| このところ、『論考』の、はじめっからじっくり読み返してるところ。これは後で。
ふたたび、7【語りえぬものにつては、沈黙せねばならない。】についてね、 前に「語りえぬもの」について『論考』のなかで、ウィトちゃんはどのようなものを「語りえぬもの」としてるのか見て見たんだけど、ここではそれからちょっと離れて、
「語りえぬもの」、これって、「語ることができないもの」とか「言葉で言い表すことができないもの」とも言えると思う。こういう見方で「語りえぬもの」として見るね。
メルポンのに『見えるものと見えないもの』っていうのある。 これってある意味、一種の「分け方」だと思う。あ、これは置いといて〜。
「語りえぬもの」と「見えないもの」ってなんか同じようなことのようにわたしには見える。 「言葉にして言い表す」っていうの「見えるようにさせる」ということなんだと思う。
わたし7のなかには「語りえぬものが存在する」が前提にあるって見てる。 「語ることができないもの」これを、ここでは“それ”って呼ぶことにする。
語ることができないものは語ることはできない。 こういうのを無意味っていうのかな?
語ることができないものについては、沈黙しなくちゃならない。 これも無意味? “それ”(語ることができないもの)については、黙っちゃうしかないじゃん、って言ってるだとしたら、もうそこから何も産まれないよね。
もし、パニさんの言う〈私〉っていうのが“言葉で言い表すことができないもの”なんだとしたら、そしてウィットちゃんの7に従うなら、“それ”については語っちゃダメなんじゃない?ひとこと「〈私〉は神秘なのである」ですむような。もうそれ以上〈私〉について“考えることができないもの”として。
『論考』のなかに「神秘」っていうの出てきてる。抜粋しとく。 6・44【神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。】 6・45【永遠の相のもとに(112)世界を捉えるとは、世界を全体として――限界づけられた全体として――捉えることにほかならない。限界づけられた全体として世界を感じること、ここに神秘がある。】 訳注(112)〔スピノザ(Baruch de Spinoza, 1632-1677)の『エチカ』(Ethica, 1677)にある言葉。〕 6・522【だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。】 ほら、6・522に「だがもちろん言い表しえぬものは存在する」って言ってる。それと「それは示される」を〈それは啓示される〉って見ちゃったりして。 「神秘」を〈神の秘密〉ってすると、やっぱ形而上学的論考なのかもね。
でも、もしね、語ることができないものが存在すると思って(どうして“それ”が存在すると思われたのかも問題となるんだけどこのへんはすどおりしちゃう)、そして、もし、“それ”を見えるようにしたいと望むとき、問題はその方法ね。もっとも見えるようにしたい、って思わなければ7で終わりでもいいんだけど。
で、ふと
白い紙の上に白鉛筆で何かを描いても描かれたものは見えないんじゃないかしら? メルポンの「地の上の図」のわたしのから。
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