□投稿者/ うましか -(2021/11/29(Mon) 18:24:42)
| 2021/11/29(Mon) 18:25:28 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんはー
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◆ ところで、客観自身に先行し、だから客観の概念がそこではア・プリオリに規定され得るような或る外的直観は、いかにして心に居合わせる〔beiwohnen〕ことができるのであろうか?明らかにこの外的直観が客観によって触発され、だからこのことによって客観の直接的な表象≠、言いかえれば直観≠得る主観の形式的な性質として、単にこの主観の内にその座を占める限りにおいて、それゆえ外的な感官一般の形式としてのみその座をしめる限りにおいて以外ではあり得ない。
◆ それゆえ、私たちの説明だけがア・プリオリな綜合的認識としての幾何学の可能性≠明白ならしめるのである。このことをなし得ないいずれの説明様式も、たとえ外見上は私たちの説明といくらか類似しているにせよ、この特徴で私たちの説明から最も確実に区分され得る。
--- No. 19216からの続き---
◇前述の諸概念からの結論
◇ a) 空間が示して見せるのは、何らかの諸物自体〔Dinge an sich〕の性質〔Eigenschaft〕、或いはそれらの相互関係における諸物自体では全然ない。 言いかえれば、対象自身に付着していて、だから直観のあらゆる主観的条件〔subjektiven Bedingungen〕が捨象されても残るような、諸物自体の規定では全然ない。
◇なぜなら、絶対的な〔absolute〕規定も相対的な〔relative〕規定も、その規定が帰属すべき〔zukommen〕物の現存在〔Dasein *1 der Dinge〕に先立ち〔vor〕、したがってア・プリオリには、直観され〔angeschaut〕得ないからである。
*1 Dasein は、手持ちの辞書によれば、現にある(いる)こと、居合わせることとあります(;´・ω・)
◇ b) 空間は、単なる外的な感官の全ての現象の形式〔nur die Form aller Erscheinungen ausserer Sinne〕、言いかえれば、私たちにはそのもとでのみ外的直観が可能である感性〔Sinnlichkeit〕の主観的条件以外の何ものでもない。
† 原佑訳上巻、p.154〜p.155参照 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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W−4 No.19542 W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216 V−7 No.18378、V−8 No.18764 V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323 V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841 U−1 No.16741、U−2 No.16783 T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495
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第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783 第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764 第三項 No.18802,19157,19216,19542
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