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■19962 / inTopicNo.49)  大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集5」
  
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/15(Wed) 20:25:41)
    2021/12/15(Wed) 22:36:02 編集(投稿者)

    No19720に返信(うましかさんの記事
    >> No.19704 (パニチェさん)

    >> 私の場合は印象に過ぎないのですが、形而上学的な主体というのはあくまでも彼のその時の哲学的探求における要請として出てきた観念であって、当の哲学(『論考』)の一部が崩壊してしまった?以上、御本体を「獄舎」(『倫理学講話』全集5、p.394参照)の中に置き去りにし、何処かに霧散してしまったんじゃないかと。<<

    → うましか No.19701より

    >>はい。霧散してしまったという解釈も十分あると思います。全集5、p.394参照を引用してもらえると有難いです。お手間ならスルーしてもらってもいっこうに構いません。<

    *******

    > 実は今日、パニチェさんが、ウィトゲンシュタイン全集の「1・6・8・9巻の4冊」をお持ちだという情報をいただいたことをおもいだして、あーこれは5巻(「ウィトゲンシュタインとウィーン学団」・『倫理学講話』を所収)をおすすめしたほうがよいのかなーとボンヤリ考えていました(;´・ω・)

    > ほんとうは下の引用より前のp.393の最後あたりから読むといいのだけど、p.394の該当箇所だけを引用してみます。

    > なお注意したいのは『論考』(1918年脱稿)が思考されたものの表現、つまり言語に限界設定することを目的に、主に有意義な命題について考察したのに対し、『倫講』(1929年)は倫理的ないしは宗教的言明(価値言明)について批判的に考察しているという点です。

    > 興味深いことに『倫講』の彼の主張はそれらの言明について、いわばその無意義さゆえの意義を認めるというものでした。しかも彼がそうした言語表現をすることによってしたいことは、「ただ、世界を越えてゆくこと=v「有意義な言語を超えてゆくこと」なのだと。

    > にもかかわらず、『倫講』の結論部分でウィトゲンシュタインは次のように言います。

    > 私の全傾向、そして私の信ずる所では、およそ倫理とか宗教について書きあるいは語ろうとしたすべての人の傾向は、言語の限界にさからって進むということでありました。このようにわれわれの獄舎の壁にさからって走るということは、まったく、そして絶対に望みのないことであります。<
    > →『倫理学講話』(全集5)、杖下隆英訳、p.394

    > さて、『論考』の「形而上学的な主体」という言葉の出自は1916年の日記草稿にあるのではないかとおもいますが、この頃のウィトゲンシュタインの思索には、それ以前の記述とは異なり倫理的な主題が頻出します。後に「倫理の担い手」とされる意志は「完成したものとしての世界に、全く外側から近づく」のだと記されていますし、「永遠の相の下での」考察は、世界内の対象、「それらを外側から見る」ととも記されています。

    > まとめになっているかどうかわかりませんが、お腹が減ったのでまとめます(;´・ω・)
    >『論考』では、そのベースとなる思索の発展過程で、限界づけられた「世界」を、その外側から見ることを可能とする「主体」を要請したのだとおもいますが、『倫講』では、その「主体」の本体について、言語という「獄舎」(つまり「世界」)に囚われているという何とも悲しい罪人像を描いたという点で区別できるかな、と。

    > 囚人が牢獄の檻から外を飛翔する自分を想像し、そこからの眺望(もちろん想像)に満足していたのに、一片の綻びがもとでそれを眺める自分もろとも全て(もちろん想像)が霧散してしまい、後に残るのはそこから出られるよう祈る自分だけだった、、、みたいな( ノД`)シクシク…

    > 以上は久しぶりに拾い読みしてパッチワークした粗く不味い解釈ですので、詳しい方々からはトンチンカンと笑われる代物であろうとおもいますが。。。

    > さあ、カント沼に戻らねば(;´・ω・)


    うましかさん、こんばんは。
    大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集5」届きましたよぉ〜♪
    じっくり読み進みます。

    前から思ってたんですが大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集」って何故かクリスマスカラーなんですね。
    12月にピッタシだし、独特なデザインもクリスマスツリーのようにも見えます。


    PS.ザビビのふくろうさんへの返信は土曜日以降になります。
    丁寧な返信をありがとうございます。じっくり読んで返信します。

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引用返信/返信 削除キー/
■19961 / inTopicNo.50)  『ウィトゲンシュタイン入門』を批判する
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/15(Wed) 20:03:47)
    2021/12/15(Wed) 22:11:25 編集(投稿者)
    2021/12/15(Wed) 21:35:04 編集(投稿者)

    パニチェさん、こんばんは。
    レスをありがとうございます。

    >永井均氏についての自説というのは〈私〉を主題とした永井哲学への反論ですか、それとも永井均氏のウィトゲンシュタイン論への反論ですか。

    これは両方,というのが回答になりますね。
    というのも,後でも書きますが,永井の『論考』の独我論についての解説は,自身の〈私〉の哲学の立場から,もともと不完全な独我論として批判的に解釈したものです。
    したがって,『論考』の独我論についての批判の根拠は,永井の〈私〉の哲学にあります。
    だから,永井による『論考』批判に対する反論は,必然的にその批判の根拠である永井の〈私〉の哲学批判というものになりました。
    *****************
    【永井均著『ウィトゲンシュタイン入門』の独我論解釈を批判する】

