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■20042 / inTopicNo.37)  ウィトゲンシュタインと西田幾多郎
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/12/21(Tue) 12:42:44)
    横レス失礼します。

    NHK出版から出た、「西田幾多郎」永井均をもっています。100ページの薄い本ですね。
    この中で、ウィトゲンシュタインを「史上最初に登場した確信犯」と評する一方で、西田幾多郎は「逆の確信犯」としています。この二人は逆の方向から同じ境地に至ったかのような書き方です。いまいちよくわからないところですが、非常に強い印象をもった。

    永井氏は 二人を自分の哲学に引き寄せすぎで、独自の解釈というべきなのかもしれませんが、面白いと思う。

引用返信/返信 削除キー/
■20037 / inTopicNo.38)  ふくろうさんへ
□投稿者/ 気まぐれ -(2021/12/21(Tue) 06:25:45)
    ふくろうさん

    お気遣いありがとうございます。

    >いやいや、それはマジでありません。
    >ここでは実際、無理だと思うので。

    邪推でしたね(笑)
    失礼しました。

    いつか是非、現象言語や西田とウィトゲンシュタインの話したいです!
    私の場合、かなりの復習とウィトゲンシュタインの予習をしなければならなそうですから、ホントにタイミングがあえば、ですが…。
    レヴィナスの話もしたいですね。今の私の関心事からするとこちらの方が可能性が高いかもしれないです。
    いずれにせよ、また今度話しましょう!その時有意義な議論ができるように励みます!
    返信ありがとうございましたm(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■20036 / inTopicNo.39)  Re[20]: 気まぐれさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/20(Mon) 23:16:21)
    気まぐれさん

    >私への返信を利用して誰かを煽ってません?(笑)
    >相変わらずの議論好きですね^^

    いやいや、それはマジでありません。
    ここでは実際、無理だと思うので。

    >本題については、今日は時間が取れそうにありません。
    >質問しといてすみません。

    いいえ、前レスで忙しそうと思ったから、私も議論を意図して書いたのではないので気にしないでください。
    やるとなったら、それはそれでけっこう大変だし(笑)

    >現象言語の話は出てくるかなと思って期待していたんですけど、なんだか終わってしまったみたいで少し残念です。

    すみません。
    現象言語の話はかなり重要な話題なんですが、それ以前で理解が得られないので、話したところで誰にも理解してもらえないからしません。
    逆に浅い理解で否定でもされようもんなら、ヴィランが登場しそうだし(笑)

    >(もう興味ないかもしれないけど)永井を絡めて論じるなら永井の「西田幾多郎」に西田vsウィトゲンシュタインがあったからその辺の話になったら面白そうだなと勝手に妄想してました(笑)

    いや、前に話したことありましたが、あのとき、永井の著作を読んでから大分時間が経っていて、その考えをはっきりつかんでいなかったので、復習した今のほうが西田のあの解説書もわかるかもしれません。
    でも、気まぐれさんもレヴィナスで忙しいんでしょ?
    また、タイミングが合ったときでいいんじゃないですかね。

    >レヴィナスは道半ばです。
    >熊野さんの「レヴィナス入門」も読みましたよ!
    >面白かったです。
    >今は藤岡俊博さんの「レヴィナスと「場所」の倫理」という本を読んでいます。
    >こちらもなかなか面白い。
    >「全体性と無限」は一応、一読しましたが読み返したいところです。
    >その前に「存在の彼方へ」を読んでみようと思っていたのですが、「実存から実存者へ」も読まないと…。てな感じです。
    >ilyaについて一度集中的に考えてみたいとも思っています。仏教の空と比較するのも面白いかなと思ったり…。
    >まとまった形で話せるのは当分先になりそうです。

    「レヴィナスと「場所」の倫理」という本は読んだことないですね。そうか、面白いですか。
    「ilya」については、一応、考えたことがあります。
    気まぐれさんの考えがまとまったら、一度、話合ってみたいですね^^

引用返信/返信 削除キー/
■20031 / inTopicNo.40)  Re[19]: 気まぐれさんへ
□投稿者/ 気まぐれ -(2021/12/20(Mon) 22:22:32)
    ふくろうさん

