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■32050 / inTopicNo.73)  Re[22]: B157
  
□投稿者/ pipit -(2023/07/30(Sun) 12:58:32)
    みなさまこんにちは(^ ^)

    No32028の続きです。

    「可能な直観の多様を統覚によって統一する思考の働き」(田村一郎先生訳)によって「私が存在している」という意識も必然的に可能となりますが、この意識は「私が存在している」ということしか内容を持たないものなので、自己認識の内容を得るためには、、、と続くとpipitが思っている、次の原文のDeepL英訳です、、、この量で一文( i _ i )ナガイ!

    Since now, for the cognition of ourselves, apart from the action of thinking, which brings the manifold of every possible view to the unity of apperception, a certain kind of view, through which this manifold is given, is still necessary, then my own existence is not appearance (much less mere appearance), but the determination of my existence* can only happen according to the form of the inner sense, according to the particular way in which the manifold, which I connect, is given in the inner apperception, and I therefore have no knowledge of myself as I am, but only as I appear to myself.

    主語と動詞が何かもわからん....

    がんばって文章とにらめっこして切り詰めてみました。

    for the cognition of ourselves, a certain kind of view, through which this manifold is given, is still necessary,
    the determination of my existence* can only happen according to the form of the inner sense,
    and I therefore have no knowledge of myself as I am, but only as I appear to myself.

    DeepLに短縮英文の日訳をお願いすると、

    「自分自身を認識するためには、この多様体が与えられるある種の見方がやはり必要である、
    私の存在の決定*は、内的感覚の形式に従ってのみ起こりうる、
    それゆえ、私は、ありのままの私自身についての知識を持たない。」

    (pipit感想)
    我思うの意識だけでは我存在するの内容しかもたらさず、内容を得ようとすると、心に浮かぶアレコレで規定する方法が必要となるけど、心に浮かぶアレコレは心に浮かぶ形式にそって加工されて浮かんだ情報なので、
    加工されていない情報で規定された「私」についての知識とは別物、ということかなと思いました。
    この箇所では、カントの、その物自体への不可知論的な考え方が出てるんだね、多分?


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■32039 / inTopicNo.74)  Re[21]: B157
□投稿者/ pipit -(2023/07/30(Sun) 09:37:30)
    みなさまおはようございます(o^^o)

    No32027
    @>わたしたちは自己をあるがままに認識してるのではなく、自己触発によりあらわれるままに認識してるのだ、というのが前節で、<

    No32028
    A> 『それに対して、私は私自身を、表象一般の多様なものの超越論的総合において、したがって統覚の総合的根源的統一において、意識している。しかし、それは、私が私にどのように現象しているのかでもなければ、私が私それ自体でどのようにあるかでもなく、そうではなく、私がいる、という意識だけである。(B157)』
    『カント純粋理性批判』角川選書、p222より引用<

    ------------------------------

    角川選書の御子柴善之先生の解説を、上記@Aどちらについて述べてるものなのかを考えながら引用します。※下記【】内は、p222-223の御子柴善之先生の解説文書の引用です。【】についてpipitの感想を述べていきます。

    ------------------------
    【「私」は確かに、カテゴリーによって表象を総合的統一へともたらすという働きにおいて、「私自身」を意識しています。「私は考える」という統覚において「私」が意識されないことはありません。】

    これは、統覚(現われた表象を「私は考える」という表象を生み出す自己意識に全て統一させる働き)が稼働してる時、必然的に「私」が意識可能である、ということかなぁ。Aについて述べてるとpipitは考えました。

    ------------------------

    【しかし、そうした「私自身」を認識しようとするなら、そうした「私」は、上述のように時間によって規定された「自己」へと姿を変えてしまいます。私が総合的統一の働きにおいて意識しているのは、そうした現象としての自己ではありません。】

    これは前半は@についてで、「私自身」を認識しようとすると、想像力(構想力)のsynthesis speciosa・形象的総合(図示的総合)で対象としての「自己」を、自己触発により内官に受動的に与えられるというプロセスになってしまう。
    後半は、Aについてですかね。

