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■3080 / inTopicNo.85)  100分 de 名著「純粋理性批判」2
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/06/09(Tue) 17:46:40)
    録画した番組を見た感想というか、今回は少し批判や疑問を…。

    カントは分析的判断や経験的総合判断に対してアプリオリな総合判断としての共通規格をあげている。共通規格として公理や因果律があるとし、これらが自然科学や数学が万人に共通する土台つまり基礎づけるものとしているが、公理や因果律も経験によるものではないか?という疑問。

    共通規格というのは脳や五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)の構造、認識プロセスが人類共通であることに他ならず、仮に複眼でも1+1=2とする公理が成立する世界となるのか疑問。また因果律に関しても窓から入ってきた風によってロウソクの火が消えるというのは経験からくる知識であって、酸素がなくなることによって火が消えるという知識と同じである。そもそも一つの原因から一つの結果が生じているというのは人間の経験からくる想像であり、経験上最も多かったケースをもって原因と結果としているだけの後天的な思考傾向ではないか?

    ピストルを撃って相手が死ぬという事象も引き金を引たことが原因で相手が死んだという結果だけではなく、原因としてはピストルを手に入れる、ガンショップで購入したとすればガンショップを開業したこと、ピストルを作った人がいるなどなど無数に原因とすることが可能で、弾丸が到達する前に相手は心臓発作で死亡していたとも考えることができる。「ピストルを撃って相手が死ぬ」という因果律は、経験上あるいは自分がこれまで知り得た知識のうち、最も多かったケースをもって原因と結果としているだけの後天的な思考でるとも言える。

    但し、脳科学の知見がなかった時代、または現象学をはじめとしたその他の哲学の先駆けや踏み台としてカントの仕事は偉大であったことには揺るぎないとは思う。

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■3078 / inTopicNo.86)  Re[14]: 物自体は存在するか
□投稿者/ ななし -(2020/06/08(Mon) 20:24:45)
    pipitさん、こんばんは。

    そうですね。
    カントは、やはり難しいのかもと思います。
    まあ、書き込みは、時々したいと思っています。

    これからもよろしくお願いします。
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■3074 / inTopicNo.87)  物自体は存在するか
□投稿者/ pipit -(2020/06/08(Mon) 17:36:30)
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■3067 / inTopicNo.88)  ななしさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/06/07(Sun) 23:32:12)
    返信ありがとうございます!

    私は、物自体に触発されて直観を得る、というところに
    現象がそれぞれの主観でありながら、それでも客観に妥当するような経験として
    人間同士で共有できる仕組みになるイメージを持っています。

    物自体を設定せず、直観だけから始めると、なぜ人間同士で同じ現象を見るのか、
    説明し難いのではないか、という疑問を持っています。

    物自体エックス、をメガネで見ると現象が現れるという構図ではなく、
    単に共通のメガネを持っているから物自体に関係なく現象を見るんだ、という構図になると、
    そうなると、メガネ、が、物自体なのじゃないか、と、思っています。
    現象は見えるけど、メガネ自体は見えませんよね。

    ななしさんは、
    >人間は、言葉も持ち合わせているので、それによってお互いの意識を
    共有できるのだと思います。<
    と書いてくださいました。

    中島先生の文章の引用では、
    『「超越論的」とは「事実問題」(quid facti)ではなく「権利問題」(quid juris)であり、カントは地上の上の人間すべてが事実合意しても客観性は保証されない、と考える。
    客観性とは、こうした「相互主観性」を超えたところにあり、しかも単なる「目的」や「理念」ではないものとして了解されている。それは独自の要請である。』

    とあり、言葉で意識の合意をしても客観性が保証されたとはいえないのが超越論的、と、中島先生は考えてるということですよね。
    私は、物自体の触発により得られた直観、を、言葉で表すように処理するから、
    客観妥当性が確保されるのかな、と、今の段階では思っています。

    さらに私見を述べれば、
    物自体の触発、という設定を課すことにより、経験の共有という帰結を得ることができる。
    けど、それは、事実問題ではなく、権利問題。
    自らの生をどのような態度でのぞむのか、その欲求からなされた形而上学的設定、が、物自体からの触発という思考法、と、今の所イメージしています。
    けど、
    全然違うのかもしれませんね。

    明日の放送を楽しみにしています(o^^o)

    ななしさん、書き込みありがとうございます!




