TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

■43082 / inTopicNo.1)  ふくろうさんへ
  
□投稿者/ 気まぐれ -(2025/05/10(Sat) 07:39:31)
    No43068に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > 気まぐれさん、こんばんは。
    >
    > 本、読んでますよ〜。
    >
    > 面白く読めてます。
    >
    > 気まぐれさん、けっこう文章上手いですね(笑)
    >
    > 少なくとも、私にはわかりやすいです。
    > この手の本で、わかりやすいのは、けっこうな美徳だと思いますよ。

    ふくろうさん

    おはようございます。

    お読み戴いているのですね!嬉しいです^^
    わかりやすいと言っていただけたのもうれしいです。ありがとうございます!

    > 今、「イスラームにおける存在と本質」のあたりを読んでいるので、
    > 読了するなり、あるいは本編を読み切ったところくらいでレスしたほうがいいかなと思っています。
    >
    > でも、質問があれば、聞くかも。
    >
    > よろしくお願いします。

    了解です!
    感想でも質問でも、批判でも!
    お待ちしていますね。

    ps.
    ふくろうさんも積読だらけだと思いますが、もう一冊だけ紹介させてください。
    別のところでも言及したのですが、以前紹介しました永井晋先生が新著を出されまして、これ、結構気に入っているんです。
    私の言うところの「合理性を超えるもの」をより精緻に現象学の観点から浮き彫りにされている気がするのです。
    ぜひ読書候補に入れていただければと思います^^

    永井晋『現象しないものの現象学 生命・文字・想像界』 ぷねうま舎

引用返信/返信 削除キー/
■43068 / inTopicNo.2)  Re[63]: 気まぐれさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2025/05/09(Fri) 20:04:58)
    気まぐれさん、こんばんは。

    本、読んでますよ〜。

    面白く読めてます。

    気まぐれさん、けっこう文章上手いですね(笑)

    少なくとも、私にはわかりやすいです。
    この手の本で、わかりやすいのは、けっこうな美徳だと思いますよ。

    今、「イスラームにおける存在と本質」のあたりを読んでいるので、
    読了するなり、あるいは本編を読み切ったところくらいでレスしたほうがいいかなと思っています。

    でも、質問があれば、聞くかも。

    よろしくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■42966 / inTopicNo.3)  ふくろうさんへ
□投稿者/ 気まぐれ -(2025/05/03(Sat) 19:22:48)
    No42884に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    ふくろうさん

    こんばんは。
    ちょっと返信しますね〜。レスはいつでも〜。

    >
    > 「私が今此処にこのようにして(この運命のもとに)在る」ということは、神の与えたもの、在らしめたものである。
    > すなわち、私という存在者の存在は、いわば神の作品(「運命」)であり、神の意志の顕われである。
    > 私は存在理由があるからこそ、あるべくしてあるのである(超越的必然性)。
    > それゆえ私はこの運命が与えられた理由を神に問うてはならない(絶対肯定)。
    > それは、例えば詩人に、この詩をなぜ書いたのか?と尋ねるようなもの。
    > あるいは、演奏家がベートーベンに、なぜこの曲を書いたのか?と尋ねるようなもの。
    > 私のなすべきは、私はこの与えられた私の運命を、いかに演奏するべきか、すなわちいかに生きるべきかを、この運命に示された神の意図を自らに問いつつ(暗号解読)、演奏(プレイ)=生きねばならない。

    これ、その通りだと思います。
    イブン・アラビーの「神的顕現」に親和性が高いんじゃないかな〜と思いました。
    ちょっとご紹介までに、私が書いた文章を引用させていただきますね。

    「イブン・アラビーの世界観を一言で言うなら「神的顕現」となると私は考える。この世界は全て神の現れであるという世界観である。これだけを読むと汎神論的な印象を持つだろう。それは誤りとは言えないが精確でもないと私は思う。汎神論と神的顕現の違いを明確にするのは今後の私の課題でもあるのだが、現時点での私の理解は次のようなものである。素朴な汎神論は創造主としての(対象的な)神が、あらゆる被造物に宿っているとされているのではないかと思う。少なくともイブン・アラビーの神的顕現はこのような素朴な汎神論ではないと私は考えている。神、イスラーム教でいうアッラーがまず在って、それがアッラーによって創られた被造物に宿っているということではないのだ。神的顕現において顕現する神は、いわば純粋経験的神である。つまり、被造物を超越した対象的な神ではないのだ。超越しているのは被造物ではなく、創造主と被造物という対象化そのものである。ここにまず、今まで見てきた「合理性を超えるもの」との同型性を観ることができると私は考えている。つまり、主体と客体のような二項対立的な対象化が成立する以前の絶対無分節状態を根源とし、その絶対無分節者が分節するということを論じるところに同型性を見るということである。」

    それで、私は以下に懐疑的なのです。

    >それゆえ私はこの運命が与えられた理由を神に問うてはならない(絶対肯定)。

    理由を問うことそれ自体が私という場において現れている神の命令である、と最近思うのです。
    ちょっとこじつけに聞こえるかもしれないのですが、イスラーム思想の観点からは以下のように言えるのではないかと思っています。
    有名なHadith(ムハンマドの言行録)に以下のようなものがあり、イスラム神秘主義者に頻繁に引用されています。

    「我は隠れた宝だった。そして我は知られることを愛した。かくして我が知られるよう、被造物を創造した」

    *上記で我=神

    単純に受け取れば、神が私として顕現するのは、自身を知るためです。だとするならば、顕現した理由を求めることも神の希求に応えることにほかならないのではないか、と。

    まあ、ここに書いたことはすべて言い訳で、ただ納得できずに駄々をこねているだけのような気もしますけど(笑)

引用返信/返信 削除キー/
■42898 / inTopicNo.4)  Re[64]: :気まぐれさんへ
□投稿者/ 気まぐれ -(2025/05/01(Thu) 22:13:20)
    2025/05/02(Fri) 07:27:22 編集(管理者)

    No42895に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > 気まぐれさん、こんにちは。
    >
    ふくろうさん

    こんばんは。

    >
    > そうですね。
    > 明日からしばらく出かけますので、一応本も持っていくつもりですが、
    > 読めるかどうかは、正直心もとないです。
    >
    > 私も『<自己>の哲学』は読みましたが、そのときの関心とずれていたのか、覚えていません(笑)
    > 今のほうが、関心をもって読めるかも。
    > 『ウィトゲンシュタインから道元へ 私説『正法眼蔵』』
    > は直近で再読しました。
    > 今、手元にあって未読なのは、以下の3冊。
    > 『理性の限界内の『般若心経』ウィトゲンシュタインの視点から』
    > 『「西田哲学」演習』
    > 『「絶対矛盾的自己同一」とは何か』
    > 最後の本は、井筒について論じている三つの章がありますので、ちょっと期待です^^
    > (仏教関連でなく、直接ウィトゲンシュタイン哲学を論じた著作はほぼ全部手元にあります)
    >
    > 少し遅れるかもですが、出先からでもちょこっとレスはできますので、関係ない話題でもいいので、このトピで気軽に話してください。

    了解です。
    明日までは仕事ですが、明後日からはちょこちょこ書き込みできると思います。
    黒崎先生の『「絶対矛盾的自己同一」とは何か』をポチりました(笑)

    > あ、そうだ。
    > おすすめの「隠れ名曲」ってありません?(笑)

    私、あまり音楽聞かないんですよ(笑)
    車に乗ってたときはオルタナティブロック(といってもメジャーどころ)とか聞いてましたが、
    通勤も歩いて10分なので維持費を考えて車を売ってしまってからはほとんど聞いてないなぁ。
引用返信/返信 削除キー/
■42895 / inTopicNo.5)  Re[63]:気まぐれさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2025/05/01(Thu) 13:36:41)
    気まぐれさん、こんにちは。

    No42892に返信(気まぐれさんの記事)
    > ■No42884に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >>気まぐれさん、こんばんは。
    >>
    >>最初に、少し改まってお礼を言います。
    >>私の前回のレスは、気まぐれさんにとって比類のない意義をもつ思想について、
    >>疑似問題じゃないのか、というような、取りようによっては大変不遜というか、失礼なことを述べたものです。
    >>にもかかわらず、冷静に受け止め、きちんとレスをしてくださったことに感謝します。
    >>ありがとうございます。これはなかなか、ないことです。
    >>
    >>それと、私の述べた内容を、ちゃんと理解してくださっていること、これも大変嬉しいことでした。
    >>もちろん、気まぐれさんにとっては受け入れがたい内容であるにせよ、ちゃんと私の意図が届いているということが、なかなか有難いことだと思います。
    >>で、後での言い訳めきますが、私の意図としては、もちろん、気まぐれさんの考えをくだらない価値のないものだというように貶めるつもりはありません。
    >>私は昔、『論考』を読んで、ウィトゲンシュタインにヤラレて、ここに自分の進むべき道があると確信してしまったので、自称弟子にならざるをえなかったわけです。
    >>そうである限り、やらなきゃならないものは仕方がないので考え続けると。これは自分の業だと思ってやってきたわけです。
    >>だから、気まぐれさんが、井筒にイカサレタ(⁉)のであれば、それはもう仕方ない、ってことはよくわかります。他人に何を言われようと、とことんやるしかない。
    >>そしてもちろん、それを軽んじるつもりは全くありません。
    >>それどころか、ずっと考え続けて、本まで書かれたということは尊敬に値すると思っています。
    >>
    >>なんか長々書きましたが、一応言い訳はこのへんにしておいて、いつもどおり、遠慮なく言いたいことを言わせてもらいますね(笑)
    >>
    >
    > ふくろうさん
    >
    > おはようございます
    > 返信ありがとうございます。
    >
    > 私としても感謝です。私の意図するところを汲み取って返答を戴けるというのはうれしいものですね(貶められているとは全然思いませんでしたよ〜)。
    > すべての議論がそうであるわけではないので余計に。
    > 私の思考において、ふくろうさんの影響は小さくない気がするのですよね。よく思うんですよ、これについてウィトゲンシュタインならどういう反応をするだろうか、ふくろうさんなら何と言うだろうかって。私にとって仮想論敵の一人なんですよね、ふくろうさんは。
    > いつもお世話になってます(笑)
    >
    > さて、本題への返答なのですが、私の方も少しお時間いただきたいと思います。
    > 喫茶店らしく、のんびりいきましょう^^
    >

    そうですね。
    明日からしばらく出かけますので、一応本も持っていくつもりですが、
    読めるかどうかは、正直心もとないです。

    > 取り急ぎ、読みましたというご報告と、お礼まで。
    >
    > ps.
    > 黒崎先生の著作はなにを読まれてるんです?
    > 手元に『<自己>の哲学』があったのですが、内容をほとんど覚えていないという…orz
    >

    私も『<自己>の哲学』は読みましたが、そのときの関心とずれていたのか、覚えていません(笑)
    今のほうが、関心をもって読めるかも。
    『ウィトゲンシュタインから道元へ 私説『正法眼蔵』』
    は直近で再読しました。
    今、手元にあって未読なのは、以下の3冊。
    『理性の限界内の『般若心経』ウィトゲンシュタインの視点から』
    『「西田哲学」演習』
    『「絶対矛盾的自己同一」とは何か』
    最後の本は、井筒について論じている三つの章がありますので、ちょっと期待です^^
    (仏教関連でなく、直接ウィトゲンシュタイン哲学を論じた著作はほぼ全部手元にあります)

    少し遅れるかもですが、出先からでもちょこっとレスはできますので、関係ない話題でもいいので、このトピで気軽に話してください。
    あ、そうだ。
    おすすめの「隠れ名曲」ってありません?(笑)

引用返信/返信 削除キー/
■42892 / inTopicNo.6)  ふくろうさんへ
□投稿者/ 気まぐれ -(2025/05/01(Thu) 06:39:24)
    No42884に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > 気まぐれさん、こんばんは。
    >
    > 最初に、少し改まってお礼を言います。
    > 私の前回のレスは、気まぐれさんにとって比類のない意義をもつ思想について、
    > 疑似問題じゃないのか、というような、取りようによっては大変不遜というか、失礼なことを述べたものです。
    > にもかかわらず、冷静に受け止め、きちんとレスをしてくださったことに感謝します。
    > ありがとうございます。これはなかなか、ないことです。
    >
    > それと、私の述べた内容を、ちゃんと理解してくださっていること、これも大変嬉しいことでした。
    > もちろん、気まぐれさんにとっては受け入れがたい内容であるにせよ、ちゃんと私の意図が届いているということが、なかなか有難いことだと思います。
    > で、後での言い訳めきますが、私の意図としては、もちろん、気まぐれさんの考えをくだらない価値のないものだというように貶めるつもりはありません。
    > 私は昔、『論考』を読んで、ウィトゲンシュタインにヤラレて、ここに自分の進むべき道があると確信してしまったので、自称弟子にならざるをえなかったわけです。
    > そうである限り、やらなきゃならないものは仕方がないので考え続けると。これは自分の業だと思ってやってきたわけです。
    > だから、気まぐれさんが、井筒にイカサレタ(⁉)のであれば、それはもう仕方ない、ってことはよくわかります。他人に何を言われようと、とことんやるしかない。
    > そしてもちろん、それを軽んじるつもりは全くありません。
    > それどころか、ずっと考え続けて、本まで書かれたということは尊敬に値すると思っています。
    >
    > なんか長々書きましたが、一応言い訳はこのへんにしておいて、いつもどおり、遠慮なく言いたいことを言わせてもらいますね(笑)
    >

    ふくろうさん

    おはようございます
    返信ありがとうございます。

    私としても感謝です。私の意図するところを汲み取って返答を戴けるというのはうれしいものですね(貶められているとは全然思いませんでしたよ〜)。
    すべての議論がそうであるわけではないので余計に。
    私の思考において、ふくろうさんの影響は小さくない気がするのですよね。よく思うんですよ、これについてウィトゲンシュタインならどういう反応をするだろうか、ふくろうさんなら何と言うだろうかって。私にとって仮想論敵の一人なんですよね、ふくろうさんは。
    いつもお世話になってます(笑)

    さて、本題への返答なのですが、私の方も少しお時間いただきたいと思います。
    喫茶店らしく、のんびりいきましょう^^

    取り急ぎ、読みましたというご報告と、お礼まで。

    ps.
    黒崎先生の著作はなにを読まれてるんです?
    手元に『<自己>の哲学』があったのですが、内容をほとんど覚えていないという…orz

引用返信/返信 削除キー/
■42884 / inTopicNo.7)  Re[61]: 気まぐれさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2025/04/30(Wed) 20:30:46)
    気まぐれさん、こんばんは。

    最初に、少し改まってお礼を言います。
    私の前回のレスは、気まぐれさんにとって比類のない意義をもつ思想について、
    疑似問題じゃないのか、というような、取りようによっては大変不遜というか、失礼なことを述べたものです。
    にもかかわらず、冷静に受け止め、きちんとレスをしてくださったことに感謝します。
    ありがとうございます。これはなかなか、ないことです。

    それと、私の述べた内容を、ちゃんと理解してくださっていること、これも大変嬉しいことでした。
    もちろん、気まぐれさんにとっては受け入れがたい内容であるにせよ、ちゃんと私の意図が届いているということが、なかなか有難いことだと思います。
    で、後での言い訳めきますが、私の意図としては、もちろん、気まぐれさんの考えをくだらない価値のないものだというように貶めるつもりはありません。
    私は昔、『論考』を読んで、ウィトゲンシュタインにヤラレて、ここに自分の進むべき道があると確信してしまったので、自称弟子にならざるをえなかったわけです。
    そうである限り、やらなきゃならないものは仕方がないので考え続けると。これは自分の業だと思ってやってきたわけです。
    だから、気まぐれさんが、井筒にイカサレタ(⁉)のであれば、それはもう仕方ない、ってことはよくわかります。他人に何を言われようと、とことんやるしかない。
    そしてもちろん、それを軽んじるつもりは全くありません。
    それどころか、ずっと考え続けて、本まで書かれたということは尊敬に値すると思っています。

    なんか長々書きましたが、一応言い訳はこのへんにしておいて、いつもどおり、遠慮なく言いたいことを言わせてもらいますね(笑)

