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Re[97]: :つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/14(Sun) 15:21:47)
| No44893のカントののつづき的なの
No43732に、 @「第一版では知覚と判断のレベルが明確に区別されている」 から、 No43733に、 A「第一版で三段階に分けていた綜合を「形態的綜合」という概念で一挙に説明しようとする」「知覚ですらカテゴリーに従わざるを得なくなる」 ってなっていくことについて、
No41075 B「カントはこう考えた。じつは、感性の時間的・空間的形式によって、感覚が整理されてゆくさい、すでに悟性が働いていたのである。」 No41075 C(c-p)私たちが何かを〈知覚すること〉において、“すでに”概念的思考〈思考による概念〉が伴ってる(組み込まれている)。 No41615 (資料E)(注5) D「カントにおいて、原初的な経験は知覚判断を通して間接的に考察の舞台に登場する。知覚判断は、経験判断に対し、直接的な知覚に基づく判断と規定されるが、しかし、この判断は経験的な意味での現象を開示し、経験的な場面では仮象に陥る危険性を持つ判断として語られていることから明らかなように、客観的妥当性を持たない判断として消極的に規定される。カントは知覚判断の経験的判断に対する先行性を語るが、しかし、原初的経験の科学的な認識に対する地盤性を必ずしも積極的に評価しているとは言い難い。」 そしてメルポンは、 No41741 E『認識の〈質料〉は、意識の自己反省に際して、意識によって設けられる極限概念となり、もはや、認識を構成するものではなくなるのである。だが、そのときから、知覚は「悟性的認識」の一変種となり、またそれのもっている積極的な面から言えば〈判断〉となるわけである。』
としたら、で見ると、
カントは最初、知覚(感性の領域)と判断(思考の領域)のレベルを区別していた。 そして、 No41672(本Ko)から、 (p54) F『私たちのすべての経験をもってして始まる。このことに、なんら疑いの余地はない。』 G『感性的印象の性の素材を、対象の認識・・・・へと加工するということをひき起こす』 (p56) H『しかし、私たちのすべての認識が経験をもって始まるとしても、だからといって私たちの認識がすべて経験か生じるのではない。というのは、私たちの経験認識ですら、私たちが印象によって受け取るものと私たち自身の認識能力が(感性的印象をたんなるきっかけとして)自分自身から提供するものから合成されたものであるということも、きっとありうることだろうとからである。』
っていうふうに、人間の意識のなかの「認識」について考えていったんだけど、 いつのまにかカントが考え出したカテゴリー(純粋悟性概念)に知覚を包摂しようと論じるようになっていった。 ようするに、純粋悟性概念の演繹(正当性)を論じるようになっていった。それはAにあるよな「図式論」でもって。
カントの図式論のわたしのイメージをちょっと書くと、 (本Ko)(p242) 『皿の経験的概念は、このような仕方で円という純粋幾何学的な概念と同種性をもっている。皿という経験的概念において考えられうる丸さは、円という純粋幾何学的な概念において直観されるからである。』 ってあるんだけど、わたしのばあいまずこれないな〜、って。 皿っていうの、わたしのばあい、形から見ると丸っぽかったり、四角ぽっかたり、三角ぽかったり、なんかふにゃふにゃしたのもあったり(もっともカントの時代では丸っぽいのしかなかったからかもしれないけど)、なにか食べものをのせる比較的ひらべったい器、っていうイメージ。だから、人間によって作られた皿じゃなくても、大きな葉っぱとか、手のひらだって、皿になりうるのね。 幾何学的概念の「円」っていうのは浮かんでこないのね。わたしの皿の経験的概念は「円」じゃないっていうこと。 カントは幾何学をお勉強して、そこから皿を見る、っていうのがあるのかも?ようするに、すでに科学的知識を身につけた大人の返事的になってるんじゃないかしら。カントの「直観」は”考えられたも”のとなってる、とも見れる。 もっともわたしのばあい幾何学みたいな知識がプアーで、物事を科学的に見る、っていうことができないからかもだけどね。
つれづれ21も101になったので、なんか長くなっちゃたけど、これまでカントのを見てきたなかで、今のところのわたしの感じをざっと書いて見たよ。 第一版から第二版にカントのコギトが向かっていくところからフッサールのコギトの志向が違ってゆくのかもしれない、ってわたし見てるとこ。 このつづきはつれづれ22へ、っていうことになるかな。
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