    『ウィトゲンシュタイン入門』,とりわけその中心テーマである「独我論」についての解釈は,序論からも明らかなように,『論考』そのものに可能な限り内在し,そのロジックを明らかにしようとするものでは全くない。
    あくまで永井哲学の〈私〉の哲学の観点から,すなわち『論考』の外の視点に立ち,『論考』の「私」を批判的に捉えたもの。
    すなわち,永井と同じ〈私〉が中期に現われるとし,『論考』の独我論も真意はそこにあったとして,『論考』の独我論は,最初から不整合・不完全なものとして解説がなされている。
    言ってしまえば,ウィトゲンシュタインをだしにして,自らの独在論を語ったものなのだ。したがって,永井の〈私〉についての思想「独在論」を理解していない者にとっては,この書におけるウィトゲンシュタインの独我論の説明は,ほぼ理解不可能であると私には思われる。
    これをウィトゲンシュタイン哲学の入門書として書くってどうよ?っていうのが、正直な感想。
    ******************
    さて、内容についての批判はここから。
    上の感想で述べたような事情で、同書における『論考』の独我論批判は、永井哲学批判とかぶらざるを得ない面が出てきてしまう。そこで、批判のポイントを次の論点に絞りたいと思う。

    (『論考』の独我論は、)認識論的独我論の場合と同様、それは万人に妥当する独我論という逆説的なものになった。『論考』の独我論は一般的自我(誰もが主体としての在り方においてはそれであるような自我)の独我論にすぎない。少なくとも、そう読まれざるをえない。(同書、83頁)

    すなわち、『論考』の独我論――T:5.3番台で現れる「私」の意味するものが、一般的自我なのか?という問題に絞る。
    ++++++++++++++++++
    私ふくろうが,永井に唯一賛同できるのは,キャロルのパラドックスについて述べた最後に、こう言っているところ。

    「この問答が果てしのないものであることは、もはや明らかであろう。この寓話の教訓を深く味わうことは、おそらくはどの時期のどの局面においてもウィトゲンシュタインの哲学を理解するために、大いに役立つように思われる。」(同書 73頁)

    私が言いたいのは、永井自身がこの教訓を深く味わうべきだ、ということだ。
    キャロルのパラドックスから得られる教訓とは、何か?
    それは、果てしのない問答が生じる原因は、語りうるもの(事実)と語りえぬもの(推論を正当化するもの)の混同であり、語りえぬものを語りうるものとしてしまっているがゆえである、ということ。
    そして永井の言う「「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に必然的に陥らざるを得ないのも、彼が、語りえぬもの(示される私)と語りうるもの(語りうる私)(及びそれに対応する、それらの表現)とを混同し、語りではないものを語りとしてしまっているゆえである(具体的には、『論考』の独我論を、一般的自我についての独我論とみなす)、ということは、この教訓から考えれば明らかなはずなのだ。

    永井の根本的誤謬は,アプリオリ・超越論的命題と,アポステリオリな経験的命題との区別がきちんとついていないということ。
    超越論的命題は,論理的命題・数学的命題のように,その真であることあるいは定理であることの確定のために経験的検証を必要とせず、証明・証示される命題であり,経験的内容をもたない。それらはいわば将棋と同様、それ自体としては現実世界から独立した言語ゲームである。
    他方、経験命題は真偽二値を有し,世界(事実)について語り、その真理値確定のためには経験的検証を要する命題。
    いわゆる語る言語がこれである。

    この区別に相即して,いわゆる一般命題も,経験的内容を何も語らない超越論的アプリオリな一般命題(数学的定理、論理法則etc.)(非経験則)と,経験的内容を語るアポステリオリな一般命題(「すべての人間は死ぬ」etc.)(経験則)とが存在する。
    繰り返すが、重要なのは、超越論的命題は世界について(経験的内容を)何も語っていない、ということである。

    【例1】 ユークリッド幾何学で証明されるピタゴラスの定理は,ユークリッド公理系(という言語ゲーム世界)の中で定義される任意の三角形について成り立つことが証明される命題であり,これは,現実に描かれたすべての三角形について一般に成り立つ法則ではない(経験則ではない)。
    幾何学は解釈によって現実世界に結び付けられ(適用され)る(例えば物理学)ことにより、初めてその定理・法則は現実を記述する上での文法の役割を果たすもので,あくまで現実世界に対する規範・ものさしの役割である。仮にユークリッド幾何学の命題がもともと現実の三角形を記述する命題なのであれば,三角形の図を描いて測量したところ,定理が成り立っていなければ反証されたことになろう。しかし,そうはならない。むしろ,図が正確ではないことを意味する。「すべてのスワンは白い」という経験的一般命題が,黒いスワンの発見で反証されるのと,これは本質的違いを表している。すなわち,ユークリッド幾何学における「三角形」は,現実の三角形を意味していない。

    【例2】 前件肯定式という論理法則もアプリオリな論理的命題で表現される。キャロルのパラドクスのカメのように,この論理法則に従わない思考をする人間は存在するが,それは思考の法則としての論理法則の反証にはならない。この場合も,その現実の思考が間違っているということを意味する。論理法則は,論理学的に定義される命題言語(真偽ゲーム)における法則(示される真理)であり,命題に解釈が与えられたときはじめて現実に対して規範として働くものであって,それ自体では現実の言語について成り立つ経験的一般的真理(経験則)なのではない。

