| パニチェさん、こんにちは。 ご返答、ありがとうございました。
え〜、前回少し触れましたが、 パニチェさんの学術用語の用法が一般と少しずれることがあるのと、こちらの理由がより大きいのですが、私の『論考』および映画『マトリックス』の解釈があまりに違うということもあって、ちょ〜どええ感じの刺激になるようなコメントをするのが、いろいろ考えたんですが難しいんですよね。 それで今回は、主眼はパニチェさんの「弱い独我論」を理解することにおきます。 それでも、勘違いの可能性があると思いますので、違ってたらご指摘ください。
その後、ひとつだけ、話を簡単にするため、永井の〈私〉=パニチェさんの〈私〉とあえて仮定して、私の疑念を述べます。ちょっとお茶を濁す感じになるかもしれませんがご容赦ください。 前に言っていた『〈仏教3.0〉を哲学する』を読んでいれば、もっと共通の土台が得られて話をしやすかったかもしれませんが、まだ読めていないんで、すみません。 またVRについてももう少し勉強したいと思っているので、また機会があればそのときにお願いします。 ***************** 「弱い独我論」をできるだけシンプルにとらえたいと思います。
換骨奪胎して言うと、 【弱い独我論】 直接存在確信される、知覚の超越論的主体である〈私〉の存在と、世界内に存在し、知覚を通して間接認識される知覚対象(存在)の、両方の存在を認める。 しかし、 知覚存在については思考実験(デカルト的懐疑、水槽の中の脳、『マトリックス』)の検証結果として実在性の確証が得られない(仮象)ので、 実在性の確証が得られる〈私〉の存在のみを実在とみなす考え。
【引っ掛かる点】 今回、私の質問に対して、
>自分の身体、眼、脳は(他者の身体、眼、脳と同じく)触覚(身根)や視覚(眼根)を通じてあることが分かりますから(2)ですね。
という回答ですので、眼、脳は、知覚存在であり、世界内部存在であるということになりますね。 ですが、パニチェさんは、〈私〉の存在を世界の内部にはない存在とされており、その説明モデルとして眼を用いて説明されます。ちなみに、永井は〈私〉は世界の外側に、内外の境界に接するものとして描きますが、これ、パニチェさんも同じですよね。 この説明モデルでは、眼は世界の内部存在ではないように思います。 これは、映画『マトリックス』の説明モデルにおける、脳についても同様に思います。 ここでも脳(としての〈私〉)は、仮想世界の外部存在=実在とされていると思います。 つまり要は、世界外部(超越論的)存在の〈私〉の説明モデルとして、世界内部存在である眼や脳を用いるのは、私としてはやはり、語り得ぬものを語り得るものとして語って(描いて)しまっているのでは、という疑念を抱かざるを得ないわけです。 まあ、これはパニチェさんというより、正確には永井の『論考』解釈について私が思っていることで、今回は永井とパニチェさんの〈私〉を同じものとあえて仮定して述べましたが、パニチェさんは全く同じではないと言ってらっしゃるのは承知しています。ですので、的外れになっていたらすみません。そのへんは、また、ご指摘ください。
【補足】 あと、質問Bで、他人の心の存在を肯定されたことは、少し驚きました。
>ちなみに強い独我論者ってほとんどいないと思うんですがザビビのふくろうさんはどう思われますか? >強い独我論者なら(時さんのようなアドヴァイタ〔梵我一如の一元論〕を除いては)哲学を学んだり、議論したり、友人をもつことさえ意味をなさないと思うのですが。。。。
普通にはそうだと私も思います。ある意味、論外、何言ってんのこいつ、みたいな(笑) ただ、最近、VR一元論みたいな考えに惹かれていて、ひょっとすると、これって強い独我論になるんじゃないかとも思うんですよね。 このあたりもっと勉強して、詰めて考えないとまとまったことは言えないんですけど。 あっ、それと、『論考』の独我論も、どっちかっていうと強い独我論じゃないかと思いますね。私の解釈では。
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