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Re[61]: 気まぐれさんへ
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□投稿者/ ザビビのふくろう -(2025/04/30(Wed) 20:30:46)
| 気まぐれさん、こんばんは。
最初に、少し改まってお礼を言います。 私の前回のレスは、気まぐれさんにとって比類のない意義をもつ思想について、 疑似問題じゃないのか、というような、取りようによっては大変不遜というか、失礼なことを述べたものです。 にもかかわらず、冷静に受け止め、きちんとレスをしてくださったことに感謝します。 ありがとうございます。これはなかなか、ないことです。
それと、私の述べた内容を、ちゃんと理解してくださっていること、これも大変嬉しいことでした。 もちろん、気まぐれさんにとっては受け入れがたい内容であるにせよ、ちゃんと私の意図が届いているということが、なかなか有難いことだと思います。 で、後での言い訳めきますが、私の意図としては、もちろん、気まぐれさんの考えをくだらない価値のないものだというように貶めるつもりはありません。 私は昔、『論考』を読んで、ウィトゲンシュタインにヤラレて、ここに自分の進むべき道があると確信してしまったので、自称弟子にならざるをえなかったわけです。 そうである限り、やらなきゃならないものは仕方がないので考え続けると。これは自分の業だと思ってやってきたわけです。 だから、気まぐれさんが、井筒にイカサレタ(⁉)のであれば、それはもう仕方ない、ってことはよくわかります。他人に何を言われようと、とことんやるしかない。 そしてもちろん、それを軽んじるつもりは全くありません。 それどころか、ずっと考え続けて、本まで書かれたということは尊敬に値すると思っています。
なんか長々書きましたが、一応言い訳はこのへんにしておいて、いつもどおり、遠慮なく言いたいことを言わせてもらいますね(笑)
■No42848に返信(気まぐれさんの記事) > ■No42842に返信(ザビビのふくろうさんの記事) >>気まぐれさん、こんばんは。 >> >>>>神は超越的存在であり、存在することの根拠だと認めることと、超越的存在から非超越的存在が生じることを認めることは同じでしょうか? >>>私としては同じではない、と考えています。 >>>この点については、もう少し述べたいことがありますので、改めてレスさせてもらいますね。 >> >>私は,「無分別者」と言われるものに対して,懐疑的なのです。 >> >>「今此処に在る私」 >>は,絶対の今,絶対の此処,絶対の存在,絶対の私,を言わんとするものですよね。 >>これをスクリーン上に映し出される世界=私の世界に見立てることができるでしょう。 >>そうすると当然,「今しかない」のであって,「私の前後(先後)」などというのは存在しません。 >>「常に既に私は在る」のです。 >>時間的,空間的前後関係をここに読み込むのは,フィルム上の画像の順序構造を投影するからではないでしょうか。 >>絶対の今に対して本来存在しない前後関係を読み込み,有分別者の前存在として「有分別」の対比項となる「無分別者」を仮構する(この時点で、絶対的存在は相対化され、頽落する)。 >>そうして,「無分別者」から「有分別者」が分節,個体化されると考える。 >>これは順序が転倒しているのではないでしょうか。 >>(A(<a>,b,c,d,…) がA,B,C,D…(a,b,c,d,…)から生じるのではなく,いわば逆) >>それにより、なぜ絶対無分別者は分節・個体化するのか、という疑似問題が生じているのでは?(でも、この路線でいって、究極の答えにたどり着くのか?無限後退ではないのか?) >> >>5分前世界創造仮説を考えればわかるように,今此処に在る世界,有分別世界以前に無分別世界があらねばならぬとする論理的根拠はありません。 >>(うろ覚えで自信ないですが,古東哲明さんは,いわば只今現在世界創造/終末仮説」とでも言うべき考えではなかったでしょうか?) >>有分別世界に先立つ無分別世界とは,語り得ぬものを語ろうとしてしまうことによって仮想される,虚像ではないのか?という疑念を,私は拭いさることができないのです。 >>「維摩の沈黙」でいいんじゃないの?って思っちゃうわけです。 >> >>以上、井筒思想をほとんど知らずに、いいたい放題言ってみました(笑) >>的外れ、無理解がありましたら、気まぐれさんに限らず、ご批判、コメントください。 > > > ふくろうさん > > こんばんは。 > 返信ありがとうございます。 > > 超越的存在が存在の根拠であり、存在者を創造せしめるという前提はふくろうさん的には受け入れていないのだろうけど、その前提でお相手していただいている(つまり、ふくろうさんに大人な対応をしていただいている)と思っていたのですが、 > その前提に疑義を申し立てられたということは、結構本気でお相手していただけるのだなと、ちょっと嬉しくなりました^^ > > ニークラには私より井筒に詳しい方がいそうなので、そういう方にもツッコミを入れてもらえると嬉しいですね(と援護依頼を書きつつ)。 > > 絶対無分別者を説明しようと思ったんですけど、いざ纏めようと思うと難しくて…。 > ふくろうさんも確か『意識と本質』を持ってらっしゃったと思うので、全く知らないってわけではないと思うので(そういうことにして)、私の感覚的なことをざっくり述べるにとどめようと思います。 > レスを重ねて理解を深めていく方向に行けたらなと。 > > 私の感覚では絶対無分別者は西田の純粋経験の次元です。もっと言うと純粋経験でも不十分でもっと矛盾的要素を取り入れた絶対矛盾的自己同一の次元と捉えています。 > つまり、絶対無分別者は分節者と対立するが対立しない、分節者の以前性であり且ないという関係にあると思っています。 > 絶対無分別者は分節者を超え含んでいます。対象化以前であるため対立しません。 > 時間が時間として分節する以前性であり、時間性を内に持っています。ゆえに > > 「有分別者の前存在として「有分別」の対比項となる「無分別者」を仮構する」のではないと思っていますし、 > 「有分別世界以前に無分別世界がある」は一面で正しく一面で正しくない。と捉えます。対象化された時間ではない、永遠の今において無分別的世界は時間的以前性ではない根源的以前性ではあるものの、対象化された時間において分節世界以前に絶対無分別世界があるのではないと考えます。 > > 語りえぬことであることは認めましたので、その意味で上記はすべて無意味であり、「維摩の沈黙」でいいんじゃないの?はある意味その通りです。 > > ただ私は井筒に共鳴し興味深いと思ってしまい、無意味とは思えない、井筒にイカサレタ人間のようです。 > 一定数そういう病人がいるみたいですね〜。
今回は、井筒の思想というより、そもそも気まぐれさんの発言に疑問をもったもとの問題に関わる、存在者を存在たらしめる超越者としての神とは何かということについて、私見を少し述べます。
私は仏教、禅などの実体験がありませんので、西田や禅の公案の話が出てきても、深く考察するにはどうしても限界があります。 それで、私が超越者としての神、存在の根拠としての神を考える場合、一つの方法として、芸術作品における作者を類比として用いることにより考えてきました。 以下の文章は、大昔、書いたものです。 下の例では、ベートーベンの楽曲を、仮に第五交響曲『運命』と想定して読んでみてください。 そして指揮者にとっての『運命』を、“今ここに在る私にとっての(与えられた)「運命」”の類比として捉えてみてください。 ******************** 作品と作者を考える上で、きわめて示唆的であると思われる話が偉大な指揮者トスカニーニの逸話として残っています。 うろ覚えで正確さに欠けるかもしれませんが、それを紹介します。
このトスカニーニという大指揮者は、楽譜に忠実であるということで有名な指揮者であったということを一応心に留めておいていただきたいと思います。 トスカニーニが若い頃、ベートーベンの楽曲を指揮することになったとき、楽団の先輩指揮者が、彼にその楽曲の指揮の仕方をこのようにするように、と教え、次のようなことを言ったそうです。 「私はこれをベートーベンの直弟子から聞いたから、間違いない」と。 ところがそれを聞いたトスカニーニはその先輩指揮者にむかって、「いえ、お教えいただくのはけっこうです。なぜなら、私はベートーベンから直接教えてもらっているからです」と、楽譜を指し示した、というのです。 トスカニーニは楽譜そのものに作品の目的=作者の意図を見ている、と言えるでしょう。 いわば楽譜そのものが作者=ベートーベンその人の精神の顕われと捉えられているわけです。 すなわちベートーベン=作者の意図・精神は、楽譜に示されている、という把握の仕方です。 それに対して、先輩指揮者にとってのベートーベンは、楽譜の外、現実世界の中に存在するもの、歴史的存在です。 作者の意図は、楽譜とは別に、語られるものであると捉えられています。
以上をまとめ、対比的に述べるとこうです。 トスカニーニにとっての作曲家(精神としての作者、作者の意図)は、徹頭徹尾、楽譜とともにある、そこに示されているものです。 それに対して、先輩指揮者にとっては、作者の精神、意図は楽譜の外に存在し、指揮の唯一絶対正しい仕方(マニュアル)として語られるものです。 すなわち語りうる作者と、語りえずして作品に示されている作者。 ***************** 補足します。 先輩指揮者にとってのベートーベンは、『運命』(という楽譜)の外在の作者(現実的存在根拠)であり、その意図は語り得るもの。 トスカニーニにとってのベートーベンは、『運命』に内在しかつ超越者としての作者(超越的存在根拠)であり、その意図は示されているもの。
『運命』(楽譜)∽「運命」は、ひょっとすると、現成公案の公案とみなせるのではないかなと思います。 これを私の理解では、ヤスパースは(超越者の)暗号と呼びました。
>私の疑問は、knowingitselfさんが指摘された通り、「なぜ世界は“在る”のか?」に類するものです。この問いに「なぜ」は適用できないのだろうと思いつつ、問うてしまうのですよね…(笑) >無が原理的に不可能なのだから在るほかはない、というのであれば、ただ在るだけでよいのに、なぜ私という存在者が存在しなければならないのかという問いもあります。
私の存在が神(超越的根拠)に与えられたものだということを受け入れるということは、すなわち次のようなことを意味するのではないでしょうか。
「私が今此処にこのようにして(この運命のもとに)在る」ということは、神の与えたもの、在らしめたものである。 すなわち、私という存在者の存在は、いわば神の作品(「運命」)であり、神の意志の顕われである。 私は存在理由があるからこそ、あるべくしてあるのである(超越的必然性)。 それゆえ私はこの運命が与えられた理由を神に問うてはならない(絶対肯定)。 それは、例えば詩人に、この詩をなぜ書いたのか?と尋ねるようなもの。 あるいは、演奏家がベートーベンに、なぜこの曲を書いたのか?と尋ねるようなもの。 私のなすべきは、私はこの与えられた私の運命を、いかに演奏するべきか、すなわちいかに生きるべきかを、この運命に示された神の意図を自らに問いつつ(暗号解読)、演奏(プレイ)=生きねばならない。
これは、V.E.フランクルの思想とも近い考え方であると思います。 なので、どちらかというと、キリスト教的な超越者のイメージなので、気まぐれさんの求めるものとは異なるかもしれませんが、私の守備範囲でしか述べられないので、ご容赦ください。 荒っぽいかもしれませんが、以上が、私の存在の超越的根拠としての神、についての捉え方になります。
西田と井筒については、持っている黒崎先生の著書を読んで、もう少し読んでから話せたら話したいと思います。
残り、GW期間中、何かと用事があって、なかなかレスできないかもしれませんが、読むことは少なくともできますし、短いものならスマホで何とかなるかもしれないので、 気まぐれさんの都合のよいように、レスはしてください。 よろしくお願いします。
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