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Re[89]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/11/12(Sun) 19:24:58)
| No34813の(h)の、 『現象学の最も主要なテーマとして提起した「自然的世界概念」あるいは「生活世界」』の、 「自然的世界概念」なんだけど、 またメルポンのを書き写すね(たぶん前にも書いたと思うけど)。
(o)『‥‥現象学とは本質の研究である。現象学によれば、あらゆる問題は、もろもろの本質、例えば知覚の本質、意識本質などを定義することによって解決されるはずである。しかし現象学とは、また、本質を実存のなかに戻し、人間と世界とを理解するには、それらの「事実性」から出発するほかないと考える哲学でもある。それは自然的態度から生ずるさまざまな主張を理解するために、かえってこれらの主張を保留する超越論的な哲学ではあるが、しかしまた、世界がつねに反省に先だって、廃棄されえない現存として、「すでにそこに」あることを認める哲学でもある。そして世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである。‥‥』(『知覚の現象学』p1-2)
(p)『われわれは物それ自体を見ており、世界はわれわれの見ている当のものである、――こういうたぐいのきまり文句は、自然的人間と哲学者に共通の信念を表しており(哲学者といえども、眼を開くやなやそう考えざるをえまい)、われわれをわれわれの生活に含まれている声なき「臆見」の深い地層に送り返すのである。だが、この信念には奇妙なところがあって、もしそれを命題や言表に明確に表現しようとすれば、つまりわれわれとは何であり、見るとは何であり、物とか世界とは何であるのかを自問してみるならば、われわれはさまざまの難問や矛盾の迷宮に入り込むことになるのだ。 [この章の表題の向かい側に、著者の注]――信念という概念を明確化すべし。これは決断的な意味における信念ではなく、一切の定位以前にあるものという意味での信念であり、動物的および[?的]信念である。』(『見えるものと見えないもの』p1)
っていうのがあって、 ここに『自然的態度』『この素朴な触れあい』(o)とか、『自然的人間』(p)っていうのある。
No34770の(e)に「学的解釈」 No35001の(k)の原注に「理論的実践」 No35002の(m),(n)には「科学」 っていうのがあって、 で、ちょっと思ったんね。
人(私)を、「科学者や学者」と「自然的人間」っていうふうに分けて見たのね。(「学者」のなかに「哲学者」も含めてるよ) わたしのような科学者でも学者でもない人のことを「自然的人間」って呼ぶことにして、 そして科学者や学者の言う「世界」じゃなくて、 〈生きられた生活世界のなかで、この世界というものが、自然的人間において、自然と形成されてゆく〉 こういうのを「自然的世界概念」って言ってるんじゃないかな? って。 ひとまずこう見とく。 もっとも、科学者や学者さんだって基本自然的人間にはかわりないと思うけどね。
それにしても、(p)の『(哲学者といえども、眼を開くやなやそう考えざるをえまい)』って〜、 メルポンも哲学者のくせにネ。でも、こういう自明さ(信念)について問うていくのが現象学なのかも。
あと、 No35001の(k)原注に 「世界信念」っていうのあるけど、 〈「世界は存在する」という信念〉って、ひとまずしとく。
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