    返信ありがとうございます。
    お元気そうで何よりです。

    私への返信を利用して誰かを煽ってません?(笑)
    相変わらずの議論好きですね^^

    レヴィナスは道半ばです。
    熊野さんの「レヴィナス入門」も読みましたよ!
    面白かったです。
    今は藤岡俊博さんの「レヴィナスと「場所」の倫理」という本を読んでいます。
    こちらもなかなか面白い。
    「全体性と無限」は一応、一読しましたが読み返したいところです。
    その前に「存在の彼方へ」を読んでみようと思っていたのですが、「実存から実存者へ」も読まないと…。てな感じです。
    ilyaについて一度集中的に考えてみたいとも思っています。仏教の空と比較するのも面白いかなと思ったり…。
    まとまった形で話せるのは当分先になりそうです。


    本題については、今日は時間が取れそうにありません。
    質問しといてすみません。
    現象言語の話は出てくるかなと思って期待していたんですけど、なんだか終わってしまったみたいで少し残念です。
    (もう興味ないかもしれないけど)永井を絡めて論じるなら永井の「西田幾多郎」に西田vsウィトゲンシュタインがあったからその辺の話になったら面白そうだなと勝手に妄想してました(笑)

引用返信/返信 削除キー/
■20030 / inTopicNo.41)  気まぐれさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/20(Mon) 20:39:43)
    気まぐれさん

    おやおや、お久しぶりです。
    なんか、隠れて遊んでいたところを見つかっちゃった感じがするのはなぜかな?(笑)

    >ふくろうさん
    >お久しぶりです。
    >目の具合はいかがですか?

    今のところ安定状態を保っています。
    お気遣いどうもm(__)m

    >パニチェさんとの議論、プロレスも含めて楽しく拝見させていただきました。
    >個人的にはプロレスよりもその後の猫を被った?(笑)大人なやり取りの方が好みです。

    私としてはちょっと物足りないんだけど、メビリンと違って、ここでは議論バトルは無理そうなので、郷に入っては郷に従え、に従ってるってとこです。
    まあ私自身は文体を除けば、議論の内容自体は常に同じなんで、変わらないっちゃ変わらないんですけどね。

    >私は今、レヴィナスの読書中であまり参加できないのですが、ちょっと気になったので質問させてください。

    レヴィナスの勉強の進捗具合はどうですか?
    よかったら教えてください。

    >例えば、西田の純粋経験は経験的命題になるのですか?
    >アポステオリな経験的命題かつ語りえないものはないのでしょうか?
    >永井の<私>はそういう部類になるのかなと思いました。

    いや、今回はっきり確信したけどね、永井の〈私〉はナンセンスです(笑)
    決めつけの思い込みってやつですね。
    私見では、内容的には同様の間違いを入不二さんも犯していると思うけど、彼は決めつけるんじゃなくてその根拠を論理化しようとしており、その議論は面白いと思います。

    それと質問に関してですが、基本的誤解があります。

    語りうるもの=経験命題(真偽二値命題・科学言語)が記述し得るもの

    なので、これを前提すると、純粋経験を経験命題で記述できるのなら、イコール語りうるもの、ということになります。
    よって、
    >アポステオリな経験的命題かつ語りえないものはないのでしょうか?
    というのは、語義上、ありえません。


    ところが、とは言えども、ある意味、気まぐれさんが言いたいこともわかる、って面もあるんですよね。あなたが考えていることと一致するかどうかはわからないですけど。

    一方で、西田の純粋経験は、W.ジェームズの直接経験やマッハの中性的一元論などの、広義の現象主義に位置づけられるもので、その解釈に従えば、純粋経験もいわば科学言語の第一次言語である「現象(主義的)言語」で記述されうるものになると思います。
    『論考』が想定していた「私の言語」も、そういうものです。
    したがって、その意味では、語りうるものになるはずです。
    他方で、西田自身は純粋経験を、判断の対象となる命題で記述されうるものではないと言うでしょう。
    確か、西田の純粋経験には美などの超越的意味の経験(芸術的経験)が含まれていたと思うんです。だとしたら、単なる知覚経験(直接経験)ではないわけです。
    とすれば、これは経験命題では記述しえない=語りえないことになります。
    しかも、面白いことに、ウィトゲンシュタインなんかも、現象言語はちゃんとした経験命題ではないんじゃないかってことで考えを改め、実は世界記述のための第一次言語としては放棄してしまうんですよ。

    ただし、西田が行う純粋経験についての議論(メタ議論)は超越論的立場(哲学的立場)からなされており、したがって、西田が純粋経験についてあーたらこーたら述べていることは、「我」を含めて、語りえず、示されるべきことだと言えると思います。

    まあ、そういうわけで、西田とウィトゲンシュタインを比較するのも興味深いと思いますが、けっこう突っ込んで検討しないといけないでしょう。
    前にも少し、メビリンでやりましたが、また、これも個人的に再考してみたいと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■20024 / inTopicNo.42)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ 気まぐれ -(2021/12/20(Mon) 10:30:05)
    ふくろうさん

    お久しぶりです。
    目の具合はいかがですか?