    No42848に返信(気まぐれさんの記事)
    > ■No42842に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >>気まぐれさん、こんばんは。
    >>
    >>>>神は超越的存在であり、存在することの根拠だと認めることと、超越的存在から非超越的存在が生じることを認めることは同じでしょうか?
    >>>私としては同じではない、と考えています。
    >>>この点については、もう少し述べたいことがありますので、改めてレスさせてもらいますね。
    >>
    >>私は,「無分別者」と言われるものに対して,懐疑的なのです。
    >>
    >>「今此処に在る私」
    >>は,絶対の今,絶対の此処,絶対の存在,絶対の私,を言わんとするものですよね。
    >>これをスクリーン上に映し出される世界=私の世界に見立てることができるでしょう。
    >>そうすると当然,「今しかない」のであって,「私の前後(先後)」などというのは存在しません。
    >>「常に既に私は在る」のです。
    >>時間的,空間的前後関係をここに読み込むのは,フィルム上の画像の順序構造を投影するからではないでしょうか。
    >>絶対の今に対して本来存在しない前後関係を読み込み,有分別者の前存在として「有分別」の対比項となる「無分別者」を仮構する(この時点で、絶対的存在は相対化され、頽落する)。
    >>そうして,「無分別者」から「有分別者」が分節,個体化されると考える。
    >>これは順序が転倒しているのではないでしょうか。
    >>(A(<a>,b,c,d,…) がA,B,C,D…(a,b,c,d,…)から生じるのではなく,いわば逆)
    >>それにより、なぜ絶対無分別者は分節・個体化するのか、という疑似問題が生じているのでは?(でも、この路線でいって、究極の答えにたどり着くのか?無限後退ではないのか?)
    >>
    >>5分前世界創造仮説を考えればわかるように,今此処に在る世界,有分別世界以前に無分別世界があらねばならぬとする論理的根拠はありません。
    >>(うろ覚えで自信ないですが,古東哲明さんは,いわば只今現在世界創造/終末仮説」とでも言うべき考えではなかったでしょうか?)
    >>有分別世界に先立つ無分別世界とは,語り得ぬものを語ろうとしてしまうことによって仮想される,虚像ではないのか?という疑念を,私は拭いさることができないのです。
    >>「維摩の沈黙」でいいんじゃないの?って思っちゃうわけです。
    >>
    >>以上、井筒思想をほとんど知らずに、いいたい放題言ってみました(笑)
    >>的外れ、無理解がありましたら、気まぐれさんに限らず、ご批判、コメントください。
    >
    >
    > ふくろうさん
    >
    > こんばんは。
    > 返信ありがとうございます。
    >
    > 超越的存在が存在の根拠であり、存在者を創造せしめるという前提はふくろうさん的には受け入れていないのだろうけど、その前提でお相手していただいている(つまり、ふくろうさんに大人な対応をしていただいている)と思っていたのですが、
    > その前提に疑義を申し立てられたということは、結構本気でお相手していただけるのだなと、ちょっと嬉しくなりました^^
    >
    > ニークラには私より井筒に詳しい方がいそうなので、そういう方にもツッコミを入れてもらえると嬉しいですね(と援護依頼を書きつつ)。
    >
    > 絶対無分別者を説明しようと思ったんですけど、いざ纏めようと思うと難しくて…。
    > ふくろうさんも確か『意識と本質』を持ってらっしゃったと思うので、全く知らないってわけではないと思うので(そういうことにして)、私の感覚的なことをざっくり述べるにとどめようと思います。
    > レスを重ねて理解を深めていく方向に行けたらなと。
    >
    > 私の感覚では絶対無分別者は西田の純粋経験の次元です。もっと言うと純粋経験でも不十分でもっと矛盾的要素を取り入れた絶対矛盾的自己同一の次元と捉えています。
    > つまり、絶対無分別者は分節者と対立するが対立しない、分節者の以前性であり且ないという関係にあると思っています。
    > 絶対無分別者は分節者を超え含んでいます。対象化以前であるため対立しません。
    > 時間が時間として分節する以前性であり、時間性を内に持っています。ゆえに
    >
    > 「有分別者の前存在として「有分別」の対比項となる「無分別者」を仮構する」のではないと思っていますし、
    > 「有分別世界以前に無分別世界がある」は一面で正しく一面で正しくない。と捉えます。対象化された時間ではない、永遠の今において無分別的世界は時間的以前性ではない根源的以前性ではあるものの、対象化された時間において分節世界以前に絶対無分別世界があるのではないと考えます。
    >
    > 語りえぬことであることは認めましたので、その意味で上記はすべて無意味であり、「維摩の沈黙」でいいんじゃないの?はある意味その通りです。
    >
    > ただ私は井筒に共鳴し興味深いと思ってしまい、無意味とは思えない、井筒にイカサレタ人間のようです。
    > 一定数そういう病人がいるみたいですね〜。


    今回は、井筒の思想というより、そもそも気まぐれさんの発言に疑問をもったもとの問題に関わる、存在者を存在たらしめる超越者としての神とは何かということについて、私見を少し述べます。

    私は仏教、禅などの実体験がありませんので、西田や禅の公案の話が出てきても、深く考察するにはどうしても限界があります。
    それで、私が超越者としての神、存在の根拠としての神を考える場合、一つの方法として、芸術作品における作者を類比として用いることにより考えてきました。
    以下の文章は、大昔、書いたものです。
    下の例では、ベートーベンの楽曲を、仮に第五交響曲『運命』と想定して読んでみてください。
    そして指揮者にとっての『運命』を、“今ここに在る私にとっての(与えられた)「運命」”の類比として捉えてみてください。
    ********************
    作品と作者を考える上で、きわめて示唆的であると思われる話が偉大な指揮者トスカニーニの逸話として残っています。
    うろ覚えで正確さに欠けるかもしれませんが、それを紹介します。

    このトスカニーニという大指揮者は、楽譜に忠実であるということで有名な指揮者であったということを一応心に留めておいていただきたいと思います。
    トスカニーニが若い頃、ベートーベンの楽曲を指揮することになったとき、楽団の先輩指揮者が、彼にその楽曲の指揮の仕方をこのようにするように、と教え、次のようなことを言ったそうです。
    「私はこれをベートーベンの直弟子から聞いたから、間違いない」と。
    ところがそれを聞いたトスカニーニはその先輩指揮者にむかって、「いえ、お教えいただくのはけっこうです。なぜなら、私はベートーベンから直接教えてもらっているからです」と、楽譜を指し示した、というのです。
    トスカニーニは楽譜そのものに作品の目的=作者の意図を見ている、と言えるでしょう。
    いわば楽譜そのものが作者=ベートーベンその人の精神の顕われと捉えられているわけです。
    すなわちベートーベン=作者の意図・精神は、楽譜に示されている、という把握の仕方です。
    それに対して、先輩指揮者にとってのベートーベンは、楽譜の外、現実世界の中に存在するもの、歴史的存在です。
    作者の意図は、楽譜とは別に、語られるものであると捉えられています。

    以上をまとめ、対比的に述べるとこうです。
    トスカニーニにとっての作曲家(精神としての作者、作者の意図)は、徹頭徹尾、楽譜とともにある、そこに示されているものです。
    それに対して、先輩指揮者にとっては、作者の精神、意図は楽譜の外に存在し、指揮の唯一絶対正しい仕方(マニュアル)として語られるものです。
    すなわち語りうる作者と、語りえずして作品に示されている作者。
    *****************
    補足します。
    先輩指揮者にとってのベートーベンは、『運命』(という楽譜)の外在の作者(現実的存在根拠)であり、その意図は語り得るもの。
    トスカニーニにとってのベートーベンは、『運命』に内在しかつ超越者としての作者(超越的存在根拠)であり、その意図は示されているもの。

    『運命』(楽譜)∽「運命」は、ひょっとすると、現成公案の公案とみなせるのではないかなと思います。
    これを私の理解では、ヤスパースは(超越者の)暗号と呼びました。

    >私の疑問は、knowingitselfさんが指摘された通り、「なぜ世界は“在る”のか?」に類するものです。この問いに「なぜ」は適用できないのだろうと思いつつ、問うてしまうのですよね…(笑)
    >無が原理的に不可能なのだから在るほかはない、というのであれば、ただ在るだけでよいのに、なぜ私という存在者が存在しなければならないのかという問いもあります。

    私の存在が神(超越的根拠)に与えられたものだということを受け入れるということは、すなわち次のようなことを意味するのではないでしょうか。

    「私が今此処にこのようにして(この運命のもとに)在る」ということは、神の与えたもの、在らしめたものである。
    すなわち、私という存在者の存在は、いわば神の作品(「運命」)であり、神の意志の顕われである。
    私は存在理由があるからこそ、あるべくしてあるのである(超越的必然性)。
    それゆえ私はこの運命が与えられた理由を神に問うてはならない(絶対肯定)。
    それは、例えば詩人に、この詩をなぜ書いたのか?と尋ねるようなもの。
    あるいは、演奏家がベートーベンに、なぜこの曲を書いたのか?と尋ねるようなもの。
    私のなすべきは、私はこの与えられた私の運命を、いかに演奏するべきか、すなわちいかに生きるべきかを、この運命に示された神の意図を自らに問いつつ(暗号解読)、演奏(プレイ)=生きねばならない。

    これは、V.E.フランクルの思想とも近い考え方であると思います。
    なので、どちらかというと、キリスト教的な超越者のイメージなので、気まぐれさんの求めるものとは異なるかもしれませんが、私の守備範囲でしか述べられないので、ご容赦ください。
    荒っぽいかもしれませんが、以上が、私の存在の超越的根拠としての神、についての捉え方になります。

    西田と井筒については、持っている黒崎先生の著書を読んで、もう少し読んでから話せたら話したいと思います。

    残り、GW期間中、何かと用事があって、なかなかレスできないかもしれませんが、読むことは少なくともできますし、短いものならスマホで何とかなるかもしれないので、
    気まぐれさんの都合のよいように、レスはしてください。
    よろしくお願いします。



引用返信/返信 削除キー/
■42848 / inTopicNo.8)  Re[60]: 気まぐれさんへ
□投稿者/ 気まぐれ -(2025/04/28(Mon) 22:10:03)
    No42842に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > 気まぐれさん、こんばんは。
    >
    > >>神は超越的存在であり、存在することの根拠だと認めることと、超越的存在から非超越的存在が生じることを認めることは同じでしょうか?
    > >私としては同じではない、と考えています。
    > >この点については、もう少し述べたいことがありますので、改めてレスさせてもらいますね。
    >
    > 私は,「無分別者」と言われるものに対して,懐疑的なのです。
    >
    > 「今此処に在る私」
    > は,絶対の今,絶対の此処,絶対の存在,絶対の私,を言わんとするものですよね。
    > これをスクリーン上に映し出される世界=私の世界に見立てることができるでしょう。
    > そうすると当然,「今しかない」のであって,「私の前後(先後)」などというのは存在しません。
    > 「常に既に私は在る」のです。
    > 時間的,空間的前後関係をここに読み込むのは,フィルム上の画像の順序構造を投影するからではないでしょうか。
    > 絶対の今に対して本来存在しない前後関係を読み込み,有分別者の前存在として「有分別」の対比項となる「無分別者」を仮構する(この時点で、絶対的存在は相対化され、頽落する)。
    > そうして,「無分別者」から「有分別者」が分節,個体化されると考える。
    > これは順序が転倒しているのではないでしょうか。
    > (A(<a>,b,c,d,…) がA,B,C,D…(a,b,c,d,…)から生じるのではなく,いわば逆)
    > それにより、なぜ絶対無分別者は分節・個体化するのか、という疑似問題が生じているのでは?(でも、この路線でいって、究極の答えにたどり着くのか?無限後退ではないのか?)
    >
    > 5分前世界創造仮説を考えればわかるように,今此処に在る世界,有分別世界以前に無分別世界があらねばならぬとする論理的根拠はありません。
    > (うろ覚えで自信ないですが,古東哲明さんは,いわば只今現在世界創造/終末仮説」とでも言うべき考えではなかったでしょうか?)
    > 有分別世界に先立つ無分別世界とは,語り得ぬものを語ろうとしてしまうことによって仮想される,虚像ではないのか?という疑念を,私は拭いさることができないのです。
    > 「維摩の沈黙」でいいんじゃないの?って思っちゃうわけです。
    >
    > 以上、井筒思想をほとんど知らずに、いいたい放題言ってみました(笑)
    > 的外れ、無理解がありましたら、気まぐれさんに限らず、ご批判、コメントください。


    ふくろうさん

    こんばんは。
    返信ありがとうございます。

    超越的存在が存在の根拠であり、存在者を創造せしめるという前提はふくろうさん的には受け入れていないのだろうけど、その前提でお相手していただいている(つまり、ふくろうさんに大人な対応をしていただいている)と思っていたのですが、
    その前提に疑義を申し立てられたということは、結構本気でお相手していただけるのだなと、ちょっと嬉しくなりました^^

    ニークラには私より井筒に詳しい方がいそうなので、そういう方にもツッコミを入れてもらえると嬉しいですね(と援護依頼を書きつつ)。

    絶対無分別者を説明しようと思ったんですけど、いざ纏めようと思うと難しくて…。
    ふくろうさんも確か『意識と本質』を持ってらっしゃったと思うので、全く知らないってわけではないと思うので(そういうことにして)、私の感覚的なことをざっくり述べるにとどめようと思います。
    レスを重ねて理解を深めていく方向に行けたらなと。

    私の感覚では絶対無分別者は西田の純粋経験の次元です。もっと言うと純粋経験でも不十分でもっと矛盾的要素を取り入れた絶対矛盾的自己同一の次元と捉えています。
    つまり、絶対無分別者は分節者と対立するが対立しない、分節者の以前性であり且ないという関係にあると思っています。
    絶対無分別者は分節者を超え含んでいます。対象化以前であるため対立しません。
    時間が時間として分節する以前性であり、時間性を内に持っています。ゆえに

    「有分別者の前存在として「有分別」の対比項となる「無分別者」を仮構する」のではないと思っていますし、
    「有分別世界以前に無分別世界がある」は一面で正しく一面で正しくない。と捉えます。対象化された時間ではない、永遠の今において無分別的世界は時間的以前性ではない根源的以前性ではあるものの、対象化された時間において分節世界以前に絶対無分別世界があるのではないと考えます。

    語りえぬことであることは認めましたので、その意味で上記はすべて無意味であり、「維摩の沈黙」でいいんじゃないの?はある意味その通りです。

    ただ私は井筒に共鳴し興味深いと思ってしまい、無意味とは思えない、井筒にイカサレタ人間のようです。
    一定数そういう病人がいるみたいですね〜。
引用返信/返信 削除キー/
■42842 / inTopicNo.9)  Re[59]: 気まぐれさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2025/04/28(Mon) 18:16:07)
    気まぐれさん、こんばんは。

    >>神は超越的存在であり、存在することの根拠だと認めることと、超越的存在から非超越的存在が生じることを認めることは同じでしょうか?
    >私としては同じではない、と考えています。
    >この点については、もう少し述べたいことがありますので、改めてレスさせてもらいますね。

    私は,「無分別者」と言われるものに対して,懐疑的なのです。

    「今此処に在る私」
    は,絶対の今,絶対の此処,絶対の存在,絶対の私,を言わんとするものですよね。
    これをスクリーン上に映し出される世界=私の世界に見立てることができるでしょう。
    そうすると当然,「今しかない」のであって,「私の前後(先後)」などというのは存在しません。
    「常に既に私は在る」のです。
    時間的,空間的前後関係をここに読み込むのは,フィルム上の画像の順序構造を投影するからではないでしょうか。
    絶対の今に対して本来存在しない前後関係を読み込み,有分別者の前存在として「有分別」の対比項となる「無分別者」を仮構する(この時点で、絶対的存在は相対化され、頽落する)。
    そうして,「無分別者」から「有分別者」が分節,個体化されると考える。
    これは順序が転倒しているのではないでしょうか。
    (A(<a>,b,c,d,…) がA,B,C,D…(a,b,c,d,…)から生じるのではなく,いわば逆)
    それにより、なぜ絶対無分別者は分節・個体化するのか、という疑似問題が生じているのでは?(でも、この路線でいって、究極の答えにたどり着くのか?無限後退ではないのか?)

    5分前世界創造仮説を考えればわかるように,今此処に在る世界,有分別世界以前に無分別世界があらねばならぬとする論理的根拠はありません。
    (うろ覚えで自信ないですが,古東哲明さんは,いわば只今現在世界創造/終末仮説」とでも言うべき考えではなかったでしょうか?)
    有分別世界に先立つ無分別世界とは,語り得ぬものを語ろうとしてしまうことによって仮想される,虚像ではないのか?という疑念を,私は拭いさることができないのです。
    「維摩の沈黙」でいいんじゃないの?って思っちゃうわけです。

    以上、井筒思想をほとんど知らずに、いいたい放題言ってみました(笑)
    的外れ、無理解がありましたら、気まぐれさんに限らず、ご批判、コメントください。

引用返信/返信 削除キー/
■42829 / inTopicNo.10)  Re[58]: 気まぐれさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2025/04/27(Sun) 23:57:41)
    2025/04/28(Mon) 05:41:47 編集(投稿者)

    気まぐれさん、おはようございます。

    No42818に返信(気まぐれさんの記事)
    > ■No42817に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >>気まぐれさん,レスをありがとうございます。
    >>
    >>現在、元のトピは別話題で盛り上がっているようですので、こちらに場を移したいと思います。
    >>
    >
    > ふくろうさん
    > 返信ありがとうございます。
    >
    > 具体的な返答(といっても大した返答はできないかもしれませんが…)の前にパニチェさんに一言お詫びさせてください。
    >
    > パニチェさん
    > 不要なコメントの削除および名前を修正いただきありがとうございます。
    > お手間を取らせてしまい、申し訳ありませんでしたm(__)m
    >
    >
    >>
    >>やはり,説明不足でしたね。
    >>すみません。
    >>
    >>母親に
    >>(1)「母さん,なぜ僕を生んだのか?僕は生まれてきたくなどなかったのに。」
    >>と問う場合,
    >>母親は超越的対象ではなく,問いも,超越的理由・根拠を問うものではありません。
    >>母親は語り得る対象であり,問いも,語り得る答え(現実的理由)を要求していることになると思います。
    >>仮に,
    >>(2)「神よ,なぜ私を存在せしめたのか? 私は存在したくなどなかったのに。」
    >>という問いを問うとすると,これは(1)と全く同様の問いになると思います。
    >>つまり,神を語り得るものとして捉え,語り得る理由(現実的・形而下的理由)を問うことになってしまっているということ。
    >>
    >>No42781
    >>「神は存在そのもので,存在者ではないと思っていますが,存在者を存在者たらしめるものでもあると捉えています」
    >>
    >>と気まぐれさんは言ってますね。
    >>だとしたら,神は超越論的あるいは超越的対象(語り得ぬもの)であり,私の存在根拠,絶対的・究極の根拠なのではないでしょうか?
    >>究極の根拠,すなわち「なぜ存在するのか」の最終的答え「神の意志による」(=「私はあるべくしてあるのだ」ということ)を受け入れているのであれば,さらに神に対して「なんで」などと問うのは無意味だと思うのです(∵ 語り得ない)。
    >>もし,そうは言っても問いたくなるとすれば,それは「神」を本当に超越的存在根拠としてではなく,語り得る存在としてしか捉えられていないからではないかという疑念を抱かざるをえないのです。
    >>
    >>以上、気まぐれさんの考えを勝手に解釈して述べましたが、私としては、
    >>No42638
    >>>「すべてが究極的には絶対者そのものの中で永遠に行われる自作自演であり、観客は一人といった劇であったことを思い出さねばならない。」
    >>
    >>>私はこの表現が好きで納得するのですが、同時に不遜な凡夫としての私がこう思うのです。「神よ、自作自演に私を巻き込まないでいただきたい。私は顕現などせず、貴方の中で安らいでいたい」と。
    >>
    >>という気まぐれさんの発言に、(2)と同様の神の捉え方を感じてしまったのです。
    >
    >
    > いろいろ書いては消してを繰り返しました(笑)
    > ふくろうさんの解釈は間違っておらず、そう解釈されざるを得ないと思います。
    > そして、それを認めてしまうと、私はこれ以上書けない(笑)
    >
    > でもふくろうさんともう少し話したいので、質問させてください。
    >
    こんな私と話したいだなんて( ;∀;)
    カマ〜ン!!

    > 神は超越的存在であり、存在することの根拠だと認めることと、超越的存在から非超越的存在が生じることを認めることは同じでしょうか?
    >

    私としては同じではない、と考えています。

    この点については、もう少し述べたいことがありますので、改めてレスさせてもらいますね。


引用返信/返信 削除キー/
■42818 / inTopicNo.11)  Re[57]: 気まぐれさんへ
□投稿者/ 気まぐれ -(2025/04/27(Sun) 19:07:15)
    No42817に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > 気まぐれさん,レスをありがとうございます。
    >
    > 現在、元のトピは別話題で盛り上がっているようですので、こちらに場を移したいと思います。
    >

    ふくろうさん
    返信ありがとうございます。

    具体的な返答(といっても大した返答はできないかもしれませんが…)の前にパニチェさんに一言お詫びさせてください。

    パニチェさん
    不要なコメントの削除および名前を修正いただきありがとうございます。
    お手間を取らせてしまい、申し訳ありませんでしたm(__)m


    >
    > やはり,説明不足でしたね。
    > すみません。
    >
    > 母親に
    > (1)「母さん,なぜ僕を生んだのか?僕は生まれてきたくなどなかったのに。」
    > と問う場合,
    > 母親は超越的対象ではなく,問いも,超越的理由・根拠を問うものではありません。
    > 母親は語り得る対象であり,問いも,語り得る答え(現実的理由)を要求していることになると思います。
    > 仮に,
    > (2)「神よ,なぜ私を存在せしめたのか? 私は存在したくなどなかったのに。」
    > という問いを問うとすると,これは(1)と全く同様の問いになると思います。
    > つまり,神を語り得るものとして捉え,語り得る理由(現実的・形而下的理由)を問うことになってしまっているということ。
    >
    > No42781
    > 「神は存在そのもので,存在者ではないと思っていますが,存在者を存在者たらしめるものでもあると捉えています」
    >
    > と気まぐれさんは言ってますね。
    > だとしたら,神は超越論的あるいは超越的対象(語り得ぬもの)であり,私の存在根拠,絶対的・究極の根拠なのではないでしょうか?
    > 究極の根拠,すなわち「なぜ存在するのか」の最終的答え「神の意志による」(=「私はあるべくしてあるのだ」ということ)を受け入れているのであれば,さらに神に対して「なんで」などと問うのは無意味だと思うのです(∵ 語り得ない)。
    > もし,そうは言っても問いたくなるとすれば,それは「神」を本当に超越的存在根拠としてではなく,語り得る存在としてしか捉えられていないからではないかという疑念を抱かざるをえないのです。
    >
    > 以上、気まぐれさんの考えを勝手に解釈して述べましたが、私としては、
    > No42638
    > >「すべてが究極的には絶対者そのものの中で永遠に行われる自作自演であり、観客は一人といった劇であったことを思い出さねばならない。」
    >
    > >私はこの表現が好きで納得するのですが、同時に不遜な凡夫としての私がこう思うのです。「神よ、自作自演に私を巻き込まないでいただきたい。私は顕現などせず、貴方の中で安らいでいたい」と。
    >
    > という気まぐれさんの発言に、(2)と同様の神の捉え方を感じてしまったのです。


    いろいろ書いては消してを繰り返しました(笑)
    ふくろうさんの解釈は間違っておらず、そう解釈されざるを得ないと思います。
    そして、それを認めてしまうと、私はこれ以上書けない(笑)

    でもふくろうさんともう少し話したいので、質問させてください。

    神は超越的存在であり、存在することの根拠だと認めることと、超越的存在から非超越的存在が生じることを認めることは同じでしょうか?


引用返信/返信 削除キー/
■42817 / inTopicNo.12)  気まぐれさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2025/04/27(Sun) 16:49:58)
    気まぐれさん,レスをありがとうございます。

    現在、元のトピは別話題で盛り上がっているようですので、こちらに場を移したいと思います。

    No42638,42692,42701,42737,42781

    No42781に返信(気まぐれさんの記事)
    > 2025/04/26(Sat) 18:53:04 編集(管理者)
    >
    > ■No42737に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >>これね、
    >>親に対して
    >>「何で僕を生んだんだ。僕は生まれてなどきたくなかった!」
    >>と言う子供の発言に似ているように感じてしまうんですよ。
    >>もしそうなら、「神」って、そういう対象なの?って思うわけです。
    >>
    >>誤解ならすみません。
    >
    >
    > ふくろうさん
    > すみません。このレスを見落としていて、返信が遅くなりました。
    > 重ねて申し訳ないのですが、もう少しご説明頂けますか?
    > 今のままですと、そうですとも、違いますともいえそうです。
    > 「神」ってそういう対象なの?とはどういう対象ですか?
    > 神は存在そのもので、存在者ではないと思っていますが、存在者を存在者たらしめるものでもあると捉えています。

    やはり,説明不足でしたね。
    すみません。

    母親に
    (1)「母さん,なぜ僕を生んだのか?僕は生まれてきたくなどなかったのに。」
    と問う場合,
    母親は超越的対象ではなく,問いも,超越的理由・根拠を問うものではありません。
    母親は語り得る対象であり,問いも,語り得る答え(現実的理由)を要求していることになると思います。
    仮に,
    (2)「神よ,なぜ私を存在せしめたのか? 私は存在したくなどなかったのに。」
    という問いを問うとすると,これは(1)と全く同様の問いになると思います。
    つまり,神を語り得るものとして捉え,語り得る理由(現実的・形而下的理由)を問うことになってしまっているということ。

    No42781
    「神は存在そのもので,存在者ではないと思っていますが,存在者を存在者たらしめるものでもあると捉えています」

    と気まぐれさんは言ってますね。
    だとしたら,神は超越論的あるいは超越的対象(語り得ぬもの)であり,私の存在根拠,絶対的・究極の根拠なのではないでしょうか?
    究極の根拠,すなわち「なぜ存在するのか」の最終的答え「神の意志による」(=「私はあるべくしてあるのだ」ということ)を受け入れているのであれば,さらに神に対して「なんで」などと問うのは無意味だと思うのです(∵ 語り得ない)。
    もし,そうは言っても問いたくなるとすれば,それは「神」を本当に超越的存在根拠としてではなく,語り得る存在としてしか捉えられていないからではないかという疑念を抱かざるをえないのです。

    以上、気まぐれさんの考えを勝手に解釈して述べましたが、私としては、
    No42638
    >「すべてが究極的には絶対者そのものの中で永遠に行われる自作自演であり、観客は一人といった劇であったことを思い出さねばならない。」

    >私はこの表現が好きで納得するのですが、同時に不遜な凡夫としての私がこう思うのです。「神よ、自作自演に私を巻き込まないでいただきたい。私は顕現などせず、貴方の中で安らいでいたい」と。

    という気まぐれさんの発言に、(2)と同様の神の捉え方を感じてしまったのです。
    もし、これが勘違いであって、的外れであれば、すみません、気にしないでください。
    (それと、私の神理解は、たぶん、キリスト教的なものではないかと思います。)

引用返信/返信 削除キー/

次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -