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■33540 / inTopicNo.73)  よさこいソーラン
  
□投稿者/ みのり -(2023/09/26(Tue) 20:50:25)
    幼稚園の体操着を着た、お兄ちゃんと弟だと思う二人がお母さんといっしょにドラッグストアにいた。

    二人のうちのどっちかが、「そやそやそやそや」って言い始めた。

    「ん? そやそやそやそやってなに? もしやよさこいソーランかな?」と私が心の中で思ったら、
    片方が「よさこい?」ともう片方に訊いていた。
    弟が兄に訊いてたのか、逆なのかは不明。。

    いや〜、何かめっちゃ可愛かったな〜。

    でも、「そやそやそやそや」じゃなく、「そいやそいやそいやそいや」だとは思うんだ、とその時に思ったのさ。(笑)

    まぁ園児だし、「そやそやそやそや♪」でOKだわね。

    うちのもう大人になりきってる息子も、学校の運動会、学習発表会で何度もよさこいソーランはしてたな。

    どっこいしょ〜どっこいしょって。


    今、幼稚園で、マツケンサンバ玉入れってのが流行してるそうなのね。

    マツケンのかっこした先生が籠しょってクルクル踊ってるところに園児たちがお手玉を投げ入れる。
    曲のサビ部分になると、園児たちもいったん玉入れをやめて、マツケンサンバを踊り出し、それが終わるとまた玉入れを始めるそうなのだ。

    想像すると可愛いなぁ。

    マツケンサンバって人を幸せにするね。

    あ、タイトルは、よさこいだったのに、いつの間にかマツケンサンバで閉めるようじゃんじゃん。
引用返信/返信 削除キー/
■33423 / inTopicNo.74)  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/23(Sat) 07:19:42)
    時さん、レスありがとうございます。

    No33338に返信(時さんの記事)


    >>そうなんですね。不苦不楽なら上出来というか良い状態にも思えるけど、解脱して苦の滅尽に至らないと無知はなくならないということなのですね。
    >
    > はい。通常の感覚では、不苦不楽の境地に至れれば十分だと思います。これは多少の誤解を生む可能性のあることなのですが、不苦不楽について書きましたことは、あくまでも原始仏教という基準の括りの中でのお話なのですね。この中の基準では、不苦不楽ではまだ無知が残っているので、輪廻の終焉はまだ迎えないのですよとなるという事だと理解しています。

    わかりました。^^
    では、私は輪廻からの離脱を目指してはいないので、不苦不楽の境地でいられるよう、でも、それを求めることが逆に苦しみにならないようにしていこうと思います。
    >>道聖諦(八支聖道)というのは、八正道でいいですか?
    >
    > はい。八正道、八支聖道、八聖道等、(多分)同じ事だと思います。

    ありがとうございます。

    > そうですね。仏教の目的を一つに絞るのであれば、仰るように日々の生活を平穏な精神で過ごせる事でしょう。そして、仏教を知って立派な人になろうというのは、仏教を正しく学べていないように思いますね。仏教を知るならば、立派な人にはなれないことは理解できているはずだと思うのですが。。(笑)

    どこまでも自分の渇愛に気づき続けないといけないことからすれば、立派な人になりたいが渇愛ですものね。

    > アドヴァイタや自由意志に続いて、今回も対話を楽しめました。ありがとうございました。

    こちらこそありがとうございました。_(._.)_
引用返信/返信 削除キー/
■33338 / inTopicNo.75)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/21(Thu) 19:53:33)
    みのりさんへ。こんばんは。レスをありがとうございます。

    No33293
    > 夜食を控えるお話があったのは少し驚きです。
    > 托鉢でいただいたものをかつかつにしか食べないのが当たり前のように想像していましたので。
    > 涅槃に向けて生活のすべてを整えていく、というのが基本だったのでしょうね。

    はい。仏陀は一貫して苦と苦の滅尽を説いていたようですね。ですので、涅槃や解脱に向けての教えとなるのでしょうね。

    > そうなんですか。 いやでもやはり、日常の中で苦を減らす意識で過ごすぐらいにしておきます。^^

    了解です^^

    > なるほどです。体験している最中にはわからないけれど、一瞬、想受滅から有想に戻った時に気づけるということなのですね。

    その通りです。

    > 現在進行形の想受滅を体験しているその時に気づくというのは不可能なのに、それを求めてしまう、それができるのだと勘違いしてしまったら体得できなくなってしまう、ということですね。

    はい。これもその通りです。

    > そこまで徹底は無理でしょうけど、世界がどんどん貧しくならざるをえない昨今ですし、そういうシンプルなところに戻るしか、そしてそれを苦しみとは思わず過ごすしかなくなっていきそうですよね。
    > なんか皆で修行する世の中がスタンバイしつつあったりして。(;^_^A
    > 私はけっこうそれは大丈夫かもですよ。 質素、平気です。(笑)

