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■21021  純粋理性批判を読んでみる。34
□投稿者/ パニチェ -(2022/02/22(Tue) 19:51:52)
    トピ主:pipitさん



    引き続きよろしくお願いします。
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■21059  Re[1]: 純粋理性批判を読んでみる。34
□投稿者/ pipit -(2022/02/24(Thu) 10:10:48)
    2022/02/24(Thu) 10:24:31 編集(投稿者)
    2022/02/24(Thu) 10:16:23 編集(投稿者)

    No21021
    パニチェさん、いつもありがとうございます!
    お世話になります m(_ _)m

    ※※※※※※※※

    --------------------------------
    読んでる場所の参考★中山元先生の段落タイトルリスト参照

    第一四項 カテゴリーから超越論的な根拠づけへの移行
    1.対象を認識するための条件137
    2.超越論的な根拠づけの原理138★
    3.イギリス経験論の問題点139
    4.本書の課題 140
    5.判断表の概念とカテゴリー表の概念の違い――実体の概念を例として141

    ※『純粋理性批判』カント/中山 元先生訳 全7巻の目次とタイトル・リスト参照

    https://www.kotensinyaku.jp/common/guide/pdf/kant01-07.pdf

    --------------------------------

    2.超越論的な根拠づけの原理138★
    該当部分原文の J. M. D. Meiklejohnさんの英訳
    省略
    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap40

    (英訳のDeepL機械翻訳)
    すべてのアプリオリな概念を超越論的に演繹することの目的は、これらの概念がすべての経験の可能性のアプリオリな条件であることを示すことである。
    経験の可能性の客観的な基礎を与えてくれる概念は、それゆえに必要なのである。
    しかし、それらが出会う経験を分析することは演繹ではなく、それらを説明することに過ぎない。
    なぜなら、経験から必然性の属性を導き出すことは決してできないからである。
    認識のすべての対象がその中に現れる、すべての可能な経験に対するそれらの本来の適用性と関係がなければ、どのような性質のものであれ、対象に対するカテゴリーの関係は全く理解できないだろう。

    (pipit感想)
    DeepLの翻訳能力に惚れ惚れしますねー
    AIすごいなー

    > すべてのアプリオリな概念を超越論的に演繹することの目的は、これらの概念がすべての経験の可能性のアプリオリな条件であることを示すことである。<

    【条件であることを示す】がポイントですね。
    含まれてることをいくら発見しても、使用されてる実例の発見だけでは帰納法による推測しかできずに、

    > 経験から必然性の属性を導き出すことは決してできないからである<

    だから、カントとしては、

    >認識のすべての対象がその中に現れる、すべての可能な経験に対するそれらの本来の適用性と関係<

    として

    > これらの概念がすべての経験の可能性のアプリオリな条件であることを示すこと<

    を目的として、

    >すべてのアプリオリな概念を超越論的に演繹する<

    と。
    まぁ、それが成功してるかしてないかは、多分、、、、いろんな評価が、、、、あると思われます(^^;;
    が、まず、カント先生の演繹論(根拠づけ)を理解したいと思います!
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■21070  超越論的な根拠づけへの移行 3.4
□投稿者/ pipit -(2022/02/24(Thu) 22:10:06)
    みなさまこんばんは (^○^)
    --------------------------------
    読んでる場所の参考★中山元先生の段落タイトルリスト参照

    第一四項 カテゴリーから超越論的な根拠づけへの移行
    1.対象を認識するための条件137
    2.超越論的な根拠づけの原理138
    3.イギリス経験論の問題点139★
    4.本書の課題 140★
    5.判断表の概念とカテゴリー表の概念の違い――実体の概念を例として141

    ※『純粋理性批判』カント/中山 元先生訳 全7巻の目次とタイトル・リスト参照

    https://www.kotensinyaku.jp/common/guide/pdf/kant01-07.pdf

    --------------------------------

    3.イギリス経験論の問題点139★
    該当部分英訳(Translator: J. M. D. Meiklejohn)から抜粋引用

    省略 m(_ _)m

    ※機械翻訳アプリDeepL翻訳
    しかし、この二人の哲学者が経験的に導き出した概念は、我々が純粋数学や一般物理学といった科学的なアプリオリな認識を持っているという事実と調和することはあり得ないのである。

    (pipit注)
    二人とは、ロックとヒュームのことです。
    カント的には純粋数学や一般自然科学はアプリオリな認識が得られているのが事実、と判断してるんですね。(賛否両論?)

