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■32995 / inTopicNo.13)  時さんへ
  
□投稿者/ みのり -(2023/09/11(Mon) 06:58:08)
    時さん、おはようございます。
    レスありがとうございます。

    No32976に返信(時さんの記事)

    > でも、その昔アインシュタインが行ったとされる思考実験で「ん?もしも光の先端で鏡を見たら・・私の顔は映るのか??」といった面白いものがあったとか、なかったとか。
    >
    > そしてこのアインシュタインが思考してたとされる内容は、彼自身が考えたのではなく、そのエネルギーから生まれた二次的なエネルギーなのかも知れないなぁなんて思ったりもできますしね。そしてこの思いも、そのエネルギーの三次的な?と。そして無限退行が始まりそうですね。
    >
    > こんな風に、人間は何かをきっかけにしてその自然の中で自らの意志において進化しようとしているのかもしれませんね。そして仮に進化しきった時、人はどのようになるのでしょうかね?きっと自然に還ってしまうんじゃないのかな?なんて考えたりしています^^

    自然の中で自らの意志というのがよくわからないです。
    自由意志は存在しないと考えられているのに、自らの意志において進化しようとしている、というのは?


    > 学問等の世界では、クオリアという一言で何かを表現しているようですね。クオリアとしか言いようのないあれでしょうか(笑)

    前野さんは、クオリアをイリュージョンなのではないかとされています。
    ただ、私も実感としては、例えばピーマンのつやつやを感じながら切ってますし、いろんな食べ物の食感を楽しんだりしてます。

    > 同じ海(このようなものはないと思いますが)を2人が同時に見たとして、その心に映るクオリアは、厳密には同じではないでしょう。大雑把には同じという事にしなければ、学問は成立しないようにも思えますしね。(誤差のある、厳密ではないクオリアという表現されたそれでしょうか)

    画家や写真家には海のクオリア感覚が優れていることは必須でしょうけれど、海にまつわる研究をする際には優れていなくても問題ないし、そこに拘ると研究は進まなくなってしまいそうですものね。

    > 毎回のごとく、仏教系のお話に流れてしまいがちになりますので、そこは、私の自由意志で止めているつもりなのですが、、、どうも止めきれない場合が多いようで、すみません。m(__)m

    ぜんぜんかまわないですよ。
    ただ私が知らないために素っ気ない返事しかできずすみません。

    >>ところで、時さんは瞑想をされるのですか?
    >
    > はい。最近は思いついたときくらいの頻度ですが、少し前までは良く行っていました。四無量心や四念処や四禅定。無色界定と言われる・・・すみません。また、仏教のお話ですね^^

    無色界定という瞑想をしている時に、どんな感覚になってるのですか?
    とても大雑把な質問ですみません。

    > ところで、みのりさんは読書がお好きなようですのでお尋ねしますが、過去に龍樹の中論という書籍は、読まれたことがあるでしょうか?大乗仏教の始祖の龍樹という人物の思考世界のようですが、勿論、改めてお読みいただく必要はないのですが、もしも過去にお読みになられていたのであれば、軽いご感想でも賜りたく。(笑)

    読書が好きではないです。(笑) 
    知りたいって思いが出た時に買って読むけど、目が疲れたり理解が難しかったりが多く、好きではないけど、知りたい思いで読むという感じです。
    中論、読んでないです。なので感想は出せません。
    『龍樹』という中村元さんの本は以前読みましたが、縁起と無自性で空を説明したいるんだなというのしか記憶になく、本も売ってしまい今はありません。

    > 龍樹の思考世界は、多分・・アドヴァイタ(不二一元)の境地よりも少し上の境地である不一不二の次元だと私は理解しているのですね。みのりさんならば、どのようなご感想を持たれるのかなぁと少し興味が湧きました。まぁ、気が向かれたとき、読みたい書籍がないようなときにでも、暇つぶし程度にでもという感覚です。(ネット上にもあったと思います)

    不一不二ですか。パニチェさんのトピにもそのあたり触れられてましたね。
    一でもなく二でもないんですね。。
    喩えるならゼロ元なのかな。。

    中論について、今のところは解説書も読もうという気持ちは出てこないです。
    いつかそんな気分になることもあるかもしれないですけど。。

    > 最近は割と頻繁に投稿しているのですが、もともと私はロムの方が好みなのですね。これだけ連続の投稿をするのは、win95所有の頃以来です。また機を見てロムに戻るでしょうか。

    そうなんですね。
    私のこの投稿への返信もお気遣いなくにされてください。
引用返信/返信 削除キー/
■32998 / inTopicNo.14)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/11(Mon) 14:15:34)
    みのりさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No32995
    > > こんな風に、人間は何かをきっかけにしてその自然の中で自らの意志において進化しようとしているのかもしれませんね。そして仮に進化しきった時、人はどのようになるのでしょうかね?きっと自然に還ってしまうんじゃないのかな?なんて考えたりしています^^

    > 自然の中で自らの意志というのがよくわからないです。
    > 自由意志は存在しないと考えられているのに、自らの意志において進化しようとしている、というのは?

    私個人は、自由意志は存在しないのではないかと考えていますが、その視点で見ると、通常、人は、その自らの自由な意志で何かを取捨選択しながら文明や生活環境等を進化をさせていると同時に、自らも進化していると思い込んでいるのかもしれない。という意味合いで通じるでしょうか?

    ・自然の中で自らの意志・・自然という一つの全体性の中で、自らの意志という幻想。

    > > 毎回のごとく、仏教系のお話に流れてしまいがちになりますので、そこは、私の自由意志で止めているつもりなのですが、、、どうも止めきれない場合が多いようで、すみません。m(__)m

    > ぜんぜんかまわないですよ。
    > ただ私が知らないために素っ気ない返事しかできずすみません。

    いえいえ、ありがとうございます。かまわないですよと仰って頂けるだけで十分です。

    > 無色界定という瞑想をしている時に、どんな感覚になってるのですか?
    > とても大雑把な質問ですみません。

    うーん。。あくまでも感覚的なご説明になるのですが、色がない世界の体験ですので、そこには物質感(物質としての感覚的なクオリア)がありません。色自体のない時間や空間の世界の体験や、それを意識しているというその意識自体の体験(一体化?・溶け込む?)世界とでも表現できるでしょうか。そして、それらすらもない(無分別の世界と言われるのですが)それでもまだそこは無分別という分別された世界での体験となりますかね。感覚的には、瞑想が深く進めば進むほど、何かの思いやそこに残った微々たる意識がフォーカスしていた対象自体もが徐々に消えていく感覚でしょうか。。勿論、仏典にはこのような説明はないのですが。

    > 読書が好きではないです。(笑) 

    あら? そうなのですね。^^

    > 不一不二ですか。パニチェさんのトピにもそのあたり触れられてましたね。
    > 一でもなく二でもないんですね。。
    > 喩えるならゼロ元なのかな。。

    はい。この不一不二が、上記の無分別と言う、それでもまだ分別された境地なのですね。これも仏典に記載はないのですが、例えるのなら、ゼロ次元、無次元、無分別次元、そしてこの瞑想の境地を原始では、非想非非想処と表現されているようなのです。

    例えるならば、二ではなく一である境地が不二一元(アドヴァイタ)で、一でもなく二でもない境地が不一不二(非想非非想処)で、それすらもない処が仏陀の説いていた想受滅となるでしょうか。(原始では、不二一元は説かれていませんし、不一不二という表現もありませんが)

    そして過去に私がホゲホゲーと世間を散策しているときに、そこ(非想非非想処)にもまだ無知があるのですよと、過去に教わったという事です。

    > 中論について、今のところは解説書も読もうという気持ちは出てこないです。
    > いつかそんな気分になることもあるかもしれないですけど。。

    了解しました。^^

    > > 最近は割と頻繁に投稿しているのですが、もともと私はロムの方が好みなのですね。これだけ連続の投稿をするのは、win95所有の頃以来です。また機を見てロムに戻るでしょうか。

    > そうなんですね。
    > 私のこの投稿への返信もお気遣いなくにされてください。

    ありがとうございます。了解しましたー。
引用返信/返信 削除キー/
■33001 / inTopicNo.15)  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/11(Mon) 20:08:16)
    時さん、こんばんは。
    レスありがとうございます。

    No32998に返信(時さんの記事)

    > 私個人は、自由意志は存在しないのではないかと考えていますが、その視点で見ると、通常、人は、その自らの自由な意志で何かを取捨選択しながら文明や生活環境等を進化をさせていると同時に、自らも進化していると思い込んでいるのかもしれない。という意味合いで通じるでしょうか?
    >
    > ・自然の中で自らの意志・・自然という一つの全体性の中で、自らの意志という幻想。

    そういうことでしたか。それならわかりました。_(._.)_


    >>無色界定という瞑想をしている時に、どんな感覚になってるのですか?
    >>とても大雑把な質問ですみません。
    >
    > うーん。。あくまでも感覚的なご説明になるのですが、色がない世界の体験ですので、そこには物質感(物質としての感覚的なクオリア)がありません。色自体のない時間や空間の世界の体験や、それを意識しているというその意識自体の体験(一体化?・溶け込む?)世界とでも表現できるでしょうか。そして、それらすらもない(無分別の世界と言われるのですが)それでもまだそこは無分別という分別された世界での体験となりますかね。感覚的には、瞑想が深く進めば進むほど、何かの思いやそこに残った微々たる意識がフォーカスしていた対象自体もが徐々に消えていく感覚でしょうか。。勿論、仏典にはこのような説明はないのですが。

    ご説明ありがとうございます。
    想像がつかないのですが、質問してみたいことはありますので、もしご覧になっていたらお願いします。

    どなたか師の下で瞑想を習われたのですか?

    >>不一不二ですか。パニチェさんのトピにもそのあたり触れられてましたね。
    >>一でもなく二でもないんですね。。
    >>喩えるならゼロ元なのかな。。
    >
    > はい。この不一不二が、上記の無分別と言う、それでもまだ分別された境地なのですね。これも仏典に記載はないのですが、例えるのなら、ゼロ次元、無次元、無分別次元、そしてこの瞑想の境地を原始では、非想非非想処と表現されているようなのです。

    そうなのですね。 その非想非非想処というのは文字でだけでは見たことがありますが、中身としてはまったく想像がつかないです。

    > 例えるならば、二ではなく一である境地が不二一元(アドヴァイタ)で、一でもなく二でもない境地が不一不二(非想非非想処)で、それすらもない処が仏陀の説いていた想受滅となるでしょうか。(原始では、不二一元は説かれていませんし、不一不二という表現もありませんが)
    >
    > そして過去に私がホゲホゲーと世間を散策しているときに、そこ(非想非非想処)にもまだ無知があるのですよと、過去に教わったという事です。

    とてつもなく厳しいのですね。
    なんかこんな感想で申し訳ないです。


引用返信/返信 削除キー/
■33007 / inTopicNo.16)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/11(Mon) 21:18:15)
    みのりさんへ。こんばんは。返信をありがとうございます。

    No33001
    > 想像がつかないのですが、質問してみたいことはありますので、もしご覧になっていたらお願いします。

    > どなたか師の下で瞑想を習われたのですか?

