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Re[38]: つれづれなるままに 22
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/02/08(Sun) 13:17:09)
| わたしの物語りつづけるね No45263、「自然」で想い出したの、メルポンのカントのなんだけど、
No45262(M-n)の「カントの人間主義と自然」のなかで、 (MKn)―――――――――――――― カント哲学は、無限の存在の可能なただ一つの現れとして、自然の世界を導き出すことを諦めた。しかしそれは世界を生(なま)の存在として認めるためでも、それを研究するためでもない。『純粋理性批判』は自然を、人間の悟性の自然概念のもとで位置づけられた「感官の対象の総体」として定義することで、こうした生(なま)の世界を研究することを拒むのである。わたしたちが語ることのできる自然は、わたしたちにとっての自然にすぎない。自然はこのようなものとしては、デカルトが考えた対象にほかならない。たんに、わたしたちが構成した対象であるという点が異なるだけである。 ――――――――――――――――p178 って、メルポンはカントのをこう見てるみたい。
メルポンは、自然について、〈出来事としての自然〉(en)と〈対象としての自然(自然科学)〉(sn)に区別してる、ってわたし見てるんだけど、(MKn)をわたしの見方で書くと、 A(MKn)―――――――――――――― カント哲学は、〈無限の存在(en)〉の〈可能なただ一つの現れ(sn)〉として、〈自然(en)〉の世界を導き出すことを諦めた。しかしそれは世界を〈生(なま)の存在(en)〉として認めるためでも、それを研究するためでもない。『純粋理性批判』は〈自然(en)〉を、〈人間の悟性の自然概念(sn)〉のもとで位置づけられた「感官の対象の総体」として定義することで、こうした〈生(なま)の世界(en)〉を研究することを拒むのである。わたしたちが語ることのできる自然は、わたしたちにとっての自然にすぎない。自然はこのようなものとしては、デカルトが考えた対象にほかならない。たんに、わたしたちが構成した対象であるという点が異なるだけである。 ――――――――――――――――
カントは自然科学のように自然を(感官の)“対象”として見ている、ってメルポンは言ってるのかも。 メルポンのはそういんじゃなくて〈出来事としての自然〉、〈生まの〉を見ようとしててそれを描き出そうとしてるんじゃないかしら、って。
わたし、「身体」を〈自然的存在〉―この〈自然〉っていうのは(en)の方ね―ってして見てるんだけど、 No44556で見たような、メルポンの (M-S1)―――――――――――――――― 身体について言えば、それも意識の面前で構成される対象のひとつとなって、客観的世界の内に加えられる。そしていかなる自然も能産的認識の相関者としてしか考えられないから、〈認識〉を自然の一出来事として扱うことはもはや問題とならないことになる。 ―――――――――――――――――(M-C下p127) っていうのも想い出してる。 この『能産的』を〈コギト〉、『認識』を〈判断〉(外的なもの「Q」→私の内で構成された〈q〉、〈qはpである〉)、ってしてわたし見てるんだけど。 メルポンのわたしの、 私は、私の身体〈自然的存在〉を私の前において見る(対象として見る)ことも、私を私の身体の前において見る(対象として見る)こともできない。 メルポンが『私は私の身体の前にいるのではない。私は私の身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である』って言ってるのはこういうことなんじゃないかな?って。 あ、もっとも鏡を見れば私は私の身体を見ることはできるよね、っていうこともできるけど、でもね、たとえば食器を洗っているとき私の身体を鏡で見ながらはできないのね。
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