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No33192 の記事


■33192 / )  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/19(Tue) 14:09:17)
    みのりさんへ。こんにちは。

    少し誤解があるようですので、補足してみたいと思います。

    先に書きました無色界定というのは、仏陀の説いた九つの禅定の段階である九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の中の、空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅の事を指しています。つまり、もともと「色」のない世界、領域を対象とした瞑想となるでしょうか。つまりは、空無辺所に至れれば、今まであった色の想は既に消滅しています。(薄暗い場所での瞑想と言う意味ではありません)

    例えば、好物のイチゴがあった時に行う瞑想は、食厭逆想の修習と言いますが、これを行っている間は、意図的に美味しだとかみずみずしいだとかの想念での感受を消す方向で志向します。この時には、単に身体を維持するだけの栄養としてだけの食物の摂取となりますが、この修習を終えれば味はもとに戻りますが、何かが消えているのが自覚できると思います。何か・・それは貪りです。つまりは、味覚に対しての渇愛(貪り)が一時的に消滅しますが、これを繰り返すことで、好物のイチゴへの味覚や色に対する渇愛(貪り)は激減します。好物のイチゴの味や見た目は残りながらも、それに対する貪り(渇愛)が無くなるという事です。

    花の香りについても同じで、原始には、一輪の花の香りを嗅いだだけで、香りの盗人だと言った内容のものもあります。勿論これは、本当の罪人としての盗人という意味ではなくて、解脱を願い梵行を行う修行者にとっては、これほどまで細かいところにも細心の注意を払いなさいよという意味だろうと思います。知らなければ、気づきようがありませんものね。

    仏陀は、一貫して渇愛(貪り)の滅尽を説いていたようです。これを滅尽することが、解脱や涅槃に役立つからです。つまりは、輪廻からの解放へ向けたメソッドの一つですね。

    色に関しては、仏陀はその旅先で「〜は美しい。〜〜は美しい」と言葉を発していますので、個人差はあるにしても我々と同じその美しさを感じていたのだと思います。ただ我々凡夫との明確な違いは、そこに渇愛(貪り)があるのかどうかだと思います。渇愛があれば、そこには苦が潜んでいますので、その苦の滅尽方法等を学べなければ、その状態は叶わないでしょう。

    味、香り、色と3つほど書いてみましたが、他の音・触・法の3つを合わせて、六境(色・音・香・味・触・法)と言いますが同じことです。我々凡夫との違いは、そこに渇愛(貪り)があるかどうかですね。そこに無意識にでも渇愛が生じていれば、苦が生起します。そこに渇愛がなくても、今まで通りの味、香り、色(他)は変わりません。

    > 一切の情報や光線からも遮断され、脳の機能が停止した状態

    私の理解では、この表現での状態ならば、想受滅です。通常では簡単には至れないと思いますが、みのりさんならば至れるのかもしれませんね。では何故に気絶状態とも言える想受滅を自覚できるのかについては、また機会があれば。

    我々凡夫は、楽な状態の時にはそれを維持ないしは、もっともっととより楽な状態を貪り求め、無常ゆえにそれが変化する事(楽→不苦不楽→苦)を苦と感じ、逆に苦の状態にあるときには、無常ゆえの変化(苦→不苦不楽→楽)を楽と感じるようですが、単にこれをくりかえして、その切れ目のないリングからの脱出方法を知りませんので、そこから抜け出られないという事のようです。そして楽と苦の中間の不苦不楽の境地には、無知が存在していますという事になります。もしもその切れ目のないリングからの脱出方法が学べて実践できたのであれば、苦から解放されます。そしてそれを道理として説いていたのが仏陀だったのだろうと考えています。
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