    パニチェさんとの議論、プロレスも含めて楽しく拝見させていただきました。個人的にはプロレスよりもその後の猫を被った?(笑)大人なやり取りの方が好みです。
    私は今、レヴィナスの読書中であまり参加できないのですが、ちょっと気になったので質問させてください。

    例えば、西田の純粋経験は経験的命題になるのですか?
    アポステオリな経験的命題かつ語りえないものはないのでしょうか?
    永井の<私>はそういう部類になるのかなと思いました。

    正直、永井もウィトゲンシュタインの著作も全然読めていない(レヴィナスで手一杯)ので頓珍漢な質問だったら、そのように言ってください。
引用返信/返信 削除キー/
■20020 / inTopicNo.43)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/19(Sun) 22:30:41)
    No20018に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > パニチェさん

    > レスをありがとうございました。
    > いろいろコメントがあったので、どうレスしようかと迷ったんです。
    > しかし、全体として言えば、私が理解してもらおうと意を砕いた論点(語り得るものと語り得ぬものの区別、超越論的なるものと経験的なるものとの区別、T:5.3番台の「私」は普通の一人称代名詞ではないこと、写像理論についてetc.)は何一つ理解してもらえず、当然の結果として何一つ受け入れられませんでした。
    > もちろんその結果自体は残念ではありますが、まあいつも通りというか予想通りでもあり(笑)がっかりってほどではありせん。
    > 考えをまとめる良いトレーニングになったことでよしとします。
    > ただ、私としては、できる限りわかりやすく説明したつもりなので、これ以上議論を続けても、理解を得られる可能性は低いと思われますし、現時点では平行線でしょう。
    > また、それぞれの論点に関する私の説明は、特に珍しいものでもないと思いますので、もう繰り返さないでおきます。
    > ああ、それと今回、永井のウィトゲンシュタイン解釈を復習してみて、その間違いが以前よりはっきりわかったこと、またそれについての批判を提示できたことは個人的な収穫でした。

    > ということで、この辺が潮時かなと私は思っていますが、パニチェさんはどうでしょう?

    そうですね。同意します。
    私も自分の考えをよりまとめることができました。
    ありがとうございました。

    > ここは終了する前に、ここはもう少し説明しとけっていうとことか、これだけは言っときたいってことはありますか?

    また何か確認したいことがあればレスしますので、その時はよろしくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■20018 / inTopicNo.44)  形而上学的主体
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/12/19(Sun) 20:36:32)
    パニチェさん

    レスをありがとうございました。
    いろいろコメントがあったので、どうレスしようかと迷ったんです。
    しかし、全体として言えば、私が理解してもらおうと意を砕いた論点(語り得るものと語り得ぬものの区別、超越論的なるものと経験的なるものとの区別、T:5.3番台の「私」は普通の一人称代名詞ではないこと、写像理論についてetc.)は何一つ理解してもらえず、当然の結果として何一つ受け入れられませんでした。
    もちろんその結果自体は残念ではありますが、まあいつも通りというか予想通りでもあり(笑)がっかりってほどではありせん。
    考えをまとめる良いトレーニングになったことでよしとします。
    ただ、私としては、できる限りわかりやすく説明したつもりなので、これ以上議論を続けても、理解を得られる可能性は低いと思われますし、現時点では平行線でしょう。
    また、それぞれの論点に関する私の説明は、特に珍しいものでもないと思いますので、もう繰り返さないでおきます。
    ああ、それと今回、永井のウィトゲンシュタイン解釈を復習してみて、その間違いが以前よりはっきりわかったこと、またそれについての批判を提示できたことは個人的な収穫でした。