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■3065 / inTopicNo.89)  Re[12]: 各個人が共有できるのは何故?
□投稿者/ ななし -(2020/06/07(Sun) 20:47:31)
    人間は必ず世の中に対してある構想を描き、こうなっているんじゃないかという仮説を立ててみる。科学全般がそういう原理で動いている。

    近代の人文科学の分野で仮説を立てて実験・検証というサイクルがうまく機能しなくなり、心理学、歴史学、社会学、民族学、言語学、芸術学といった分野で、共通了解が得られず異説の乱立と対立、という事があらわれてきた。

    フッサールはこれを「ヨーロッパ諸学の危機」と呼んだわけです。

    共通構造の取り出しが恣意的な観点に基づくと、「物語」や「イデオロギー」の対立になって、人文科学は科学としての本質を失って先に進めなくなってしまった。


    現象学の「本質観取」と異なり、構造主義やポストモダン思想、あるいはウィトゲンシュタインの言語ゲーム論などがもたらしたのは「それぞれのゲームがあるだけだ」という相対主義的な感覚だと思います。

    けれども、構造主義と現象学は、本来、対立する思想ではなく、仮説から検証を行う構造主義なら数学的な群論によって社会の構造を見出すことだったり、個々にパースペクティブを持った個人の意識から本質観取により共通認識を見出すという、どちらも共通の目的がある訳です。

    理想を言えば、構造主義の普遍性が現象学の思考によって検証され、確保されうる、と言うのがいいと思います。

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■3064 / inTopicNo.90)  各個人が共有できるのは何故?
□投稿者/ ななし -(2020/06/07(Sun) 19:13:55)
    同じ時間と空間の中にいて、同じ人間、ホモサピエンスでしかも健常者の認識作用を持ち合わせているからだと思います。

    テキストにも
    『この 本 で カント は、 すべて の 人間 は、 主観 に 共通 の メガネ( 認識 の 共通 規格) を 備え て いる ため、 数学 や 自然科学 の 基本 的 な 部分 について は、 認識 を 共有 できる と 主張 し ます。 』
    NHK 100分 de 名著 カント『純粋理性批判』

    と、西先生も書いています。

    次回第二回のテーマもズバリ「科学の知は、なぜ共有できるのか」となっていて
    明日が楽しみです。

    >月を見上げたら、
    2人とも月が見えるね、って言い合えるの

    人間は、言葉も持ち合わせているので、それによってお互いの意識を
    共有できるのだと思います。
    この辺は、フッサールの「本質観取」という方法かなと思います。

    お互い言葉を出し合って共通項を見出して行く。
    人間相互の違い、生きている条件や生存の場所の違いと同時に、人として共通の思いをもっていることがはっきり見えてくるというのは独特な経験です。

    単に自分の確信というのではなく、他の人にとっても同じく言える確信の構造だけを適切に取り出して記述していくこと、これが現象学的還元という方法の基本ですね。
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■3063 / inTopicNo.91)  Re[10]: ななしさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/06/07(Sun) 17:18:25)
    お返事嬉しいです、現象学のことも書いてくださりありがたいです。

    私の考えを伝えることを続けさせてもらえればとても嬉しいです。

    >そもそもカントは、心に写った像が、生まれながらのアプリオリの時間や空間の直感形式を通じて感性から悟性の4種12個のカテゴリーによる純粋概念によって経験というものが、アプリオリな総合判断が出来るとしたからです。<

    この経験を、各個人が共有できるのは何故と思いますか?

    私とななしさんが一緒にいて、月を見上げたら、
    2人とも月が見えるね、って言い合えるの、
    超越論的哲学に即して理屈をいうなら、何故だと、ななしさんは思われますか?
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■3062 / inTopicNo.92)  Re[9]: ななしさんへ
□投稿者/ ななし -(2020/06/07(Sun) 17:10:47)
    >カントの観念論には、物自体というシッポがついてる、って
    そういう意見を、ななしさんは聞いたことありますか?

    いいえ、シッポというのは知りませんでした。

    そもそもカントは、心に写った像が、生まれながらのアプリオリの時間や空間の直感形式を通じて感性から悟性の4種12個のカテゴリーによる純粋概念によって経験というものが、アプリオリな総合判断が出来るとしたからです。

    こうした一連の流れプロセスが超越論的な経験であり、物自体は、こうした超越論的認識では捉えられないものだからです。

    まあ、可視光線を超えた紫外線や赤外線は見えないし、音だって限界があるのが人間です。それは、人間がたんぱく質の身体を持っているからこそであり、機械とは異なるものです。機械には、フレーム問題があり、認識が異なるからです。

    また、フッサールは、カントによって「時間」「空間」のなかで見たり触ったりするものに限定していた「現象」を物自体で叡智界の道徳をも再び現象に取り戻そうとしました。それは、道徳、自由、神についてもそれなりに人は体験し意識の中に現れているものだからです。

    神は見ることはできませんが、信仰により日々の祈りで神に語り掛けるとき、そのように神を体験していると言えるからです。

    想像したり思考したり祈ったりすること全てが体験であり現象であるとフッサールは見なすため体験できない物自体(叡智界)は不要になり、この「現象」を考察すれば足りるとしたのがフッサールの「現象学」でした。

    現象学の場合、対象がわれわれの意識を超えて外部に自然と存在しているようなありかたが「超越的」と呼ばれ、一方、そのありかたが意識それ自身にどのように構成されるかという問題に関わるありかたが「超越論的」と呼ばれます。

    例えば「超越論的還元」とは、対象の超越を当たり前と思い込む日常と科学の態度をいったん宙吊りにして、その対象の構成のされかたを問うことを指します。
    フッサールはカントの超越論哲学における認識論の構造を批判的に解体し自らの哲学的立場を形成したといえます。
引用返信/返信 削除キー/
■3061 / inTopicNo.93)  ななしさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/06/07(Sun) 16:29:01)
    ななしさん、こんにちは。
    引用ありがとうございます。
    私の言いたいこと、ななしさんに伝えてみますね。

    まず、質問をひとつさせてください。
    カントの観念論には、物自体というシッポがついてる、って
    そういう意見を、ななしさんは聞いたことありますか?


引用返信/返信 削除キー/
■3059 / inTopicNo.94)  Re[7]: 超越論について
□投稿者/ ななし -(2020/06/07(Sun) 16:10:56)
    カントによれば、感覚を内容に持ち、なおかつ経験に先行する所定の形式(時間、空間、およびカテゴリー〈思考の形式〉)に沿って構成されたもの(現象)だけが、経験の対象となることができる。
    これに対し、この現象以外のもの(物自体)に関する理論的認識は成り立たない。このように、カントにおいては、対象の経験を成立させ、かつ理論的認識の限界をも決めているこの一連のありかたが「超越論的」と呼ばれる。

引用返信/返信 削除キー/
■3054 / inTopicNo.95)  超越論について
□投稿者/ ななし -(2020/06/07(Sun) 09:28:13)
    〇超越論的  

     カント は、経験 を 可能 に する 条件 を 吟味 する こと を「 超越論的」 と 呼び、 経験 可能 な 領域 の 外部 に 超え 出 て いる こと を 意味 する「 超越 的」 と 区別 し た。
     たとえば、 神 を 認識 できる か どう かは、 超越 的 な 認識 の 問い で あっ て、 超越論的 では ない。
     経験 を 可能 に する 感性 や 悟性、 統覚 の 働き を 吟味 する こと が、 カント の いう 超越論的な 哲学 の 探求 で ある。

    【NHKカントより】
引用返信/返信 削除キー/
■3046 / inTopicNo.96)  事実問題、権利問題、演繹 について4
□投稿者/ pipit -(2020/06/06(Sat) 09:28:25)
    最後に、pipitの感想的なものを投稿します。

    ※※※※※※※※

    と、用語設定を把握しました後に
    悪魔ちゃんさんが引用してくれた、中島先生の文章を読んでみたら、、、

    >「超越論的」とは「事実問題」(quid facti)ではなく「権利問題」(quid juris)であり、カントは地上の上の人間すべてが事実合意しても客観性は保証されない、と考える。
    客観性とは、こうした「相互主観性」を超えたところにあり、しかも単なる「目的」や「理念」ではないものとして了解されている。それは独自の要請である。言い換えれば、「超越論哲学」を求めるか否かは「ひとつの客観的な実在世界」を求めるか否かの問題であり、これは「関心」の問題であり、究極的には各人の「生き方」の問題である。〕<

    うーん、それでも難しいけど、、、

    客観的な実在世界を求めた時に、心に採用され得る哲学の形のひとつが、超越論哲学だと、中島先生はおっしゃってるのかな??

    pipitの今の感想としては、
    人間にとって、独我論、独在論を論理的に否定するのは無理かもだけど、
    カントは、それを「拒否」したのかな、
    って思ってます。

    そしてその「拒否」は、
    物自体という設定にあらわれてるかな、と、思いました。

    物自体が設定されることにより、
    わたしたちは、経験の共有が可能になると、私は今の段階では思っています。

    もし、わたしたちがバーチャルリアリティの住民だったとしたら、
    プログラムが物自体のイメージです。

    プログラムを介して、私たちは他人と現象を共有できるイメージです。

    カントが現象を、
    客観に妥当する、という言葉で表現してる感じなのを解説で読んだ時、
    感嘆しました。

    決して客観そのものではないかもしれないけど、
    客観に妥当する。

    おじいちゃんからもらった玉ねぎを、
    私は夕食の食材に使わせてもらい、
    家族が口にし、胃に入る。

    主観が世界を構築しながら、

    客観に妥当する
引用返信/返信 削除キー/

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