    私には瞑想の師はいませんので、誰かの下で瞑想を習ってはいません。
    全て、原始仏典の世界観から学んだことなのですね。

    > > そして過去に私がホゲホゲーと世間を散策しているときに、そこ(非想非非想処)にもまだ無知があるのですよと、過去に教わったという事です。

    > とてつもなく厳しいのですね。
    > なんかこんな感想で申し訳ないです。

    いえいえ、十分なご感想だと思います。^^

    とてつもなく厳しい・・・ん? とてつもなく 厳しい・・・?

    今から思うと、私がそれを言われたのは、それを言った方の視点(原始基準)での無所有処か非想非非想処あたりを、当時の私がそれをも知らずにホゲホゲとうろついていたころだったのでしょう。。当時の私の感想として、「えっ?何が?無知?問題がないのに、無知?」でしたかね。今から思うとそれはそうですよ。アドヴァイタの境地の獲得をしていた(つもりだった)ので、これ以上はない(問題はない)等と言う感覚でしたから(笑)所謂、観得る人から観れば、知るべきことを知らずに有頂天になっていた愚者でしょう(笑)

    とてつもなく厳しい・・当時は既に「起こるべきことは、起こるべき時に起こる」という事を9割方感じ取っていましたので、厳しいとは思っていませんでしたが、、厳しいのですかね?(笑)よくわかりません。
引用返信/返信 削除キー/
■33010 / inTopicNo.17)  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/11(Mon) 21:51:52)
    No33007に返信(時さんの記事)

    >>想像がつかないのですが、質問してみたいことはありますので、もしご覧になっていたらお願いします。
    >
    >>どなたか師の下で瞑想を習われたのですか?
    >
    > 私には瞑想の師はいませんので、誰かの下で瞑想を習ってはいません。
    > 全て、原始仏典の世界観から学んだことなのですね。


    そうでしたか。師につかずに独学での瞑想で書かれていた体験まで行くものなのですね。

    ではありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/
■33014 / inTopicNo.18)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/11(Mon) 22:28:10)
    No33010に返信(みのりさんの記事)

    > ではありがとうございました。

    トピずれの話題にもかかわらず、こちらこそありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■33022 / inTopicNo.19)  アンミカさん
□投稿者/ みのり -(2023/09/12(Tue) 13:18:22)
    アンミカさん。
    幼い頃に家庭がとても困窮していたそうなのですが、身長が高くてバランスのいい健康そうな雰囲気だなぁ、といつも思います。
    環境に遺伝子が打ち勝ったのだな。

    兄弟間で、中川家のように身長の差がだいぶある場合もあるね。
    これもおそらく環境ではなく、遺伝子の相違が現れたのだろうな。
引用返信/返信 削除キー/
■33062 / inTopicNo.20)  色彩と脳
□投稿者/ みのり -(2023/09/15(Fri) 09:09:30)
    2023/09/15(Fri) 09:23:49 編集(投稿者)
    2023/09/15(Fri) 09:18:34 編集(投稿者)

    >> 無色界定という瞑想をしている時に、どんな感覚になってるのですか?
    >> とても大雑把な質問ですみません。

    >うーん。。あくまでも感覚的なご説明になるのですが、色がない世界の体験ですので、そこには物質感(物質としての感覚的なクオリア)がありません。色自体のない時間や空間の世界の体験や、それを意識しているというその意識自体の体験(一体化?・溶け込む?)世界とでも表現できるでしょうか。そして、それらすらもない(無分別の世界と言われるのですが)それでもまだそこは無分別という分別された世界での体験となりますかね。感覚的には、瞑想が深く進めば進むほど、何かの思いやそこに残った微々たる意識がフォーカスしていた対象自体もが徐々に消えていく感覚でしょうか。。勿論、仏典にはこのような説明はないのですが。

    先日、時さんが書いてくださった無色界定という状態に関連すると思われる番組を昨日たまたまBS1で観ました。

    同じ灰色の車の画像であっても、その灰色の画像に重ねて別な色を乗せると、緑、オレンジ、赤、青に見えるのです。
    色の組み合わせは正確に記憶してないので省きます。

    また、ベリー(赤い)は赤だと人間は記憶しているので、暗い場所で見た時にはそれがベリーだと解ると赤い色を脳が補色するそうです。

    一切の情報や光線からも遮断され、脳の機能が停止した状態だと無色で物質感も無い、ということなのでしょうか。
    それを瞑想でしていると。
    (う〜ん。。でもそれだと無色に見える物質がまったく見えないよなぁ。。
    薄暗いぐらいの場所で瞑想するってことかな。それであれば物質があるのはわかるものね。)

    瞑想であればまた色付き世界に戻れるからいいのですが、何らかの理由で色彩感覚が薄れる病気になったりしたら、日常生活には支障が出そうですね。

    前野さんは、美味しいや痛いという感覚は脳が作り出すイリュージョンだと書かれていますが、色彩についても光線の環境と脳が織りなすイリュージョンだということなのでしょうね。
    今、本で直接に確認していないのですが、色彩についてそのような記述もあった記憶があります。


引用返信/返信 削除キー/
■33063 / inTopicNo.21)  Re[19]: 色彩と脳
□投稿者/ みのり -(2023/09/15(Fri) 09:16:00)
    2023/09/15(Fri) 09:34:12 編集(投稿者)

    気持ちがふさいでいる時には、イチゴが乗ったそこそこお高いケーキを見ても、イチゴの艶感やケーキの断面の色合いを見ても食欲がそそられないものね。
    逆に、そそられ過ぎてケーキ爆食になったりしてももちろん困るわけで、このあたりがいわゆる中道でいきましょう、になるんだな。
    という余談。

    マトリックスのように、真実がわかる代わりに食べ物の味が何もしなくなってしまうのが普通になるのは希望しません。(笑)
引用返信/返信 削除キー/
■33097 / inTopicNo.22)  関東大震災
□投稿者/ みのり -(2023/09/17(Sun) 07:13:53)
    関東大震災の日の映像をカラーに補正したのを番組で少し前に観た。
    地面に入った亀裂に気を付けながら歩く人々や、遠くで起きている火事を冷静に眺めている群衆の姿が見られた。
    皆、落ち着いていて、現在の日本人の姿と変わらないものを感じた。
    しかし、映らないところでは地震の混乱に乗じて虐殺が起きていたのだな。
    生の証言として、父親が血の付いた竹やりを持ち帰ったのを見て怖かった、という高齢になっていたであろう男性の肉声を聴いた。
引用返信/返信 削除キー/
■33192 / inTopicNo.23)  みのりさんへ
□投稿者/ 時 -(2023/09/19(Tue) 14:09:17)
    みのりさんへ。こんにちは。

    少し誤解があるようですので、補足してみたいと思います。

    先に書きました無色界定というのは、仏陀の説いた九つの禅定の段階である九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の中の、空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅の事を指しています。つまり、もともと「色」のない世界、領域を対象とした瞑想となるでしょうか。つまりは、空無辺所に至れれば、今まであった色の想は既に消滅しています。(薄暗い場所での瞑想と言う意味ではありません)

    例えば、好物のイチゴがあった時に行う瞑想は、食厭逆想の修習と言いますが、これを行っている間は、意図的に美味しだとかみずみずしいだとかの想念での感受を消す方向で志向します。この時には、単に身体を維持するだけの栄養としてだけの食物の摂取となりますが、この修習を終えれば味はもとに戻りますが、何かが消えているのが自覚できると思います。何か・・それは貪りです。つまりは、味覚に対しての渇愛(貪り)が一時的に消滅しますが、これを繰り返すことで、好物のイチゴへの味覚や色に対する渇愛(貪り)は激減します。好物のイチゴの味や見た目は残りながらも、それに対する貪り(渇愛)が無くなるという事です。

    花の香りについても同じで、原始には、一輪の花の香りを嗅いだだけで、香りの盗人だと言った内容のものもあります。勿論これは、本当の罪人としての盗人という意味ではなくて、解脱を願い梵行を行う修行者にとっては、これほどまで細かいところにも細心の注意を払いなさいよという意味だろうと思います。知らなければ、気づきようがありませんものね。

    仏陀は、一貫して渇愛(貪り)の滅尽を説いていたようです。これを滅尽することが、解脱や涅槃に役立つからです。つまりは、輪廻からの解放へ向けたメソッドの一つですね。

    色に関しては、仏陀はその旅先で「〜は美しい。〜〜は美しい」と言葉を発していますので、個人差はあるにしても我々と同じその美しさを感じていたのだと思います。ただ我々凡夫との明確な違いは、そこに渇愛(貪り)があるのかどうかだと思います。渇愛があれば、そこには苦が潜んでいますので、その苦の滅尽方法等を学べなければ、その状態は叶わないでしょう。

    味、香り、色と3つほど書いてみましたが、他の音・触・法の3つを合わせて、六境(色・音・香・味・触・法)と言いますが同じことです。我々凡夫との違いは、そこに渇愛(貪り)があるかどうかですね。そこに無意識にでも渇愛が生じていれば、苦が生起します。そこに渇愛がなくても、今まで通りの味、香り、色(他)は変わりません。

    > 一切の情報や光線からも遮断され、脳の機能が停止した状態

    私の理解では、この表現での状態ならば、想受滅です。通常では簡単には至れないと思いますが、みのりさんならば至れるのかもしれませんね。では何故に気絶状態とも言える想受滅を自覚できるのかについては、また機会があれば。

    我々凡夫は、楽な状態の時にはそれを維持ないしは、もっともっととより楽な状態を貪り求め、無常ゆえにそれが変化する事(楽→不苦不楽→苦)を苦と感じ、逆に苦の状態にあるときには、無常ゆえの変化(苦→不苦不楽→楽)を楽と感じるようですが、単にこれをくりかえして、その切れ目のないリングからの脱出方法を知りませんので、そこから抜け出られないという事のようです。そして楽と苦の中間の不苦不楽の境地には、無知が存在していますという事になります。もしもその切れ目のないリングからの脱出方法が学べて実践できたのであれば、苦から解放されます。そしてそれを道理として説いていたのが仏陀だったのだろうと考えています。
引用返信/返信 削除キー/
■33245 / inTopicNo.24)  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/20(Wed) 08:51:41)
    時さん、おはようございます。
    見てくださっていたのですね。 投稿ありがとうございます。_(._.)_


    No33192に返信(時さんの記事)

    > 少し誤解があるようですので、補足してみたいと思います。
    >
    > 先に書きました無色界定というのは、仏陀の説いた九つの禅定の段階である九次第定(初禅・二禅・三禅・四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の中の、空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅の事を指しています。つまり、もともと「色」のない世界、領域を対象とした瞑想となるでしょうか。つまりは、空無辺所に至れれば、今まであった色の想は既に消滅しています。(薄暗い場所での瞑想と言う意味ではありません)

    瞑想する場所が薄暗いかどうかに関わらず、普通の明るさの場所であろうと、色の想が消滅している状態にあるのが無色界定になるのですね。
    詳しいご説明をありがとうございます。

    > 例えば、好物のイチゴがあった時に行う瞑想は、食厭逆想の修習と言いますが、これを行っている間は、意図的に美味しだとかみずみずしいだとかの想念での感受を消す方向で志向します。この時には、単に身体を維持するだけの栄養としてだけの食物の摂取となりますが、この修習を終えれば味はもとに戻りますが、何かが消えているのが自覚できると思います。何か・・それは貪りです。つまりは、味覚に対しての渇愛(貪り)が一時的に消滅しますが、これを繰り返すことで、好物のイチゴへの味覚や色に対する渇愛(貪り)は激減します。好物のイチゴの味や見た目は残りながらも、それに対する貪り(渇愛)が無くなるという事です。