    次の段落です↓

    4.本書の課題 140★
    該当部分英訳(Translator: J. M. D. Meiklejohn)

    省略 m(_ _)m

    DeepL機械翻訳
    この二人の著名な人物のうち前者は、贅沢への扉を大きく開いた-(理性がいったん疑いなく正しいことを味方につけたなら、曖昧な節制の勧告によって自らを一定の限界に閉じ込めることは許されないからだ)、後者は完全に懐疑に身を委ねた-認識能力が信頼できないことを発見したと考えた以上、当然の結果である。我々は今、理性をこの二つの岩の間に安全に導き、理性に明確な限界を与え、しかも理性の正当な活動の全領域を開放しておくことができないか、試してみるつもりである。

    (pipit雑感)
    前者はロック、後者はヒューム、です。
    ロックの部分はpipitには、カントが何を言っているのかわかりませんが、ヒュームは懐疑論に陥った、と言ってるみたいです。
    自分(カント)は、

    > 我々は今、理性をこの二つの岩の間に安全に導き、理性に明確な限界を与え、しかも理性の正当な活動の全領域を開放しておくことができないか、試してみるつもりである。<

    とのこと。
    o(・x・)/ カントせんせい、ふぁいとー 

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■21146  光吉俊二さん
□投稿者/ pipit -(2022/02/27(Sun) 15:24:48)
    みなさまこんにちは。

    日本のマインドフルネス界では有名な熊野宏昭先生の対談集についてのYouTubeを拝見していて、
    光吉俊二先生という方の存在をはじめて知りました。

    ちょっとびっくり。
    経歴は、
    美大→大学院工学研究→IT系会社立ち上げなどを経て今は東大大学院工学系研究科に設置された道徳感情数理工学社会連携講座の特任准教授。
    極真空手道連盟極真館七段!!

    風貌もマッチョー
    https://youtu.be/LPqi-pAzXLI

    この方、四則演算以外の新しい計算を提唱されて、その数理を駆使して、ロボットやAIの
    人工自我研究などもされているようです。

    ※参考ページ
    https://uzwa.jp/about/

    h
    ttp://www.bioeng.t.u-tokyo.ac.jp/faculty/50_mitsuyoshi.html
    『相転移を用いて創発計算を実行する新規演算子を構築する。 この演算子に基づく非ノイマン型計算を用いて、ロボットやAIに自発性とモラルによる行動制御を付与することを目指す。』

    それで、この提唱されている演算子の中の、
    cut (切る)と 動算についての子供もわかる超簡単な説明動画をみたのですが、
    おもしろかったです。

    @割り算 から 切り算へ、を説明する動画

    https://youtu.be/7qqvQTyv6LQ

    A割り算 から 動算へ、を説明する動画

    https://youtu.be/L8jUSaIr-d4


    切る、動く、重ねる、裏返す、という四つを「四則和算」と呼んでるのかな?
    重ねる、裏返すは、数理的にはもっと難しくなるのかな(^^;;
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■21152  Re[4]: 光吉俊二さん
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/02/27(Sun) 18:19:24)
    こんにちは〜、pipitさま

    「マインドフルネス」、初めて目にした語なんで、ネットで調べてみたら、

    〔マインドフルネスとは、過去の経験や先入観といった雑念にとらわれることなく、身体の五感に意識を集中させ、「今、瞬間の気持ち」「今ある身体状況」といった現実をあるがままに知覚して受け入れる心を育む練習のこと。〕
    ってあったんだけど、
    こういういう意味でいい?

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■21157  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/02/27(Sun) 21:48:42)
    2022/02/28(Mon) 16:29:22 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、こんばんはー

    マインドフルネスの定義もいろいろあるみたいとpipitは思ってるよ。
    pipitもマインドフルネスのことには詳しくなくて、熊野先生の対談相手の一人がわたしの好きなお坊さま(仏教)だったので、YouTubeみてたよ。

    熊野先生的マインドフルネスを知るために検索してみたよ。
    例えばこのページはどうかな?

    熊野宏昭研究室
    (行動医学)

    https://www.waseda.jp/prj-hum30/30+beyond/labo/489/
     
    ※以下の引用文章は熊野先生の執筆ではなく、熊野先生の研究室を紹介する文章です。
    『「マインドフルネス」という言葉をご存じだろうか。簡単にいうと、瞑想を通して、今この瞬間に心を向け、あるがままの自分を観察する方法だ。
    (略)
    瞑想には、集中瞑想と観察瞑想という2種類がある。何か一つのことに意識を集中して心を研ぎ澄ますのが集中瞑想。一方、意識を外に向けて、まわりの世界を隅々まで感じ取ろうとするのが観察瞑想だ。マインドフルネス瞑想は、後者にあたる。
     (略)
     瞑想は、個人の内的な体験のため科学の対象となりにくかったが、ようやく20年ほど前から、脳科学などの分野で研究が進むようになった。熊野研究室では臨床心理学の観点から、瞑想熟達者の脳波を記録し、別の認知実験のデータなどと照らし合わせながら、集中瞑想と観察瞑想の違いや、マインドフルネスの状態の時、脳がどのような働きをしているのかといったことを解明しようとしている。
    (略)』

    あと、熊野先生個人のかな?ホームページがあったよ。↓

    h
    ttp://hikumano.umin.ac.jp/

    マインドフルネスは賞賛される記事も、逆に問題点が指摘されている記事も、両方読んだ記憶があるよ。

    なんでも包丁と一緒で、有用な面も、危険な面もあるのかもだね。
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■21169  Re[6]: MINDFULNESS
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/02/28(Mon) 18:19:01)
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■21185  Re[3]: 超越論的な根拠づけへの移行
□投稿者/ pipit -(2022/02/28(Mon) 23:13:44)
    No21070の続きです。
    みなさま、こんばんは。

    第一四項の最後、
    5.判断表の概念とカテゴリー表の概念の違い――実体の概念を例として141★
    です。

    ここ、ちょっと意味が掴みきれていません。
    難しい。。。

    Translator: J. M. D. Meiklejohn

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap39

    I shall merely premise an explanation of what the categories are. They are conceptions of an object in general, by means of which its intuition is contemplated as determined in relation to one of the logical functions of judgement. The following will make this plain. The function of the categorical judgement is that of the relation of subject to predicate; for example, in the proposition: “All bodies are divisible.” But in regard to the merely logical use of the understanding, it still remains undetermined to which Of these two conceptions belongs the function Of subject and to which that of predicate. For we could also say: “Some divisible is a body.” But the category of substance, when the conception of a body is brought under it, determines that; and its empirical intuition in experience must be contemplated always as subject and never as mere predicate. And so with all the other categories.

