| 2021/07/09(Fri) 09:37:11 編集(投稿者)
おはようございます、アートポットさん
さてこの成語は日本の有名な書物にも登場します。徒然草です。少し長いですが該当段を全部書いてみます。第7段です。
「もし、化野(あだしの)に置く露が散らず、鳥部山の火葬の煙も消えず、そして我々も永久にこの世に生き続ける習わしであるならば、情趣というものが、どんなに失せてしまうであろうか。この世は不定(ふじょう)であるからこそ価値があるのである。
生命あるものをよく見ると、人間ほど長く生きるものはない。かげろうのように朝に生まれても夕方には死ぬ運命にあったり、蝉のように夏だけの命で春も秋も知らない生き物もあるではないか。人間がたとえ一年間つくねんと過ごすだけでも、それはこの上なく長く安楽な生き方と言えるではないか。それでも寿命に満足せず名残り惜しいと思うならば、たとえ千年を過ごしても、一夜の夢のようにはかない気持ちがするであろう。いつまでも生き続けることのできないこの世に、老醜の姿を晒すまで生きることができても、何の甲斐があろうか。
《長生きすれば恥をかくことも多い》。長くとも四十歳に達しないくらいで死ぬのが見た目もよいようである。その年代を過ぎてしまうと、老醜の姿を恥じる心もなくなり、人前に出たがり、老残の身で子や孫を溺愛し、立身する将来を見届けるまでの余命を願い、俗世に執着する欲心ばかり深くなり、ついに情趣も理解できなくなっていくのが、情けないことである」 (段落は原文にはありません。《》もありません)
作者は兼好法師、京都に住んでいたので京都の地名が出てきます。冒頭の「化野」、あだしのと読み、嵯峨野にあります。嵯峨野に念仏寺という寺があり、そこに十三重の石塔があます。十三重の石塔巡りが趣味なので2度行ったことがあります。 次の「鳥部山」は東山方面にある山でどちらも昔は墓地として知られていたようです。ここに枕草子に出てくる中宮定子の御陵があり、ここも2回お参りしたことがあります。化野の露、鳥部山の煙(火葬の煙)、どちらもすぐに消え、或いはいつまでも立ち続けるものではない譬えです。もしそれらがずっと存在するものであれば、「情趣というものが、どんなに失せてしまうであろうか」と兼好は言います。いつまでもないものだからこそ、趣きがあるのだと言っています。
次の段落では人の命は長いと言い、逆に短いものの例を挙げていきます。 「かげろうのように朝に生まれても夕方には死ぬ運命にあったり」これには出典があり、淮南子(えなんじ)・説林訓180の 「鶴は千年の寿命によって、その游(たの)しみをきわめ、蜉蝣(かげろう)は、朝に生まれて暮れに死ぬが、その楽しみをつくす」 に依っています。 次の 「蝉のように夏だけの命で春も秋も知らない生き物もある」 にも出典があります。荘子・内篇・逍遥篇に 「夏の蝉は春秋を知らず」 とあるのに依っています。 その後の 「老醜の姿を恥じる心もなくなり、人前に出たがり、老残の身で子や孫を溺愛し、立身する将来を見届けるまでの余命を願い」 も源信の《観心略要集》中、「朝露之底貪名利、夕陽之前愛子孫」に依っているとの指摘がありますが、ボクにはよくわかりませんでした。なお源信は日本の僧侶で、件の書物名の前に「伝」が入っているものもあるので、本当に源信が書いたのかどうかはイマイチ不透明です。
色々と出典を挙げてきましたが、ここでボクが言いたいことは、兼好法師という人はかなりの知識人であるということです。悪く取れば、自分の知識をひけらかしているように見えますが、自分の考えの根拠を示すというのは大変大事な事なのです。そしてこういう態度は何も兼好法師だけの事ではなく、普通のことだったのです。
最後にこの段で兼好法師が言いたかったことをボクなりに述べてみたいと思います。最初の段に 「この世は不定であるからこそ価値があるのである。」 とあります。 「あの世に人生を引きずらない、この世で人生を尽くす」 これが兼好法師の強い主張なのだと思います。
今回は故事成語の説明とはちょっと異なる筆運びになりました。
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