| 気まぐれさん、こんばんは。
>>神は超越的存在であり、存在することの根拠だと認めることと、超越的存在から非超越的存在が生じることを認めることは同じでしょうか? >私としては同じではない、と考えています。 >この点については、もう少し述べたいことがありますので、改めてレスさせてもらいますね。
私は,「無分別者」と言われるものに対して,懐疑的なのです。
「今此処に在る私」 は,絶対の今,絶対の此処,絶対の存在,絶対の私,を言わんとするものですよね。 これをスクリーン上に映し出される世界=私の世界に見立てることができるでしょう。 そうすると当然,「今しかない」のであって,「私の前後(先後)」などというのは存在しません。 「常に既に私は在る」のです。 時間的,空間的前後関係をここに読み込むのは,フィルム上の画像の順序構造を投影するからではないでしょうか。 絶対の今に対して本来存在しない前後関係を読み込み,有分別者の前存在として「有分別」の対比項となる「無分別者」を仮構する(この時点で、絶対的存在は相対化され、頽落する)。 そうして,「無分別者」から「有分別者」が分節,個体化されると考える。 これは順序が転倒しているのではないでしょうか。 (A(<a>,b,c,d,…) がA,B,C,D…(a,b,c,d,…)から生じるのではなく,いわば逆) それにより、なぜ絶対無分別者は分節・個体化するのか、という疑似問題が生じているのでは?(でも、この路線でいって、究極の答えにたどり着くのか?無限後退ではないのか?)
5分前世界創造仮説を考えればわかるように,今此処に在る世界,有分別世界以前に無分別世界があらねばならぬとする論理的根拠はありません。 (うろ覚えで自信ないですが,古東哲明さんは,いわば只今現在世界創造/終末仮説」とでも言うべき考えではなかったでしょうか?) 有分別世界に先立つ無分別世界とは,語り得ぬものを語ろうとしてしまうことによって仮想される,虚像ではないのか?という疑念を,私は拭いさることができないのです。 「維摩の沈黙」でいいんじゃないの?って思っちゃうわけです。
以上、井筒思想をほとんど知らずに、いいたい放題言ってみました(笑) 的外れ、無理解がありましたら、気まぐれさんに限らず、ご批判、コメントください。
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