    ということで、この辺が潮時かなと私は思っていますが、パニチェさんはどうでしょう?
    ここは終了する前に、ここはもう少し説明しとけっていうとことか、これだけは言っときたいってことはありますか?
引用返信/返信 削除キー/
■19998 / inTopicNo.45)  補足>ザビビのふくろうさん
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/18(Sat) 07:29:49)
    > 【補足】
    > わかりますか?この違い。奥先生の訳文では、私が自分の魂と呼ぶ世界霊魂がただ一つ存在し、他者の魂も、この世界霊魂として把握する、と読めます。
    > しかし、永井は、これを「私が他者の魂と呼ぶものもただそのようなものとしてのみ把握する」と訳しています。つまり、他者の魂も、その唯一同一の世界霊魂として把握するのではなく、「そのようなものとしてのみ」把握する、と訳すことによって、世界の霊魂が主体によって別々のものが存在することになってしまっているわけです。
    > 明らかに永井は「世界霊魂」を一般的自我と解釈しており、上のパロディー文章のNと同じことを述べていることがわかります。

    > さて、ここの原文はどうでしょうか?
    > Es gibt wirklich nur eine Weltseele,welche ich vorzüglich meine Seele nennne, und als welche allein ich das erfasse, was ich die Seelen anderer nenne.
    > Google翻訳:
    > 私が主に自分の魂と呼んでいる世界の魂は本当に1つだけであり、それだけで私が他の人の魂と呼んでいるものを把握しています。

    > DeepL翻訳:
    > 世界にはただ一つの魂があり、私はそれを特に自分の魂と呼び、それだけで他の人の魂と呼ぶものを把握しているのです。

    > E.Anscombeによる英訳
    > There really is only one world soul, which I for preference call my soul and as which alone I conceive what I call the souls of others.

    > 翻訳は、永井訳以外は、私の魂=世界霊魂=他者の魂として解釈しています。米澤訳は省略しますが、同じです。
    > 明らかに永井は、「世界の魂」を一般的自我とするために、このように訳していることがわかると思います。これは意図的な誤訳と言うべきでしょう。

    パニチェは上記の魂とは独我論的主体(その核心は〈私〉であるが『論考』では純化されていない)と読みます。
    他者が哲学的ゾンビでないと自分(ウィトゲンシュタイン)が推論するのは、この魂の存在(ミクロコスモス)をもって他者の魂(ミクロコスモス)を読み取るからである。
    1915年5月23日の草稿(同書P.212)【世界霊魂がただ一つ現実に存在する】とは(【5.641自我は延長を欠いた点にまで縮退】する以前の)【5.63私は私の世界である】の言い換えであり、他者の霊魂はただ一つある〈私〉の世界霊魂の部分であるという意味です。


    > 【蛇足の言い訳】
    > 当初、『ウィトゲンシュタイン入門』を持っている初学者も念頭において、わかりやすく詳しい説明をしようと思って書き始めたのですが、すぐにその方針は無理だとわかりました。長大になりすぎて、解説書でも書くつもりか?ってなりそうなので(笑)
    > それに議論についてきている人もあまりいそうにないので、最低限、パニチェさんがわかればいいやと思って書いたらこうなりました。それでも長いしね。すんませんm(__)m。
    > もし、質問等ある方がいらっしゃれば、遠慮なくどうぞ。

    丁寧な返信をありがとうございました。パニチェの思うところを遠慮なく返信させてもらいました。

引用返信/返信 削除キー/
■19997 / inTopicNo.46)  本論>ザビビのふくろうさん
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/18(Sat) 07:17:06)
    2021/12/18(Sat) 21:09:32 編集(投稿者)

    > さて、内容についての批判はここから。
    > 上の感想で述べたような事情で、同書における『論考』の独我論批判は、永井哲学批判とかぶらざるを得ない面が出てきてしまう。そこで、批判のポイントを次の論点に絞りたいと思う。
    > (『論考』の独我論は、)認識論的独我論の場合と同様、それは万人に妥当する独我論という逆説的なものになった。『論考』の独我論は一般的自我(誰もが主体としての在り方においてはそれであるような自我)の独我論にすぎない。少なくとも、そう読まれざるをえない。(同書、83頁)
    > すなわち、『論考』の独我論――T:5.3番台で現れる「私」の意味するものが、一般的自我なのか?という問題に絞る。

    はい、この問題の絞り方は的確だと思います。

    > 私が言いたいのは、永井自身がこの教訓を深く味わうべきだ、ということだ。
    > キャロルのパラドックスから得られる教訓とは、何か?
    > それは、果てしのない問答が生じる原因は、語りうるもの(事実)と語りえぬもの(推論を正当化するもの)の混同であり、語りえぬものを語りうるものとしてしまっているがゆえである、ということ。
    > そして永井の言う「「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に必然的に陥らざるを得ないのも、彼が、語りえぬもの(示される私)と語りうるもの(語りうる私)(及びそれに対応する、それらの表現)とを混同し、語りではないものを語りとしてしまっているゆえである(具体的には、『論考』の独我論を、一般的自我についての独我論とみなす)、ということは、この教訓から考えれば明らかなはずなのだ。

    まずここに齟齬がありますね。
    〈私〉は語りえぬものではありますが推論を正当化するものではない。
    〈私〉はデカルトのコギト以上に最も確実に存在する、または存在の根源でもあり、これ以上の確実性のない実在あるいは存在です。
    よって語りうるものと語りえぬものの混同は生じるまずもなく「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」は〈私〉を言語化すると必然的に陥る変質であり、語りえぬひとつの理由でもあります。
    結論から先に述べますとパニチェとザビビのふくろうさんの違いは、やはり当初に感じた通り〈私〉や「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」については、文章あるいは文脈的には理解されているし、先の返信でも述べた通り正鵠を射ていますが、我が事として〈私〉に気付いていないために上記のような齟齬が生じていると想像します。

    > 『論考』が論じる言語は,論理学的,すなわち超越論的に扱われる言語であって,現実の言語(日本語・英語といった自然言語)ではない。それは経験的内容を含まない形式化された言語モデルであり,現実の言語の条件となる唯一の言語である。例えば,命題とは,真偽可能性を有する文のことであって,例えば命題論理学では命題変項P,Q,…のような変項で表される。これらは論理体系の中で定義導入されるものであり,現実の言語ではないし,現実の意味内容をもたない。
    > それゆえ論理法則を表す論理的命題(例えば前件肯定式)は、命題の内的関係という語りえぬものを示す命題である。

    ここもおそらく平行線になるとは思いますが。。。。
    パニチェは『論考』で考察されている言語論は現実の言語を現実の世界に対応したものとして解体、分析した写像理論であると考えています。
    また写像理論へのプロセスにおいて一人称複数代名詞が用いられてるところからしても我々が日常的に使用している言語である。
    例えば【5.61 論理は世界を満たしている。世界の限界は、論理の限界でもある。従って我々は論理において、世界にはこれこれが存在するが、かのものは存在しない、等と語ることはできない。というのも外見上このことは或る可能性の排除をお前提にしているが、この排除は実情ではありえないからである。というのも仮にそうだとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならないからである。つまりそのようになるのは、論理が世界の限界を他の側からも考察しうる場合なのである。我々が考えることのできないことを、我々は考えることができない。従って我々が考えることができないことを、我々は語ることもできない。】で一人称複数代名詞を用いている理由を普遍的な言語論への論理的プロセス以外に別の用途が考えられますか?

    > この『論考』の扱う写像言語,要素命題の真理関数としての命題言語は,ユークリッド幾何学と同様,現実の言語ではない。誰が行おうとユークリッド幾何学(ゲーム)が唯一のものであるように,『論考』の命題言語も,唯一の言語(ゲーム)なのである。当然,「私の言語」も「我々の言語」も全く同一のものである。それは「私のユークリッド幾何学」も「我々のユークリッド幾何学」も全く同一唯一なのと同様なのだ。その意味で,『論考』の言語は,それ自体が超越論的言語なのである。

    上記を想定されるのは具体的には『論考』のどの部分からでしょうか?
    また「『論考』の扱う言語が超越論的言語であり、現実の言語でないとするなら以下はどのように説明されますか?

    ***** 大修館書店「ウィトゲンシュタイン全集1 P.249」よりの引用 *****
    名が対象を指示するならば、名は対象に対してある関係にある。この関係は対象の論理的な種類により完全に条件づけられ、他方はこの種類を特徴づけるものである。
    そして明らかに対象は定まった論理的な種類を持たねばならず、対象はそれが正にあるとおりに、合成されているか単純かである。
    「時計は机の上に坐っている」は意義を欠いている!
    命題の合成された部分のみが真か偽かでありうる。
    名はその完全な複合的な意味を一つのものに縮約している。
    *************** 引用終わり ***************

    上記の名は我々が日常的に使うものであり、その名には対象に対しての論理的な種類を持っているということでしょう。
    現実の言語を元にした名であるし、その名も論理的な種類を有しているため扱いによっては写像理論上に真偽や有意義、無意義が生ずるということです。
    「時計は机の上に坐っている」は無意義ですが言語としては超越論的言語ではなく、現実の日常言語を対象としたものです。

