| メルポンの『知覚の現象学』のなかから「感情」について記述されているところを書き写して見ます。
第三部 対自存在と世界における(への)存在 ―T、コギトの中に、 〔コギトと感情的志向性〕と題して、 【しかしながら、知覚の場合は特殊な場合ではなかろうか。知覚は一つの世界に向って私を拓くのであるが、そうすることができるのは、私を超え、おのれを超えることによってのみである。したがって知覚的「総合」は未完成でなければならない。それは誤謬の危険におのれをさらすことによってしか、私に一つの「現実的なもの」を提示することができないのだ。物が一個の物であるべきであるなら、それが私に対してかくれた諸側面をもつことはまったく必然である。したがって、現れと現実との区別が知覚的「総合」においてその場をもつのは、至極あたりまえである。これに反して、「心的諸事実」についての私の意識を考察するなら、意識はその権利と自己自身の完全な所有とを取り戻すように思われる。例えば、愛と意志は内的作用である。それらはおのれの対象を捏造し、かくすることによって、現実から遠ざかり、この意味においてそれらがわれわれを欺くことは容易に理解できる。しかし、それら自身に関してわれわれを欺くことは不可能と思われる。私が愛、歓喜、もしくは悲哀を体験している以上、たとえその対象が、実際は、つまり他人にとっては、あるいは他の時点における私自身にとっては、私が現在それに与えている価値をもっていないとしても、私が愛し、喜び、あるいは悲しんでいることには変りない。現れは私においては現実である。意識の存在は、自己に向って現れることである。意志するとは、意志するに値するものとして(倒錯した意志の場合には、まさに意志するに価しない限りにおいて意志するに価するものとして)ある対象を意識することでなくして何であろうか。愛するとは、愛すべきものとしてある対象を意識することでなくして、何であろうか。そして対象の意識は必然的に意識自身についての知を包含しており、しからざれば意識が自己自身から逃れてしまい、その対象さえ捉えられないだろうから、意志することと意志していると知ること、愛することして愛してると知ることは、ただ一つの作用である。愛とは愛することの意識であり、意志とは意志することの意識である。自己を意識していない愛もしくは意志とは、ちょうど無意識的な思惟が、思惟しない思惟であるように、愛していない愛であり、意志していない意志となるであろう。その対象がまがいものであろうと現実のものであろうと、意志もしくは愛には変わりがなかろう。そして実際にそれらが向かう対象への関わり方から切り離して考察するならば、それらは、われわれから真理が逃れるはずのない、 絶対的確実性の領域を構築するであろう。意識においては、いっさいが真理であり、錯覚は外的対象に関してしか存在しないということになろう。一個の感情は、それが感ぜられているからには、それ自身において考察されるなら、つねに真実であるであろう。しかし、もっと詳細にしらべてみよう。】
ここのなかには「感情」「愛」「意志」についての記述だけじゃなくて、いろんな現象学的見方がが書かれてるようにわたしには見えるんだけど、 ま、もっとも現象学のじゃないことに志向してる人には関係ない話しだけどね。
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