| ■45263 / ) |
Re[32]: つれづれなるままに 22
|
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2026/02/01(Sun) 17:41:55)
| No45259の〈自〉、わたしのイメージの追加ね。
No37183で見たようなフッサールの「モナド」 ――客観的なものと地続きになっている、具体的で純粋な主観性。不可分に媒介し合う相関の出来事そのもの。 のようなものとも見てる。 わたしここにある〔客観的〕っていうのを、 No44876で見たような〈obje〉のことして見てるから、ようするに〈外的なものが知覚されたもの〉ね。 だから、知覚と思考の媒介・相関の出来事の領域みたいなものとしても見てる、っていうこと。
っていうことは、〈自(生欲)〉は外界への志向性っていうことと、 No45258の図Aのように、〈自(U)〉は、精神(意識)内の分節したそれぞれの領野(わたしのばあい、感-知覚(P)、思-考(T)、記憶(M)、想像(I)ね)の媒介・相関の出来事の領域、っていうふうにも見といていいかな。
「出来事」でちょっと想い出したのが、メルポンの、 No41741(M-C)のなかで、 『自然とは互いに外的で因果の諸関係によって結ばれたさまざまな出来事』 『出来事としての自然、あるいは出来事の総体としての自然は、対象としての自然、対象の総体としての自然は異なるものである』 っていうの。 わたしこれから〈出来事としての自然〉と〈対象としての自然〉っていうふうに分けて見てるんだけど、後者はたとえば自然科学ってして見てるんだけど、いまわたしが話題としてる〈自(生欲)〉は前者の方ってして見といていいかな。 ようするに、〈自(生欲)〉は〈対象としての自然〉じゃなくて、〈出来事としての自然〉として。 〈自(生欲)〉を〈原初自然な固有領域〉ってしって見てるんだけど、この〈自然〉っていうのを〈出来事としての自然〉って見とくことする。
|
|