    > もし,永井が誤解したように,「私は私の世界である」が経験的一般的命題であり,すべての自我について一般的に成り立つ真理であるなら,「Aの世界(ミクロコスモス)」「Bの世界(ミクロコスモス)」「Cの世界(ミクロコスモス)」…が成立することになってしまい,Aが「私の世界だけが存在する」と言ったら,「いや,私の世界だけが存在する」と,BもCも同等に主張する権利があることになり,いつまでたっても決着がつかない。つまり,このようにアポステリオリな一般命題と解釈するなら,独我論的主張は,明かに不整合なものになってしまう。まさに,これは「私は私の世界である」が示されるべき真理を表す超越論的命題であるのに,それを語り得る命題と誤認しているから。
    > そもそも「世界」について語ることはできない。したがって「私は私の世界である」も世界について語る命題ではなく、あくまで超越論的命題なのである。

    【5.63私は私の世界である。(ミクロコスモス。)】の草稿1916年10月9日(同書P275)には【しかし出来事がくり返されるのが不可能ということは、物体が同じ時に二つの場所にありえないということと全く同様に、出来事の論理的本質の中にあるのである。人間がミクロコスモスであることは真である。私は私の世界である。】とあります。
    つまり全ての【人間がミクロコスモスである】ということと私がミクロコスモスであるということが同時に語られています。
    この草稿はすべての自我についてミクロコスモスは成り立つ真理であることを示唆しています。

    一般的に独我論と呼ばれるものは、それが哲学という分野に属するテーマである限りにおいて(現在においても)万人にとっての独我論です。
    「意識の超難問」や〈私〉を哲学の主題とする以前にはこの矛盾を孕んだ独我論しかありません。ウィトゲンシュタインの前期独我論も御多分に洩れず『論考』時点においては一人称複数代名詞によって導かれた似非独我論です。結論としては、写像理論が誰にでも当てはまる普遍的な言語論を想定している以上、そこで示される独我論も誰にでも当てはまる(今も普通に独我論として用いられる)似非独我論であるということです。

    > *************
    > 上に述べた独我論に対して、
    > この形而上学的主体を万人に共通する主体(一般的自我)と解釈するということは、「語りえぬもの」を「語りうるもの」とみなす、ということです。
    > したがって、
    > >ここのところが形而上学的主体は「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に陥るような主体ではないということです。
    > というのは同意できません。
    > まさに形而上学的主体(語りえぬもの)を一般的自我(語りうるもの)と解釈することに「私は私の世界である」という命題が語る命題とみなされ、Nのように、誰もが「世界は私の世界だけだ」「いや、私の世界だけが存在する」というマウントの取り合いが始まるでしょう。
    > すなわち、「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」のスタート地点がまさにここなのです。

    ここは同意できません。
    先のウィトゲンシュタインのアフォリズムは額面通り【正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。──だが、その私とは誰だ。──くそっ。私の言い方はまずいがそこに何かがあるんだ!君だって私の個人的な経験というものがあり、またそれには最も重要な意味での隣人というものがないことを否定すまい。】という〈私〉を言語化したために陥る「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」のもどかしさと、他の誰にもない〈私〉があるという叫びと、不思議なことに日常の言語ゲームでは不便さが感じられない、逆説的に言えば〈私〉は言語ゲームの網の目をもすり抜ける対象であるという意味です。
    同様に以下のアフォリズム(永井氏も『ウィトゲンシュタイン入門 P.19』で引用していますが)も同じでしょう。

    【それでも[私が独我論を代弁して]この独我論を、「私が見るもの(又は、今見るもの)だけが本当に見られるものである」、』と言って表現できる。そしてまた、「『私』という語でL・Wを意味していない。しかし、たまたまこの私が事実としてL・Wである場合には、他人がこの『私』をL・Wの意味にとってくれて結構だ」、と言いたい。だがその代わりに、「私は生命の器だ」、と言っても同じなのだ。注意してほしい。つまり肝心なのは、私の言うことを聞く人がそれを理解できてはならないことなのである。他人には「私が本当に意味すること」がわかってはならぬことが肝心なのである。(同全集、青色本P117)】

