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Aカントの不安 1.ハイデッガーのカント解釈
(=゚ω゚)ノ カントが覗き込まなければならなかった《未知のもの》、、、 それ《未知のもの》とは、根源的な人間の本質、、、、 それ《未知のもの》とは、第一版で一瞬だけ開かれた、超越論的構想力への見通し、、、 カントはこの《未知のもの、知られざる根》から退避した。 第二版ではその見通しはカント自身によって覆い隠された、、、
的な〜 つまり、ハイデッガーは、 カントは、根源的な人間の本質を見つめる営みに、一度は取り組みかけたのに、不安に勝つことができず、回避してしまった、としてるのかな。
おそろしいものでもそれが真実なら直視する、という覚悟。 カントにはその覚悟が足りなかったため直視することを避けてしまった、ということかな?と、pipitは思ったけど、ページの先に、ハイデッガーの解釈がのってました。 理由は、、、今手にしてる(と思ってる)世界が崩れてしまう、ということも入ってるのかな?、との感想をもちました。
黒崎先生が【ハイデッガーの】解釈を列挙したものかな? 引用します。
『それにしてもなぜ、カントは超越論的構想力から退避したのであろうか?ハイデッガーの解釈を以下にあげておこう。 (1)感性のこの低級な能力がどうして理性の本質をなし得るというのか。最下位のものが最上位におかれるならば、すべてが混乱に陥りはしないか。ラチオとロゴスが形而上学において中心的機能を果たすあの栄誉ある伝統はどうなるのか。 (2)超越論的感性論と論理学が主題とするものが根本において超越論的構想力であるべきだとすれば、『純粋理性批判』の建築性、つまり、超越論的感性論と超越論的論理学という構造は維持されなくなるのではないか。 (3)純粋理性が、超越論的構想力に転化するとすれば、『純粋理性批判』は、それ自身主題を奪われてしまうのではないか。この基礎づけは一つの深淵の前へ導くのではないか。 (4)問いを徹底していくことでカントは〈未知なもの〉を見てしまった。彼は撤退しなければならなかった。なぜなら、超越論的構想力が彼を驚かせたばかりでなく、やがて純粋理性が、〈理性として〉なおいっそう強く彼を呪縛したからであった。』 p159.160より引用。
これがハイデッガーのカント解釈、を黒崎先生が解説したもの。 で、ページを頭に戻して、、、
ハイデッガーが《未知のもの》の表現で示した、カントによる《超越論的構想力》 これを主に、みていくみたいです。
とりあえず投稿します。
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