| (b),(d),(g)の結びつけのつづきです。 No27466で、
「私の外にあらわれているもの」を「見る」こと、によって私に「見られたもの」、これが「私の内(意識)にあらわれてるもの」
ってして、(b)と(d)が結びつけられたんだけど、これと、 (g) 「語ること」、これは「見えるようにさせること」で、それによって「見えるようにされたもの」。 をどう結びつけようっかな〜、って。
そこで、PさんとQさんというふたりのやりとりで見ていって見るね。 「PはQになんか話してる」のね。これは、PはQに対して「語る」ことで、Pが〈思っていること〉を「言葉」で「見えるようにさせてる」、ってうことになるよね。 あ、このばあいお喋りだから、「見えるようにさせてる」っていうより、「聞こえるようにさせている」っていう方が正確なんかもしれないけど、わたしのばあい「見ること」のうちに「聞くこと」「読むこと」「触ること」さえも含めてるからね。 Pが「語る」ことによって「見えるようにさせたもの」=「言葉」を、Qが「見る(聞く)」のね。これは「Qの外にあらわれれているもの」を「見る」こと、によって「見られたもの」、これが「Qの内(意識)にあらわれているもの」、っていうことになるよね。 このときね、Pが語ることによって見えるようにさせた「言葉」は、Pにとっても「Pの外にあらわれているもの」ってなって、この「Pの外にあらわれ(し)てるもの(Pによって発せられた言葉)」は、Pにとっても「見られたもの」となって、これが「Pの内(意識)にあらわれているもの」ともなるよね。
ん〜ん、こういうんで(b),(d),(g)が結びつけられたかな?
「語る」っていうことにおいて、【「話す主体」が存在する】、【話すひとというものが存在する】、っていうことを忘れないように、ってメルポンに倣ったから。 あと、 「語る」ときは、誰かに向けて、っていうのもあるよね。この誰かっていうのは必ずしも他人だけじゃないよね。自分自身に向けて、っていうのもあると思う。 たとえば、いま、わたしがこうしてパソコンに何か打ち込んでいるのは、ここニークラで発表する(見えるようにする)ことだけじゃなくて、わたし自身に向けて、でもあるわけね。わたしに〈思われたの〉をパソコンの画面上に「言葉(文)」であらわす。この「言葉(文)」という「わたしの外にあらわれ(し)ているもの」をわたしが「見る」こと、によってわたしに「見られたもの」、これが「私の内(意識)にあらわれてるもの」。そしてこれとわたしに〈思われたもの〉とを照らしあわせて見る。 わたしの〈思っていること〉を「見えるようにすること」によって、〈思ってること〉は完成する。ということになるのかも。 (ここの最後のところは、メルポンから倣ったのね。ここのとこ、次に書き写して見ます。)
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