    上記も〈私〉は日常的な言語ゲームの網の目をすり抜けるために他人に理解されないことが〈私〉の本質的な性質であるということを述べています。
    〈私〉を見性とまでは言いませんが〈私〉を知っている人が書く言葉によって、本当にその当人が我が事として〈私〉を知っているかどうかは(〈私〉を知る者は)分かります。
    永井均氏は『論考』よりウィトゲンシュタインの〈私〉を見ているようですが、パニチェは『論考』時点では感じ取れるようなアフォリズムはありません。
    上記の『青色本』や先に引用した『「個人的経験」および「感覚与件」について』などなどからです。
引用返信/返信 削除キー/
■19996 / inTopicNo.47)  前書き>ザビビのふくろうさん
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/18(Sat) 07:15:40)
    2021/12/18(Sat) 22:34:49 編集(投稿者)

    おはようございます、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No19961に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > >永井均氏についての自説というのは〈私〉を主題とした永井哲学への反論ですか、それとも永井均氏のウィトゲンシュタイン論への反論ですか。
    > これは両方,というのが回答になりますね。
    > というのも,後でも書きますが,永井の『論考』の独我論についての解説は,自身の〈私〉の哲学の立場から,もともと不完全な独我論として批判的に解釈したものです。
    > したがって,『論考』の独我論についての批判の根拠は,永井の〈私〉の哲学にあります。

    ここは同意します。ニーチェはプラトニズムを天上から大地に引きずり下ろした上で叩き壊し、その上に自らの城を立てています。そのニーチェも一部では未完の主著と評される「力への意志」をハイデッガーは自らの哲学のたたき台にしました。多くの哲学者は先人の哲学をたたき台や踏み台にして構築していくものではないでしょうか?

    > だから,永井による『論考』批判に対する反論は,必然的にその批判の根拠である永井の〈私〉の哲学批判というものになりました。
    > 【永井均著『ウィトゲンシュタイン入門』の独我論解釈を批判する】
    > 『ウィトゲンシュタイン入門』,とりわけその中心テーマである「独我論」についての解釈は,序論からも明らかなように,『論考』そのものに可能な限り内在し,そのロジックを明らかにしようとするものでは全くない。
    > あくまで永井哲学の〈私〉の哲学の観点から,すなわち『論考』の外の視点に立ち,『論考』の「私」を批判的に捉えたもの。
    > すなわち,永井と同じ〈私〉が中期に現われるとし,『論考』の独我論も真意はそこにあったとして,『論考』の独我論は,最初から不整合・不完全なものとして解説がなされている。
    > 言ってしまえば,ウィトゲンシュタインをだしにして,自らの独在論を語ったものなのだ。したがって,永井の〈私〉についての思想「独在論」を理解していない者にとっては,この書におけるウィトゲンシュタインの独我論の説明は,ほぼ理解不可能であると私には思われる。
    > これをウィトゲンシュタイン哲学の入門書として書くってどうよ?っていうのが、正直な感想。

    上記、了解しました。
    以降のパニチェの返信は永井哲学や永井のウィトゲンシュタイン論をベースとしたものではなく、パニチェが探究している「比類なき先言の<私>」や、かなりかぶりますがパニチェのウィトゲンシュタイン読解からの異論・反論・質問とします。ただザビビのふくろうさんのウィトゲンシュタイン論は、部分では同意できないところはありますが総論的には「そういう読解もあるのか」と新たな視点を示唆するものではあります。
    平行線になるだろうと思いつつも忌憚なくレスさせてもらいます。

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■19964 / inTopicNo.48)  (/・ω・)/うましか出張沼
□投稿者/ うましか -(2021/12/15(Wed) 20:57:45)
    2021/12/15(Wed) 21:02:21 編集(投稿者)

    パニチェさん、こんばんはー

    沼柱pipitさんのカント沼からはじめての出張ですm(__)m

    *******

    つ、ついに全集5を手にいれたんですね! (;´・ω・)

    「ウィーン学団」はさておき、"Lecture on Ethics"は、うましかにとってはうれしい(・・;)短さなのです。

    個人的にはゴールトンの話題(p.383)が気になります。「ゴールトン」って、たぶん、Francis Galtonのことかなとおもいます。Wikipediaで「ゴルトン」と検索してくださいませ。

    ネット上では、これ↓で原典が(部分的かな?)確認できるようです
    (・ω・)ノ あたまにhttpをつけてください。

    ://sackett.net/WittgensteinEthics.pdf

    では、カント沼に泳いで帰ります〜 (/・ω・)/


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