HOME HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

ログ内検索
・キーワードを複数指定する場合は 半角スペース で区切ってください。
・検索条件は、(AND)=[A かつ B] (OR)=[A または B] となっています。
・[返信]をクリックすると返信ページへ移動します。 (*過去ログは表示されません)
・過去ログから探す場合は検索範囲から過去ログを選択。

キーワード/ 検索条件 /
検索範囲/ 強調表示/ ON (自動リンクOFF)
結果表示件数/ 記事No検索/ ON
大文字と小文字を区別する

全過去ログを検索

<< 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 >>
■21574  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/15(Tue) 18:35:58)
    No21572
    ありがとね!

    > 質問2
    > No21532
    > 記憶能力がある人(A)とない人(B)がいて、今、同じ場所にAとBがいて、
    > Aが見ている風景とBが見ている風景、それぞれ見えるものが違うのか、同じ光景なのか?
    > っていうことでいいのかな〜?<

    あ、うーん、微妙に違うかなぁ
    同じなのかなぁ


    先を読ませてもらうね!


    > ひとまず、これで、
    >
    > もし、わたしがAとしてを見て見ると、
    > わたしが椅子に座って、しばらくそこに居て、わたしの眼の前の景色を見ているとするね。
    > そのしばらくの間にも、時間は過ぎてるんだけど、〈ついさっき見た景色〉と〈たった今見てる景色〉と〈これから見るであろう景色〉、これ、わたし“同じ景色”って思ってるのね。
    > 「今」っていう時間の幅のなかに、記憶能力のある人は〈ついさっき見た景色〉を保持することができる、っていうことよね。<

    うん。悪魔ちゃんの言っていること、わかると思う。


    > じゃ、もしわたしがBの場合はどうなんるかな?
    > 記憶能力がないっていうことは、〈ついさっき見た景色〉を保持することができない、っていうことだから、〈たった今見てる景色〉と〈これから見るであろう景色〉だけになる、っていうことなんだけど。
    > でもよく考えてみると、記憶能力がない、っていうことは「過去」がないっていうことで、これは「今」っていうのも存在しない、っていうことになるんじゃないかしら?「未来」もね。
    > もしわたしに記憶能力がなかったら「今わたしに見えてる景色」の「今」がなくなって、「わたしに見えてる景色」だけになる。<

    うん。時間がなくなるんだね。


    > Aわたしは「今」見えてる景色は”同じ光景“。
    > Bわたしは、わたしに見えてる光景だけ、「今」のない光景、ってなる。<

    うん。


    > Aには「今」はあるけど、Bにはそもそも「今」が存在しない、過去・現在・未来、っていうのがなくなってる、時間が存在しない?今日は何年何月何日がないっていうことにもなるかな?<

    うん。

    > こいうふうに見て見ると、
    > AとBが、今、同じ場所にいて、“同じ光景が見えている”のかもしれないけど、Aに見えてる景色とBに見えてる景色はそれぞれの“意味が異なる”から、それぞれ見えているものは違う、っていうことになるんじゃないかしら?<

    意味が違うね。
    では、意味以外で同じものあると悪魔ちゃんは思う?
    どう考える?

    > 記憶能力のあるなしじゃなくても見ているものが違うっていうことあるよね。
    >
    > どう? pipitさまの期待した答えになってるかしら?<

    ちょっとまだわたしの聞きたいことが伝えられてないみたい。
    でも答えてくれてありがとう!
    この書き込みの中のわたしの再質問によかったら意見聞かせてくれると嬉しいです。

記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21576  Re[42]: pipitさんへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/15(Tue) 19:10:00)
    >ちょっとまだわたしの聞きたいことが伝えられてないみたい。<
    わたし、pipitさまの”答え”になってるかしら?ってきいてるのよね。
    ま、いいわ

    >では、意味以外で同じものあると悪魔ちゃんは思う?<
    ん?
    体験の記憶、過去。体験を無きものとしたアプリオリのことを聞いてるの?
記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21577  Re[43]: pipitさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/15(Tue) 19:13:07)
    No21576に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > >ちょっとまだわたしの聞きたいことが伝えられてないみたい。<
    > わたし、pipitさまの”答え”になってるかしら?ってきいてるのよね。
    > ま、いいわ
    >
    > >では、意味以外で同じものあると悪魔ちゃんは思う?<
    > ん?
    > 体験の記憶、過去。体験を無きものとしたアプリオリのことを聞いてるの?<

    違うよ。

    わたしの聞きたいことを、悪魔ちゃんにつたえるの難しいよ。

記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21575  記憶がないとき
□投稿者/ pipit -(2022/03/15(Tue) 19:05:52)
    記憶がまったく保持できないとき、

    これなあに、って、個別に見れるんだろうかね?

    カント的には純粋悟性概念はアプリオリだから、一応可能性は残されてるのかな。
記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21579  Re[43]: pipitさんへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/15(Tue) 19:20:17)
    え! 違うの〜?

    ひとまず、

    >わたしの聞きたいことを、悪魔ちゃんにつたえるの難しいよ。<
    これは、了解で〜す。
記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21578  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/15(Tue) 19:17:44)
    ごめん、質問し直していいかな。

    再質問書くね。
記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21580  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/15(Tue) 19:29:38)
    >こいうふうに見て見ると、
    > AとBが、今、同じ場所にいて、“同じ光景が見えている”のかもしれないけど、Aに見えてる景色とBに見えてる景色はそれぞれの“意味が異なる”から、それぞれ見えているものは違う、っていうことになるんじゃないかしら?<

    AとBが同一人物と仮定して思考実験すること、悪魔ちゃんは可能?

    同一人物として、記憶ある場合と、記憶ない場合の認識の現れ方を推測しながら話し合うことは悪魔ちゃん的には可能?
    それとも不可能?

記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21581  Re[45]: 悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/15(Tue) 20:02:52)
    全然詳しくないんだけど、
    現象学とか実存哲学とかって、仮定のことは話さない(考えない)のかなー、悪魔ちゃん的にはそういうこと考えるのは『無し』が好きなのかなーと思って。
記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21584  Re[46]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/15(Tue) 20:57:22)
    >AとBが同一人物と仮定して思考実験すること、悪魔ちゃんは可能?<
    ん〜ん、
    わたし記憶能力があるって思ってるけど。そのわたしが、もし、記憶能力がない、ってしたときのことを”思考する”っていうこと?
    っていうことだとして書いて見るね。

    「障がい者」っていう命名あるよね。
    わたしその言葉で呼ばれてないけど、この呼び名、誰が名づけたのかしら?
    そう呼ばれてる人たち、当の本にはそう”思考”してるのかしら?

    当の本人を、外から見て仮の定で決めつけちゃうのどうなのかな〜、っていうのが現象学的なんだとわたし見てるよ。

    ”そのもののうちで見る”こと、それを”外から見る”んじゃなくて、これって「不可能に近い」と思うんだけど、でもそれをやろうとしてるのが現象学なんだとわたし思ってるよ。

    あ、それを”外から見る”、っていうの、”客観的”に見る、っていう言い方でもいいかな?








記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21585  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/15(Tue) 21:12:30)
    No21584に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > >AとBが同一人物と仮定して思考実験すること、悪魔ちゃんは可能?<
    > ん〜ん、
    > わたし記憶能力があるって思ってるけど。そのわたしが、もし、記憶能力がない、ってしたときのことを”思考する”っていうこと?
    > っていうことだとして書いて見るね。
    >
    > 「障がい者」っていう命名あるよね。
    > わたしその言葉で呼ばれてないけど、この呼び名、誰が名づけたのかしら?
    > そう呼ばれてる人たち、当の本にはそう”思考”してるのかしら?
    >
    > 当の本人を、外から見て仮の定で決めつけちゃうのどうなのかな〜、っていうのが現象学的なんだとわたし見てるよ。
    >
    > ”そのもののうちで見る”こと、それを”外から見る”んじゃなくて、これって「不可能に近い」と思うんだけど、でもそれをやろうとしてるのが現象学なんだとわたし思ってるよ。
    >
    > あ、それを”外から見る”、っていうの、”客観的”に見る、っていう言い方でもいいかな?<

    お返事ありがとう!
    では、記憶能力がある場合と、ない場合、
    それぞれ主観(仮)で考えてみて、私と話してみてOKってこと??
記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21583  Re[46]: 悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/15(Tue) 20:12:30)
    返答は好きにしてねー (^_^)

    いろんな気づきにつながるような悪魔ちゃんのコメントありがとー
記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21586  Re[47]: 悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/15(Tue) 21:27:24)
    話してOKと考えて書くね、勘違いしてたらごめん!

    私は、そして悪魔ちゃんは、それぞれ景色を見てて、これは記憶ある場合だから、実際に見てるよね。

    そんでそれぞれが記憶能力ないとして、今見てる景色を見る(想像してみる)。

    この2パターンの光景について、お互いどんなこと思うか話してもらえるということ?

    設定伝わってる?(><)


記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21590  Re[48]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/16(Wed) 17:57:42)
    ■21586、
    >設定伝わってる?<

    だめ〜、ますます分かんなくなってきた〜

    お手上げで〜す

    ごめんね
記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21592  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/16(Wed) 19:13:38)
    No21590に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■21586、
    > >設定伝わってる?<
    >
    > だめ〜、ますます分かんなくなってきた〜
    >
    > お手上げで〜す
    >
    > ごめんね<

    ううう、本当にごめんよ m(__)m (>_<)

    いっぱい答えてくれてありがとう!!

    きっと悪魔ちゃんとの対話、後々わたしの中でいろんなことにつながる気がしてる。
    (今、新しい本を読んでるんだー)

    ほんとありがと!

記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21628  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/18(Fri) 00:36:14)
    2022/03/18(Fri) 07:05:19 編集(投稿者)
    2022/03/18(Fri) 00:50:45 編集(投稿者)
    2022/03/18(Fri) 00:39:01 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、こんばんは!

    No21504
    >で、わたしがpipitさまに聞きたかったのは、二つあるの。
    (1)第一版から第二版になるとき、カントは心変わりしたのかな?
    (2)『純理』(第一版、第二版関係なく)は、カントの根源的出発点として、〔それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない〕っていうのがそもそもあったのかな?
    っていうこと。
    もし、(2)だとしたら、カントの『純理』は、デカルトのが根本にあるのかな?って思うのね。<

    (1)については、
    No21568で引用したから、次は(2)の質問にチャレンジしてみるね。
    とりあえずカント自身は、自分はデカルトとは違うと言ってるみたい。
    引用するね。

    (カントの文章)
    『だからわたしはデカルトのやったように、自分の現存を、「わたしは考える」という命題から推測することはできない(これが推測によるものだとすれば、その前に「思考するものはすべて現存する」という大前提が必要となるだろう。』
    『純粋理性批判4』カント、中山元先生訳、p137、B423あたり

    めっちゃ誤解してるかものpipitの私見読解で書くね。

    カントのデカルト解釈は、
    『我思う、ゆえに、我あり。』
    を成り立たせるためには、三段論法にあてはめると、
    大前提(思考するものはすべて現存する。)
    小前提(わたしは思考する。)
    結論(ゆえにわたしは現存する。)
    の大前提が成り立っている必要があるけど、その原理が証明されているわけではないから、
    この論法を、カントとしては使えないと言ってるのかと。

    カントは、わたしは考える、は、わたしは現存する、と同一のことを表現してるにすぎなく、しかも、実体としてのわたしの現存ではなく、知覚が表れてるなにかがあるという意味での現存とイコールの命題に過ぎない、と、言ってるのではないかと。

    (カントの文章)
    『「わたしは考える」という命題と「わたしは現存する」という命題は、同一の命題である。
    この命題が表現しているのは、経験的で未規定な直観なのであり、知覚なのである(だからこの命題が証明しているのは、感性に属する感覚が、この[わたしの]現存を主張する命題の根底にあるということである)。』
    同本p138、B423あたり

    それで悪魔ちゃんの

    >(2)『純理』(第一版、第二版関係なく)は、カントの根源的出発点として、〔それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない〕っていうのがそもそもあったのかな?<

    についてなんだけど、思考する際には不可避として関係づけられてくる宿命のような関係性として置かれてるのではないかと。

    感性による経験的な像について知性が思考する、その時に思考の領域に属する(わたし)が出てくるということかと。

    (カントの文章)
    『ここでは未規定な知覚とは、たんに思考一般に与えられた実在的なものを意味するだけであり、現象として与えられたものではないし、物自体(叡智的な存在/ヌーメノン)として与えられたものでもない。
    ただ実際に現存し、「わたしは考える」という命題において、そのようなものとして提示された何かとして与えられているのである。
    ここで注意する必要があるのは、わたしは「わたしは考える」という命題を経験的な命題と呼んだのだが、そのことでわたしは、この命題に含まれるわたしが、経験的な像であることを主張しようとしたわけではないということだ。
    この〈わたし〉は思考一般に属するものであるから、これは純粋に知的な概念なのである。
    ただ思考の素材となる経験的な像が存在しない場合には、〈わたしは考える〉という心的な作用も生じないはずである。
    要するに経験的なものは、純粋な知性的な能力を適用し使用するための条件に過ぎないのである。』
    同本p138.139、B423あたり

    感じたものは現存する、感じたものを考えるとき〈わたし〉もある、って感じかな。
    カントの場合は、感性と知性を線引きしすぎ(割り切りすぎ)かもしれないね。

    いろいろ誤読してたらごめんね!
記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21646  日記
□投稿者/ pipit -(2022/03/19(Sat) 12:58:18)
    No21628

    > (カントの文章)
    『「わたしは考える」という命題と「わたしは現存する」という命題は、同一の命題である。
    この命題が表現しているのは、経験的で未規定な直観なのであり、知覚なのである(だからこの命題が証明しているのは、感性に属する感覚が、この[わたしの]現存を主張する命題の根底にあるということである)。』
    同本p138、B423あたり<

    うろ覚えで書きまーす。

    カントは意識された表象が知覚と言ってたような?

    するともしかしたら、カント的には、
    知覚の時点で、根源的な自我意識が関わり、(わたしは考える)が張り付いてると考えるのかもしれないね。
記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21649  Re[52]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/19(Sat) 15:04:56)
    No21628、ありがと、pipitさま。

    いろいろ考えて見たんだけど、そこんとこと、カントのわたしの書いて見るね。

    抜粋してもらったカントの文章を“わたし”に焦点を当て見て見たのね。
    ここには訳者?の表記の仕方として4つに分けられている気がする。

    (1)わたし
    (2)「わたし」
    (3)[わたし]
    (4)〈わたし〉

    カントの文章の“わたし”にこの番号をつけて見たよ。
    (a)
    『だからわたし(1)はデカルトのやったように、自分の現存を、「わたし(2)は考える」という命題から推測することはできない(これが推測によるものだとすれば、その前に「思考するものはすべて現存する」という大前提が必要となるだろう。』
    『わたし(1)』=カント。
    『わたし(2)』=デカルト。
    デカルト“が”「わたしは考える」って言ったのよね。
    ここに『自分』っていうの出てくるけど、わたしこれ、〈○○の自分〉ってして見た。デカルトの自分、カントの自分、pipitさまの自分・・・みたいなのね。『自分の現存』は、〈デカルトの現存〉〈カントの現存〉〈pipitさまの現存〉・・・っていうことになるのかな?あ、これはここでは取り扱わないことにするね。

    (b)
    『「わたし(2)は考える」という命題と「わたし(?)は現存する」という命題は、同一の命題である。この命題が表現しているのは、経験的で未規定な直観なのであり、知覚なのである(だからこの命題が証明しているのは、感性に属する感覚が、この[わたし(3)の]現存を主張する命題の根底にあるということである)。』
    『わたし(?)』は分かんないけど、「現存する」を〈存在する〉ってして見ると「わたしは存在する」ってなるから、これもデカルトが言ったこととして見て、『わたし(?)』は『わたし(2)』ってしとく。
    ここに[わたし]が出てきてるよね。
    『経験的で未規定な直観』=「知覚」=『感性に属する感覚』によるものとしての“わたし”を[わたし]と表記しているって見たよ。
    簡単に見て、〈経験による感-知覚によってもたらされた“わたし”〉を[わたし]。

    (c)
    『ここでは未規定な知覚とは、たんに思考一般に与えられた実在的なものを意味するだけであり、現象として与えられたものではないし、物自体(叡智的な存在/ヌーメノン)として与えられたものでもない。』
    『経験的で未規定な直観』=「知覚」=『感性に属する感覚』、これを簡単に〈経験的な感-知覚されたもの〉ってしちゃうよ。〈経験的な感-知覚されたもの〉は、『たんに思考一般に与えられた実在的なものを意味するだけ』ってカントは見てるのね。

    『現象として与えられたものではないし、物自体(叡智的な存在/ヌーメノン)として与えられたものでもない。』
    カントのいう『現象』っていうの、中島さんによると、「正しい現れ」っていう意味で使ってるみたい(誤った現れを仮象として区別している)だから、そう見とく。
    で、
    〈経験的な感-知覚されたもの〉は、『たんに思考一般に与えられた実在的なものを意味するだけ』であり、かならずしも〈それ〉は、思考に〈正しい現れ〉として与えられてるのではない。っていってるのかな?

    『物自体』っていうのが「叡知的な存在」という意味だとはわたし知らなかった。

    『ただ実際に現存し、「わたし(2)は考える」という命題において、そのようなものとして提示された何かとして与えられているのである。ここで注意する必要があるのは、わたし(1)は「わたし(2)は考える」という命題を経験的な命題と呼んだのだが、そのことでわたし(1)は、この命題に含まれるわたし(1)が、経験的な像であることを主張しようとしたけではない。この〈わたし〉(4)は思考一般に属するものであるから、これは純粋に知的な概念なのである。ただ思考の素材となる経験的な像が存在しない場合には、〈わたしは考える〉という心的な作用も生じないはずである。要するに経験的なものは、純粋な知性的な能力を適用し使用するための条件に過ぎないのである。』
    ここに〈わたし〉が登場してくるよね。

    「わたしは考える」と〈わたしは考える〉というように、異なる表記で両者が区別されてるんだと思う。
    じゃ『この〈わたし〉』ってどういうのかしら?
    〈わたし〉=『思考一般に属するもの』『純粋に知的な概念』 かな。

    まとめると、
    (1)わたし=カント
    (2)「わたし」=デカルト
    (3)[わたし]=経験的で未規定な直観、知覚、感性に属する感覚よるもの
    (4)〈わたし〉=思考一般に属するもの、純粋に知的な概念

    (b)に、
    『(だからこの命題が証明しているのは、感性に属する感覚が、この[わたし(3)の]現存を主張する命題の根底にあるということである)』ってあるから、
    カントは、デカルトの「わたしは考える」の“わたし”というのを[わたし](経験的で未規定な直観、知覚、感性に属する感覚におけるもの)として見ている、っていうことじゃないかしら?
    それに対してカントの「わたしが考える」は〈わたしは考える〉であって、〈わたし〉(思考一般に属するもの、純粋に知的な概念)として見ている、っていうことじゃないかしら?

    簡単に見ちゃうと、
    カントは、デカルトにおける「わたしは考える」の“わたし”は[わたし](経験によるもの)である。
    って見てて、
    一方、カントの場合、〈わたしは考える〉の“わたし”は〈わたし〉(経験によるものではなくて、純粋に知的な思考一般に属すもの)としている。
    って見ちゃったよ。

    いずれにしても、デカルトもカントも、「考える」っていうことを「私」の精神の真ん中に置いてる、っていうことのように見える。
    でも、わたし、身体もってるし、わたしの精神は考えることだけじゃなくて、感じることもしてるん。

    pipitさまがカントの抜粋してくれたところ、“わたし”に焦点を当てて見て見たんだけど、どうしてかっていうこと、長居しちゃったから、Whatのところに書いとくね。
記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21652  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/03/19(Sat) 16:52:48)
    2022/03/19(Sat) 16:54:54 編集(投稿者)

    こんにちは!書き込みありがとうー(^○^)

    No21649
    > いずれにしても、デカルトもカントも、「考える」っていうことを「私」の精神の真ん中に置いてる、っていうことのように見える。
    でも、わたし、身体もってるし、わたしの精神は考えることだけじゃなくて、感じることもしてるん。<

    悪魔ちゃんにはそう見えたこと、了解。

    私にはカントは感性の方も大切に置いてると思ってるけど。

    カント自身の文章を引用しておくね。
    ※そういえば、カントの純理で、精神って言葉あまり見ないなぁ。
    翻訳が関係してるのか、原語でもそうなのか、どっちかなー
    心って単語の方がよく見る気がするよ。

    カントの文章、B76あたり、中山元先生訳、第二巻p76、中山先生番号082)
    『わたしたちの心が何らかの形で触発されたときに、心のうちに像をうけとる能力が受容性であるが、この受容性を、感性と呼ぶことにしよう。
    これにたいして心には、みずから像や観念を作りだす能力も存在しているが、これは認識の自発性であって、これを知性[=悟性]と呼ぶことにしよう。
    わたしたち人間の本性からして、直観は感覚的なものでしかありえないのであり、わたしたちが対象によって触発される方法だけを含む。
    これにたいして知性とは、感覚器官が直観した対象を思考する能力である。
     この二つの能力の特性を比較してみても、どちらが勝っているとも言えない。
    感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは[対象を]思考することができない。
    内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である。
    だから対象の概念を感覚的なものにすること、すなわち概念に直観の対象を与えることが必要であると同時に、直観を理解できるものにすること、すなわち直観の対象を概念のもとに配置することもまた必要なのである。
     これら二つの能力あるいは性能は、その機能をたがいに交換することができない。
    知性は何ものも直観することができないし、感覚能力は何ものも思考することができない。
    このためにこの二つが結びつかなくては、認識が生まれないのである。
    だからといってこれらの能力のそれぞれの〈持分〉を混同してはならない。
    それぞれの能力を慎重に分離して区別するには、それだけの重要な理由があるのである。
    だからここでは感性論(エステティーク)を論理学(ローギク)と区別するのである。
    感性論は、感性一般の規則の学であり、論理学は知性一般の規則の学である。』
    引用終了

    ※※※※※※※※※※※※


    (カントの文章)
    【この二つの能力の特性を比較してみても、どちらが勝っているとも言えない。
    感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは[対象を]思考することができない。】

     【これら二つの能力あるいは性能は、その機能をたがいに交換することができない。
    知性は何ものも直観することができないし、感覚能力は何ものも思考することができない。
    このためにこの二つが結びつかなくては、認識が生まれないのである。
    だからといってこれらの能力のそれぞれの〈持分〉を混同してはならない。】

    【それぞれの能力を慎重に分離して区別するには、それだけの重要な理由があるのである。
    だからここでは感性論(エステティーク)を論理学(ローギク)と区別するのである。
    感性論は、感性一般の規則の学であり、論理学は知性一般の規則の学である。】

    少なくとも、この文章では
    心の能力には、感じる能力と考える能力があり、どちらも大切、と主張してるね。
    でもカントはややこしいから、どうなんだろうね、
    (−_−;)......
記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21663  読んでる場所
□投稿者/ pipit -(2022/03/19(Sat) 23:55:20)
    演繹論の位置の再確認で、
    過去投稿よりコピペします。

    さて、現在地(純粋知性概念の根拠づけ[=演繹])の確認。
    (pipitが勝手に地方や県などにたとえてます)

    ※カント純粋理性国には、「原理論」「方法論」の二地方があり、今いるのは「原理論」地方。 



    ※「原理論」地方には、「感性論」と「論理学」の二つの県があり、今いるのは「論理学」県。



    ※「論理学」県には、「分析論」と「弁証論」の二つの市があり、今いるのは「分析論」市。



    ※「分析論」市には、「概念の分析論」と「原則の分析論」の二つの町があり、今いるのは「概念の分析論」町。



    ※「概念の分析論」町は、カント的カテゴリーについての二つの章から成り、
    内容で言うと
    第一章・カテゴリーの導出
    第二章・カテゴリーの演繹への準備&カテゴリーの演繹

    読んできたのは、

    第二章の前半、準備部分
    「第一節第一三項超越論的な根拠づけ一般の原理について、と、第一四項カテゴリーから超越論的な根拠づけへの移行」

    で、これから読むのが、
    後半の、カテゴリーの演繹

    【 第二節 純粋知性概念の超越論的な根拠づけ 】

    、、、

    の、途中からー

    みなさまおつかれさま!おやすみなさーい☆彡

    明日ワクチン接種3回目だよん
    希望だしてなかったからモデルナかなと思ってたけど、ファイザーだった。
記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

■21675  日記
□投稿者/ pipit -(2022/03/20(Sun) 18:23:48)
記事No.21021 のレス /過去ログ2より / 関連記事表示
削除チェック/

<前の20件 | 次の20件>

<< 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 >>

パスワード/

HOME HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -