□投稿者/ ザビビのふくろう -(2025/04/27(Sun) 16:49:58)
| 気まぐれさん,レスをありがとうございます。
現在、元のトピは別話題で盛り上がっているようですので、こちらに場を移したいと思います。
No42638,42692,42701,42737,42781
■No42781に返信(気まぐれさんの記事) > 2025/04/26(Sat) 18:53:04 編集(管理者) > > ■No42737に返信(ザビビのふくろうさんの記事) >>これね、 >>親に対して >>「何で僕を生んだんだ。僕は生まれてなどきたくなかった!」 >>と言う子供の発言に似ているように感じてしまうんですよ。 >>もしそうなら、「神」って、そういう対象なの?って思うわけです。 >> >>誤解ならすみません。 > > > ふくろうさん > すみません。このレスを見落としていて、返信が遅くなりました。 > 重ねて申し訳ないのですが、もう少しご説明頂けますか? > 今のままですと、そうですとも、違いますともいえそうです。 > 「神」ってそういう対象なの?とはどういう対象ですか? > 神は存在そのもので、存在者ではないと思っていますが、存在者を存在者たらしめるものでもあると捉えています。
やはり,説明不足でしたね。 すみません。
母親に (1)「母さん,なぜ僕を生んだのか?僕は生まれてきたくなどなかったのに。」 と問う場合, 母親は超越的対象ではなく,問いも,超越的理由・根拠を問うものではありません。 母親は語り得る対象であり,問いも,語り得る答え(現実的理由)を要求していることになると思います。 仮に, (2)「神よ,なぜ私を存在せしめたのか? 私は存在したくなどなかったのに。」 という問いを問うとすると,これは(1)と全く同様の問いになると思います。 つまり,神を語り得るものとして捉え,語り得る理由(現実的・形而下的理由)を問うことになってしまっているということ。
No42781 「神は存在そのもので,存在者ではないと思っていますが,存在者を存在者たらしめるものでもあると捉えています」
と気まぐれさんは言ってますね。 だとしたら,神は超越論的あるいは超越的対象(語り得ぬもの)であり,私の存在根拠,絶対的・究極の根拠なのではないでしょうか? 究極の根拠,すなわち「なぜ存在するのか」の最終的答え「神の意志による」(=「私はあるべくしてあるのだ」ということ)を受け入れているのであれば,さらに神に対して「なんで」などと問うのは無意味だと思うのです(∵ 語り得ない)。 もし,そうは言っても問いたくなるとすれば,それは「神」を本当に超越的存在根拠としてではなく,語り得る存在としてしか捉えられていないからではないかという疑念を抱かざるをえないのです。
以上、気まぐれさんの考えを勝手に解釈して述べましたが、私としては、 No42638 >「すべてが究極的には絶対者そのものの中で永遠に行われる自作自演であり、観客は一人といった劇であったことを思い出さねばならない。」
>私はこの表現が好きで納得するのですが、同時に不遜な凡夫としての私がこう思うのです。「神よ、自作自演に私を巻き込まないでいただきたい。私は顕現などせず、貴方の中で安らいでいたい」と。
という気まぐれさんの発言に、(2)と同様の神の捉え方を感じてしまったのです。 もし、これが勘違いであって、的外れであれば、すみません、気にしないでください。 (それと、私の神理解は、たぶん、キリスト教的なものではないかと思います。)
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