います。

    No19826に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > ちなみに、『ウィトゲンシュタイン入門』の83頁で、次のように言っています。
    > 「たとえば彼が「この言語(それだけを私が理解する言語)」と書くとき、それは「その言語(それだけをその人が理解する言語)」のことを言っているのではない。
    > このとき、永井が想定している(ウィトゲンシュタインの真意としての)「この言語」とは、私がNo19693で述べた、「純粋私的言語」のことだと思うのですが、どう思いますか?

    ザビビのふくろうさんの指摘通り、永井氏がここで想定しているのは文脈からして私的言語でしょうね。
    パニチェは『論考』では私的言語は無関係だと考えています。
    「5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」ところの言語だと思っています。

引用返信/返信 削除キー/
■19826 / inTopicNo.74)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/11(Sat) 12:20:36)
    パニチェさん

    ちなみに、『ウィトゲンシュタイン入門』の83頁で、次のように言っています。

    「たとえば彼が「この言語(それだけを私が理解する言語)」と書くとき、それは「その言語(それだけをその人が理解する言語)」のことを言っているのではない。

    このとき、永井が想定している(ウィトゲンシュタインの真意としての)「この言語」とは、私がNo19693で述べた、「純粋私的言語」のことだと思うのですが、どう思いますか?

引用返信/返信 削除キー/
■19824 / inTopicNo.75)  Re[15]: 前期独我論>パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/11(Sat) 11:49:28)
    パニチェさん,こんにちは。
    レスをありがとうございます。

    >先の草稿の冒頭『私はこう言おう。「正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。(ウィトゲンシュタイン全集6「個人的経験」および「感覚与件」について P.323より)』の「何か」がザビビのふくろうさんにとって独我論のことを述べているということでしょうか?
    >もし、そうであるなら、ザビビのふくろうさんの言うところの独我論というのが私には分からなくなります。
    >ここのところを説明してもらえると有難いです。

    若干、質問の意図がつかみにくい気がしているので、答えが的外れになったらすみません。とりあえず、回答します。
    その「何か」とは、
    「それこそが私を比類なき存在たらしめているところのものであり、私だけが知り得、他者には知ることも思考することもできないもの。
    これこそが真に存在するもの、現実(リアル)であるもの。」
    のことです。
    したがって、その「何か」が独我論のことを述べているというより、このような何かがある比類のない私の世界こそ/だけが世界(真に存在するもの、現実(リアル))なのだ、と主張することが独我論である、と言ったほうがいいんじゃないでしょうか。
    私の見方では、このこと独我について、例の対話のパロディーで示したように、少なくとも二つの立場があると――文法的・形式的独我と、永井の偶然的独我〈私〉――という感じです。
    ざーっと書いたので、ちょっと、正確な言い方か自信は少しありませんが。
    ******************************
    >「読める」というのは、「ウィトゲンシュタインの真意、意図がそうであると読める」ということです。

    この件ですけど,この点に関して、永井は次のように言っていますね。

    『論考』の独我論は一般的自我(誰もが主体のあり方としてはそれであるような自我)の独我論にすぎない。少なくとも、そう読まれざるをえない。(『ウィトゲンシュタイン入門』 83頁)

    しかし,永井はその前に,それはウィトゲンシュタインの真意ではない,というような意味のことを言っていますよね(同書,81〜82頁)。真意とは次であるとも。

    「自我は,すでに形式によって満たされた世界の限界をなすことによって,それにいわば実質を,もっと強くいえば存在を,付与するのである。」

    これは明らかに,永井の言う〈私〉です。
    つまり,永井は『論考』の言う哲学的「私」の真意は〈私〉であるが,それは一般的自我として読まれざるをえない,と言っているわけです。

    で,確認したいのですが,この永井の解釈と,パニチェさんの解釈は異なる,ということでしょうか?
    それとも,この永井の考えと、パニチェさんも同じだとみていいんでしょうか?
    というか、確認したいんですが、より一般的に言って、パニチェさんの『論考』解釈は、永井の解釈と同じとみなしてよいのでしょうかね?
    もしそう(あるいは、少なくとも基本的に一致している、近い)なら、永井の考えについてはここのところ復習したので、ポイントを絞ってある程度まとまった批判が書けると思います。
    そこでのポイントが、たぶんパニチェさんにとっても知りたいポイントなのではないかと今のところ思われるんですよね。(『論考』の「私」は一般的自我ではないのか?)
    下でこのポイントについて少し書きますが、たぶん十分にはなりません。
    永井の『ウィトゲンシュタイン入門』をもとにして、ウィトゲンシュタイン解釈批判を書いた後で、それに対して、パニチェさんの意見を聞いたほうが早いかも、とも思います。
    あと,二―クラには『ウィトゲンシュタイン入門』を持っている人が他にもいらっしゃるみたいなので,ロムしている人にもそのほうが分かりやすいのではないかと思うのですが、どうでしょうかね?
    *****************
    >>A 「私は私の世界である」を、普通の一人称代名詞にとるということは、この「私」は、「ザビビのふくろう」や、「パニチェ」といった固有名に置換可能な語であるということになりますよね。
    > そうすると、この命題は、実在世界の中に存在するザビビのふくろうやパニチェその他、人間主体一般に成り立つ経験的真理を語る命題になるのではありませんか。つまり、形而上学的(超越論的)命題ではないということになりませんか。
    >>ここが少し私とは異なります。「私は私の世界である」が何故「形而上学的(超越論的)命題」となるのでしょうか?
    >>私にはよく分かりません。『論考』において形而上学的とされるのは世界に属さないが故に語りえない、指し示すことしかできない対象ではないでしょうか?

    いや、たぶん、ほかの論点から抱いている先入見で、分からなくなっているだけじゃないかと思います。
    というのも、先入見なく普通に読めば、ほぼ学校国語読解レベルで明らかなはずだと思うんですよね。でもまあ、一応きちんと言いましょうか。

    T: 5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)
    T: 5.632 主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。
    T: 5.633 世界の中のどこに形而上学的主体が認められるのか。
    T:5.641 それゆえ、哲学において、非心理学的に「私」を論じうる意味は確かにある。「私」は、「世界は私の世界である」ということをとおして、哲学に入りこむ。哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。

    これらを読むと,T:5. 641で「世界は私の世界である」に登場する哲学的「私」が形而上学的主体であり、世界の限界である、と言われていますよね。
    で、この「世界の限界」はT:5.632にも登場しているし、「形而上学的主体」はT:633にも登場しているけど、この二つの命題は、T:5.63の注釈なのだから、「私は私の世界である」の「私」でもあることは間違いないでしょう?
    そうすると,この「私」についても,「哲学的な「私」とは、人間ではなく、人間の身体でもなく、心理学が扱う人間の心でもなく、形而上学的な主体であり、世界の一部分ではなく、限界である。」と言っていることになるわけだから,この「私」は人間ではない,すなわち,ふくろうやパニチェではない,ってことになります。かつ,形而上学的主体であるとはっきり言っています。
    とすると、
    T: 5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)
    T: 5.641 世界は私の世界である
    は、まさに形而上学的主体について述べている命題ということになります。
    よって、これら形而上学的命題である。
    Q.E.D
    って大げさだけどさ(笑)。

    ってことで、この「私」が、永井の言うような(また、パニチェさんの言うような)、世界内の人間主観一般について成り立つ、一般的自我を意味していない、ってことなんですよ。
    もちろん、パニチェさんが一般的自我についての議論であるという帰結を導いている写像理論云々の話も分かった上で言っているんです。
    これは、一言で言うと、示される真理と、語られる真理の区別がついていないということです。
    上の形而上学的命題は、アプリオリな形而上学的真理(示される真理)を述べた超越論的命題です。
    人間主観に一般に成り立つ一般的経験的真理(語られる真理)を語る命題ではないのです。
    この点について、あんまりプロもわかっていないようなのが意外なんですよね(『論理哲学論考を読む』の341頁注41を見ると、野矢先生も「たしかに、5.6番台の後半は、一般的自我についての議論である」と言っている)。
    この点を正しく理解していると思われるのは、再度復習して調べないと確たることは言えませんが,今現在私の分かる限りでは帝京大の米澤克夫先生(ハッカーの『洞察と幻想』の訳者)だけです(参照:米澤克夫『ウィトゲンシュタインの独我論』(「帝京大学文学部紀要教育学27,184頁参照)。
    *******************
    たぶん、説明はこれだけだと不十分だと思いますが、上で述べたように、細かくやるより、『ウィトゲンシュタイン入門』をベースにして、永井批判としてまとめて書いたほうがわかりやすいかもとも思うので、意見をもらえますか?

引用返信/返信 削除キー/
■19818 / inTopicNo.76)  We're All Alone
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/11(Sat) 09:32:23)
    『論考』の独我論は誰にとっても生は孤独であるということ云々をカキコしてた時にふっと我らが青春時代に流行ったボズ・スキャッグスの名曲“We're All Alone”が頭に浮かんだ。

    このタイトルは二義的で「僕たちは二人っきり」と「みんなひとりぼっち」だと当時も今も思っている。

    歌詞はおそらくもうこの世にいない彼からの彼女に対するメッセージのように思えるんだけど、どうなんやろ。。。。

    https://www.youtube.com/watch?v=Tsg1R-9QSkg

引用返信/返信 削除キー/
■19783 / inTopicNo.77)  前期独我論>ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/09(Thu) 21:55:08)
    2021/12/10(Fri) 22:25:50 編集(投稿者)

    こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No19777に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > ・・・独我論批判は、このひとつの系とみなすことができると思います。
    > というのも、独我論はこの私的言語観をその根拠としているからです。
    > 例の対話は、独我論を語るとき、理解されたら打ち消すという果てしなき運動に必然的に入っていかざるをえないことを示し、独我論の本質が私的言語観にあることとして、照準を正確に見定めようとするものでしょう(独我論の語りはけして他人に理解されてはならない)。
    > それが、(ある種の)独我論者である永井やパニチェさんには、逆に、〈私〉の純化に見えるのではないかと思います。
    > というか、独我論の本質を際立たせようとする対話であるから、その意味ではいずれにしても「純化」というのは正しいと言えるかもしれませんけどね。
    > 私と永井やあなたとの違いは、ウィトゲンシュタインが、それを批判するため、完全否定するために(その準備作業として)行ったと私が解釈しているところでしょう。

    省略した箇所も含め総論同意ですが各論に同意できないといったところです。
    先の草稿の冒頭『私はこう言おう。「正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。(ウィトゲンシュタイン全集6「個人的経験」および「感覚与件」について P.323より)』の「何か」がザビビのふくろうさんにとって独我論のことを述べているということでしょうか?
    もし、そうであるなら、ザビビのふくろうさんの言うところの独我論というのが私には分からなくなります。
    ここのところを説明してもらえると有難いです。

    > *****************************
    > >上記の通り、『論考』では誰にとっても共通する独我論を示しているわけで、そういう文脈からすれば「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」の「私」は普通の一人称代名詞と読めるということです。
    > >『論考』の時点ではウィトゲンシュタインは主体を純化していない。
    > >世界に属さない主体として大雑把に一括りにしています。
    > >おそらく形而上学的主体がさらに純化していくのは先の草稿(「個人的経験」および「感覚与件」)あたりからだと思われます。

    > この解釈について、疑念を質問として述べます。
    > @ >上記の通り、『論考』では誰にとっても共通する独我論を示しているわけで、そういう文脈からすれば「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」の「私」は普通の一人称代名詞と読めるということです。
    > この「読める」というのは、「ウィトゲンシュタインの真意、意図がそうであると読める」ということですか?それとも、彼の真意は違うだろうけど、そのように読もうと思ったら読むことも可能だ、ということですか。後者だとすると、意図的に誤読(歪曲)することになりませんか?

    「読める」というのは、「ウィトゲンシュタインの真意、意図がそうであると読める」ということです。
    「5.6私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」続いて「5.61従って我々は論理において・・・我々が考えることのできないことを、我々は考えることができない。従って我々が考えることができないことを。我々は語ることもできない」とあります。5.61では一人称単数代名詞ではなく一人称複数代名詞になっています。この意味をザビビのふくろうさんはどのように捉えますか?

    「5.63私は私の世界である」は誰にとっても「言語の限界が世界の限界を意味し」「考えることができないことを語ることもできない」という写像理論を前提とした言明であり、写像理論は普遍的なものではあるが、世界は個々人の「生(5.62世界と生は一つである)」に閉じた独我論であると考えます。
    追記補足:言うまでもなく「我々は我々の世界である」では独我論にすらならないですから、こちらは一人称単数代名詞になるということです。

    > A 「私は私の世界である」を、普通の一人称代名詞にとるということは、この「私」は、「ザビビのふくろう」や、「パニチェ」といった固有名に置換可能な語であるということになりますよね。
    > そうすると、この命題は、実在世界の中に存在するザビビのふくろうやパニチェその他、人間主体一般に成り立つ経験的真理を語る命題になるのではありませんか。つまり、形而上学的(超越論的)命題ではないということになりませんか。

    ここが少し私とは異なります。「私は私の世界である」が何故「形而上学的(超越論的)命題」となるのでしょうか?
    私にはよく分かりません。『論考』において形而上学的とされるのは世界に属さないが故に語りえない、指し示すことしかできない対象ではないでしょうか?

    > B また、そうすると、ザビビのふくろうにとってのミクロコスモス、パニチェにとってのミクロコスモス、…が乱立し、複数の独我論的世界が存在することになってしまい、自己論駁的になるのではないでしょうか?なぜこのようなものが正しいと言えるのでしょうか?ウィトゲンシュタインは、このような独我論を正しいと言ったのでしょうか?もし、そうではないのであれば、やはり「私」は、普通の一人称代名詞ではないのではないでしょうか?

    『論考』での独我論はあくまでも世界と言語を写像とした前提に成立します。
    で、写像が普遍的なものとする限り、『論考』での独我論は批判的に言えば似非独我論、好意的に言えば個々人の生に閉じた絶対的孤独な我々のことだと思います。

    > C また、Aのように解釈された場合、この私の世界(ミクロコスモス)が、いったいいかにして実在世界(マクロコスモス)と一致するのでしょうか?

    それぞれの生において実在世界は私の世界として、また私の言語となりえます。

    > D 「私」を普通の一人称代名詞として解釈することは、以上@〜Cのような疑念が普通に生じると思うのですが、どうでしょうか?独我論の言わんとすることは正しい。しかし、それは語られず示される。純粋な独我論は実在論と一致する。という『論考』の主張と整合するとは思えないのですが、どう思いますか?

