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Re[40]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/02/08(Sun) 16:57:03)
| No45300のメルポンの(MI-1)はわたしもそんな感じしてる。
No44062のカントの、 (a)『経験は、我々の悟性が感性的という生(なま)の材料に手を加えて作り出した最初の所産である』(Kc-p227) のつづき的になるんだけど、『手を加えて』のところ、
No44901のGのをもうちょっと書いて見ると、 (Kp)―――― 『私たちのすべての認識は経験をもってして始まる。このことに、なんら疑いの余地はない。というのは、私たちの感官を刺激し、一方でおのずから諸表象生み出し、他方で私たちの悟性活動を作動させるのは、〔経験の〕対象であるが、この対象が、諸表象を比較し、結合あるいは分離し、そのようにして感性的印象の生の素材を、対象の認識――この認識が経験と呼ばれる――へと加工するということをひき起こすのでないとすれば、いったいなにによって認識能力が活動へと呼び覚まされるというのであろうか、したがって、時間の上では、私たちにおけるいかなる認識も経験に移行しないのであり、すべての認識が経験をもって始まるのである。』(B1) ――――――p54 ここのところを、〈感性(知覚)〉の〈生まの〉とその「加工」、っていうふうに見て見るよ。
でね、 この「加工」っていうの、メルポンのなかにも出てきてるからそこんとこ書き写して見るね。 No45262(M-n)の「絡み合い―キアスム」のところから、 (Mp)――――――――――― 哲学が反省や合致を自称すると同時に、自分がみいだそうとするものをすでに前提としているという批判が正しいとすれば、哲学は最初からすべてをやり直す必要がある。反省や直観が手にいれた道具を投げ捨て、まだ反省も直観も区別されていない場所に身をおくこと、「主観」と「客観」、実存と本質が混ざり合ったまま、一挙にわたしに与えられ、まだ「加工されてない」経験のうちに、これらをふたたび定義しなおせるような場に身をおく必要がある。見ること、語ること、さらにある意味では考えることまでもが(というのは、見ることと考えることを絶対に区別し始めると、すでに反省の領域に入っているからだ)、この種の経験、否定できないとともに、謎めいた経験なのである。この経験は、すべての言語において名前を与えられているが、同じくすべての言語において、群れ集まる複数の意味を。すなわち固有の意味と比喩的な意味の群がりをそなえている。このためこの経験に与えられた名前は、科学で使われる名前のように、名づけられたものの範囲を決定する意味を与え、それを照らし出す光のようなものではない。この名前は、反復される暗示のようなもの、執拗に呼び出すもの、なじみ深いものでありながら、説明されたことのない神秘のようなもの、周囲を照らし出すが、その本体はくらがりのうちにある光のようなものである。見ることと語ることの経験のうちに、言語においてこのようなものとして運命を与える生きた指示関係をみいだすことができれば、わたしたちは新しい道具を作り出す方法を学ぶことができるだろうし、まずわたしたちの探求、わたしたちの問いそのものを理解できるようになるだろう。 ―――――――――――――――――(p116-117)
ここんところについてのわたしのお喋りは後でね。
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