    『論考』が論じる言語は,論理学的,すなわち超越論的に扱われる言語であって,現実の言語(日本語・英語といった自然言語)ではない。それは経験的内容を含まない形式化された言語モデルであり,現実の言語の条件となる唯一の言語である。例えば,命題とは,真偽可能性を有する文のことであって,例えば命題論理学では命題変項P,Q,…のような変項で表される。これらは論理体系の中で定義導入されるものであり,現実の言語ではないし,現実の意味内容をもたない。
    それゆえ論理法則を表す論理的命題(例えば前件肯定式)は、命題の内的関係という語りえぬものを示す命題である。

    この『論考』の扱う写像言語,要素命題の真理関数としての命題言語は,ユークリッド幾何学と同様,現実の言語ではない。誰が行おうとユークリッド幾何学(ゲーム)が唯一のものであるように,『論考』の命題言語も,唯一の言語(ゲーム)なのである。当然,「私の言語」も「我々の言語」も全く同一のものである。それは「私のユークリッド幾何学」も「我々のユークリッド幾何学」も全く同一唯一なのと同様なのだ。その意味で,『論考』の言語は,それ自体が超越論的言語なのである。
    したがって,この超越論的言語について「私の言語」と言われるときも,「私」は現実の人間を意味するのではない。なので「私の言語」という場合も、ふくろうの言語、パニチェの言語、…といったものを意味するのではない。この「私」もまた言語の条件・限界としての「《私》」である。アプリオリかつ超越論的な主体であり,形而上学的主体なのである。(「私」は普通の一人称代名詞ではない。)
    だからこそ「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」のである。
    例えば,
     私は命題「PかつPでない」を真だと考えることはできない
    というメタ言語命題は,経験命題ではなく,したがって何も語ってはいない。
    この命題は,矛盾命題「PかつPではない」それ自身が恒偽であることによって示していることを述べている命題だからである。
    例えば,この否定文を作ってみると,
     私は命題「PかつPでない」を真だと考えることはできる
    となるが,これは論理的に真ではありえない。だから,真偽二値の可能性がなく,経験命題ではなく,アプリオリかつ超越論的命題なのである。
    それゆえ,この「私」も,現実の人間を意味するものではない。
     任意の命題Pについて,Pが有意味(真偽可能性を有する)な二値命題(=言語)である限り,
     私は命題Pを理解する
    という命題もまた,有意味でなくてはならない。
    このことは,言語は言語である限り,論理的に私が理解可能な言語ではなくてはならない,ということを意味している。
    それゆえ,この「私」は命題が言語であるための条件として,言語の限界としての《私》なのである。

    もし,永井が誤解したように,「私は私の世界である」が経験的一般的命題であり,すべての自我について一般的に成り立つ真理であるなら,「Aの世界(ミクロコスモス)」「Bの世界(ミクロコスモス)」「Cの世界(ミクロコスモス)」…が成立することになってしまい,Aが「私の世界だけが存在する」と言ったら,「いや,私の世界だけが存在する」と,BもCも同等に主張する権利があることになり,いつまでたっても決着がつかない。つまり,このようにアポステリオリな一般命題と解釈するなら,独我論的主張は,明かに不整合なものになってしまう。まさに,これは「私は私の世界である」が示されるべき真理を表す超越論的命題であるのに,それを語り得る命題と誤認しているから。
    そもそも「世界」について語ることはできない。したがって「私は私の世界である」も世界について語る命題ではなく、あくまで超越論的命題なのである。

    簡単にまとめておこう。
    永井の根本的誤謬は,語り得るものと語りえず示されるものとを混同し,
    示されるものについて述べた「私は私の世界である」といった超越論的命題を,一般的自我について語られる一般命題とみなしたことにある。中期以降の言葉で言えば,文法的命題は超越論的命題であるにもかかわらず,現実のどの主体にも成り立つ一般的法則を述べた命題だと誤認することにより,自ら否定問答の無限ループに陥ったのである。(飯田隆『規則と意味のパラドックス』213頁参照)

    *************
    No19760
    >写像理論というのは例えばウィトゲンシュタインとか特定の人にとっての言語論ではありません。
    >他国の言語も含めて言語を写像として(この時点では)説明している。
    >で、この写像に含まれることは世界に属するということでもあり、写像として表すことができない、つまり世界に属さないものは語りえないとしている。
    >そういう意味で世界に属さない主体を形而上的主体とか哲学的自我と呼んでいるわけですが、これは写像理論が正しいとするなら万人に共通する主体であるわけです。
    >補足するなら『論考』での「5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)」も(写像理論が正しいなら)誰にとっても独我論であるということ
    >ここのところが形而上学的主体は「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に陥るような主体ではないということです。
    *************************
    これに対しての回答は既に実質答えています。
    繰り返しますと、写像理論は現代的に言えば、論理学の一分野であるモデル理論の先駆的理論であるとみなされるように(野本和幸「現代意味論における『論考』の位置」『現代思想12 臨時増刊』1985)、言語の超越論的考察です。
    したがって、この写像としての言語(命題)体系は、ユークリッド幾何学の公理系と同じく、抽象的言語体系を意味しており、それ自体では現実の言語を意味していません。
    この言語が「私の言語」と言われるときも現実の人間主体とはむすびつきません(将棋の「王将」が現実の王を意味しないように)。つまり、写像言語の言語主体である「私」も、あくまで言語の条件・限界としての《私》であって、万人に共通する主体ではありません。
    この唯一の言語ゲームをプレイすることにおいて、誰であれそれは唯一のこの《私》なのです。
    喩えれば、「《私》の夢世界(ゲーム)」の登場人物は、《私》のいわばアバターであるaであれ、その他のbであれ、誰であれ,すべて《私》である。当然、aの痛みも、bの痛みも、モブの痛みも、《私》の痛みである(いわば《私》とはこの夢世界の唯一の「世界霊魂」なのです)。
    それゆえ、aが言う「私の世界だけが存在する」も、bが言う「私の世界だけが存在する」も唯一のこの「《私》の夢世界だけが存在する」ということを意味するのである。
    それと同時に、世界内存在者であるbやcやモブが実際に語る世界は、《私》の世界内の部分にすぎない。

    No19693
    において書いたパロディー文章の冒頭に、次のような会話を置きました。最初のNの発言を除く以下の会話は原文に対応する文章がないところです。

    N:私はこう言おう。「正直なところを言えば,たしかに,私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」と。
    W:「激しく同意だね。私には他の誰にもない何かがある。うん,その通りだ!」
    N:「いやいや,違う違う。私だけに何か,つまり「真の現前している経験」とでも言うしかないものがあるって言ってるんだ。」
    W:「全くその通り。私だけに「真の現前している経験」がある!」
    N:「いや,違うんだって。もっと言うとだね,真に存在するって言えるのはこの私の経験,この私の世界だけなんだよ。」
    W:「いやー,ますます同感だね!!この私の世界だけが存在する!独我論だよね!」
    N:「だから,違うんだって」
    W:「えー,違うの?なんでさー。」
    N:「違うんだよ。だって,君は私の言ったことをそのまま繰り返しているだけじゃないか。それじゃまるで,私に成り立つことは,全く君にも対称的に成り立つってことだろう。独我論になるわけないじゃん。そんなのおかしいに決まっている。」

    ここで、Nは明らかに、Wの発言を一般的自我についての独我論として解釈して、「違う」と言っています。
    しかし、実は、Wは《私》の独我論者なのです。つまり、Wの発言の「私」は、普通の人称代名詞ではなく、一般的自我ではないのです。
    WはNの発言の「私」をも、「《私》」と理解しているからかみ合っていないわけです。
    次のようにWの「私」を「《私》」に置換すればわかりやすいと思います。Wは《私》の世界のいわばアバターなのです。

    N:私はこう言おう。「正直なところを言えば,たしかに,私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」と。
    W:「激しく同意だね。《私》には他(世界の中)の誰にもない何かがある。うん,その通りだ!」
    N:「いやいや,違う違う。私だけに何か,つまり「真の現前している経験」とでも言うしかないものがあるって言ってるんだ。」
    W:「全くその通り。《私》だけに「真の現前している経験」がある!」
    N:「いや,違うんだって。もっと言うとだね,真に存在するって言えるのはこの私の経験,この私の世界だけなんだよ。」
    W:「いやー,ますます同感だね!!この《私》の世界だけが《存在する》!独我論だよね!」
    N:「だから,違うんだって」
    W:「えー,違うの?なんでさー。」
    N:「違うんだよ。だって,君は私の言ったことをそのまま繰り返しているだけじゃないか。それじゃまるで,私に成り立つことは,全く君にも対称的に成り立つってことだろう。独我論になるわけないじゃん。そんなのおかしいに決まっている。」


    上に述べた独我論に対して、
    この形而上学的主体を万人に共通する主体(一般的自我)と解釈するということは、「語りえぬもの」を「語りうるもの」とみなす、ということです。
    したがって、
    >ここのところが形而上学的主体は「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に陥るような主体ではないということです。

    というのは同意できません。
    まさに形而上学的主体(語りえぬもの)を一般的自我(語りうるもの)と解釈することに「私は私の世界である」という命題が語る命題とみなされ、Nのように、誰もが「世界は私の世界だけだ」「いや、私の世界だけが存在する」というマウントの取り合いが始まるでしょう。
    すなわち、「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」のスタート地点がまさにここなのです。

    【補足】
    以下は、少し専門的な細かい話になります。書こうかどうか迷いましたが、一応ここの議論だけでも詰めて書いておいたほうがよいかと思うので、書くことにします(これは、前掲の米澤論文で取り上げられている論点です)。

    上に書いたパロディーの冒頭の会話には、意図して書いたわけではないのですが、モデルとみなせる記述が『草稿』(全集1 212頁)にあります。
    1915年5月23日の記述ですが、『論考』T:5.3の文章と、その後に、省かれた文と少し修正して書かれた文とがあります。

    私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
    世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。そして私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである。
    右の見解は、唯我論がどの程度真理であるか、ということを決定するための鍵を与える。
    「私はいかなる世界を見出したか」という本を私が書くのが可能なことに、私はずっと前から気づいていたのである。

    ここでとくに取り上げるのは、『論考』では省略された

    「世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。そして私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである。」

    という文章です。
    この「世界霊魂」を、先ほどの《私》とみなせば、上のパロディー文章で、Wが述べていることは、引用の文章と同じことを述べているということは明らかだと思います。
    しかし、実は永井は、この文章を次のように訳して、異なる解釈――この世界霊魂を一般的自我とみなす――を与えています。

    永井による訳:(「ウィトゲンシュタインの独我論」『〈私〉の存在の比類なさ』89頁
    「ただ一つだけ現実に世界の魂が存在し、私はとくにそれを私の魂と呼ぶ。しかし私は、私が他者の魂と呼ぶものもただそのようなものとしてのみ把握する。」

    永井による解釈:(前掲書91頁)
    「…ただ一つだけ現実に存在する世界の魂を『私の魂』と呼ぶ私は、他者の魂をも「ただそのようなものとしてのみ」把握したのであった。すると、他者たちもまたそれぞれ、その他者の独在的な比類のなさから帰結する唯一的な世界をもつことになり、それは私の独在的な比類のなさから帰結する唯一的な世界とは一致しない。そうなるとしかも、唯一のものが複数個存在し、比類なきものの類が存在することになるだろう。」

