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No45300 の記事


■45300 / )  Re[39]: つれづれなるままに 22
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/02/08(Sun) 16:33:58)
    ちなみに「生(なま)」っていうのを「生ま」っていうことにしたよ。

    No45299の(MKn)のなかに『生(なま)の』っていうのあるんだけ
    ちょっと想い出したの、
    No44062のカントの、
    (a)『経験は、我々の悟性が感性的という生(なま)の材料に手を加えて作り出した最初の所産である』(Kc-p227)
    っていうのを。
    『感性的という生(なま)の材料』ってあるように、カントも〈感性(知覚)〉を〈生まの〉って見てるみたい。

    あ、逆かな?カントが〈感性(知覚)〉を〈生まの〉、ってしてるから、メルポンもそういう言い方を使ってるのかな。

    〈出来事としての自然(身体)〉の〈出来事としての〉を〈生まの〉、〈対象としての自然(身体)〉の〈対象としての〉を〈自然科学における〉ってして見といてもいいかな。
    いずれにしてもメルポンは「私」っていうのを前者の方として見てるみたい。このことについて言ってると思われるところを書き写しておくね。

    No41741(MP)のP1-3に(前にも書いたかもだけど)、

    (MI-1)――――――――――
    私は自分を、世界の一部として、生物学、心理学、ならびに社会学お単なる対象として考えることはできないし、一般に科学の考える世界のなかに私を閉じ込めることはできない。世界についての私の知識は、たとえ科学による知識であろうと、どれもこれも、世界に関する私自身の観察、もしくは経験からして得られるのであって、このような経験がなければ、科学の記号には何の意味もないであろう。科学の宇宙の全体は、生きられた世界の上に打ち建てられており、もしわれわれが科学そのものを厳格に考え、正確にその意義と有効範囲とを測ろうと欲するならば、まず第一に世界についてのあの経験を呼びまさなくてはならないのである。科学はこの経験の二次的は表現なのだ。科学は知覚された世界と比肩しうる存在意義を決してもってはいなし、また将来ももつことはないであろう。その理由は簡単である。すなわち、科学は知覚世界の一つの規定、もしくは一つの説明だからである。動物学、社会解剖学、それに帰納的心理学は、「生物」とか「人間」とか、「意識」といったような、自然もしくは歴史の産物に、さまざまな特徴を認めるが、私はこうした特徴のすべてをそなえた「生物」ではないし、このような意味では、「人間」や「意識」ですらない。――私は絶対的な根源である。私の実存は、私の経歴、私の自然的・社会的環境から由来するのではない。私の実存はこれらに向かってゆき、これらを支える。
    ――――――――――――――
    (MI-2) ――――――――――
    私を世界の一つの契機と見なす科学的な見方は、いずれも幼稚で欺瞞的である。というのは、これらの見方は、もう一つの見方、すなわち、意識によって初めて一つの世界が私のまわりに配置され、私に対して存在しはじめるという、意識の見方をいつもひそかに前提しながら、はっきりとはいわないからである。事象そのものに帰るということは、認識に先だつ世界に帰ることである。
    認識はつねにこの世界について語るのであり、これに対してはいかなる科学的規定も、抽象的、記号的、依存的である。これは、森林や草原や河川がどのようなものであるかをわれわれに最初に教えた風景に対して、地理学が抽象的、記号的、依存的であるのと同様である。
    ――――――――――――――

    ってあった。

    なんかメルポンの話しになるとついお喋りが長くなっちゃうかな。
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