    食厭逆想の修習ですか。
    渇愛(貪り)が激減するのですね。

    > 花の香りについても同じで、原始には、一輪の花の香りを嗅いだだけで、香りの盗人だと言った内容のものもあります。勿論これは、本当の罪人としての盗人という意味ではなくて、解脱を願い梵行を行う修行者にとっては、これほどまで細かいところにも細心の注意を払いなさいよという意味だろうと思います。知らなければ、気づきようがありませんものね。

    そうなんですね。 いい香りにうっとりするというようなことも、修行においては煩悩になるということなのでしょうね。

    > 仏陀は、一貫して渇愛(貪り)の滅尽を説いていたようです。これを滅尽することが、解脱や涅槃に役立つからです。つまりは、輪廻からの解放へ向けたメソッドの一つですね。

    はい。

    > 色に関しては、仏陀はその旅先で「〜は美しい。〜〜は美しい」と言葉を発していますので、個人差はあるにしても我々と同じその美しさを感じていたのだと思います。ただ我々凡夫との明確な違いは、そこに渇愛(貪り)があるのかどうかだと思います。渇愛があれば、そこには苦が潜んでいますので、その苦の滅尽方法等を学べなければ、その状態は叶わないでしょう。

    仏陀は弟子たちと旅をしていましたよね。
    その先々で珍しいものや美しいものを観たでしょうけれど、「またあの場所に戻って観たいな」というようには思わなかったのでしょうね。

    > 味、香り、色と3つほど書いてみましたが、他の音・触・法の3つを合わせて、六境(色・音・香・味・触・法)と言いますが同じことです。我々凡夫との違いは、そこに渇愛(貪り)があるかどうかですね。そこに無意識にでも渇愛が生じていれば、苦が生起します。そこに渇愛がなくても、今まで通りの味、香り、色(他)は変わりません。

    とてもわかりやすいです。 ありがとうございます。

    >>一切の情報や光線からも遮断され、脳の機能が停止した状態
    >
    > 私の理解では、この表現での状態ならば、想受滅です。通常では簡単には至れないと思いますが、みのりさんならば至れるのかもしれませんね。では何故に気絶状態とも言える想受滅を自覚できるのかについては、また機会があれば。

    私は絶対ないですよ。(笑) 
    深い瞑想は、自分がしようとするとしたら怖いと思ってしまいます。

    なぜ気絶状態とも言える想受滅を自覚できるのかについて、これ知りたいです。
    よかったら教えてください。

    > 我々凡夫は、楽な状態の時にはそれを維持ないしは、もっともっととより楽な状態を貪り求め、無常ゆえにそれが変化する事(楽→不苦不楽→苦)を苦と感じ、逆に苦の状態にあるときには、無常ゆえの変化(苦→不苦不楽→楽)を楽と感じるようですが、単にこれをくりかえして、その切れ目のないリングからの脱出方法を知りませんので、そこから抜け出られないという事のようです。

    あ、これ、聞いたことはあります。

    自分なりに例で考えてみますね。
    エアコンはついていてもあまり涼しくない部屋にいて、さらに温度設定を下げ快適になります。
    しばらくすると寒すぎてきて、また温度設定を上げると快適になります。
    温度設定を下げたり上げたりを繰り返しすることが実際にあります。(笑)


    >そして楽と苦の中間の不苦不楽の境地には、無知が存在していますという事になります。

    この無知とはどういうものなのでしょうか?
    これも前に聞いたことがあるのですが、はっきりとしたことを記憶していないのです。
    平穏さになんとなく物足りなさを感じるというようなことだったかなぁ。。

    >もしもその切れ目のないリングからの脱出方法が学べて実践できたのであれば、苦から解放されます。そしてそれを道理として説いていたのが仏陀だったのだろうと考えています。

    ご説明をありがとうございます。_(._.)_
引用返信/返信 削除キー/

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