    比較:
    奥訳:世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。そして私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである。」

    永井訳:「ただ一つだけ現実に世界の魂が存在し、私はとくにそれを私の魂と呼ぶ。しかし私は、私が他者の魂と呼ぶものもただそのようなものとしてのみ把握する。

    わかりますか?この違い。奥先生の訳文では、私が自分の魂と呼ぶ世界霊魂がただ一つ存在し、他者の魂も、この世界霊魂として把握する、と読めます。
    しかし、永井は、これを「私が他者の魂と呼ぶものもただそのようなものとしてのみ把握する」と訳しています。つまり、他者の魂も、その唯一同一の世界霊魂として把握するのではなく、「そのようなものとしてのみ」把握する、と訳すことによって、世界の霊魂が主体によって別々のものが存在することになってしまっているわけです。
    明らかに永井は「世界霊魂」を一般的自我と解釈しており、上のパロディー文章のNと同じことを述べていることがわかります。

    さて、ここの原文はどうでしょうか?

    Es gibt wirklich nur eine Weltseele,welche ich vorz&#252;glich meine Seele nennne, und als welche allein ich das erfasse, was ich die Seelen anderer nenne.

    Google翻訳:
    私が主に自分の魂と呼んでいる世界の魂は本当に1つだけであり、それだけで私が他の人の魂と呼んでいるものを把握しています。

    DeepL翻訳:
    世界にはただ一つの魂があり、私はそれを特に自分の魂と呼び、それだけで他の人の魂と呼ぶものを把握しているのです。

    E.Anscombeによる英訳
    There really is only one world soul, which I for preference call my soul and as which alone I conceive what I call the souls of others.

    翻訳は、永井訳以外は、私の魂=世界霊魂=他者の魂として解釈しています。米澤訳は省略しますが、同じです。
    明らかに永井は、「世界の魂」を一般的自我とするために、このように訳していることがわかると思います。これは意図的な誤訳と言うべきでしょう。

    ********************
    あと,永井が語り得るものと語りえず,示されるべきものとの混同,後者を前者として扱うという明らかな誤りを犯した議論が少なくとももうひとつあります。
    しかし,これは『ウィトゲンシュタイン入門』には出てこないので,必要であれば,また改めて書くことにしたいと思います。
    ただ、以上述べたことの帰結は、5.6番台にでてくる「私」は、すべて形而上学的主体、であり(「思考し表象する主体は」とりあえず措き)、世界の限界としての《私》を意味するものであって、普通の指示代名詞ではないということ、そしてこの《私》について述べられたこれら諸命題は超越論的命題であり、経験的内容を何も語っていない、ということです。
    これが理解できないということは、語りうることと、語りえず示されること、との区別がつかないということにほかならず、そうである限り、『論考』の言う「示される独我論」は理解不可能だ、というのが私の見解です。
    だから、これ以上書くかどうかは、ここで述べた私の見解をパニチェさんが受け入れられるかどうかにかかっていると思います。
    もし、やはり受け入れられないということであれば、これ以上述べても理解が得られないと思いますので、議論としてはここまでかなと思います。
    もちろん、ここで書いたことは、本質的な点でパニチェさんの解釈と抵触していますので、確認、質問、反論、もしくはここが納得いかない、といったコメントでもかまいませんのでレスをいただければと思います。

    【蛇足の言い訳】
    当初、『ウィトゲンシュタイン入門』を持っている初学者も念頭において、わかりやすく詳しい説明をしようと思って書き始めたのですが、すぐにその方針は無理だとわかりました。長大になりすぎて、解説書でも書くつもりか?ってなりそうなので(笑)
    それに議論についてきている人もあまりいそうにないので、最低限、パニチェさんがわかればいいやと思って書いたらこうなりました。それでも長いしね。すんませんm(__)m。
    もし、質問等ある方がいらっしゃれば、遠慮なくどうぞ。

引用返信/返信 削除キー/
■19906 / inTopicNo.51)  Re[19]: 形而上学的主体
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/13(Mon) 20:24:14)
    こんばんは、ザビビのふくろうさん。
    レスありがとうございます。

    No19900に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > レスありがとう。
    > また、面倒な質問にも答えてくれてありがとう。

    どういたしまして。

    > 正直言うと、いろんな意味で納得いく回答ではないですが、それはお互い様だし、コメントするにしても私が永井について自説を述べてからのほうがいいと思うので、今回の回答についてのコメントは、今は控えます。

    納得いく回答ではないことはなんとなく分かります。

    > 以下は質問ですが。。。
    > @ >・「5.641 哲学で非心理学的に自我を論じうる」というのは具体的にはどのようなテーマあるいは内容であると考えていますか?
    > A >・ウィトゲンシュタインの独我論について前期と後期は同じですか、それとも前期独我論の破棄や何らかの変更や上書きなどがなされたと考えていますか?