    ここまでのレスで上記のレスにも回答したことになると私は思っていますが、もし腑に落ちないところがあれば指摘下さい。

    > ****************
    > もう何度も断る必要ないけど、
    > レスは書けるときでいいのでゆっくりどうぞ。

    ありがとうございます、お互いリアル優先で行きましょう。^^

引用返信/返信 削除キー/
■19780 / inTopicNo.78)  Re: 底なし沼探査レポ(/・ω・)/ その四
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/09(Thu) 20:34:22)
    勝手ながら貴重なウィトゲンシュタインに関する投稿なのでこちらで返信させてもらいます。

    No19763に返信(うましかさんの記事)
    > パニチェさん、私の不味い感想文を評価していただいてありがとうございました。

    こちらこそ久しぶりに本でも買って確認してみようと思わせる程の刺激的なレスでした。
    返信は年明けになるかもしれませんが、よろしくお願いします。
    それにしても何で第五巻だけが飛びぬけて高いんでしょうかねぇ〜(笑)

    > 私も、No.19691でパニチェさんが引用してくださった『「個人的経験」および「感覚与件」について』(全集6に所収)をみていますが、目にとまった文章を引用してみます。(カント沼で疲れた頭の再起動には好い?刺激 (゚Д゚;))

    *******

    >「彼が自分が何を見ているのか、我々に教えてくれるだろう」、と我々が言うのは、彼は、我々が彼に教えたことのない言語を使う[ことができる]だろうというように聞こえる。
    > また、[彼がそれを教えてくれれば、]我々がこれまで外側からだけしか見ることができなかった何かの内観(インサイト)が得られる、というように聞こえる。
    > 内側と外側 ! <
    > →『「個人的経験」および「感覚与件」について』、大森荘蔵訳、全集6、p.314

    >何を自分が見ているのかを人に告げるのは、自分の内側を外にひっくり返すようなことであるのか。そして、何を自分が見ているのかを言う言い方を習うのは、他人に自分の内側を見させることを習うことであるのか。
    > 「我々は彼に、彼が見ているものを我々に見させることを教える。」[こう言うのは、]彼は、自分の見ている対象=A自分の心眼の前にある対象を間接的な仕方で我々に見せているように思っている[からなのだ]。「我々はそれを[直接]見ることはできない。それは彼の内部にあるのだから。」
    > 視覚の私的対象の観念。見え、感覚与件。
    > 感覚与件の私的性格(プライバシー)の観念はどこから[生じたのか]。<
    > →同書、p.315

    > *******

    > 「独我論」Solipsismusと、「個人的経験」あるいは「感覚与件」とはどう関係しているのだろう(;´・ω・)。
    > ウィトゲンシュタインは上の引用で内側と外側という対になる概念をもちいていますが、これはさしあたり「(個人的)経験」を語る自分の内側と、その外側という意味で使用しているようにもおもえます。
    > 経験とはすぐれて自分の(個人的)経験である、とするならば、それを自分の外側に、まさに「自分の内側を外にひっくり返す」ことで、自分の内面世界が全てを包み込むことになる、、、とはあまりにも独我論者風でしょうか。

    > こんな言葉を思い出しました。
    > 「建物は外に向かっては沈黙を守り、これに対して内部においては豊饒な世界が展開するようにしたい。」(アドルフ・ロース『装飾と犯罪』「郷土芸術について」(1914年)、p.152)

    > (;´・ω・)。。。沈  黙  

    うましかさんの読解もさすがですね。
    ちなみに私は上記の草稿は後期の真正独我論へ続く私秘性や私的言語の源流のように解釈しています。

引用返信/返信 削除キー/
■19777 / inTopicNo.79)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/09(Thu) 19:39:23)
    2021/12/09(Thu) 20:38:21 編集(投稿者)

    パニチェさん、こんばんは。
    レスをどうも。

    >当初のレスの段階では〈私〉という表記も、この表記によって何を示しているのかもザビビのふくろうさんは理解していないと思ってました。
    >私の想像ではおそらく再度読み直されたのかなと思い、No19696でレスした通り「真摯な取り組み」をされているなという印象を持ちました。

    私の理解を認めてもらえたみたいだし、正直な気持ちということで、とりあえずあーだこーだと蒸し返すのはやめておきましょう。
    が、一応哲ヲタの矜持として一言言わせてもらうと、哲学の議論において、私は根拠なくいい加減なことを言ったことは一度もないつもりです。もちろん、意図せざる間違いはあるかもしれませんけどね^^
    ******************
    > >私の読解は上記をNがWで、Wがザビビのふくろうさんだと考えておりますが。。。。^^
    > NがWってのはないと思うけど、まあ、いいや。
    >>これ結構パニチェ的には重要なところです。上記は後期の言語ゲームにも続く草稿。
    >>ザビビのふくろうさんの読解については鋭いと思います。
    >>ザビビのふくろうさんの読解通りだとして、これを書いたのはウィトゲンシュタインであって、ここには永井氏はいない。
    >>にもかかわらず「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」みたいな文言を残している。
    >>ここでウィトゲンシュタインは何を言いたかったか、あるいは訴えたかったとザビビのふくろうさんは考えていますか?

    ウィトゲンシュタインの哲学を一言で「言語哲学」と特徴づけることは、おおざっぱではあっても本質を捉えていると言ってもいいでしょう。
    その前提で言うと、言語哲学者ウィトゲンシュタインにとって、前中後期を通して、中心的大問題であったことのひとつは「言葉の意味とは何か?」「言葉の意味を理解するとはどのようなことか?」というものでした。
    とりわけ、『論考』が採用し、中後期を通して批判の対象としたのは、「言葉の意味とは、当の言語主体の私的感覚(感覚与件etc.)、個人的(内的)経験である」とする考えでした(以下、ラフな説明ご容赦)。
    たとえば、「赤」という語は、私が思い浮かべる赤い色を意味しているし、私が発話する「私の痛み」は私だけが感じるこの痛みを指す。
    したがって、「言葉の意味を理解する」とは、言葉が意味している私的感覚が何かということを把握する、その心的過程である、ということになります。
    これは言語とは本質的に私的言語(私の言語)である、とする考え(以後「私的言語観」と呼ぶ)です。
    なので、ウィトゲンシュタイン哲学の中後期を通して、この私的言語観を批判するというのが中心的課題であったと言えるわけです。

    独我論批判は、このひとつの系とみなすことができると思います。
    というのも、独我論はこの私的言語観をその根拠としているからです。
    例の対話は、独我論を語るとき、理解されたら打ち消すという果てしなき運動に必然的に入っていかざるをえないことを示し、独我論の本質が私的言語観にあることとして、照準を正確に見定めようとするものでしょう(独我論の語りはけして他人に理解されてはならない)。
    それが、(ある種の)独我論者である永井やパニチェさんには、逆に、〈私〉の純化に見えるのではないかと思います。
    というか、独我論の本質を際立たせようとする対話であるから、その意味ではいずれにしても「純化」というのは正しいと言えるかもしれませんけどね。
    私と永井やあなたとの違いは、ウィトゲンシュタインが、それを批判するため、完全否定するために(その準備作業として)行ったと私が解釈しているところでしょう。

    *****************************
    >上記の通り、『論考』では誰にとっても共通する独我論を示しているわけで、そういう文脈からすれば「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」の「私」は普通の一人称代名詞と読めるということです。
    >『論考』の時点ではウィトゲンシュタインは主体を純化していない。
    >世界に属さない主体として大雑把に一括りにしています。
    >おそらく形而上学的主体がさらに純化していくのは先の草稿(「個人的経験」および「感覚与件」)あたりからだと思われます。

    この解釈について、疑念を質問として述べます。

    @ >上記の通り、『論考』では誰にとっても共通する独我論を示しているわけで、そういう文脈からすれば「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」の「私」は普通の一人称代名詞と読めるということです。

    この「読める」というのは、「ウィトゲンシュタインの真意、意図がそうであると読める」ということですか?それとも、彼の真意は違うだろうけど、そのように読もうと思ったら読むことも可能だ、ということですか。後者だとすると、意図的に誤読(歪曲)することになりませんか?

    A 「私は私の世界である」を、普通の一人称代名詞にとるということは、この「私」は、「ザビビのふくろう」や、「パニチェ」といった固有名に置換可能な語であるということになりますよね。
    そうすると、この命題は、実在世界の中に存在するザビビのふくろうやパニチェその他、人間主体一般に成り立つ経験的真理を語る命題になるのではありませんか。つまり、形而上学的(超越論的)命題ではないということになりませんか。
    仮にそうだとすれば、この文を、「語る文」と解釈することであり、したがって、この文が独我論を意味しているとすれば、それは「語られる独我論」ということになりませんか?

    B また、そうすると、ザビビのふくろうにとってのミクロコスモス、パニチェにとってのミクロコスモス、…が乱立し、複数の独我論的世界が存在することになってしまい、自己論駁的になるのではないでしょうか?なぜこのようなものが正しいと言えるのでしょうか?ウィトゲンシュタインは、このような独我論を正しいと言ったのでしょうか?もし、そうではないのであれば、やはり「私」は、普通の一人称代名詞ではないのではないでしょうか?

    C また、Aのように解釈された場合、この私の世界(ミクロコスモス)が、いったいいかにして実在世界(マクロコスモス)と一致するのでしょうか?

    D 「私」を普通の一人称代名詞として解釈することは、以上@〜Cのような疑念が普通に生じると思うのですが、どうでしょうか?独我論の言わんとすることは正しい。しかし、それは語られず示される。純粋な独我論は実在論と一致する。という『論考』の主張と整合するとは思えないのですが、どう思いますか?

    ****************
    もう何度も断る必要ないけど、
    レスは書けるときでいいのでゆっくりどうぞ。

引用返信/返信 削除キー/
■19760 / inTopicNo.80)  形而上学的主体と〈私〉の差異について
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/08(Wed) 20:52:48)
    2021/12/09(Thu) 07:31:32 編集(投稿者)

    こんばんは、ザビビのふくろうさん。
    遅くなりましたが、時間ができましたので返信しておきます。
    読み返してみると質問と回答がずれているところもありますが、主張したいとこも含んでいるので、このままレスします。

    No19714に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    『私はこう言おう。「正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。──だが、その私とは誰だ。──くそっ。私の言い方はまずいがそこに何かがあるんだ!君だって私の個人的な経験というものがあり、またそれには最も重要な意味での隣人というものがないことを否定すまい。──だが君はそれがたまたま孤独だと言うつもりではないだろう。君の言いたいのはその何かの文法上の位置が隣人のない場所にあるということだろう。「しかしどうしたわけか我々の言語には、そこに他と比べることのできない何か、すなわち真に現前している経験、があるということがあらわれてはこないのだ。私はそのことに甘んずるべきだと君は言いたいのか。」(おかしいことに、日常生活で日常言語を使っていて何かに甘んじなければならないと我々が感じることはまったくない。)ウィトゲンシュタイン全集6「個人的経験」および「感覚与件」について P.323より』

    > >私の読解は上記をNがWで、Wがザビビのふくろうさんだと考えておりますが。。。。^^
    > NがWってのはないと思うけど、まあ、いいや。

    これ結構パニチェ的には重要なところです。上記は後期の言語ゲームにも続く草稿。
    ザビビのふくろうさんの読解については鋭いと思います。
    ザビビのふくろうさんの読解通りだとして、これを書いたのはウィトゲンシュタインであって、ここには永井氏はいない。
    にもかかわらず「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」みたいな文言を残している。
    ここでウィトゲンシュタインは何を言いたかったか、あるいは訴えたかったとザビビのふくろうさんは考えていますか?

    > >上記は永井均氏が言うところの言語表現したために必然的に陥る「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」を表しています。

    > そうですね。
    > このことについて,もう少し私の理解を示しておきます。
    > 『独在性の意味(二)』という論文でも永井は入不二さんの言う「単独性」と自分の「独在性」との違いとして次のように述べています。

    > ここで入不二は,入不二の「単独性」と永井の「独在性」とを区別せずに論じている。しかし,独在性」の〈私〉は,まさにそのような個体性・形式性としての「私」の中に擦り込まれてしまうことの否定としてのみ,在る。独在性を指示する「ずれの運動」は,変質という動きの中に常に既に読み込まれてしまうほかないものからの,絶えざる離反・逸脱の方向性こそを,指示している。〈私〉とは,「私」の用法をめぐる議論において生起するあらゆる問題からの違背を示す記法なのである。そして,それがなぜそのような否定によってしか示されえない場所にあるのかは,究極的には謎であるし,謎でしかありえない。(『〈私〉の存在の比類なさ』196、197頁)

    > つまり,永井の言う独在の〈私〉は,それについて言語表現される限り必ず異なった意味に変質して読み込まれざるをえないものであり,その形式化(必然化)・一般化に対する拒絶・否定の方向への絶えざる差異化の運動としてしか指示しえない。
    > これがいわば〈私〉の独在性の意味であるということ。

    > 今述べたことが,〈私〉の独在性の意味の一つの核を成すということはいいですよね?

    はい。

    > 先のレスと合わせて,一応私は,いわば永井均作曲の楽曲『〈私〉』の楽譜をもとに,自分なりの演奏を提示したつもりです。
    > つまり,単なる楽譜のコピペでもなければ,他のプレイヤーによる演奏の録音を提示したわけでもありません。あくまで自分の解釈で,自身で演奏したものです。
    > これで私が、多少は永井哲学を理解しているということは認めてもらえましたかね?

    はい、認めます、認めた上で、正直言いますね。
    当初のレスの段階では〈私〉という表記も、この表記によって何を示しているのかもザビビのふくろうさんは理解していないと思ってました。
    私の想像ではおそらく再度読み直されたのかなと思い、No19696でレスした通り「真摯な取り組み」をされているなという印象を持ちました。

    > ******************
    > No19694
    > 『論考』の独我論的主体を「《私》」として、
    > 永井独在論の「〈私〉」とすると、
    > これらの異同の問題ですよね?
    > パニチェさんの考えを説明してもらえますか?
    > 例えば、どこがどう重なり、どこが違うかなど。

    共通するところは世界に属さない(5.631)、語りえないというところです。

    違うところは。。。。
    写像理論というのは例えばウィトゲンシュタインとか特定の人にとっての言語論ではありません。
    他国の言語も含めて言語を写像として(この時点では)説明している。
    で、この写像に含まれることは世界に属するということでもあり、写像として表すことができない、つまり世界に属さないものは語りえないとしている。
    そういう意味で世界に属さない主体を形而上的主体とか哲学的自我と呼んでいるわけですが、これは写像理論が正しいとするなら万人に共通する主体であるわけです。
    補足するなら『論考』での「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」も(写像理論が正しいなら)誰にとっても独我論であるということ
    ここのところが形而上学的主体は「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に陥るような主体ではないということです。

    > >>ちなみに独我論を象徴する「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」の「私」は普通の一人称代名詞と読みますか、それとも形而上学的主体と読みますか?
    >>「普通の一人称代名詞」を固有名に置換可能なものだとしたら、この場合置換不可能だから、
    >>もちろん意味的には、「形而上学的主体」であり、「独我論的主体」です。
    >>ただ、少し詳しく言うと、「私」という語を用いている限り、やっぱり文法的には一人称代名詞ともいえるわけじゃないですか?
    >>だけど、文脈に応じてその意味は異なるわけで、T:5.63の場合は、独我論的主体を意味する、ってことです。

    > >>なるほど。やはり、ここですね。
    > >>ザビビのふくろうさんとパニチェの論考読解の分岐点は。
    > ここも、パニチェさんの読解と、その根拠を説明してもらえますか?

    上記の通り、『論考』では誰にとっても共通する独我論を示しているわけで、そういう文脈からすれば「5.63 私いは私の世界である。(ミクロコスモス。)」の「私」は普通の一人称代名詞と読めるということです。
    『論考』の時点ではウィトゲンシュタインは主体を純化していない。
    世界に属さない主体として[5.631]では浮き上がらせていますが大雑把に一括りにしています。
    おそらく形而上学的主体がさらに純化していくのは先の草稿(「個人的経験」および「感覚与件」)あたりからだと思われます。

    先の草稿のパニチェ的読解の結論だけ言うと「言語ゲームの網の目にもかからない(日常会話では何の不便もないが語りえない)主体が存在する」ということです。

    世界と言語を写像たらしめている主体は『論考』で言うところの形而上学的主体ですが、永井均氏の提示する〈私〉はそのような意味や価値付けは行いません。
    この点だけで言えば西田哲学の「純粋経験」に近い主体です。
    永井均氏も『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU』で「〈私〉は存在だけしていて、開けですから見る力のようなものはありますが、動機になるような意味づける力は何もないんですね。(P.175)」と述べています。

引用返信/返信 削除キー/
■19733 / inTopicNo.81)  NO TITLE
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/07(Tue) 20:53:02)
    つぶやきトピ「ドゥーシウムクトゥー」18をウィトゲンシュタイントピに変更する

    ザビビのふくろうさんへの返信はこのトピにてレスします。

    PS.うましかさん、凄いレスをありがとうございます!
    以下のレスへの返信は全集5巻を読了してからの宿題にします。
    読むとしたら年末年始かな。。。

    ******************************************

    No19720に返信(うましかさんの記事)
    > パニチェさん、こんばんはー

    > No.19704 (パニチェさん)

    > >>私の場合は印象に過ぎないのですが、形而上学的な主体というのはあくまでも彼のその時の哲学的探求における要請として出てきた観念であって、当の哲学(『論考』)の一部が崩壊してしまった?以上、御本体を「獄舎」(『倫理学講話』全集5、p.394参照)の中に置き去りにし、何処かに霧散してしまったんじゃないかと。<<
    > → うましか No.19701より

    > >はい。霧散してしまったという解釈も十分あると思います。全集5、p.394参照を引用してもらえると有難いです。お手間ならスルーしてもらってもいっこうに構いません。<

    > *******

    > 実は今日、パニチェさんが、ウィトゲンシュタイン全集の「1・6・8・9巻の4冊」をお持ちだという情報をいただいたことをおもいだして、あーこれは5巻(「ウィトゲンシュタインとウィーン学団」・『倫理学講話』を所収)をおすすめしたほうがよいのかなーとボンヤリ考えていました(;´・ω・)

    > ほんとうは下の引用より前のp.393の最後あたりから読むといいのだけど、p.394の該当箇所だけを引用してみます。

    > なお注意したいのは『論考』(1918年脱稿)が思考されたものの表現、つまり言語に限界設定することを目的に、主に有意義な命題について考察したのに対し、『倫講』(1929年)は倫理的ないしは宗教的言明(価値言明)について批判的に考察しているという点です。

    > 興味深いことに『倫講』の彼の主張はそれらの言明について、いわばその無意義さゆえの意義を認めるというものでした。しかも彼がそうした言語表現をすることによってしたいことは、「ただ、世界を越えてゆくこと=v「有意義な言語を超えてゆくこと」なのだと。

    > にもかかわらず、『倫講』の結論部分でウィトゲンシュタインは次のように言います。

    > >私の全傾向、そして私の信ずる所では、およそ倫理とか宗教について書きあるいは語ろうとしたすべての人の傾向は、言語の限界にさからって進むということでありました。このようにわれわれの獄舎の壁にさからって走るということは、まったく、そして絶対に望みのないことであります。<
    > →『倫理学講話』(全集5)、杖下隆英訳、p.394

    > さて、『論考』の「形而上学的な主体」という言葉の出自は1916年の日記草稿にあるのではないかとおもいますが、この頃のウィトゲンシュタインの思索には、それ以前の記述とは異なり倫理的な主題が頻出します。後に「倫理の担い手」とされる意志は「完成したものとしての世界に、全く外側から近づく」のだと記されていますし、「永遠の相の下での」考察は、世界内の対象、「それらを外側から見る」ととも記されています。

    > まとめになっているかどうかわかりませんが、お腹が減ったのでまとめます(;´・ω・)
    > 『論考』では、そのベースとなる思索の発展過程で、限界づけられた「世界」を、その外側から見ることを可能とする「主体」を要請したのだとおもいますが、『倫講』では、その「主体」の本体について、言語という「獄舎」(つまり「世界」)に囚われているという何とも悲しい罪人像を描いたという点で区別できるかな、と。

    > 囚人が牢獄の檻から外を飛翔する自分を想像し、そこからの眺望(もちろん想像)に満足していたのに、一片の綻びがもとでそれを眺める自分もろとも全て(もちろん想像)が霧散してしまい、後に残るのはそこから出られるよう祈る自分だけだった、、、みたいな( ノД`)シクシク…

    > 以上は久しぶりに拾い読みしてパッチワークした粗く不味い解釈ですので、詳しい方々からはトンチンカンと笑われる代物であろうとおもいますが。。。

    > さあ、カント沼に戻らねば(;´・ω・)

引用返信/返信 削除キー/
■19719 / inTopicNo.82)  パニチェ氏へ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/06(Mon) 20:41:20)
    パニチェさん
    丁寧に、レスをありがとう。

    OKです。

    時間をゆっくりとって、自分で納得いくレスをください。

    私としてもそのほうがありがたいので。

    よろしくお願いします。


引用返信/返信 削除キー/
■19717 / inTopicNo.83)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/06(Mon) 19:59:28)
    2021/12/06(Mon) 20:17:14 編集(投稿者)

    レスありがとう!

    平日はあまり時間がないので今度の日曜までには返信します。

    読み直して確認したいところもあるし、私なりにちゃんと返信したいと思ってるから。

    取り急ぎ連絡まで。
引用返信/返信 削除キー/
■19714 / inTopicNo.84)  パニチェ氏へ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/06(Mon) 17:45:51)
    パニチェさん

    No19696
    >面白いというか、ある意味正鵠を射たパロディーですね。

    ありがとう。

    >私の読解は上記をNがWで、Wがザビビのふくろうさんだと考えておりますが。。。。^^

    NがWってのはないと思うけど、まあ、いいや。

    >上記は永井均氏が言うところの言語表現したために必然的に陥る「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」を表しています。

    そうですね。
    このことについて,もう少し私の理解を示しておきます。
    『独在性の意味(二)』という論文でも永井は入不二さんの言う「単独性」と自分の「独在性」との違いとして次のように述べています。

     ここで入不二は,入不二の「単独性」と永井の「独在性」とを区別せずに論じている。しかし,独在性」の〈私〉は,まさにそのような個体性・形式性としての「私」の中に擦り込まれてしまうことの否定としてのみ,在る。独在性を指示する「ずれの運動」は,変質という動きの中に常に既に読み込まれてしまうほかないものからの,絶えざる離反・逸脱の方向性こそを,指示している。〈私〉とは,「私」の用法をめぐる議論において生起するあらゆる問題からの違背を示す記法なのである。そして,それがなぜそのような否定によってしか示されえない場所にあるのかは,究極的には謎であるし,謎でしかありえない。(『〈私〉の存在の比類なさ』196、197頁)

    つまり,永井の言う独在の〈私〉は,それについて言語表現される限り必ず異なった意味に変質して読み込まれざるをえないものであり,その形式化(必然化)・一般化に対する拒絶・否定の方向への絶えざる差異化の運動としてしか指示しえない。
    これがいわば〈私〉の独在性の意味であるということ。

    今述べたことが,〈私〉の独在性の意味の一つの核を成すということはいいですよね?

    先のレスと合わせて,一応私は,いわば永井均作曲の楽曲『〈私〉』の楽譜をもとに,自分なりの演奏を提示したつもりです。
    つまり,単なる楽譜のコピペでもなければ,他のプレイヤーによる演奏の録音を提示したわけでもありません。あくまで自分の解釈で,自身で演奏したものです。
    これで私が、多少は永井哲学を理解しているということは認めてもらえましたかね?
    ******************
    No19694
    >>デカルトのコギトを観念論哲学に含めるかどうかは微妙ですが、それは横に置くとして。。。
    >>なるほど。上記の読解はパニチェ的にもしっくりきます。
    >>おそらく、ザビビのふくろうさんとのウィトゲンシュタイン読解で異なるところは〈私〉をウィトゲンシュタイン哲学で見るか見ないかでしょうね。

    『論考』の独我論的主体を「《私》」として、
    永井独在論の「〈私〉」とすると、
    これらの異同の問題ですよね?
    パニチェさんの考えを説明してもらえますか?
    例えば、どこがどう重なり、どこが違うかなど。

    >>ちなみに独我論を象徴する「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」の「私」は普通の一人称代名詞と読みますか、それとも形而上学的主体と読みますか?

    > 「普通の一人称代名詞」を固有名に置換可能なものだとしたら、この場合置換不可能だから、
    > もちろん意味的には、「形而上学的主体」であり、「独我論的主体」です。
    > ただ、少し詳しく言うと、「私」という語を用いている限り、やっぱり文法的には一人称代名詞ともいえるわけじゃないですか?
    > だけど、文脈に応じてその意味は異なるわけで、T:5.63の場合は、独我論的主体を意味する、ってことです。
    >>なるほど。やはり、ここですね。
    >>ザビビのふくろうさんとパニチェの論考読解の分岐点は。

    ここも、パニチェさんの読解と、その根拠を説明してもらえますか?

引用返信/返信 削除キー/

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