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■27469  Re[56]: 結びつけ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/11/13(Sun) 20:00:05)
    No27467 の最後のところ、
    <わたしの〈思っていること〉を「見えるようにすること」によって、〈思ってること〉は完成する。>
    これのメルポンの書き写します。これはまえに書いたと思うけど。

    メルポンの『知覚の現象学』の
    〔言語は思惟を予想するのではなく、それを成就する〕
    というところに書いてあったの

    ******************

    P294仮に言葉(パロール)が思惟を予想し、話すことがまず第一に認識の志向もしくは表象によって対象に結びつくことであるとすれば、なぜ思惟があたかもその完成に向かうが如く表現に向かうのかわからなくなるであろう。また、どんなに馴れ親しんだ対象といえども、その名を想い出さない限り、われわれにとって定かならぬものと見えるのはなぜなのか、そしてまた、何を書くのやら自分でもしかとわからずに本を書きはじめる多くの著述家たちが示すように、思惟する主体がその思想を自分に向かっていい表わし、あるいは実際にいったり書いたりしない限り、彼自身でも自分の思惟についていわば無知なのはどうしてかという理由が理解されないであろう。言語表現や伝達の苦労にわずらわされずに対自的に存在することで満足するような思惟は、出現するが早いか、たちまち無意識に舞い戻ってしまう。結局このような思惟は自己に対してすら存在しないに等しいことになる。カントの有名な問い(訳注59)に対して、われわれは内的もしくは外的言語によって自己に対して自分の思惟を提示するという意味おいては、思惟することも実際の一つの経験であると答えることができる。なるほど思惟は一瞬のうちに稲妻の如く進展する。しかし次にそれをわれわれのものとするという仕事が残っている。そしてそれがわれわれのものとなるのは表現によってである。対象が再認されてしかる後にその名が呼ばれるのではない。呼称は再認そのものである。
    p295私が薄暗がりのなかで一つの物を見つめ、「これはブラシだ」というとき、私の精神のなかにブラシなる概念があって、そのもとに対象が包摂され、他方、頻繁におこなわれた連合によってこの概念が「ブラシ」なる語と結びつけられている、というのではなく、「ブラシ」なる語そのものが意味を担い、私はこの語で対象を名ざすことによって対象に到達したという意識をもつのである。よくいわれるように、幼児にとっては対象が名づけられたとき、はじめてそれが知られるのであり、名称は対象の本質であり、その色彩や形と同じ資格で対象のなかに宿るのである。科学以前の考え方にとっては、対象を名づけるということは、それを存在せしめ、もしくはそれを変容せしめることに等しい。神は命名することによって諸存在を創造し、呪術はそれらについて語ることによって、それらに作用する。もしも言葉が概念に根拠を置くものならば、これらの「誤謬」は不可解となろう。なぜなら、もしそうなら概念はいつでも言葉とは別ものとして自己を知り、また言葉を外的な随伴者として知っているはずなのだから。以上の主張に対して、幼児は言語による指示を通して対象を知ることを学ぶのであって、対象は最初は言語的存在として彼に提示され、後になってから初めて自然的存在となるのだ、要するに言語的共同体の事実上の存在によって幼児の信念は十分説明されると、こう反論してみても、これは問題の性格を変えるものではない。というのは、もし幼児が自然に関する思惟として自己を知る以前に言語的共同体の一員として自己を知ることが可能だとすれば、それは主体が普遍的思惟として自己を知らぬがままに言葉(パロール)として自己を捉えるのとが可能であり、語が対象や意義の単なる記号にとどまるどころか、事物そのものに住まい、意義を担い運ぶものであるとすることを条件としているからである。こういうわけで言葉は発語する人にあって、既成の思想をいい表すのではなく、思想を完成するのである。

    (訳注59)「カントの有名な問い」とは例の「先天的総合判断はいかにして可能なりや」だと思われる。総合判断(主概念のなかに意味的に含まれていない概念を賓概念とする判断)は、一般に経験の媒介を必要とする。そこでカントのいわゆる先天的(非経験的)総合判断(因果律その他の経験の構成原則)は、一見自己矛盾した概念に見え「いかにして可能なりや」という問いが生ずる。メルロの文章は思惟も実は言語による経験だということによって、この問いに答えることができるということなのであろう。

    **********************

    こういうのって、そうだな〜、ってわたし思う(あ、カントのについてのところはわたしわかんないよ)。

    それと、訳本で、【言葉】には(パロール)ってルビがついてます。
    No27452で、ソシュールの言語学では、
    ランガージュ(言語活動)をラングとパロールに分けられてるみたいだけど、たぶんメルポンはパロール(言葉)について見てるんだと思う。

    メルポンは、『知覚の現象学』のなかで、
    【世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである。】とか、
    【フッサールが、その生涯の終わりに臨んで、現象学の最も主要なテーマとして提起した「自然的世界概念」あるは「生活世界」の、一つの解明にすぎないのだ。】
    って言ってる。

    「現象学」っていうの、わたしのような素朴的経験的私が生きる生活世界のフィロソフィア、ってわたし見てる。
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