    > @ T:5.6番台で論じられているのはすべてそうですし、なので、テーマとしては、独我論はもちろんですし、超越論的主観等について論じることもそうです。
    > あと、倫理学的な責任主体である意志する主体も、まさに生の形式としての「《私》の意志」ですので、T:6.423,およびT:6.43番台も、同様であると思います。
    > なにので、『倫理学講話』でも、「一人称」の話が出てきますが、これももちろん自我を非心理学的に論じている例です。

    > Aこれは前にも言ったと思うんですが、『探究』でのテーマの一つは、『論考』の独我論批判ですので、全く同じではありえません。
    > で、詳細はここでは省きますが、『論考』の独我論を「現象主義的独我論」と呼ぶことにすると、後期にこれは否定されます。では、いかなる意味でも独我論が否定されたかと言うと、私としてはそうではない、と思います。というのも、後期の観点から言っても倫理的言語ゲームや美学的言語ゲームなど、いわゆる生の意味に関する言語ゲームは本質的に主観的言語ゲームであり、その意味で本質的に「私の生の言語ゲーム」であることに変わりはありません。宗教的言語ゲームを含むこれらの言語ゲーム(以後、「超越的言語ゲーム」と言う)が何等かの意味で有意義だとすると、これら生の意味についての超越的言語ゲームの条件・限界である「私」も、何らかの意味で有意味であるはずです。
    > で、結論としては、私は超越論的独我論としては生き残ったんじゃないか(その意味では上書きされたんじゃないか)、あるいは、ウィトゲンシュタインの考えは措いても、この超越論的独我論は『探究』の批判を超えて成立するのではないか、と考えます。これは、あくまで私見ですよ、念のため。

    丁寧な返信をありがとうございました。
    私も同じく同意できるとこと同意できないところがありますが議論が拡散するので現段階ではレスは控えます。

    永井均氏についての自説というのは〈私〉を主題とした永井哲学への反論ですか、それとも永井均氏のウィトゲンシュタイン論への反論ですか。
    どちらでも、ザビビのふくろうさんの思うところをレス下さい。
    もちろん上記以外のレスでも構いません。

引用返信/返信 削除キー/
■19900 / inTopicNo.52)  Re[18]: 形而上学的主体
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/12(Sun) 18:23:31)
    No19885

    パニチェさん,こんばんは。
    レスありがとう。
    また、面倒な質問にも答えてくれてありがとう。
    正直言うと、いろんな意味で納得いく回答ではないですが、それはお互い様だし、コメントするにしても私が永井について自説を述べてからのほうがいいと思うので、今回の回答についてのコメントは、今は控えます。

    >ただパニチェとしては何回か同様の質問には答えているつもりなので、これ以後はNo○○で回答済みですと返信させてもらいます。
    >あと、提案ですが互いの確認や質問には特別な理由がないかぎり返信するようにお願いしたいです。というのもどちらかが一方的に述べたい主張や興味のある方向へ誘導してしまうこともありえる(今回がそうだと思っているわけではありません)ので、そうなると他方がつまらなくなる、あるいは飽きてしまうことも(私の場合は・笑)あるからです。

    OKです。
    **********************
    以下は質問ですが。。。
    @ >・「5.641 哲学で非心理学的に自我を論じうる」というのは具体的にはどのようなテーマあるいは内容であると考えていますか?
    A >・ウィトゲンシュタインの独我論について前期と後期は同じですか、それとも前期独我論の破棄や何らかの変更や上書きなどがなされたと考えていますか?


    @ T:5.6番台で論じられているのはすべてそうですし、なので、テーマとしては、独我論はもちろんですし、超越論的主観等について論じることもそうです。
    あと、倫理学的な責任主体である意志する主体も、まさに生の形式としての「《私》の意志」ですので、T:6.423,およびT:6.43番台も、同様であると思います。
    なので、『倫理学講話』でも、「一人称」の話が出てきますが、これももちろん自我を非心理学的に論じている例です。

    Aこれは前にも言ったと思うんですが、『探究』でのテーマの一つは、『論考』の独我論批判ですので、全く同じではありえません。
    で、詳細はここでは省きますが、『論考』の独我論を「現象主義的独我論」と呼ぶことにすると、後期にこれは否定されます。では、いかなる意味でも独我論が否定されたかと言うと、私としてはそうではない、と思います。というのも、後期の観点から言っても倫理的言語ゲームや美学的言語ゲームなど、いわゆる生の意味に関する言語ゲームは本質的に主観的言語ゲームであり、その意味で本質的に「私の生の言語ゲーム」であることに変わりはありません。宗教的言語ゲームを含むこれらの言語ゲーム(以後、「超越的言語ゲーム」と言う)が何等かの意味で有意義だとすると、これら生の意味についての超越的言語ゲームの条件・限界である「私」も、何らかの意味で有意味であるはずです。
    で、結論としては、私は超越論的独我論としては生き残ったんじゃないか(その意味では上書きされたんじゃないか)、あるいは、ウィトゲンシュタインの考えは措いても、この超越論的独我論は『探究』の批判を超えて成立するのではないか、と考えます。これは、あくまで私見ですよ、念のため。

引用返信/返信 削除キー/
■19885 / inTopicNo.53)  Re[17]: 形而上学的主体
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/12(Sun) 08:28:17)
    2021/12/12(Sun) 15:50:38 編集(投稿者)

    おはようございます、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。
    早朝にWOWOWで生中継が予定されてたアホのカシメロ(笑)が体調不良のため計量にのぞむことができす試合が中止となったため返信しておきます。
    これ以降の返信は13日〜19日の間となります。

    No19881に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > えーと、私がちゃんと説明しないとあなたも納得できないだろうから、決着はしていないってことに関しては、もちろんそれでいいんですよ。
    > ただ、「ここは同意してますし」ってことでちょっとわからなくなったので、パニチェさんの考えをはっきりつかむためにも、めんどうかもしれないけど確認させてください。

    了解しました。確認は相手の主張を理解するためのものであると好意的に捉えてます。
    ただパニチェとしては何回か同様の質問には答えているつもりなので、これ以後はNo○○で回答済みですと返信させてもらいます。
    あと、提案ですが互いの確認や質問には特別な理由がないかぎり返信するようにお願いしたいです。というのもどちらかが一方的に述べたい主張や興味のある方向へ誘導してしまうこともありえる(今回がそうだと思っているわけではありません)ので、そうなると他方がつまらなくなる、あるいは飽きてしまうことも(私の場合は・笑)あるからです。

    > 「語りえぬ形而上学的主体」と同じものか否か?

    日本語表記は大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集1」で統一して返信します。

    > @  5.641の、「自我(das Ich)」は同じでいいんですね?

    5.641の、「従って、哲学で非心理学的に自我を論じうること」の「自我」は一人称単数代名詞です。自我が「世界は私の世界である」を通して哲学の中へ入ってきたものをウィトゲンシュタインは「哲学的自我」と呼んでおり、これは形而上学的主体と同じですが、厳密には5.64の「唯我論の自我は延長を欠いた点にまで縮退し」自我に相関した実在、つまり(私を実在とした)実在論と合致したものと同義です。

    > A  5.632の、「主体」はどうですか?

    形而上学的主体と同じです。

    > B  5.631の、「思考し、表象する主観」はどうですか?

    形而上学的主体と同じです。

    > C  5.63の、「私」はどうですか?

    一人称単数代名詞で、形而上学的主体と同じではありません。(但しNo19832で返信したように一人称代名詞である「私」と形而上学的主体は全く別個のものということではなく、日常的には語りえない形而上学的主体は語りうる一人称代名詞である「私」を纏っています。)。

    > D  5.62の、「私の世界」の「私」はどうですか?

    一人称単数代名詞です。

    > E  5.6の、「私の言語」および「私の世界」はどうですか?

    何れも一人称単数代名詞です。


    > No19832
    > >少し表現しにくいのですが形而上学的主体は世界に属さないから世界と言語を写像として捉えらる、写像理論たらしめる形而上学的主体ではある
    > という解釈は、飯田隆先生が著書『ウィトゲンシュタイン』(106頁)で根拠薄弱であると認めつつ提出した考え方と同じもので、野矢先生も、無理筋だと述べた(「『論理哲学論考』を読む」(214頁))の考えですよね。
    > そして、それを永井の〈私〉とみなさないのであれば、それは永井が否定する超越論的主観ということになります(『ウィトゲンシュタイン入門』(81頁)が、それでいいんでしょうか?

    永井均氏のようにわざわざ超越論的主観性を持ち出す必要はないと思います。
    もし同義ならウィトゲンシュタインは形而上学的主体とは言わずに超越論的主観性と表記したでしょう。
    カントの超越論的主観性は写像理論を前提としていませんし、おそらく私秘性や形而上学的主体を纏った〈私〉と関連する「私の生の比類なさ(P.265)」のような意味は含まれていないと思います。


    No19884に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > しつこくて悪いんですが、補足質問です。

    大丈夫です。^^

    > T:5.641の「世界は私の世界である」の「私」は形而上学的主体ですか?

    一人称単数代名詞です。


    以上ですが、結論から言うと大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集1 」の日本語表記での「私」は全て一人称単数代名詞です。
    哲学的自我(私)のように〇〇的「私」と表記されているものはそのままの表記で差支えがないと思います。これまで何度か述べた通り( No19864でも投稿していますが)「私」「哲学的自我」「形而上学的主体」と別の表記にしているのは、文脈において意味が異なるからだと考えています。もしそうでないなら「名(3.203 名は対象を意味する。対象が名の意味である)」を区別する必要がないですからね。


    以下は質問ですが。。。
    ・「5.641 哲学で非心理学的に自我を論じうる」というのは具体的にはどのようなテーマあるいは内容であると考えていますか?
    ・ウィトゲンシュタインの独我論について前期と後期は同じですか、それとも前期独我論の破棄や何らかの変更や上書きなどがなされたと考えていますか?

引用返信/返信 削除キー/
■19884 / inTopicNo.54)  形而上学的主体
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/12(Sun) 06:20:23)
    パニチェさん

    しつこくて悪いんですが、補足質問です。

    T:5.641の「世界は私の世界である」の「私」は形而上学的主体ですか?
引用返信/返信 削除キー/
■19881 / inTopicNo.55)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/11(Sat) 23:24:50)
    パニチェさん
    レスをどうも。

    No19879に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >> pipitさん

    >> レスをありがとうございます。

    >> パニチェさんには悪いけど、普通はそうなると思うんですよ(笑)

    >いえ、全然悪くないですよ。
    >ここは私は同意してますし、これまで何度も形而上学的主体(哲学的自我)と述べています。
    >言うまでもないですが上記をもって5.6から始まる文章で「私」イコール「形而上学的主体」か否かが決着するわけではないことは理解いただいているとは思いますが、念のため。。。

    えーと、私がちゃんと説明しないとあなたも納得できないだろうから、決着はしていないってことに関しては、もちろんそれでいいんですよ。
    ただ、「ここは同意してますし」ってことでちょっとわからなくなったので、パニチェさんの考えをはっきりつかむためにも、めんどうかもしれないけど確認させてください。

    「語りえぬ形而上学的主体」と同じものか否か?

    @  5.641の、「自我(das Ich)」は同じでいいんですね?
    A  5.632の、「主体」はどうですか?
    B  5.631の、「思考し、表象する主観」はどうですか?
    C  5.63の、「私」はどうですか?
    D  5.62の、「私の世界」の「私」はどうですか?
    E  5.6の、「私の言語」および「私の世界」はどうですか?
    ************************
    それと、No19835の最後に付け足したんですが、この件について、回答してもらえますかね?

    ちなみに、
    No19832
    >少し表現しにくいのですが形而上学的主体は世界に属さないから世界と言語を写像として捉えらる、写像理論たらしめる形而上学的主体ではある

    という解釈は、飯田隆先生が著書『ウィトゲンシュタイン』(106頁)で根拠薄弱であると認めつつ提出した考え方と同じもので、野矢先生も、無理筋だと述べた(「『論理哲学論考』を読む」(214頁))の考えですよね。
    そして、それを永井の〈私〉とみなさないのであれば、それは永井が否定する超越論的主観ということになります(『ウィトゲンシュタイン入門』(81頁)が、それでいいんでしょうか?

引用返信/返信 削除キー/
■19880 / inTopicNo.56)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/11(Sat) 22:52:51)
    横レス失礼します。

    No19879に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > pipitさん

    > レスをありがとうございます。

    > パニチェさんには悪いけど、普通はそうなると思うんですよ(笑)

    いえ、全然悪くないですよ。
    ここは私は同意してますし、これまで何度も形而上学的主体(哲学的自我)と述べています。

    言うまでもないですが上記をもって5.6から始まる文章で「私」イコール「形而上学的主体」か否かが決着するわけではないことは理解いただいているとは思いますが、念のため。。。
引用返信/返信 削除キー/
■19879 / inTopicNo.57)  pipitさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/11(Sat) 22:45:34)
    pipitさん

    レスをありがとうございます。

    パニチェさんには悪いけど、普通はそうなると思うんですよ(笑)

    ちなみに、田秋さんの研究所のNo19646で、田秋さんが受講されている末木文美士先生の仏教史の教科書の写真が挙がっていますが、実はそのお父さんも息子さんと同じく元東大教授、しかも哲学教授で、末木剛博先生と言います。この先生は日本で初めてウィトゲンシュタインについての研究書を出版された方なんですが、この先生も、
    「ここでいう「自我」は「形而上学的主観」(T5.633,T5.641)と同義である」(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の研究U276頁)
    と述べておられるんですよね^^

    しかし、そうかあ。私は独英対訳の原本もマクギネスの英訳も、専門家の日本語訳もほとんど全部持っているので常に参照しているんだけど、普通はそうじゃないからなあ。
    実は訳の問題まで踏み込んでいいもんかどうか、迷っていたんですが、pipitさんのおかげで、パニチェさんの反応を見ても、やっぱり必要な場合はあるかもと思いました。
    ありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/
■19878 / inTopicNo.58)  Re[15]: We're All Alone
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/11(Sat) 22:19:08)
    No19876に返信(マジカルモンキーさんの記事)
    > ■No19818に返信(パニチェさんの記事)
    >>『論考』の独我論は誰にとっても生は孤独であるということ云々をカキコしてた時にふっと我らが青春時代に流行ったボズ・スキャッグスの名曲“We're All Alone”が頭に浮かんだ。

    >>このタイトルは二義的で「僕たちは二人っきり」と「みんなひとりぼっち」だと当時も今も思っている。

    >>歌詞はおそらくもうこの世にいない彼からの彼女に対するメッセージのように思えるんだけど、どうなんやろ。。。。

    >>https://www.youtube.com/watch?v=Tsg1R-9QSkg

    > パニチェさんへ

    > 遅ればしながら、この曲大好きです。。゚ヽ(゚´Д`)ノ゚。
    > 孤独を癒す曲は沁みりますね…。

    そうですか。70年代ディスコのチークタイムでの定番です。
    ちなみにカラオケでは十八番にしてます。^^
      
引用返信/返信 削除キー/
■19877 / inTopicNo.59)  Re[21]: ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/11(Sat) 22:08:03)
    2021/12/11(Sat) 22:24:35 編集(投稿者)

    No19869に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > えーと、
    > 自我
    > はもちろん
    > das Ich
    > ですよ。
    > 取り急ぎ。
    > 専門家はほとんど「自我」と術語として訳します。
    > 丘澤訳だけが、ドイツ文学者だからか、「私」とされています。

    > ちなみに英訳では、

    > Ogden訳では、

    > the I

    > Macguinness訳では

    > the self

    > です。

    > なので、わかりやすいだろうと思って、私は意図的に「私」と訳したわけです。


    了解しました。
    ありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/
■19876 / inTopicNo.60)  Re[14]: We're All Alone
□投稿者/ マジカルモンキー -(2021/12/11(Sat) 22:05:54)
    No19818に返信(パニチェさんの記事)
    > 『論考』の独我論は誰にとっても生は孤独であるということ云々をカキコしてた時にふっと我らが青春時代に流行ったボズ・スキャッグスの名曲“We're All Alone”が頭に浮かんだ。
    >
    > このタイトルは二義的で「僕たちは二人っきり」と「みんなひとりぼっち」だと当時も今も思っている。
    >
    > 歌詞はおそらくもうこの世にいない彼からの彼女に対するメッセージのように思えるんだけど、どうなんやろ。。。。
    >
    > https://www.youtube.com/watch?v=Tsg1R-9QSkg

    パニチェさんへ

    遅ればしながら、この曲大好きです。。゚ヽ(゚´Д`)ノ゚。
    孤独を癒す曲は沁みりますね…。  
引用返信/返信 削除キー/

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