    もしかしたら、そのようになるかもですね。。
    でも、皆で仏陀の言う修業をしたら、皆が木の下で瞑想にふけるような気が、、食事関係はどうしましょうか?(笑)冗談はさておき、贅沢三昧も良いかもしれませんが、質素も良いですね。^^

    > そうなんですね。不苦不楽なら上出来というか良い状態にも思えるけど、解脱して苦の滅尽に至らないと無知はなくならないということなのですね。

    はい。通常の感覚では、不苦不楽の境地に至れれば十分だと思います。これは多少の誤解を生む可能性のあることなのですが、不苦不楽について書きましたことは、あくまでも原始仏教という基準の括りの中でのお話なのですね。この中の基準では、不苦不楽ではまだ無知が残っているので、輪廻の終焉はまだ迎えないのですよとなるという事だと理解しています。

    > 道聖諦(八支聖道)というのは、八正道でいいですか?

    はい。八正道、八支聖道、八聖道等、(多分)同じ事だと思います。

    > いえいえ、勉強になり嬉しいです。
    > 苦から離れ、とりあえずいつも平穏な精神で過ごせたらいいなぁ、というのは思います。
    > 仏教を知り何か立派な人間になろうみたいに思うのは我であり違う話になってしまうと思うのですが、細々と切実に(?)、地道にやっていき、いつも平穏でいられたらというのはほんとに思います。

    そうですね。仏教の目的を一つに絞るのであれば、仰るように日々の生活を平穏な精神で過ごせる事でしょう。そして、仏教を知って立派な人になろうというのは、仏教を正しく学べていないように思いますね。仏教を知るならば、立派な人にはなれないことは理解できているはずだと思うのですが。。(笑)

    アドヴァイタや自由意志に続いて、今回も対話を楽しめました。ありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■33293 / inTopicNo.76)  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/21(Thu) 15:04:15)
    2023/09/21(Thu) 15:13:02 編集(投稿者)

    時さん、こんにちは。
    レスありがとうございます。

    No33251に返信(時さんの記事)

    > はい。好物のイチゴの場合はそうですね。好物のイチゴに対する渇愛は激減、消滅します。他も同じ事ですが。残るのは、そこにただイチゴがあるだけ。→美味しいイチゴがあるだけあたりで、それに対するそれ以上の欲は消滅するのではないでしょうか。

    時さんはイチゴが好物なのですか?^^
    というのはともかくとして、書いていただいたこと了解です。

    > 色々な表現がされているようですが、あるとき、弟子たちに向かって「夜食は控えるようになさい」と仏陀は言いますが、その通りに控える者とそうしない者とに分かれます。夜食を控える理由としては「それがあなた方の為になるからです」という事のようです。ただこれだけの一文から読者が何を読み解くかだろうと思います。腹が減るからとか習慣的に今までそうだったから控えないのか?涅槃=心の平穏に向けて必要なことだと捉えるのか?ですね。とりあえずは、原始の中の仏陀との無言での対話です。(笑)

    夜食を控えるお話があったのは少し驚きです。
    托鉢でいただいたものをかつかつにしか食べないのが当たり前のように想像していましたので。
    涅槃に向けて生活のすべてを整えていく、というのが基本だったのでしょうね。

    > No32879 に書いてみましたが、幼稚園児の時には砂場の取り合いをしますが、大人になればそれはただの砂場でしょ?あれだけ「砂場こそわが命!砂場での陣取りこそわが使命!」と言わんがばかりの思いがあったのにですね。そのような欲(煩悩)も消滅するような心の変化が起こるのですね。(笑)

    大人は砂場はいらないでしょうけど、経済力や社会的地位などには執着して苦しむというのは十分にありますものね。

    > そうですね。この場合には、花を見て花だと認識するだけ。あー、このような香りだ、いい香りだな、美しい花だな、あたりだけで止まればよいですが、ここで「うっとり」という感情が入り込むと、そこ(香り)に無意識にでも取着している証であり、そこに対する妄想が生起します。その妄想が妄想を呼び、迷妄(物事の道理を知らず、誤りを真実と思い込む事。心の迷いの事)に陥りますね。

    はい。

    > 例えば、一度、2メートル程の高さからプールに足からでも飛び込んでみる。それに慣れたら、次は3メートルでといった感覚で、徐々に深い瞑想に入り込めれば、何も怖いことは起こりませんし、実際、怖いことはないですよ。(笑)それが怖くないことを知っているのか?知らないのか?の違い、ご存じないから怖いという様にも感じますが。所詮、そのプールの底には、涅槃や解脱という事が書かれてますので、底なしではないですよ。(笑)

