| ■42638 / ) |
Re[9]: 「スクリーンと映画」について
|
□投稿者/ 気まぐれ -(2025/04/20(Sun) 18:53:34)
| ■No42615に返信(knowingitselfさんの記事)
> >なぜ映画は上映されるのでしょうか? > > 映画というのは、生きること、意識があること、世界があることなどの喩えですね。 > > なぜ映画は上映されるのかという問いは、なぜ私の世界はあるのか、なぜ私の意識はあるのかなどが、難問中の難問であるのと、まったく同じだと思います。 > > 古来、宗教や哲学はそのことを問うてきました。 > > スクリーンと映画という構造でこの難問にどう答えるのかといえば、 > > 映画だけで捉えるのでなく、スクリーンと一体にして考えるのだと思います。 > > そのスクリーンが、真我であったり、涅槃であったり、空であったり、神であったり。 > > 結局は伝統宗教からの解答と変わることはないとはいえますが、 > > 現代人に馴染みの深い、映画をその背景となるスクリーンと一体とみることで、直観的につかみやすくなったということはいえるでしょう。 > > 全然答えになっていないかもしれませんが(笑)、ひとつの投稿ですべて解き尽くすことは難しいです。 > > 突っ込んでいただければ、さらに敷衍できるかもしれません。 >
knowingitselfさん
返信ありがとうございます。 映画が現象を、スクリーンが現象の背景に退きつつも、現象を成立させているものという感じで理解いたしました。
私の疑問は、knowingitselfさんが指摘された通り、「なぜ世界は“在る”のか?」に類するものです。この問いに「なぜ」は適用できないのだろうと思いつつ、問うてしまうのですよね…(笑) 無が原理的に不可能なのだから在るほかはない、というのであれば、ただ在るだけでよいのに、なぜ私という存在者が存在しなければならないのかという問いもあります。
井筒俊彦の『スーフィズムと老荘思想』上のp243(およびその注釈)で存在一性論の神的顕現の世界観を井筒は以下のように言います。注釈の箇所なので、この部分だけ引用してもわかりずらいと思いますが、私の言いたいことを示すために、とりあえず引用します。
以下引用 *** 絶対者から事物が存在を受け取るその仕方は厳密に言えば、そのもの自身の「備え」により決定されている。「備え」(istiʿdād)がものの現れを決定し定める力は至大であり、絶対者ですらそれらの要請に従わざるをえない。
(以下、上記に対する注釈) 常識的には不敬と取られかねないこの考え方も、脅威的な力を発揮すると言われているものの「備え」が結局のところ絶対者のある特殊な存在論的形態の一つだということを考えれば、決して不敬とはみなされないであろう。イブン・アラビーの思想では、すべてが究極的には絶対者そのものの中で永遠に行われる自作自演であり、観客は一人といった劇であったことを思い出さねばならない。例えば、我々がこれから出会うことになる「神は被造物に従う」「世界は神を強制的に従わせる」といった「不敬」にみえる表現はみなこの基本的な枠組みのもとで理解されなければならない。 *** 引用終わり。
「すべてが究極的には絶対者そのものの中で永遠に行われる自作自演であり、観客は一人といった劇であったことを思い出さねばならない。」
私はこの表現が好きで納得するのですが、同時に不遜な凡夫としての私がこう思うのです。「神よ、自作自演に私を巻き込まないでいただきたい。私は顕現などせず、貴方の中で安らいでいたい」と。
このある種自分勝手な思いをもう少し、哲学チックにすると個体化の原理はいかなるものかということになると考えています。 井筒哲学で表現するならば、絶対無分節者はなにゆえ分節するのかということになるかなと思っています。 さらにもう少し述べると、井筒は華厳宗の主伴の論理の一部である有力・無力という概念装置を使って事事無礙の状態を説明する(「事事無礙・理理無礙ー存在解体のあとー」参照)。 このとき、有力・無力はなにによって決まるのかと思ってしまうのですね。 全てが全てであればよいではないかと。なぜそこの差異性が生じてしまうのだろうと。つまり、A(<a>,b,c,d…)というような有力・無力は生じずにA,B,C,D…(a,b,c,d…)でよいではないかと。 思ってしまうのですね…
…こんなこと言われても困るかもしれませんので(笑)、スルーでも大丈夫です。 横やりすみません。
|
|