    DeepL機械翻訳
    ここでは、カテゴリーとは何かということについて、単に説明をすることを前提にする。カテゴリーとは、ある対象についての一般的な概念であり、それによって、その直観が判断の論理的機能のひとつとの関係で決定されることが企図されている。以下は、このことを明確にするものである。範疇的判断の機能は、主語と述語の関係のことであり、たとえば、命題では、次のようになる。「すべての身体は分割可能である」しかし、理解力の単なる論理的な使用に関しては、これらの2つの概念のうち、どちらに主語の機能が属し、どちらに述語の機能が属するかは、まだ未決定のままである。というのも、私たちはこうも言えるからです。"ある可分なものは体である "とねしかし、物質というカテゴリーは、身体という概念がその下に置かれるとき、それを決定する。そして、経験におけるその経験的直観は、常に主語として、決して単なる述語として観想されねばならない。そして、他のすべてのカテゴリーについても同様である。
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■21186  Re[4]: 超越論的な根拠づけへの移行
□投稿者/ pipit -(2022/02/28(Mon) 23:24:19)
    ここ、もしかしたら英訳が少し、中山先生の捉え方と違うかもで、中山先生の日本語訳を引用して考えてみます。

    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p110より抜粋引用します。[]は中山先生による補足です。

    『141 判断表の概念とカテゴリー表の概念の違い――実体の概念を例として
    (略)
    このために対象の直観は、判断という論理的な機能に関して、カテゴリーによって規定されるのである。
    だから[判断表の「判断の関係」の部門の]断言判断の機能は、主語と述語の関係を規定するものである(たとえば「すべての物体は分割可能なものである」という命題のように)。(略)』

    、、、あ、ここまで引用して、ちょっと、微かに見えたかも、、で、いったんここで投稿します。
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■21188  日記
□投稿者/ pipit -(2022/03/01(Tue) 00:11:39)
    全然外れてるかもしれないので、日記とします。

    考察日記

    カテゴリーとは対象一般の概念であり、

    そのカテゴリーによって、

    (ある対象の)直観は、判断の論理的機能の一つとの関係で決定されると考えられている。


    カテゴリーが適応されたタイプによって、判断機能も決められてくる。

    が、論理機能ということだけによると、どちらを主語にするか述語にするかは未規定。

    が、実体(と偶有)のカテゴリーの下に物体が位置付けられると、


    主語と述語が位置付けられる。

    直観←----実体のカテゴリー

    実体概念が適用された直観を示す対象、が、主語となる。

    ふむー。。。。

    認識対象としての決定、に、おもえるんだよね。
    だから、主語になる。
    ◯◯は△△という判断を起こすとき、
    まず、◯◯を思考対象にする。そこから、思考が広がる。

    だから、実体概念を適用した対象は、主語の位置に座る。

    一応そう考えとこうかな。
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■21198  Re[6]: 日記
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/01(Tue) 19:19:30)
    お邪魔しちゃうね。

    「カテゴリー」と「概念concept」、わしも「分類」を考えてるときにいろいろ調べて見たのね。あ、これカントのとは違うのかもしれないけど、ちょっと書いて見るね。

    ネットから、

    「概念」
    概念とは、個々の対象、いわゆる個物(個体)よりも複数の個物を包括的・概括的に捕捉する。

    「カテゴリー」
    もはやそれ以上に分けることができない、最も根本的・一般的な基本概念。

    って、わたししてるのね。

    たとえば、科学の生物界の三つのドメイン、古細菌、真正細菌、真核生物っていう分け方がカテゴリーで、
    このこれ以上に分けることができないなかにおいて、界、門、網、目、科、属、種っていうのを設定して、これが概念に当たるんなんじゃないかしら?

    ちなみに、「生物分類学」によると、
    ヒトのばあい、
    ドメインは真核生物
    界は動物界
    門は脊椎動門
    網は哺乳網
    目はサル目
    科はヒト科
    属はヒト科
    種はHomo sapiens

    Homo sapiensはラテン語で「賢い人間」の意味。現在人類が属する種の学名。ヒト属で現存する唯一の種。

    こういうの、ネットにあった。

    生物分類学によると、「私」は真核生物で、賢い人間(H.sapiens)になるみたい。
    なんか、この分類の仕方、怪しい。
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■21202  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/01(Tue) 20:20:34)
    こんばんはー

    No21198
    > 「カテゴリー」と「概念concept」、わしも「分類」を考えてるときにいろいろ調べて見たのね。あ、これカントのとは違うのかもしれないけど、ちょっと書いて見るね。
    >
    > ネットから、
    >
    > 「概念」
    > 概念とは、個々の対象、いわゆる個物(個体)よりも複数の個物を包括的・概括的に捕捉する。
    >
    > 「カテゴリー」
    > もはやそれ以上に分けることができない、最も根本的・一般的な基本概念。
    >
    > って、わたししてるのね。
    >
    > たとえば、科学の生物界の三つのドメイン、古細菌、真正細菌、真核生物っていう分け方がカテゴリーで、
    > このこれ以上に分けることができないなかにおいて、界、門、網、目、科、属、種っていうのを設定して、これが概念に当たるんなんじゃないかしら?<


    ああ、おもしろいね。
    分け方の最小?が、カテゴリーだと思ってるんだね?

    おもしろいね。
    カント版カテゴリーは大枠では四つだよ。

    対象(世界の中の何か)についての分け方
    量、質、関係、様相、の四つ。。。

    量がない対象、
    あ、『無の表』があったなぁ。



    > ちなみに、「生物分類学」によると、
    > ヒトのばあい、
    > ドメインは真核生物
    > 界は動物界
    > 門は脊椎動門
    > 網は哺乳網
    > 目はサル目
    > 科はヒト科
    > 属はヒト科
    > 種はHomo sapiens
    >
    > Homo sapiensはラテン語で「賢い人間」の意味。現在人類が属する種の学名。ヒト属で現存する唯一の種。
    >
    > こういうの、ネットにあった。
    >
    > 生物分類学によると、「私」は真核生物で、賢い人間(H.sapiens)になるみたい。
    > なんか、この分類の仕方、怪しい。<


    これ、前にちょっとおもしろい見方、本で読んだんだよ。
    端折って引用するけど、更科功さんの『美しい生物学講義』という本で、
    『たしかに、体の構造を考えれば、私たちは細菌よりも複雑な生物だ。でも、私たちも細菌も、生命が誕生してから約四十億年という同じ時間をかけて進化してきた生物だ。どちらの方が進化しているとか、どちらの方が高等だとか、そういうことはない。』p123

    それからこれはイラストのページだから、更科さんの文じゃないかもだけど、
    メロンの網みたいな上に人間がのってて、
    『進化というと一方向を想像しがちだけど、、、
    実際の進化は網目のように進むのかもね』p233

    一直線の進化じゃないっておもしろいよね。

    力と力の関係で、人間は特別(唯一)と捉えられてる?面もあるのかもしれないね。

    言葉にはそれを発したものがいる、という言葉を思い出したよ。

    この言葉は、わたしが紡ぎ出したもの、かぁ
    そしてそこにはいろいろな影響が入っている

    教えてもらわないと、言葉、わからない、かな。

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■21203  日記
□投稿者/ pipit -(2022/03/01(Tue) 20:28:10)
    ちなみに実体(と偶有)は関係のカテゴリーかな?

    主語の一側面?一変化?が述語みたいな?

    今、本読みたくなーい。

    から、記憶で書く、いいかげんな日記です!


    あーーー、それで主語か!!!

    悪魔ちゃん、ありがとー

    二つ表象があって、実体が主語像に、偶有が述語像にあてはめるのかな、ってを

    違うかもだけど、思った!!
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■21207  『純粋理性批判』
□投稿者/ pipit -(2022/03/01(Tue) 22:36:08)
    みなさま、こんばんは。
    No21185まで読んできました。

    さて、現在地(純粋知性概念の根拠づけ[=演繹])の確認。
    (pipitが勝手に地方や県などにたとえてます)

    ※カント純粋理性国には、「原理論」「方法論」の二地方があり、今いるのは「原理論」地方。 



    ※「原理論」地方には、「感性論」と「論理学」の二つの県があり、今いるのは「論理学」県。



    ※「論理学」県には、「分析論」と「弁証論」の二つの市があり、今いるのは「分析論」市。



    ※「分析論」市には、「概念の分析論」と「原則の分析論」の二つの町があり、今いるのは「概念の分析論」町。



    ※「概念の分析論」町は、カント的カテゴリーについての二つの章から成り、
    内容で言うと
    第一章・カテゴリーの導出
    第二章・カテゴリーの演繹への準備&カテゴリーの演繹

    昨日まで読んできたのは、

    第二章の前半、準備部分
    「第一節第一三項超越論的な根拠づけ一般の原理について、と、第一四項カテゴリーから超越論的な根拠づけへの移行」

    で、これから読むのが、
    後半の、カテゴリーの演繹

    【 第二節 純粋知性概念の超越論的な根拠づけ 】
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■21208  Re[10]: 『純粋理性批判』
□投稿者/ pipit -(2022/03/01(Tue) 22:42:06)
    No21207

    ということで、

    『純粋悟性概念の超越論的演繹』・・・通称〈根拠づけの館〉・・・


    『第二節 純粋知性概念の超越論的な根拠づけ』は、

    第一五項 結合一般の可能性について

    第一六項 自己統合の意識[=統覚]の根源的で総合的な統一について





    第二七項 知性の概念の根拠づけからえられた結論

    と、カントがつけた項の15から27までです。
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■21209  演繹論「結合一般の可能性について」
□投稿者/ pipit -(2022/03/01(Tue) 22:54:55)
    No21208
    まずは、

    第一五項 結合一般の可能性について

    から見てみます。

    ===================
    ★導きの系として、中山先生の段落タイトルを参考にさせていただきます。 

    以下https://www.kotensinyaku.jp/column/2011/09/005064/
    より引用
    『中山 元さんによる新訳『純粋理性批判 』では、すべての段落にタイトルと番号がつけてあり、解説はすべてこの番号で行われています。このタイトルと番号をピックアップして、タイトル・リストをPDFで作成しました。 訳者あとがきでもふれていらっしゃいますが、かつて中山さんご自身も理解を確かめるためにタイトル・リストを作成されていたそうです。 ぜひ、カントの思考を理解するための一助としてご活用ください。』

    ※『純粋理性批判』カント/中山 元先生訳 全7巻の目次とタイトル・リスト参照

    https://www.kotensinyaku.jp/common/guide/pdf/kant01-07.pdf

    ==================
    中山先生による段落タイトル名

    第一五項 結合一般の可能性について
    142 知性による〈総合〉の根源性
    143 総合的な統一
    143n 像についての意識
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■21213  結合一般の可能性/知性による総合の根源性
□投稿者/ pipit -(2022/03/02(Wed) 14:28:32)
    みなさま、こんにちは。
    No21209

    ※『純粋理性批判』カント/中山 元先生訳 全7巻の目次とタイトル・リストを読解の参考にさせていただきます。

    https://www.kotensinyaku.jp/common/guide/pdf/kant01-07.pdf

    第一五項 結合一般の可能性について
    142 知性による〈総合〉の根源性 ★
    143 総合的な統一
    143n 像についての意識
    第一六項 自己統合の意識[=統覚]の根源的で総合的な統一について

    ==================

    142 知性による〈総合〉の根源性 ★
    該当部分の英訳

    Translator: J. M. D. Meiklejohn

    省略 m(__)m

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap42

    DeepL機械翻訳
    そして、この直観の形式は、対象が影響を受ける様式以外の何ものでもなく、私たちの表象能力の中に先験的に存在することができるのである。しかし、直観における多様体の結合(conjunctio)は、決して感覚によって与えられることはない。したがって、それは感覚的直観の純粋な形態に含まれることはできず、表象能力の自発的行為であるからである。そして、感性と区別するために、この能力を「理解」と名づけなければならない。したがって、意識的か無意識的かにかかわらず、直観の多様性、感覚的か非感覚的かにかかわらず、あるいはいくつかの概念にかかわるすべての結合は、理解による行為である。この行為に対して、我々は一般的に合成という名称を与え、それによって同時に、我々は以前に自分自身で結合したことがなければ、対象において結合されたものとして何かを表すことはできないことを示すことにしたい。あらゆる精神的観念の中で、結合の観念は、対象を通して与えられることのない唯一のものであり、主体自身によってのみ生じさせることができるものである。読者は、結合の可能性がこの行為の本質に根ざしていなければならないこと、そして、すべての結合に等しく有効でなければならないこと、そして、その反対に見える分析が、それにもかかわらず、常にそれを前提にしなければならないことを容易に理解するだろう。
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■21214  知性による総合の根源性
□投稿者/ pipit -(2022/03/02(Wed) 14:47:00)
    No21213
    (pipit雑感)

    中山先生によるタイトル名
    > 知性による〈総合〉の根源性<


    なんの根源性?と思って該当箇所を読んだら、
    多分、、、〈総合〉はすべて、知性を根源とする、という意味かなと、思いました。

    この項にカントが名付けた、「結合一般の可能性について」部分の英訳のタイトルを見てみます。

    Of the Possibility of a Conjunction of the manifold representations given by Sense

    機械翻訳
    Senseによって与えられる多様体表現の結合の可能性について

    カント的には、
    感性によって与えられた多様の結合は、一切を知性の働きに担わせている、という意味で、
    知性の根源性なのでしょうね。
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■21215  Re[14]: 知性による総合の根源性
□投稿者/ pipit -(2022/03/02(Wed) 14:53:04)
    No21214
    >カント的には、
    感性によって与えられた多様の結合は、一切を知性の働きに担わせている、という意味で、
    知性の根源性なのでしょうね。<

    But the conjunction (conjunctio) of a manifold in intuition never can be given us by the senses; it cannot therefore be contained in the pure form of sensuous intuition, for it is a spontaneous act of the faculty of representation. And as we must, to distinguish it from sensibility, entitle this faculty understanding; so all conjunction whether conscious or unconscious, be it of the manifold in intuition, sensuous or non-sensuous, or of several conceptions&#8212;is an act of the understanding.

    DeepL機械翻訳
    しかし、直観における多様なものの結合(conjunctio)は、感覚によって与えられることはない。したがって、感覚的直観の純粋な形態に含まれることはない。そして、感性と区別するために、この能力を「理解」と名づけなければならない。したがって、意識的であろうと無意識的であろうと、直観における多様なもの、感覚的であろうと非感覚的であろうと、あるいはいくつかの観念の結合はすべて、理解の行為なのである。

    ※翻訳で「理解」と訳されてるのは、「understanding」ですね。
    カント哲学では、悟性と訳すことが多いと思います。中山元先生は知性と訳されています。
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■21216  Re[15]: 知性による総合の根源性
□投稿者/ pipit -(2022/03/02(Wed) 15:02:24)
    2022/03/02(Wed) 15:03:24 編集(投稿者)

    No21213
    そして、その結合を〈総合〉と名付ける、と。

    To this act we shall give the general appellation of synthesis, thereby to indicate, at the same time, that we cannot represent anything as conjoined in the object without having previously conjoined it ourselves.

    DeepL機械翻訳
    この行為に対して、我々は一般的に合成という名称を与え、それによって同時に、我々は以前に我々自身で結合したことがなければ、対象の中で結合したものとして何かを表すことはできないということを示すことにする。

    合成と訳されてるのは「synthesis」ですね。
    中山先生は、該当箇所原語を総合と訳されています。

    文章の後半で述べてることは、
    例えばレゴブロックで組み立てた車を認識対象とするには、認識する事前に、自分で組み立てていなければ何も対象とならない、と言っているのではないかと。

    カントにとっては、感性に与えられたものは、あくまでも未分別の多様なのですね。

    ここらへんは異論反論でそうなとこですね。
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