    そうなんですか。 いやでもやはり、日常の中で苦を減らす意識で過ごすぐらいにしておきます。^^

    >>なぜ気絶状態とも言える想受滅を自覚できるのかについて、これ知りたいです。
    >>よかったら教えてください。
    >
    > これは、私自身も一応の答えらしきものを感じつつ疑問だったところなのですね。涅槃や想受滅をなぜ認識できるのか?です。
    >
    > 原始の中で、あるとき弟子の一人が問いかけます。「有想(地水火風の各処等や初禅から非想非非想処まで)ではないのに無想(想受滅)を認識することは可能なのでしょうか?」と。つまりは、どの処にも取着せず、どの処にも何の認識もないのに、それ(想受滅)を認識することは可能なのか?認識できるという事は、どこかの想を有しているのではないか?という問いですが、その問いに対する仏陀の答えは「あり得ます」の一言ですが、兄弟子が自らの体験談として譬えを使っての説明をします。
    >
    > 木片が燃えるとき、一方では炎が生じ一方では炎が滅ぶのと同じように、一方では、これは有の滅尽たる涅槃だという想が生じ、一方ではその想が滅びました。ですので、この時には、有の滅尽たる涅槃だという想ある者であったのですよ。と。
    >
    > もちろん、想受滅自体をそのままでは認識できないと思いますので、どっぷりと想受滅の処を体験しているという現在進行形では認識できません。もしもそれを認識していると言うのであれば、それはイリュージョン(錯覚・幻想・妄想・思い込み・嘘・迷妄)ですが、その時々で、ふっと一瞬、想(有想)が生起するのですね。これは涅槃だと。(この場合には、涅槃と想受滅が同じ地平で描かれているようですね)勿論、ここでも自由意志は効きません(笑)
    >
    > そして再度、例えの木片の炎の消えた部分の状態(想受滅)に戻るという事でしょう。木片の炎がある処が有想で炎が消えた処が想受滅の例えですが、その時に一瞬気づくのですね。「ここが涅槃だ、想受滅だ」と。気づけるのは勿論、瞬間であれ有想の時です。ですのでこの兄弟子も仏陀と同じく「あり得ます」と言う答えだったのでしょう。

    なるほどです。体験している最中にはわからないけれど、一瞬、想受滅から有想に戻った時に気づけるということなのですね。

    > 「ある」ではなくて「あり得ます」です。なぜならば、仏陀たちが「ある」と言い切ってしまうと、それを聞いた弟子が、現在進行形での想受滅を体験していると言う誤認での幻想体験になるからですね。この場合には、この弟子は仏陀の説いた涅槃や想受滅を体得できないことになりますから。

    現在進行形の想受滅を体験しているその時に気づくというのは不可能なのに、それを求めてしまう、それができるのだと勘違いしてしまったら体得できなくなってしまう、ということですね。

    > ですので、九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の順番通りに進まなければ、想受滅には至れないというのでもありません。
    >
    >>自分なりに例で考えてみますね。
    >>エアコンはついていてもあまり涼しくない部屋にいて、さらに温度設定を下げ快適になります。
    >>しばらくすると寒すぎてきて、また温度設定を上げると快適になります。
    >>温度設定を下げたり上げたりを繰り返しすることが実際にあります。(笑)
    >
    > エアコンの例で言うと、その通りです。みのりさんの自由意志(笑)で、温度の上げ下げを自らで行い快適な状態を保とうとしますね。しかし、学ばなければ、通常での我々凡夫は、そこ(世間=一切皆苦)から抜け出せないという状態です。そして抜け出せなければ、苦しみの輪廻転生を繰り返すという思想のようですね。

    はい。

    > 原始の世界観は現代日本と比較して、非常識そのものです。言い換えると、極端にシンプルな世界観だと感じます。着ていた衣は、虻や蛇除け、暑さ除け等が目的ですし、村を廻って得た食事は、最低限度身体を維持するだけのものを摂取していたようですし、おまけに余った食事は、草木を避けて土や水中に還していたようですしね。

    そこまで徹底は無理でしょうけど、世界がどんどん貧しくならざるをえない昨今ですし、そういうシンプルなところに戻るしか、そしてそれを苦しみとは思わず過ごすしかなくなっていきそうですよね。
    なんか皆で修行する世の中がスタンバイしつつあったりして。(;^_^A
    私はけっこうそれは大丈夫かもですよ。 質素、平気です。(笑)

    > つまりは、ここでいうエアコンの温度設定という基準のものがありませんで、エアコンの温度設定という基準の代わりに、自由意志でのコントロールの範疇にはない、無常なる自らの心の内の三受(苦・楽・不苦不楽)を基準にします。
    >
    >>この無知とはどういうものなのでしょうか?
    >>これも前に聞いたことがあるのですが、はっきりとしたことを記憶していないのです。
    >>平穏さになんとなく物足りなさを感じるというようなことだったかなぁ。。
    >
    > 原始では、楽(快)・苦(不快)・不苦不楽と感受は一応の分類をされていますが、楽(快)な時には貪りが生じ、苦(不快)な時には、瞋恚(怒り)や悩み等が生じます。その中間の不苦不楽には無知(愚痴)が潜在します。
    >
    > この場合の無知(愚痴)とは、仏陀の教えである、涅槃や解脱をこの状態ではまだ体得できていませんので、その処(不苦不楽)でホゲホゲしているから(仏陀視点で)無知なのですね。無知(愚痴)では無くなるときがあるとするならば、解脱や涅槃の体得時となるでしょうか。つまりは、苦の滅尽がされたときですね。そしてこの時には無知(不苦不楽)ではなくなっています。

    そうなんですね。不苦不楽なら上出来というか良い状態にも思えるけど、解脱して苦の滅尽に至らないと無知はなくならないということなのですね。

    > 原始の中での説明の一つでは、涅槃は(貪欲の滅尽、瞋恚の滅尽、愚痴の滅尽)と定義されています。貪欲の滅尽のためには快(楽)を、瞋恚(怒り)の滅尽のためには不快(苦)を、そして無知(愚痴)の滅尽のためには四聖諦を知り、迷妄からの離脱が説かれているのですね。そのために行われるのが、煩悩の根を根こそぎ根絶やしにする、四禅定という瞑想です。
    >
    > 細かいことを書き出すと、貪欲(激しく求める欲望)、瞋恚(人を害する心や悪意を持つこと)愚痴(無明、迷妄のこと)。愚痴の中の無明(四聖諦を知らないこと)、迷妄(物事の道理を知らず、誤りを真実と思い込む事。心の迷いの事)等々、文字にするとややこしいですね。
    >
    > これらを書いたり記憶することには何の意味もないと思いますが、これを達成するために行われるメインのものが、四聖諦の中の一つ道聖諦(八支聖道)だという理解です。

    道聖諦(八支聖道)というのは、八正道でいいですか?

    > 調子に乗ってつらつらと書いていますが、ご興味のない箇所、全てかも?があればスルーという事でお願いします。m(__)m

    いえいえ、勉強になり嬉しいです。
    苦から離れ、とりあえずいつも平穏な精神で過ごせたらいいなぁ、というのは思います。
    仏教を知り何か立派な人間になろうみたいに思うのは我であり違う話になってしまうと思うのですが、細々と切実に(?)、地道にやっていき、いつも平穏でいられたらというのはほんとに思います。
引用返信/返信 削除キー/
■33251 / inTopicNo.77)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/20(Wed) 17:44:11)
    みのりさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No33245
    > 食厭逆想の修習ですか。
    > 渇愛(貪り)が激減するのですね。

    はい。好物のイチゴの場合はそうですね。好物のイチゴに対する渇愛は激減、消滅します。他も同じ事ですが。残るのは、そこにただイチゴがあるだけ。→美味しいイチゴがあるだけあたりで、それに対するそれ以上の欲は消滅するのではないでしょうか。

    色々な表現がされているようですが、あるとき、弟子たちに向かって「夜食は控えるようになさい」と仏陀は言いますが、その通りに控える者とそうしない者とに分かれます。夜食を控える理由としては「それがあなた方の為になるからです」という事のようです。ただこれだけの一文から読者が何を読み解くかだろうと思います。腹が減るからとか習慣的に今までそうだったから控えないのか?涅槃=心の平穏に向けて必要なことだと捉えるのか?ですね。とりあえずは、原始の中の仏陀との無言での対話です。(笑)

    No32879 に書いてみましたが、幼稚園児の時には砂場の取り合いをしますが、大人になればそれはただの砂場でしょ?あれだけ「砂場こそわが命!砂場での陣取りこそわが使命!」と言わんがばかりの思いがあったのにですね。そのような欲(煩悩)も消滅するような心の変化が起こるのですね。(笑)

    > そうなんですね。 いい香りにうっとりするというようなことも、修行においては煩悩になるということなのでしょうね。

    そうですね。この場合には、花を見て花だと認識するだけ。あー、このような香りだ、いい香りだな、美しい花だな、あたりだけで止まればよいですが、ここで「うっとり」という感情が入り込むと、そこ(香り)に無意識にでも取着している証であり、そこに対する妄想が生起します。その妄想が妄想を呼び、迷妄(物事の道理を知らず、誤りを真実と思い込む事。心の迷いの事)に陥りますね。

    > > 私の理解では、この表現での状態ならば、想受滅です。通常では簡単には至れないと思いますが、みのりさんならば至れるのかもしれませんね。では何故に気絶状態とも言える想受滅を自覚できるのかについては、また機会があれば。

    > 私は絶対ないですよ。(笑) 
    > 深い瞑想は、自分がしようとするとしたら怖いと思ってしまいます。

    例えば、一度、2メートル程の高さからプールに足からでも飛び込んでみる。それに慣れたら、次は3メートルでといった感覚で、徐々に深い瞑想に入り込めれば、何も怖いことは起こりませんし、実際、怖いことはないですよ。(笑)それが怖くないことを知っているのか?知らないのか?の違い、ご存じないから怖いという様にも感じますが。所詮、そのプールの底には、涅槃や解脱という事が書かれてますので、底なしではないですよ。(笑)

    > なぜ気絶状態とも言える想受滅を自覚できるのかについて、これ知りたいです。
    > よかったら教えてください。

    これは、私自身も一応の答えらしきものを感じつつ疑問だったところなのですね。涅槃や想受滅をなぜ認識できるのか?です。

    原始の中で、あるとき弟子の一人が問いかけます。「有想(地水火風の各処等や初禅から非想非非想処まで)ではないのに無想(想受滅)を認識することは可能なのでしょうか?」と。つまりは、どの処にも取着せず、どの処にも何の認識もないのに、それ(想受滅)を認識することは可能なのか?認識できるという事は、どこかの想を有しているのではないか?という問いですが、その問いに対する仏陀の答えは「あり得ます」の一言ですが、兄弟子が自らの体験談として譬えを使っての説明をします。

    木片が燃えるとき、一方では炎が生じ一方では炎が滅ぶのと同じように、一方では、これは有の滅尽たる涅槃だという想が生じ、一方ではその想が滅びました。ですので、この時には、有の滅尽たる涅槃だという想ある者であったのですよ。と。

    もちろん、想受滅自体をそのままでは認識できないと思いますので、どっぷりと想受滅の処を体験しているという現在進行形では認識できません。もしもそれを認識していると言うのであれば、それはイリュージョン(錯覚・幻想・妄想・思い込み・嘘・迷妄)ですが、その時々で、ふっと一瞬、想(有想)が生起するのですね。これは涅槃だと。(この場合には、涅槃と想受滅が同じ地平で描かれているようですね)勿論、ここでも自由意志は効きません(笑)

    そして再度、例えの木片の炎の消えた部分の状態(想受滅)に戻るという事でしょう。木片の炎がある処が有想で炎が消えた処が想受滅の例えですが、その時に一瞬気づくのですね。「ここが涅槃だ、想受滅だ」と。気づけるのは勿論、瞬間であれ有想の時です。ですのでこの兄弟子も仏陀と同じく「あり得ます」と言う答えだったのでしょう。

    「ある」ではなくて「あり得ます」です。なぜならば、仏陀たちが「ある」と言い切ってしまうと、それを聞いた弟子が、現在進行形での想受滅を体験していると言う誤認での幻想体験になるからですね。この場合には、この弟子は仏陀の説いた涅槃や想受滅を体得できないことになりますから。

    ですので、九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の順番通りに進まなければ、想受滅には至れないというのでもありません。

    > 自分なりに例で考えてみますね。
    > エアコンはついていてもあまり涼しくない部屋にいて、さらに温度設定を下げ快適になります。
    > しばらくすると寒すぎてきて、また温度設定を上げると快適になります。
    > 温度設定を下げたり上げたりを繰り返しすることが実際にあります。(笑)

    エアコンの例で言うと、その通りです。みのりさんの自由意志(笑)で、温度の上げ下げを自らで行い快適な状態を保とうとしますね。しかし、学ばなければ、通常での我々凡夫は、そこ(世間=一切皆苦)から抜け出せないという状態です。そして抜け出せなければ、苦しみの輪廻転生を繰り返すという思想のようですね。

    原始の世界観は現代日本と比較して、非常識そのものです。言い換えると、極端にシンプルな世界観だと感じます。着ていた衣は、虻や蛇除け、暑さ除け等が目的ですし、村を廻って得た食事は、最低限度身体を維持するだけのものを摂取していたようですし、おまけに余った食事は、草木を避けて土や水中に還していたようですしね。

    つまりは、ここでいうエアコンの温度設定という基準のものがありませんで、エアコンの温度設定という基準の代わりに、自由意志でのコントロールの範疇にはない、無常なる自らの心の内の三受(苦・楽・不苦不楽)を基準にします。

    > この無知とはどういうものなのでしょうか?
    > これも前に聞いたことがあるのですが、はっきりとしたことを記憶していないのです。
    > 平穏さになんとなく物足りなさを感じるというようなことだったかなぁ。。

    原始では、楽(快)・苦(不快)・不苦不楽と感受は一応の分類をされていますが、楽(快)な時には貪りが生じ、苦(不快)な時には、瞋恚(怒り)や悩み等が生じます。その中間の不苦不楽には無知(愚痴)が潜在します。

    この場合の無知(愚痴)とは、仏陀の教えである、涅槃や解脱をこの状態ではまだ体得できていませんので、その処(不苦不楽)でホゲホゲしているから(仏陀視点で)無知なのですね。無知(愚痴)では無くなるときがあるとするならば、解脱や涅槃の体得時となるでしょうか。つまりは、苦の滅尽がされたときですね。そしてこの時には無知(不苦不楽)ではなくなっています。

    原始の中での説明の一つでは、涅槃は(貪欲の滅尽、瞋恚の滅尽、愚痴の滅尽)と定義されています。貪欲の滅尽のためには快(楽)を、瞋恚(怒り)の滅尽のためには不快(苦)を、そして無知(愚痴)の滅尽のためには四聖諦を知り、迷妄からの離脱が説かれているのですね。そのために行われるのが、煩悩の根を根こそぎ根絶やしにする、四禅定という瞑想です。

    細かいことを書き出すと、貪欲(激しく求める欲望)、瞋恚(人を害する心や悪意を持つこと)愚痴(無明、迷妄のこと)。愚痴の中の無明(四聖諦を知らないこと)、迷妄(物事の道理を知らず、誤りを真実と思い込む事。心の迷いの事)等々、文字にするとややこしいですね。

    これらを書いたり記憶することには何の意味もないと思いますが、これを達成するために行われるメインのものが、四聖諦の中の一つ道聖諦(八支聖道)だという理解です。

    調子に乗ってつらつらと書いていますが、ご興味のない箇所、全てかも?があればスルーという事でお願いします。m(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■33245 / inTopicNo.78)  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/20(Wed) 08:51:41)
    時さん、おはようございます。
    見てくださっていたのですね。 投稿ありがとうございます。_(._.)_


    No33192に返信(時さんの記事)

    > 少し誤解があるようですので、補足してみたいと思います。
    >
    > 先に書きました無色界定というのは、仏陀の説いた九つの禅定の段階である九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の中の、空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅の事を指しています。つまり、もともと「色」のない世界、領域を対象とした瞑想となるでしょうか。つまりは、空無辺所に至れれば、今まであった色の想は既に消滅しています。(薄暗い場所での瞑想と言う意味ではありません)

    瞑想する場所が薄暗いかどうかに関わらず、普通の明るさの場所であろうと、色の想が消滅している状態にあるのが無色界定になるのですね。
    詳しいご説明をありがとうございます。

    > 例えば、好物のイチゴがあった時に行う瞑想は、食厭逆想の修習と言いますが、これを行っている間は、意図的に美味しだとかみずみずしいだとかの想念での感受を消す方向で志向します。この時には、単に身体を維持するだけの栄養としてだけの食物の摂取となりますが、この修習を終えれば味はもとに戻りますが、何かが消えているのが自覚できると思います。何か・・それは貪りです。つまりは、味覚に対しての渇愛(貪り)が一時的に消滅しますが、これを繰り返すことで、好物のイチゴへの味覚や色に対する渇愛(貪り)は激減します。好物のイチゴの味や見た目は残りながらも、それに対する貪り(渇愛)が無くなるという事です。

    食厭逆想の修習ですか。
    渇愛(貪り)が激減するのですね。

    > 花の香りについても同じで、原始には、一輪の花の香りを嗅いだだけで、香りの盗人だと言った内容のものもあります。勿論これは、本当の罪人としての盗人という意味ではなくて、解脱を願い梵行を行う修行者にとっては、これほどまで細かいところにも細心の注意を払いなさいよという意味だろうと思います。知らなければ、気づきようがありませんものね。

    そうなんですね。 いい香りにうっとりするというようなことも、修行においては煩悩になるということなのでしょうね。

    > 仏陀は、一貫して渇愛(貪り)の滅尽を説いていたようです。これを滅尽することが、解脱や涅槃に役立つからです。つまりは、輪廻からの解放へ向けたメソッドの一つですね。

    はい。

    > 色に関しては、仏陀はその旅先で「〜は美しい。〜〜は美しい」と言葉を発していますので、個人差はあるにしても我々と同じその美しさを感じていたのだと思います。ただ我々凡夫との明確な違いは、そこに渇愛(貪り)があるのかどうかだと思います。渇愛があれば、そこには苦が潜んでいますので、その苦の滅尽方法等を学べなければ、その状態は叶わないでしょう。

    仏陀は弟子たちと旅をしていましたよね。
    その先々で珍しいものや美しいものを観たでしょうけれど、「またあの場所に戻って観たいな」というようには思わなかったのでしょうね。

    > 味、香り、色と3つほど書いてみましたが、他の音・触・法の3つを合わせて、六境(色・音・香・味・触・法)と言いますが同じことです。我々凡夫との違いは、そこに渇愛(貪り)があるかどうかですね。そこに無意識にでも渇愛が生じていれば、苦が生起します。そこに渇愛がなくても、今まで通りの味、香り、色(他)は変わりません。

    とてもわかりやすいです。 ありがとうございます。

    >>一切の情報や光線からも遮断され、脳の機能が停止した状態
    >
    > 私の理解では、この表現での状態ならば、想受滅です。通常では簡単には至れないと思いますが、みのりさんならば至れるのかもしれませんね。では何故に気絶状態とも言える想受滅を自覚できるのかについては、また機会があれば。

    私は絶対ないですよ。(笑) 
    深い瞑想は、自分がしようとするとしたら怖いと思ってしまいます。

    なぜ気絶状態とも言える想受滅を自覚できるのかについて、これ知りたいです。
    よかったら教えてください。

    > 我々凡夫は、楽な状態の時にはそれを維持ないしは、もっともっととより楽な状態を貪り求め、無常ゆえにそれが変化する事(楽→不苦不楽→苦)を苦と感じ、逆に苦の状態にあるときには、無常ゆえの変化(苦→不苦不楽→楽)を楽と感じるようですが、単にこれをくりかえして、その切れ目のないリングからの脱出方法を知りませんので、そこから抜け出られないという事のようです。

    あ、これ、聞いたことはあります。

    自分なりに例で考えてみますね。
    エアコンはついていてもあまり涼しくない部屋にいて、さらに温度設定を下げ快適になります。
    しばらくすると寒すぎてきて、また温度設定を上げると快適になります。
    温度設定を下げたり上げたりを繰り返しすることが実際にあります。(笑)


    >そして楽と苦の中間の不苦不楽の境地には、無知が存在していますという事になります。

    この無知とはどういうものなのでしょうか?
    これも前に聞いたことがあるのですが、はっきりとしたことを記憶していないのです。
    平穏さになんとなく物足りなさを感じるというようなことだったかなぁ。。

    >もしもその切れ目のないリングからの脱出方法が学べて実践できたのであれば、苦から解放されます。そしてそれを道理として説いていたのが仏陀だったのだろうと考えています。

    ご説明をありがとうございます。_(._.)_
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■33192 / inTopicNo.79)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/19(Tue) 14:09:17)
    みのりさんへ。こんにちは。

    少し誤解があるようですので、補足してみたいと思います。

    先に書きました無色界定というのは、仏陀の説いた九つの禅定の段階である九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の中の、空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅の事を指しています。つまり、もともと「色」のない世界、領域を対象とした瞑想となるでしょうか。つまりは、空無辺所に至れれば、今まであった色の想は既に消滅しています。(薄暗い場所での瞑想と言う意味ではありません)

    例えば、好物のイチゴがあった時に行う瞑想は、食厭逆想の修習と言いますが、これを行っている間は、意図的に美味しだとかみずみずしいだとかの想念での感受を消す方向で志向します。この時には、単に身体を維持するだけの栄養としてだけの食物の摂取となりますが、この修習を終えれば味はもとに戻りますが、何かが消えているのが自覚できると思います。何か・・それは貪りです。つまりは、味覚に対しての渇愛(貪り)が一時的に消滅しますが、これを繰り返すことで、好物のイチゴへの味覚や色に対する渇愛(貪り)は激減します。好物のイチゴの味や見た目は残りながらも、それに対する貪り(渇愛)が無くなるという事です。

    花の香りについても同じで、原始には、一輪の花の香りを嗅いだだけで、香りの盗人だと言った内容のものもあります。勿論これは、本当の罪人としての盗人という意味ではなくて、解脱を願い梵行を行う修行者にとっては、これほどまで細かいところにも細心の注意を払いなさいよという意味だろうと思います。知らなければ、気づきようがありませんものね。

    仏陀は、一貫して渇愛(貪り)の滅尽を説いていたようです。これを滅尽することが、解脱や涅槃に役立つからです。つまりは、輪廻からの解放へ向けたメソッドの一つですね。

    色に関しては、仏陀はその旅先で「〜は美しい。〜〜は美しい」と言葉を発していますので、個人差はあるにしても我々と同じその美しさを感じていたのだと思います。ただ我々凡夫との明確な違いは、そこに渇愛(貪り)があるのかどうかだと思います。渇愛があれば、そこには苦が潜んでいますので、その苦の滅尽方法等を学べなければ、その状態は叶わないでしょう。

    味、香り、色と3つほど書いてみましたが、他の音・触・法の3つを合わせて、六境(色・音・香・味・触・法)と言いますが同じことです。我々凡夫との違いは、そこに渇愛(貪り)があるかどうかですね。そこに無意識にでも渇愛が生じていれば、苦が生起します。そこに渇愛がなくても、今まで通りの味、香り、色(他)は変わりません。

    > 一切の情報や光線からも遮断され、脳の機能が停止した状態

    私の理解では、この表現での状態ならば、想受滅です。通常では簡単には至れないと思いますが、みのりさんならば至れるのかもしれませんね。では何故に気絶状態とも言える想受滅を自覚できるのかについては、また機会があれば。

    我々凡夫は、楽な状態の時にはそれを維持ないしは、もっともっととより楽な状態を貪り求め、無常ゆえにそれが変化する事(楽→不苦不楽→苦)を苦と感じ、逆に苦の状態にあるときには、無常ゆえの変化(苦→不苦不楽→楽)を楽と感じるようですが、単にこれをくりかえして、その切れ目のないリングからの脱出方法を知りませんので、そこから抜け出られないという事のようです。そして楽と苦の中間の不苦不楽の境地には、無知が存在していますという事になります。もしもその切れ目のないリングからの脱出方法が学べて実践できたのであれば、苦から解放されます。そしてそれを道理として説いていたのが仏陀だったのだろうと考えています。
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■33097 / inTopicNo.80)  関東大震災
□投稿者/ みのり -(2023/09/17(Sun) 07:13:53)
    関東大震災の日の映像をカラーに補正したのを番組で少し前に観た。
    地面に入った亀裂に気を付けながら歩く人々や、遠くで起きている火事を冷静に眺めている群衆の姿が見られた。
    皆、落ち着いていて、現在の日本人の姿と変わらないものを感じた。
    しかし、映らないところでは地震の混乱に乗じて虐殺が起きていたのだな。
    生の証言として、父親が血の付いた竹やりを持ち帰ったのを見て怖かった、という高齢になっていたであろう男性の肉声を聴いた。
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■33063 / inTopicNo.81)  Re[19]: 色彩と脳
□投稿者/ みのり -(2023/09/15(Fri) 09:16:00)
    2023/09/15(Fri) 09:34:12 編集(投稿者)

    気持ちがふさいでいる時には、イチゴが乗ったそこそこお高いケーキを見ても、イチゴの艶感やケーキの断面の色合いを見ても食欲がそそられないものね。
    逆に、そそられ過ぎてケーキ爆食になったりしてももちろん困るわけで、このあたりがいわゆる中道でいきましょう、になるんだな。
    という余談。

    マトリックスのように、真実がわかる代わりに食べ物の味が何もしなくなってしまうのが普通になるのは希望しません。(笑)
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■33062 / inTopicNo.82)  色彩と脳
□投稿者/ みのり -(2023/09/15(Fri) 09:09:30)
    2023/09/15(Fri) 09:23:49 編集(投稿者)
    2023/09/15(Fri) 09:18:34 編集(投稿者)

    >> 無色界定という瞑想をしている時に、どんな感覚になってるのですか?
    >> とても大雑把な質問ですみません。

    >うーん。。あくまでも感覚的なご説明になるのですが、色がない世界の体験ですので、そこには物質感(物質としての感覚的なクオリア)がありません。色自体のない時間や空間の世界の体験や、それを意識しているというその意識自体の体験(一体化?・溶け込む?)世界とでも表現できるでしょうか。そして、それらすらもない(無分別の世界と言われるのですが)それでもまだそこは無分別という分別された世界での体験となりますかね。感覚的には、瞑想が深く進めば進むほど、何かの思いやそこに残った微々たる意識がフォーカスしていた対象自体もが徐々に消えていく感覚でしょうか。。勿論、仏典にはこのような説明はないのですが。

    先日、時さんが書いてくださった無色界定という状態に関連すると思われる番組を昨日たまたまBS1で観ました。

    同じ灰色の車の画像であっても、その灰色の画像に重ねて別な色を乗せると、緑、オレンジ、赤、青に見えるのです。
    色の組み合わせは正確に記憶してないので省きます。

    また、ベリー(赤い)は赤だと人間は記憶しているので、暗い場所で見た時にはそれがベリーだと解ると赤い色を脳が補色するそうです。

    一切の情報や光線からも遮断され、脳の機能が停止した状態だと無色で物質感も無い、ということなのでしょうか。
    それを瞑想でしていると。
    (う〜ん。。でもそれだと無色に見える物質がまったく見えないよなぁ。。
    薄暗いぐらいの場所で瞑想するってことかな。それであれば物質があるのはわかるものね。)

    瞑想であればまた色付き世界に戻れるからいいのですが、何らかの理由で色彩感覚が薄れる病気になったりしたら、日常生活には支障が出そうですね。

    前野さんは、美味しいや痛いという感覚は脳が作り出すイリュージョンだと書かれていますが、色彩についても光線の環境と脳が織りなすイリュージョンだということなのでしょうね。
    今、本で直接に確認していないのですが、色彩についてそのような記述もあった記憶があります。


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■33022 / inTopicNo.83)  アンミカさん
□投稿者/ みのり -(2023/09/12(Tue) 13:18:22)
    アンミカさん。
    幼い頃に家庭がとても困窮していたそうなのですが、身長が高くてバランスのいい健康そうな雰囲気だなぁ、といつも思います。
    環境に遺伝子が打ち勝ったのだな。

    兄弟間で、中川家のように身長の差がだいぶある場合もあるね。
    これもおそらく環境ではなく、遺伝子の相違が現れたのだろうな。
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■33014 / inTopicNo.84)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/11(Mon) 22:28:10)
    No33010に返信(みのりさんの記事)

    > ではありがとうございました。

    トピずれの話題にもかかわらず、こちらこそありがとうございました。
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