    ------------------------

    【次に、意識されている「私」を物自体と考え、それにカテゴリーを適用することができるでしょうか。それは不可能です。なぜなら、カテゴリーを適用すべき形象がないからです。カントは『純粋理性批判』の他の箇所(「純粋理性批判の誤謬推理」で「意識の統一」を「点」(B149)に喩えていますが、点が部分をもたない「限界」を表示するものに過ぎず、それを空間中に見ることができないように、「私」もまた構想力によって形象にすることができないものなのです。】

    前半は、あるがままの私(機能システム自体の私)へのカテゴリーの適用は不可能、ということですかね。
    認識客体としては、構想力によって(感性を規定することで)形象化された(感受的には触発による受動としての)現象的「自己」しか可能ではなく、物自体としての認識客体の「あるがままの私」の認識は不可能であるというのが、この箇所の時点でのカントの主張となるのかな。

    ------------------------

    【そもそも形象は、構想力の形象的総合によってもたらされるものですが、構想力は感性の能力ですから、「物それ自体」にかかわることができません。私たちは、構想力の形象的総合の能力と統覚の統一の作用とを取り違えて、後者にもなんらかの形象が伴うように考え違えているのです。こうしてみると、私たちは、確かに「私」を意識していますが、その内容は「私がいる」というだけにとどまり、それ以上の規定を受けていないことが分かります。】

    構想力(想像力)とは、「対象が現にそこになくてもそれを直観において表象する能力」(B151)とのことです。
    構想力の原語はEinbildungskraft、英訳はimagination

    構想力を検索すると、アートスケープというホームページのArtwords(アートワード)に構想力の説明が出て、美術系?なのでちょっと新鮮でした。

    https://artscape.jp/artword/index.php/%E6%A7%8B%E6%83%B3%E5%8A%9B

    https://artscape.jp/dictionary/modern/1198539_1637.html

    それで、、、
    構想力が感性的直観を規定することで形象を得るというのが、第二版・超越論的論理学での記述内容になってるかとpipitは今のところ考えてますが、
    構想力が働くのは現象の創造においてで、
    物自体の認識においては、構想力は客観認識としての動力とはならない、ということかな、と思いました。

    「私がいる」という意識は、実存ということになるのかな。と今のところpipitはかんかえています。

    何がカント解釈として正解か、何が不正解か、さっぱりわからない謎の森になってる感がありますが、進んでみますー
    (;ω;)ヌマ

    超越論的演繹の◯◯ー (つД`)ノ
引用返信/返信 削除キー/
■32028 / inTopicNo.75)  Re[20]: B157
□投稿者/ pipit -(2023/07/29(Sat) 23:50:12)
    多様なものが統合されている働きを意識するとき、(働く私)があるという意識が生じるが、それは直観ではなく思考だ、とカントは言ってるのかな?

    うーん、ややこしいけど、、、

    この箇所の御子柴善之先生の訳を引用します。
    『それに対して、私は私自身を、表象一般の多様なものの超越論的総合において、したがって統覚の総合的根源的統一において、意識している。しかし、それは、私が私にどのように現象しているのかでもなければ、私が私それ自体でどのようにあるかでもなく、そうではなく、私がいる、という意識だけである。(B157)』
    『カント純粋理性批判』角川選書、p222より引用


引用返信/返信 削除キー/
■32027 / inTopicNo.76)  Re[19]: B157
□投稿者/ pipit -(2023/07/29(Sat) 23:30:27)
    2023/07/30(Sun) 07:36:24 編集(投稿者)

    わたしたちは自己をあるがままに認識してるのではなく、自己触発によりあらわれるままに認識してるのだ、というのが前節で、

    On the other hand, (一方)として、これから述べるのは、、、


    I am conscious of myself in the transcendental synthesis of the manifold of ideas in general,

    英訳のDeepL日訳は、
    「私は、多様なイデア全般の超越論的統合の中にいる自分を意識している、」

    、、、ん?イデア??アイデア??と原語を見てみると、「Vorstellung」で、純粋理性批判の日訳では「表象」などと訳されてる単語のようでした。

    上記文章は、「私は、表象一般の多様の超越論的総合において自分自身を意識している、」みたいな意味かな。


    thus in the synthetic original unity of apperception,

    「このように統覚の総合的な根源的統一においては」

    not as I appear to myself, nor as I am in myself,
    but only that I am.

    「私自身に現れるものとしてでもなく、(ありのままの)私自身としてでもなく」
    「ただ私がそうであるということだけ」

    、、、原文みると、
    「nicht wie ich mir erscheine, noch wie ich an mir selbst bin, sondern nur daB ich bin. 」

    erscheine 現象かな? : でもなく、

    selbst bin 私自身の存在? : でもなく、

    ich bin 私の存在?


    This conception is a thinking, not a looking at.

    原文は
    「Diese Vorstellung ist ein Denken, nicht ein Anschauen.」

    「この表象(ich bin )は、思考であり、直観ではない。」って感じかな?
引用返信/返信 削除キー/
■32026 / inTopicNo.77)  B157
□投稿者/ pipit -(2023/07/29(Sat) 22:58:52)
    みなさまおこんばんは(^^)
    B157です。

    原文をDeepLで英訳したものを貼り付けます。

    § 25 On the other hand, I am conscious of myself in the transcendental synthesis of the manifold of ideas in general, thus in the synthetic original unity of apperception, not as I appear to myself, nor as I am in myself, but only that I am. This conception is a thinking, not a looking at.
引用返信/返信 削除キー/
■31996 / inTopicNo.78)  日記
□投稿者/ pipit -(2023/07/29(Sat) 07:25:58)
    おもしろいこと考えるなぁと感心してます。

    外からの触発で外的直観を得るけれども、

    その直観は、心のうちに浮かぶものとして、内的触発で内的直観として情報化される。

    例えば皮膚に電気が生じたことをキャッチが可能=感性的直観が可能ということとすれば、

    それを因に、自己の中で把握的に理解した現象を得ることが、認識作成のプロセスと考えてるかんじなのかなぁと今のところ思いました。

    その把握の仕方が、概念として人間にアプリオリに可能な、純粋悟性概念であり、

    この概念を想像力で感性的に展開させることで(感性を知性化、知性を感性化)

    無分別状態の世界を、分別された世界へと自己内で変換する。

    pipitがカントを読み違えてる可能性は大いにあるけど、今のところそんなイメージで読んでて、ほんとにカントは、よくこんなこと黙々と考えられるなぁと、おもしろく思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■31993 / inTopicNo.79)  純粋理性批判B156
□投稿者/ pipit -(2023/07/28(Fri) 21:26:25)
    B156読んでます....

    外にあるものとして現れるものは、外的に触発され空間における現象として表される。

    内にあるものとして現れるものは、内的に(わたしたち自身によって)触発され時間における現象として表される。

    外にあるものとして現れるものが物自体ではないように、
    内にあるものとして現れるものも物自体ではなく現象だ、ということかな。

    内的触発の例として、カントは注意することをあげてますね。
    注意することで私たちの内に浮かぶ感受が変化する。
    注意するという自己触発が内的感覚の対象の表示規定に影響を与えている、ということかな。

    マインドフルネスが思い浮かびました。(知らんけど)

    おもしろいね、心に浮かぶ対象の変容が自己触発により浮かぶ現象の変容として捉える、そんな捉え方もあるのか....
引用返信/返信 削除キー/
■31880 / inTopicNo.80)  日記
□投稿者/ pipit -(2023/07/23(Sun) 16:00:17)
    関係ないかもだけど、つかれたので、思い浮かんだ思考の日記 ( ; ; )

    寝る(暗い)

    起きる(明るい)

    寝る(暗い)

    起きる(暗い)・・・さて、これは何時間寝てた?

    (私の)時間の認識は、(私の)外のものによって、作られる。


    つかれたー _(┐「ε:)_
引用返信/返信 削除キー/
■31878 / inTopicNo.81)  アクセス禁止になった英訳です
□投稿者/ pipit -(2023/07/23(Sun) 14:24:36)
    2023/07/23(Sun) 14:29:48 編集(投稿者)

    The first thing we have to do is to determine the length of time, or also the places of time for all inner perceptions, always from what external things represent to us in a variable way,

    (上記英訳文章のDeepL日訳)
    まず私たちがしなければならないのは、すべての内的知覚の時間の長さ、あるいは時間の場所を、常に外的なものが私たちに可変的に示すものから決定することである、
引用返信/返信 削除キー/
■31877 / inTopicNo.82)  Re[11]: 純粋理性批判B155
□投稿者/ pipit -(2023/07/23(Sun) 14:23:55)
    続きです!

    (´-`).。oO imgleichen daB wir die Bestimmung der Zeitlange, oder auch der Zeitstellen fur alle inneren Wahrnehmungen, immer von dem hernehmen mussen, was uns auBere Dinge Veranderliches darstellen,

    (DeepL日訳)
    同様に、私たちは常に、時間の長さ、あるいはすべての内的知覚の時点の決定を、外的なものが私たちに変化自在に表すものからとらえなければならない、

    (DeepL英訳)
    アクセス禁止になるので略します。

    =========

    (pipit感想)
    同様に、って、時間の単位は外的直観の形象を利用して認識するのと同様に?
    、、、
    時間の長さや、位置(??)は、外の物が表すものによってしか認識できないということ??

    the places of time って なにー (ToT)?

    とりあえず次の文章みてみます
    _| ̄|○




引用返信/返信 削除キー/
■31876 / inTopicNo.83)  Re[14]: 「直観」
□投稿者/ pipit -(2023/07/23(Sun) 13:52:47)
    みなさまこんにちはー
    また今更気づいたのですけど、

    No31871
    > 英訳では
    > without which mode of representation we would not be able to recognize the unity of its dimensions,
    > となってる原文箇所が訳されてないようです。
    >
    > この英訳をまたDeepL日訳してみると、
    > 「この表現方法なしには、その次元の統一性を認識することはできないだろう、」
    >
    > 今は「時間」という対象認識のお話しで、認識対象として統一させるには、外的直観に線を表象させるというワンステップを踏まないと、時間について考えることもできない、というようなことを言ってるのかなーと想像しました。<

    上記箇所、中山元先生などの日訳を見ると、
    「時間を測定する単位」などと訳されてますねー

    そうかぁ、

    the unity of its dimensions,

    で、時間の次元の単位?

    次元とか、、、もぅ、、、
    (・・?)

    めっちゃ簡易に考えると、線(ライン)の形象を利用して、なんかゴニョゴニョやって、時間の単位(分とか秒とか?)を認識するってことかなぁ?

    とりあえず先の文章に目を通してみます。
引用返信/返信 削除キー/
■31871 / inTopicNo.84)  Re[13]: 「直観」
□投稿者/ pipit -(2023/07/22(Sat) 22:54:41)
    2023/07/23(Sun) 06:06:57 編集(投稿者)
    2023/07/22(Sat) 23:23:56 編集(投稿者)

    No31870

    今気づきましたけど、DeepLの日訳、後半が訳されてないみたい?
    日訳の時、多い印象だなぁ、

    英訳では
    without which mode of representation we would not be able to recognize the unity of its dimensions,
    となってる原文箇所が訳されてないようです。

    この英訳をまたDeepL日訳してみると、
    「この表現方法なしには、その次元の統一性を認識することはできないだろう、」

    今は「時間」という対象認識のお話しで、認識対象として統一させるには、外的直観に線を表象させるというワンステップを踏まないと、時間について考えることもできない、というようなことを言ってるのかなーと想像しました。
引用返信/返信 削除キー/

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